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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

ドラキュラと呼ばれた男(8)

マーチャーシュ一世によって捕らえられ、ハンガリーで虜囚生活をヴラド三世が送っていた間、故郷のワラキアはヴラド三世を追い出したラドウがワラキア公として統治しておりました。

ラドウの統治は比較的穏やかで、しばらくはワラキアも平和を享受することができましたが、やがてドナウ川の河口にある町キリアの領有をめぐり、モルドヴァと対立。
ついには戦争へと発展してしまいます。

ラドウのバックにはオスマン帝国が付いている状態でしたから、ワラキアと対立するモルドヴァはすなわちオスマン帝国とも対立することになってしまいます。
モルドヴァの公位にはヴラド三世の親友シュテファンが就いており、ここで彼は対オスマン戦の英雄である生涯の友人のことを思い出して、マーチャーシュ一世にヴラド三世の解放を依頼します。

マーチャーシュ一世もヴラド三世を捕らえはしたものの、これ以上のオスマン帝国の影響力増大は望ましくなかったのか、モルドヴァ公シュテファンの要請を受け、ヴラド三世をワラキア公に返り咲かせる盟約がモルドヴァとハンガリーの間で結ばれました。

マーチャーシュ一世の妹と結婚し、ハンガリーで平和な暮らしをしていたヴラド三世でしたが、親友シュテファン公の苦境を見捨てることはできなかったのか、彼はマーチャーシュ一世から二万の兵を借り、再びオスマン帝国と戦うために立ち上がります。

1476年、ヴラド三世はオスマン帝国の侵攻を受けているモルドヴァに進軍。
しかし、彼が到着した時点ですでにオスマン帝国軍はシュテファンの取ったかつてのヴラド三世同様の焦土作戦に疲弊し、撤退を開始した後だったといいます。

そこでヴラド三世は、そのまま兵を率いてワラキアに進軍します。
そしてワラキア公ラドウを追い払い、三度目のワラキア公に就任いたしました。

このヴラド三世のワラキア公就任は、公室評議会によって正式に認められたものでしたが、ヴラド三世を迎えたワラキアの人々の目は冷ややかでした。
彼らは東方正教会に属していたため、カトリックに改宗したヴラド三世を受け入れることができなくなっていたのです。

このためワラキア国内ではまたしても反ヴラド三世派の貴族たちが暗躍し始め、政情は乱れていきました。
さらにオスマン帝国との戦いもまだ終わったわけではありませんでした。

三度目のワラキア公就任からわずか数ヵ月後(翌年説もあり)、ヴラド三世はその生涯を終えました。
オスマン帝国との戦いによる戦死とも、反対派貴族による暗殺とも言われます。
わずか45年(翌年説だと46年)の生涯でした。

ワラキアはその後もオスマン帝国の脅威にさらされ続け、西暦1600年にワラキア公ミハイのもとでワラキア、トランシルヴァニア、モルドヴァが統一されるものの結局長くは続かず、やがてオスマン帝国によってルーマニア地域は併呑されてしまいます。
ルーマニアが再び(ワラキア、モルドヴァ、トランシルヴァニアを含んだ形で)国家として独立するのは、1918年の第一次世界大戦の終結まで長い時を待たねばなりませんでした。

ヴラド三世は決して善人ではなかったかもしれません。
しかし、彼の悪行とされるものの多くは、ハンガリー王マーチャーシュ一世が彼を捕らえた理由を説明するために誇張したと思われるものが多く、また、マーチャーシュ一世が当時発明されたばかりの印刷技術を使って広めたこともあって、多くのヨーロッパの人々が信じてしまったことから「悪魔の子ドラキュラ」と呼ばれるようになってしまったのでしょう。

しかし、小国ワラキアで大国オスマン帝国に真っ向から勝負を挑み、その大軍を退けるというのは並大抵のことではできません。
ヴラド三世が今でもルーマニアの民衆に畏敬の念で扱われているというのは、まさにそういう点が大きく作用しているのは間違いないことでしょう。

ドラキュラと呼ばれた男 終


参考文献
「歴史群像2003年6月号 ドラキュラ戦記」 学研

参考サイト
Wikipedia ヴラド・ツェペシュ マーチャーシュ一世 他

今回も各種資料の自分なりのまとめでした。
少しでも「吸血鬼ドラキュラの元となった人物」と言うのがどういう人物だったのかがわかっていただけたら幸いです。
お付き合いありがとうございました。
  1. 2013/12/06(金) 21:04:06|
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ドラキュラと呼ばれた男(7)

