炬燵して語れ真田が冬の陣。(蕪村)
表題の武将の名前を見て、あっ、あの人だと思っていただいた方は、やっぱり多少マニアックな方かもしれないですね。(笑)
一般の方には真田幸村として知られる人物です。
わずか一回の戦い。
それも負け戦でありながら、これほどまでに有名な武将もちょっと類を見ないのではないでしょうか。
徳川幕府の支配がじょじょに磐石になりつつあった慶長19年(1614年)。
徳川方の言いがかりにも近い豊臣家への嫌がらせに、ついにはじけるようにして戦支度を始めてしまった豊臣家。
お味方してくれる大名家はすでに無く、豊臣家はその大坂城の防御力と財力だけを頼みとして孤立無援の戦いに望みます。
その大坂城に、さまざまな思惑を胸にした浪人たちが続々と参集し始めます。
その中にはかつて関が原の戦いで領地を失った長曾我部のような大名格の者や、後藤又兵衛のような腕に自信のあるつわものなどが含まれました。
先日このブログでも紹介した木村長門守重成のように、この戦が初陣の者もおりました。
その中で多くの者が一目置き、かつその手腕に期待を寄せたのが、この真田左衛門佐信繁。
通称真田幸村でした。
かつて真田幸村の父真田昌幸は、わずかの手勢で関が原に向かう徳川秀忠の軍を足止め、その心胆を寒からしめたものでした。
大坂城に真田が入城したと聞いた時、すでに老境に差し掛かっていた徳川家康は、「入城したは親か子か?」と聞いて震え上がったそうです。
ただ、残念なことにこの時真田昌幸はすでに亡くなっておりました。
最後のひと暴れをしたかったであろう昌幸は三年前に他界し、家康にとっては助かったのかもしれません。
昌幸が生きていれば大坂方は一枚岩となり、淀殿や大野修理あたりも口を差し挟むことが無かったのかもしれませんからね。
秀頼も「全て安房守に任せる。皆の者よいな!」と言ってくれたかもしれません。
残念なことに昌幸からその知略を受け継いだ幸村でしたが、その知名度はまだまだ及びません。
浪人方からは多大な期待をかけられつつも、大野修理ら大坂方上層部は幸村を敬して遠ざけてしまったのです。
大坂城の出丸として築かれた真田丸は、幸村以下の奮戦で徳川方の攻撃をすべて撥ね返しました。
結局大坂城に篭もられては手が出せないと悟った徳川方は、和議を結び城を裸にします。
裸城では篭もることはできません。
幸村はあくる年の夏の陣で家康目掛けて突撃に突撃を重ねます。
衆寡敵せず、幸村は討ち取られてしまいますが、その華々しさはまさに大坂の陣の中心人物でしょう。
その最後を忍びなく思った人々は、願いを込めて幸村生存説を後々まで語り継ぐのでした。
- 2005/12/28(水) 22:43:59|
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