インディアンの大軍の中で孤立したカスター隊は、何とか窮地を乗り切るしかありませんでした。
しかし、挟み打つ予定のインディアンに逆に南北から挟み込まれた格好になったカスター隊に逃げ場はありませんでした。
カスター隊は混乱し、戦場は乱戦模様となっていきます。
そんな中、指揮を取っていたカスターにも銃弾が命中。
カスターは落馬して息を引き取りました。
混戦の中で指揮官を失ったカスター隊に勝機は全くありませんでした。
カスター隊の残りの者たちはインディアンに追い立てられ、全滅させられてしまいます。
200名を超える兵士たちが戦死いたしました。
一方インディアン側にもそれなりの損害は出ており、スー族だけでも戦死傷者は300名近かったといいます。
カスター隊を壊滅させたインディアンたちは、さらにリノ隊やベンティーン隊の残存兵力に対して攻撃を仕掛けようとしましたが、ギボン将軍の部隊が到着したことで後退。
ギボン将軍とテリー将軍は壊滅したカスター隊の遺体を回収し、こちらも後退。
ここに「リトルビッグホーンの戦い」は終了します。
戦いの開始からはわずか二時間ほどのことだったといいます。
南北戦争では計算づくの突撃といわれたカスターがなぜ無謀な突撃をしたのでしょうか。
インディアンを侮り、自身の強運を過大に信じ、過去の栄光を取り戻そうと焦ったということかもしれません。
戦いを生き延びたリノ、ベンティーン両名の証言によれば、カスター隊は銃弾も満足に持たせていなかったといいます。
各人は124発ほどの弾薬しか持たず、一方後方の馬車には2万5000発以上の弾丸が積まれたままだったそうです。
それに対しインディアン側は銃器の数で約四倍ほどもあったのではないかと見られ、人数も最低でも1800人はいたといいます。
人員数でも武器の量でもカスター隊を圧倒しておりました。
まさにカスター隊は袋叩きにあってしまったといえるでしょう。
カスター隊の壊滅は白人社会に大きな衝撃を与えました。
上記したようにインディアン側の損害も決して少なくはなく、戦闘の結果としてカスター隊が壊滅したということだったのですが、新聞等は「インディアンによる奇襲を受け虐殺された」と報じました。
この結果、白人社会ではインディアンに対する怒りが湧き起こり、合衆国陸軍はその後より強力にインディアンに対する武力行使を行なっていくことになります。
また、戦場を脱出した副官のマーカス・リノは敗戦の責任を押し付けられ、リノ隊の失態がカスター隊の壊滅につながったと報じられました。
「リトルビッグホーンの戦い」以後、カスターは皮肉にも望んでいた名声を勝ち得、英雄としてもてはやされました。
カスター隊の悲劇はあの「アラモ砦の悲劇」と同様にアメリカ国民を揺さぶり、その進む方向を一定にする働きがあったのです。
アラモ砦の悲劇によってアメリカはメキシコとの戦争で広大な土地を奪い取ることに成功します。
カスター隊の壊滅によって今度はインディアンから広大な土地を奪い取りました。
アメリカにとってカスター隊の壊滅はまさに都合のいい出来事だったのかもしれません。
カスターの評価は1970年代まで英雄としてもてはやされましたが、その後はインディアンたちの発言力が強まり、白人社会の反省もあって逆に批判がなされるようになりました。
とはいえ、おそらく今後ともカスターの名は語り継がれていくのではないでしょうか。
アメリカの歴史の中の一コマを彼は確実に作ったのですから。
カスター隊の壊滅 終
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参考文献
「リトルビッグホーン」 歴史群像2002年4月号 学研
参考サイト
「Wikipedia ジョージ・アームストロング・カスター」
「Wikipedia リトルビッグホーンの戦い」
他
今回もお付き合いいただきましてありがとうございました。
- 2013/10/22(火) 21:13:09|
- カスター隊の壊滅
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グラント大統領の宣言に基づき、合衆国陸軍はインディアン討伐作戦を開始しました。