【訂正】 ドラキュラと呼ばれた男(5)でヴラド三世はハンガリー王となったフニャディ・ヤーノシュの息子マーチャーシュ一世の妹と婚姻を結びと表記いたしましたが、この時点ではまだ婚約をした段階であり、正式に結婚はしておりませんでした。
よってドラキュラと呼ばれた男(6)で義理の兄であるマーチャーシュ一世と表記いたしましたことも合わせ、お詫びして訂正いたします。
大変失礼いたしました。


ヴラド三世が十数万に及ぶオスマン帝国の大軍を追い払ったことは、キリスト教圏諸国ではまさに偉業でした。
このため、ヴラド三世は英雄として対オスマン帝国の指導者的人物として扱われるようになっていきます。
ヴラド三世自身も再度のオスマン帝国の侵攻に備え、また完全なるオスマン帝国の影響力排除のためにも国内の防備を固め、対オスマン戦を継続する心積もりでした。

しかし、オスマン帝国軍を追い払ったものの焦土作戦で国土が荒廃したことから、ワラキアの住民たちはもうこれ以上の戦争を望んではおりませんでした。
それは領地が荒廃した貴族たちも同じであり、彼らはヴラド三世がまだ戦争を続ける気であることに危機感を覚えます。
そこで貴族たちは、ヴラド三世をワラキア公の位から引き摺り下ろし、別の人物をワラキア公に据えることにいたします。
その人物とはヴラド二世の遺児であり、ヴラド三世の弟であるラドウでした。

ヴラド三世と違い、オスマン帝国に人質として残されたままだったラドウは、すでにすっかりオスマン帝国の人間になってしまっておりました。
美形でもあった彼はスルタンにも気に入られて重用され、今回のワラキア遠征にも従軍していたのです。
対ワラキアのための足がかりを残しておくべく主力後退後もドナウ河畔に駐留していたラドウのもとに、ワラキア貴族たちからの誘いの手が伸びるのはある意味当然のことでした。

ラドウとワラキア貴族が手を結んだことで、ワラキア国内はすぐに内乱となりました。
ヴラド三世は直属軍を率いて戦いますが、オスマン帝国の後ろ盾があるラドウの軍勢には抗しきれず、内乱はわずか三ヶ月ほどでヴラド三世の敗北に終わります。

ヴラド三世はワラキアから脱出し、ハンガリー王マーチャーシュ一世のもとに駆け込みました。
ハンガリー王から軍勢を借り、再度ワラキアに戻るつもりだったのです。
マーチャーシュ一世は一旦はヴラド三世の要請を聞き入れて軍勢を貸し与えますが、すぐに気が変わって今度はヴラド三世を捕らえてしまいます。

前回の対オスマン戦のときといい今回といい、マーチャーシュ一世の行動には当時の人々も疑問に思ったようで、キリスト教圏諸国の各国首脳たちも、英雄であるヴラド三世を捕らえるのはおかしいとマーチャーシュ一世に訴えますが、逆にマーチャーシュ一世はヴラド三世がオスマン帝国と内通していたとか、串刺し刑など残虐なことを行なう悪鬼のような男だというような書状を各地に送りつけ、これが今日に至るまでヴラド三世が残虐な吸血鬼であるというイメージを持たせる元となりました。

結局キリスト教圏諸国の訴えも実らず、この後十二年にわたってヴラド三世はハンガリーに捕らえられたままとなりました。
しかし、マーチャーシュ一世も思うところがあったのか、その待遇はそれほど過酷なものではなく、かなり自由に過ごすことが許されていたようです。
また、妹との正式な結婚も成立し、これを機会にヴラド三世も正教会からカトリックへと改宗いたします。

こうして虜囚とはいえ穏やかな暮らしをしていたヴラド三世は、このまま何もなければハンガリーの地で静かに余生を送ることになったのかもしれません。
しかし、状勢はそれを許しませんでした。

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  1. 2013/12/03(火) 21:04:30|
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ドラキュラと呼ばれた男(6)

