今日は久し振りにミリタリーネタを書きます。
日本皇紀2600年(昭和15年)に正式採用となった軍用機の一つに有名な零式艦上戦闘機があります。
日本軍は正式採用した兵器に年号をつけてきましたが、明治時代は明治○○年の○○をとって○○式と名付けました。
例えば明治38年正式採用の38式歩兵銃などがそうです。
大正時代に入ると、今度は大正○○年の○○をとって○○“年”式とつけました。
四年式15センチ榴弾砲などがそうなります。
昭和に入るとそのまま年号をつけたのでは大正時代の兵器と混同してしまう恐れが出てきました。
そこで、神武天皇の即位を紀元とする日本皇紀を使用することになりました。
皇紀の下二桁を取って兵器の名称に付けたのです。
皇紀2597年に採用された97式艦上攻撃機や97式中戦車(いわゆるチハ車)がそうですね。
ところがそこで困ったことが起こりました。
皇紀2600年採用の兵器をどう呼ぶかということに悩んだのです。
結局この問題は陸海軍別々の回答を引き出しました。
海軍は早々に2600年採用の兵器を零式と呼ぶことに決定しました。
零式艦上戦闘機(零戦)や、零式観測機などですね。
一方陸軍は2600年採用の兵器を百式と呼ぶことにしました。
百式司令部偵察機や、百式短機関銃などがそうです。
その零式艦上戦闘機いわゆる零戦ですが、言われるほど名機でなかったことは皆さんご存知だと思います。
兵藤二十八著「パールハーバーの真実」によれば、零戦は最初から空母搭載の艦上戦闘機としては作られていなかったということなんですね。
零戦はもともとは空母に搭載し、空母機動部隊や攻撃機隊の護衛をすることが目的として作られるはずでしたが、重防御で護衛戦闘機無しでも問題ないとして作られた96式陸上攻撃機が、実際は中国軍の戦闘機に落とされるようになってしまいました。
そのため96式陸攻の航続距離についていける長距離護衛戦闘機が必要となってしまい、零戦には長距離航続距離が求められてしまったのです。
つまり零戦は何をさておいても長距離を飛べなければならなかったのです。
そう、防御重量を犠牲にしてでもです。
さらに零戦の主武装として翼内装備された20ミリエリコン機関砲は、悪くない機関砲ではありましたが、弾道の直進性に難があり、さらに重量を減らすために各砲60発ぐらいしか弾を積んでいなかったそうです。
撃墜王坂井三郎さんはこの零戦の20ミリ機関砲には早々に見切りをつけ、敵機撃墜にはコクピット前方の7・7ミリ機関銃を使用したそうです。
もちろん7・7ミリの機関銃では機体に当たってもダメージはほとんど出ませんから、コクピットの風防ガラス越しにパイロットの頭部を撃ち抜くことを心がけたとのことでした。
これは坂井さんのみならず、零戦パイロットのほとんどがその方法で敵機を撃墜していたとのことで、まさに太平洋戦争前半のベテランパイロットはそうした神業を当然のごとく発揮できた人たちばかりだったとのことでした。
名機零戦を支えていたのは、こういった名人芸を発揮できるベテランたちのたゆまぬ努力の賜物だったのでしょうね。
それではまた。
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- 2006/04/18(火) 21:54:42|
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