1812年、フランス皇帝ナポレオンは宿敵ロシアを屈服させるべく、六十万もの軍勢を率いて遠征を開始します。
それに対し、ロシア皇帝アレクサンドルが用意できた軍勢は二十万。
各地の守備や小競り合いによる損失などで、ロシア国境のニェーメン川を渡った時点では四十八万ほどになっていたとはいえ、なおナポレオン率いるフランス軍(ただし、全部がフランス軍ではない。征服されたり同盟している諸国の軍勢が加わってのこの数字である)が圧倒的でした。
ロシア軍の指揮を取るのは老将クトゥーゾフ。
彼はまだまだ戦意も高く数も多いフランス軍との直接対決を避け、後退します。
広大なロシアの大地にフランス軍を溺れさせるつもりなのでした。
ロシア軍を捕らえ、決戦を強要し、もってロシア軍を撃破してアレクサンドルを屈服させる。
これがナポレオンの目論見でした。
しかし、六月に国境を越えたフランス軍は七月、八月と戦闘らしい戦闘もせずにただロシアの奥地に引きずり込まれます。
しかもその間、ロシア軍は周辺の住民の迷惑を顧みずに田畑を焼き払ってしまいます。
兵站という概念がまだ乏しかった当時、糧食の現地調達はわりと一般的なことでした。
ナポレオンはそれでも兵站には配慮したほうでしたが、これほどの大軍ではどうしようもありません。
九月、ボロディノ近郊で度重なる後退に業を煮やしたアレクサンドルの命令で、クトゥーゾフは防衛ラインを敷き、ナポレオンを迎え撃ちます。
この時点でのフランス軍はおよそ十三万。
すでにそれほどまでに減っていたのです。
対するロシア軍は十二万。
ほぼ互角の兵力ではありましたが、まだまだナポレオンの神通力は健在でした。
ロシア軍はほぼ五万を失って敗走します。
ナポレオンはモスクワを放棄したロシア軍に代わってモスクワに入場。
ここでアレクサンドルの出方を待ちました。
しかしアレクサンドルからは無しのつぶて。
貴重な一ヶ月を空費してしまいました。
しかもロシア軍の撤退時のドサクサでモスクワは焼け野原になっていたのです。
食料も宿舎もありませんでした。
10月。
モスクワに初雪が降ります。
飢えと寒さについにナポレオンは撤退を決意。
フランス軍の長い敗走の始まりでした。
この年は記録的な寒さ・・・と思いがちですが、実はそうでもなく、12月になるまでは比較的暖冬でした。
しかし、だからと言ってロシアの冬が厳しいのは言うまでもなく、さらに、悪いことが重なるもので、フランス軍のコートに使われていた錫製のボタンが錫ペストと呼ばれる寒気でぼろぼろになる症状を起こしてしまい、コートの前をボタンで止めることができなくなったのです。
11月。
飢えと寒さ、さらにロシア軍の追撃により、フランス軍は三万を切るまでになりました。
12月。
軍旗を焼き、軍馬を食い尽くしたフランス軍はついに本国に逃げ帰りますが、たどり着いたのは五千ということでした。
まさにフランス軍は跡形もなく消え去ったのです。
これ以後、フランス軍は翌年には再度再編されますが、もはや無敵ではありえませんでした。
ナポレオンは事実上このロシア遠征で終わったと言ってもいいかもしれません。
それにしても、この事実を前にしながら、後年ヒトラーも同様にロシアの大地に敗れるとは、ロシアの広大さ恐るべしですね。
それではまた。
- 2007/02/25(日) 22:06:54|
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