オスマン帝国よりの使者を生きたまま串刺し刑にするという形でワラキアの敵対を明確にしたヴラド三世に対し、オスマン帝国のスルタン・メフメト二世は討伐の軍勢を差し向けるということで怒りを明確にしました。

しかし、ヴラド三世はただオスマン帝国の軍勢が来るのを待ち受けるのではなく、自らが軍勢を率いて先にドナウ川南岸のオスマン側勢力圏に討って出ます。
そこにはオスマン軍にとってドナウ川渡河の際の拠点となる城砦があり、ヴラド三世はまずそこの攻略を行ったのです。

ワラキア軍による城砦攻撃は成功し、オスマン軍の城砦は陥落。
さらにヴラド三世は周辺のオスマン勢力圏の村々を焼き、オスマン軍の守備兵をことごとく串刺しにしていきました。
こうしてオスマン軍の機先を制したワラキア軍でしたが、メフメト二世の率いるオスマン軍主力に対してはやはりワラキア一国で対処するのは難しく、ヴラド三世はハンガリー王マーチャーシュ一世に出陣を求めます。
義理の兄であるマーチャーシュ一世は、ヴラド三世の要請に快い返事を返します。
ハンガリーにはこの時対オスマン戦のためとローマ教皇よりも資金援助が行なわれており、ヴラド三世としてはハンガリー軍の来援は期待できるはずでした。

しかし、マーチャーシュ一世はいつになっても軍を動かしませんでした。
ヴラド三世はハンガリー軍の来援をあきらめざるを得なく、ワラキア一国で強大なオスマン帝国と対抗するしかなくなります。
一説にはマーチャーシュ一世はオスマン帝国に買収されていたという話もあるといい、ヴラド三世にとっては痛恨の事態でした。

この事態にヴラド三世は腹を決め、国内の十二歳以上の男子すべてを徴兵し、兵力を増強しました。
しかし、ワラキア一国ではどうがんばっても兵力は二万足らずであり、十万以上ものオスマン帝国主力とは勝負になりません。
そこでヴラド三世は正面からの会戦はあきらめ、焦土作戦でオスマン帝国を疲弊させようと考えます。

ヴラド三世は国内の女性や幼い子供などの非戦闘員をすべて山岳地帯に非難させ、無人となった村や町を食料もろとも焼き払います。
さらには井戸にも毒を投げ込み、利用できなくしてしまいます。
ヴラド三世はなりふり構わずオスマン帝国軍を弱体化させようとしたのです。

1462年、オスマン帝国軍がメフメト二世の指揮の下、ワラキア領内に侵攻します。
その数はヴラド三世の予想したとおり十万を超える軍勢でした。
しかし、彼らはワラキアに侵攻しても何もないことに気が付きます。
当時の軍勢には補給という概念があまりありませんでした。
食料などは攻め込んだ先で現地調達が基本であり、食料が無くなれば別の場所に移動するだけだったのです。
しかし、ワラキアには徴発するべき食料がすべて焼かれてしまっておりました。
それどころか水を飲むことすらできませんでした。
オスマン軍の兵士は飢えを満たすことも渇きを癒すこともできなかったのです。

これにはさすがのオスマン軍も士気が低下していきました。
さらにヴラド三世はオスマン軍の兵士の士気を低下させるべく、彼らの侵攻路に沿ってこれまで捕らえてきたオスマン軍兵士の串刺し死体を並べていきました。
オスマン軍兵士は進むたびにそれらを目にして、ますます士気が低下していきました。

オスマン軍の動向を監視していたヴラド三世は、オスマン軍兵士の士気が低下してきたのを見計らい、今度は幾度となく夜襲を仕掛けました。
時にはスルタン・メフメト二世を直接狙っての夜襲も行われました。
これは残念なことに失敗に終わりますが、相次ぐ夜襲はオスマン軍兵士をさらにさらに士気阻喪させていきました。

疲労、飢え、乾き、そういったものが重なり、オスマン軍にはついにペストが蔓延し始めます。
それでもメフメト二世はワラキアの首都にまでたどり着きますが、そこももぬけの殻であり、周囲にはオスマン兵士の串刺し死体がいくつも立てられている有り様でした。
ことここに至ってメフメト二世はついに撤退を決断。
オスマン軍はワラキアから後退します。
二万のワラキア軍が、十万以上のオスマン軍を追い払うことに成功した瞬間でした。

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  1. 2013/11/29(金) 21:04:58|
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ドラキュラと呼ばれた男(5)

ヴラド三世の追い落としを図り、かつてのワラキア公の遺児と手を結んだサシ人(ザクセン人)商人たちでしたが、そのような目論見はあっという間に潰えました。
挙兵した遺児ダンの軍勢はヴラド三世の常設軍の前にあっけなく敗退し、ダン自身も捕らえられて斬首刑となってしまったのです。

ダンの背後にサシ人商人たちがいることを理解していたヴラド三世は、当然彼らに対しても報復に及びました。
彼はサシ人商人たちの拠点となっているトランシルヴァニア領内にまで軍勢を差し向け、一帯を焼き払うということまでやったのです。

彼のこうした強硬な富国強兵策は貴族や商人たちにとどまらず、一般の領民にまで及びました。
領民は勤勉かつ道徳的に生活することを求められ、犯罪者や不正を働く者などには容赦ない罰が与えられました。
そのため犯罪者は激減したといいますが、彼の苛烈な行動はとどまることを知りません。
一説によれば、彼は犯罪の温床ともなる生活困窮者や病人などを根絶するため、国内数ヶ所でそういった貧者や病人を集め、たらふく飲み食いをさせたあとで彼らのいる場所に火をつけて焼き殺し、これでわが国に貧者や犯罪者はいなくなったと豪語したとも伝えられます。
またオスマン帝国からの正式な使者を迎えたとき、使者がトルコの流儀に従って帽子を取らなかったことに激怒し、使者の頭に帽子を釘で打ちつけたりもしたといいます。

彼のこういった残虐さと、多くの人々を串刺し刑にしたことから、いつしか彼は串刺し公(ツェペシュ)と呼ばれるようになりました。
また、彼の父がドラクル(龍公)であったことからドラキュラ(龍公の子)というあだ名を本人も好んで使っておりましたが、ドラクルは龍であると同時に悪魔を意味する言葉でもあることから、いつしかドラキュラは悪魔の子の意味で捉えられるようになっていったといいます。

このように苛烈に富国強兵を勧めていたヴラド三世でしたが、やはりワラキア一国で強大なオスマン帝国と事を構えるわけには行かず、従属的な外交を行なわざるを得ませんでした。
一方で、彼は友情で結ばれたボグダン二世の子シュテファンに助力し、隣国モルドヴァの公位に彼を就けることに成功します。
彼は亡命時の友情を忘れていなかったのです。
冷酷といわれるヴラド三世のこれは別の側面でもありました。

そしてヴラド三世は隣国ハンガリーとの関係強化にも努め、ハンガリー王となったフニャディ・ヤーノシュの息子マーチャーシュ一世の妹と婚姻を結び、ハンガリー王と縁続きになりました。
こうして周囲の国々との関係を強化したヴラド三世は、いよいよ反オスマン帝国の立場を鮮明にすることにいたします。

1459年、オスマン帝国からの使者を今度は串刺し刑に処したヴラド三世はこのことによりオスマン帝国との敵対を内外に表明。
これに激怒したオスマン帝国のスルタン、メフメト二世は軍勢を率いてワラキアを討伐することに決定。
いよいよワラキアと強大なオスマン帝国の正面切っての戦いが始まるのでした。

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  1. 2013/11/23(土) 21:03:53|
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ドラキュラと呼ばれた男(4)

ちょっと間が開いてしまってすみませんでした。


紆余曲折を経て再びワラキア公となったヴラド三世は、まず国内の秩序の回復と安定を図る一方で、自己の権力を高める中央集権化を進めます。
具体的には当時のワラキアの政治制度の中心となっていた公室評議会の解体か弱体化を図ったのでした。

公室評議会とは、君主であるワラキア公を元来補佐するものではありましたが、有力貴族たちが合議で国政を行なうという意味合いの方が強く、かえって貴族たちによって君主が掣肘されることもしばしばでした。
彼らは有力貴族ゆえに特権を持ち、その特権は君主でも容易にどうこうできるものではなかったのです。
また彼らはしばしば貴族同士で権力争いを行い、これもまた国内を乱れさせる要因でもありました。
ヴラド三世はこうした公室評議会の貴族たちの特権を排除し、発言力を弱めようとしたのです。

ヴラド三世はまず公室評議会の連中を罷免することからはじめました。
国を弱めたということで、何人もの有力貴族を罷免し、後釜に発言力の弱い中小貴族を据えたのです。
当然このようなやり方は有力貴族の反発を招きます。
中にはヴラド三世を暗殺しようとする貴族まで出てきます。
しかし、これは逆にヴラド三世にとっては好都合でした。
彼は反対する貴族たちを先に処刑してしまいます。
このときの処刑方法があの串刺しだったといいます。

串刺し刑は当時の欧州では比較的普通に見られる処刑法だったといいます。
ですのでヴラド三世だけが串刺しを行なったわけではないのですが、のちに彼の行なった行為を悪逆非道として広めたものがいたために、ヴラド三世と串刺しが強く結び付けられてしまったのです。

この串刺しの処刑は貴族たちを震え上がらせました。
そのため一時的には貴族たちの反抗も下火になりますが、やはり抵抗は続きました。
ヴラド三世はそれらを常に弾圧し、一説によれば処刑された貴族たちの数は500人にも上るといわれます。

こうした弾圧や改革の実行力となったのが新設された常設軍でした。
それまでのワラキアでは有力貴族たちの私兵の連合軍が主体であり、彼らは貴族たちに従うものであったため君主の命に従わないこともあったほか、その貴族の動向によっては敵にすらなる存在でした。
そのためヴラド三世は君主直属の常設軍を作り、農民や自由民などから徴募して兵士として戦力にしたのです。
彼らには戦場で働きのあった者には英雄としてたたえ、反対派貴族から奪った土地などを与えて士気を高めるとともに、敵前逃亡などをしたものには串刺し刑を行うなど恐怖による支配も行なって君主に忠実な軍隊として育てていきました。
この常設軍が反対派貴族たちに対する抑止力や強引な改革を行なう上での実行力となったのです。

この常設軍を維持するためには経済力も必要でした。
そこでヴラド三世は国内産業の育成と活性化のために保護貿易政策を行ないました。
このことはこれまでワラキア国内で商売を行っていたサシ人(ザクセン人)たちにとっては受け入れられないことでした。
彼らもまた、ヴラド三世に対抗するため、ある計略を行なおうとします。
ワラキア公の遺児を担ぎ上げ、ワラキアの公位簒奪を図ったのでした。

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  1. 2013/11/19(火) 21:05:02|
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ドラキュラと呼ばれた男(3)

モルダヴィア公ボグダン二世の庇護を失ったヴラド三世は、またしても居場所を失い亡命を余儀なくされました。
ところがこのとき、ヴラド三世が新たな亡命先として選んだのは、かつて父ヴラド二世と兄ミルチャを殺し、ヴラディスラフ二世を擁してヴラド三世をワラキア公の位から追い落とした仇敵とも言うべき相手フニャディ・ヤーノシュの治めるトランシルヴァニアだったのです。

日本でも、「関ヶ原の戦い」の前、武断派の武将に命を狙われた石田三成が徳川家康に庇護を求めたという話がありますが、このときのヴラド三世もある意味賭けのようなものだったかもしれません。
はたしてフニャディ・ヤーノシュはワラキア公の血筋であるヴラド三世に利用価値ありとみなしたのか、ヴラド三世とボグダン二世の嫡男シュテファンの両名の亡命を受け入れます。
もともとフニャディ・ヤーノシュは敵であるオスマン帝国からさえも騎士道精神にあふれたすぐれた武人だと評されており、ハンガリーの摂政になれたのもその人望によるところが大だったとされる人物であり、ヴラド二世とミルチャを殺したのも彼の命ではなかったと言われるぐらいでしたので、そういった評判にヴラド三世は賭けてみたのかもしれません。

ともあれヴラド三世はフニャディ・ヤーノシュの元で暮らすこととなり、フニャディとともに出陣するなどして、彼の持つ軍略などを身に付けていきました。
フニャディのほうもヴラド三世を重用し、さまざまなことを学ばせました。
こうして二人は師弟関係を築き、オスマン帝国の圧力に屈して帝国寄りになっていたワラキア公ヴラディスラフ二世を追い落とそうといたします。

1456年、3年前にコンスタンチノープルを陥落させイスタンブールと改名したオスマン帝国が更なる拡張をもくろんでまたしてもバルカン半島に進出します。
これに対してキリスト教圏混成軍が編成され、フニャディ・ヤーノシュが指揮官として出陣。
見事にオスマン帝国軍を撃退することに成功します。
しかし、陣中に蔓延したペストに罹患したフニャディはそのまま帰らぬ人となってしまいます。

同じ頃、ヴラド三世はフニャディに与えられた軍勢と、反ワラキア公のワラキア貴族軍を引き連れてワラキアに侵攻しておりました。
オスマン帝国寄りの政策で多くの貴族に見放されていたヴラディスラフ二世は、この侵攻になすすべもなく敗退。
あっけない最期を遂げてしまいます。
これによって同年8月、ヴラド三世は再びワラキア公として返り咲きました。
ワラキア公ヴラド三世の治世の始まりでした。

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  1. 2013/11/12(火) 21:02:18|
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ドラキュラと呼ばれた男(2)

オスマン帝国に人質として残されたヴラド(三世)は、いつ殺されるかわからないような過酷な日々を帝国の軍制や政治を学びつつ過ごしました。
少年期をだれに頼ることもできない状態で過ごしたことで、のちの彼の猜疑的な性格はこの時期に形成されたとも言われます。

一方次男三男をオスマン帝国に人質として残してきた父ヴラド二世は、彼らをいなかったものとして見捨て、再びオスマン帝国に対抗する方向にワラキアを導きます。
彼はトランシルヴァニア領主フニャディ・ヤーノシュと手を組み、他のキリスト教圏の国々とともに1444年の「ヴァルナの戦い」に参加します。
この戦いはポーランド王兼ハンガリー王ヴワディスワフ三世(ハンガリー王としての名はウラースロー一世)が中心となって集めた兵力約二万が、オスマン帝国軍約四万から六万に対して戦った戦いでしたが、やはり衆寡敵せずキリスト教圏混成軍は大敗を喫してしまいます。
ポーランド王ヴワディスワフ三世も戦死したこの戦いの敗戦の責任をめぐり、フニャディ・ヤーノシュとヴラド二世は対立。
ワラキアとトランシルヴァニアの関係は急速に悪化していきました。

王を失ったハンガリーでは、しばし混乱が続いたものの、やがて実力と人望のあったフニャディ・ヤーノシュが混乱を鎮めていきます。
ハンガリー摂政に就任したフニャディは、関係の悪化していたワラキアを討伐することに決め、1447年、ワラキア討伐の軍を動かしました。
この件でヴラド二世は長男ミルチャとともに捕らえられ、ヴラド二世は処刑、長男ミルチャも自ら掘った穴の中で生き埋めにされたといいます。

ワラキア公を失ったワラキアは、フニャディの息のかかったヴラディスラフ二世がワラキア公に就任します。
彼はヴラド(三世)とは又従兄弟で、ワラキア公として担ぎ出すのには最適と判断されたのでしょう。
ですが、フニャディが背後にいるヴラディスラフ二世がワラキア公となると、またしてもオスマン帝国に敵対するようになるのはわかりきっており、オスマン帝国としては容認できないことでした。

そこでオスマン帝国は人質として置いていたヴラド(三世)を、ワラキア公に即位させるべく動き出します。
オスマン帝国側にとってありがたいことに、その機会は早くも訪れました。
1448年に再びキリスト教圏混成軍が南下してきたことでオスマン帝国との戦いになり、オスマン帝国がまたもや勝利したのです。
この戦いにはオスマン帝国側の一員としてヴラド(三世)も参加しており、勢いに乗ってそのままオスマン軍とともにワラキア公ヴラディスラフ二世を追い出し、ワラキア公ヴラド三世として就任したのです。

ですが、このワラキア公の座もわずか二ヶ月しかありませんでした。
態勢を立て直したフニャディのハンガリー軍がワラキアを攻め、ヴラド三世はワラキアを脱出せざるを得なくなってしまったのです。

ワラキアを脱出したヴラド三世は、叔父であるボグダン二世の統治するモルダヴィアに亡命しました。
ボグダン二世はヴラド三世を暖かく迎え入れ、ヴラド三世はここでつかの間の平穏を手に入れることになります。
またボグダンの嫡男シュテファンとは固い友情を結ぶことができ、彼はこの友人を心から信頼するようになりました。

しかし、この平穏も長くは続きません。
1451年にモルダヴィア内の権力闘争からボグダン二世が暗殺されてしまうのです。
ヴラド三世はまたしても後ろ盾を失い、父を失った友人シュテファンとともにモルダヴィアを脱出せざるを得ませんでした。

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  1. 2013/11/08(金) 21:01:57|
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ドラキュラと呼ばれた男(1)

15世紀、日本が室町時代の頃、ヨーロッパの東側いわゆる東欧は、東ローマ帝国が力を失い、オスマン帝国がその侵略の魔手を広げている時代でした。

東欧の一国、今で言うルーマニアも、当時はルーマニアと言う一つの国ではなく、モルダヴィア・トランシルヴァニア・ワラキアの三つの地域がそれぞれ領主を擁して小国家を形成いたしておりました。
しかし、トランシルヴァニアは隣国ハンガリーによって属僚にされており、残る二つの小国家も、領域拡張を図るオスマン帝国とハンガリーに挟まれ、その存立は常に脅かされているような状況でした。

1431年、この年はあのジャンヌ・ダルクが火刑によってその生涯を終えた年になりましたが、トランシルヴァニアの領域首都シギショアラで一人の男子が生を受けました。(1430年説もあるようです)
名をヴラド(三世)。
のちに串刺し公やドラキュラというあだ名をつけられ、あの「吸血鬼ドラキュラ」のモデルともされた人物でした。

ヴラド(三世)は、父ヴラド(二世)の次男として生まれました。
父のヴラド(二世)は、神聖ローマ帝国よりドラゴン騎士団の騎士として叙任されており、ドラクルという添え名をいただいておりました。
ドラクルとはドラゴン騎士団の紋章である竜(ドラコ)に由来するものでしたが、キリスト教世界では悪魔の化身が蛇や竜の姿で描かれることも多く、竜=悪魔ということで、ドラクルには悪魔の意味も持たされていたそうです。
そのため、本来はヴラド(二世)竜公であるはずのものが、いつしかヴラド(二世)悪魔公として伝わったとも言われます。

このヴラド・ドラクル(ヴラド二世)は、庶子ではありましたが、父はワラキアを支配する領主ワラキア公ミルチャ一世でした。
ミルチャ一世はワラキア公国の領主でしたが、当時のワラキアは上記したようにオスマン帝国とハンガリーの間で行きぬくことに汲々としている小国であり、オスマン帝国に対して貢納金を支払ってかろうじて国家として存立している状況でした。

1418年にミルチャ一世が死去すると、アレクサンドル一世という人物(のちのロシア皇帝とは全くの別人)がオスマン帝国の後ろ盾をもってワラキア公に即位します。
しかし、ワラキアをまるでオスマン帝国の属国としてしまうような彼の政策は多くのワラキア貴族の反発を生み、貴族たちはこのアレクサンドル一世に対抗するため、ミルチャ一世の庶子ヴラド(二世)をワラキア公として擁立することを企てました。

この企ては神聖ローマ帝国皇帝兼ハンガリー王ジギスムントに承認され、彼の支援の下でヴラド(二世)はワラキアに侵攻。
このワラキア侵攻の拠点となったのがトランシルヴァニア内に皇帝より与えられた領地であり、この頃ヴラド(三世)が誕生したのでした。

ワラキア侵攻後、アレクサンドル一世の軍勢を打ち破って正式にワラキア公ヴラド二世となったヴラド(三世)の父でしたが、やはり強大なオスマン帝国と正面切って戦うことはできず、次第にオスマンよりにならざるを得ませんでした。
しかし、それはキリスト教圏の国々にとっては裏切りに他ならず、今度はワラキアはキリスト教圏の国から攻撃を受ける羽目になるのでした。

1442年、トランシルヴァニア領主のフニャディ・ヤーノシュ(性・名の順番)率いるキリスト教圏の軍勢がワラキアを襲います。
この戦いではワラキアは敗戦し、ヴラド二世は子供たちとともにオスマン帝国への亡命を余儀なくされました。
翌年にはオスマン帝国に臣従する条件でヴラド二世は再びワラキア公に就任させられますが、次男ヴラド(三世)と、三男ラドウはオスマン帝国内に人質として残されることになりました。
まだ十歳ちょっとのヴラド少年に取り、これが父の姿を見た最後となりました。

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  1. 2013/11/06(水) 21:02:57|
  2. ドラキュラと呼ばれた男
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舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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