陸軍大臣シャーマンはシェリダンに対し作戦立案を命じ、シェリダンはそれに答えて三方からインディアンの居留地であるモンタナ州南東部を包囲する作戦を立案。
これによればテリー将軍麾下の部隊が東側から、ギボン将軍の部隊が西から、クルック将軍の部隊が南から接近し、イエローストーン川とローズバット川の合流地点付近にあるスー族の拠点を攻撃するという手筈でした。
一時期グラント大統領に対する汚職証言問題で対立していたカスターは、このうちのテリー将軍の麾下の第七騎兵隊指揮官として配属されましたが、名誉少将という肩書きは失われ、ただの騎兵中佐としての参加でした。
そのため、以前も書いたように過去の栄光を取り戻そうという焦りもあったのかもしれません。
1876年6月、合衆国陸軍の各部隊のうち、テリー将軍の部隊とギボン将軍の部隊は予定通りスー族の居留地付近に集結。
スー族に対する討伐作戦を開始しようとしておりました。
しかし、もう一つの部隊であるクルック将軍の部隊は、このときすでにオガララ族インディアンと交戦し、後退を強いられておりました。
クルック隊の合流はなりませんでしたが、テリー将軍とギボン将軍はこのままインディアンに対する討伐作戦を続行することを決め、6月26日をもって攻撃を開始することにいたします。
そのため、カスターの第七騎兵隊は南方にある川の川上に配置されることとなり、カスターは移動を開始します。
このときギボン将軍がカスターに対し、「カスター君、あんまり欲張るんもんじゃないよ。インディアンは何しろたくさんいるからね」と言ったといわれます。
事実、政策会議と「サン・ダンス」のために終結していたインディアンたちの数は予想以上に多いものでした。
当時合衆国陸軍には協力的なインディアン部族もおり、彼らは偵察や斥候として軍事行動に貢献してくれておりました。
カスター隊にもこういったインディアンの協力者たちがおり、彼らの偵察の結果、集結しているインディアンたちの数がかなり多いことはわかっていたのです。
彼らは相手の数が多いことを何度もカスターに忠告しましたが、カスターをはじめ上層部はこれをあまり真剣には捉えていなかったのかもしれません。
6月25日、カスター隊はインディアンの野営地のそばにまで進出しました。
そこはインディアンが油っこい草の川(グリージーグラス川)と呼ぶ川のほとりで、白人はリトルビッグホーン川と呼ぶ川でした。
カスター隊の動きはインディアン側でも把握しており、戦いに備えよという伝令が回っておりました。
ただし、カスター隊が約700と比較的少数と言うこともあり、本隊が別にいるかもしれないと見て、行動は慎重にするようにという指示も出されておりました。
一方カスター隊では副官のマーカス・リノが相手の多さから「慎重にいくべきです」と進言しておりましたが、カスターは功に逸ったのかこの進言を退けます。
さらにカスターは、敵より少ない味方をさらに三隊に分け、リノとベンティーンの二人の将校に指揮を任せると、自分は本隊約200名を指揮し、リノ隊に渡河して威力偵察をするように命じます。
リノ隊はカスターの命に従い、ハンクババ族のキャンプを襲撃しました。
しかし、この攻撃に対してインディアンたちは直ちに反撃を開始。
リノ隊は多勢に無勢となり、すぐに身動きが取れなくなってしまいます。
リノ隊がインディアンたちと戦っている間にカスターは自らの部隊を率いて川の東側からインディアンたちに接近していきました。
そして他のテリー将軍やギボン将軍の部隊が来る前に、単独で突撃を開始してしまいます。
しかし、これはやはり無謀でした。
多数のインディアンがこれを迎え撃ち、カスター隊はインディアンたちの中に孤立することになってしまったのです。
本来別行動のリノ隊はあくまで威力偵察のはずでした。
敵の配置を探り、攻撃に対してどのように対応してくるかを探るのが目的です。
しかし、カスターはそのリノ隊を挟み撃ちのための片方として、自らもう片方となるべく攻撃をしたようです。
挟み撃つべきはさみの片方の刃であるリノ隊が身動きが取れなくなっている以上、もう片方のはさみの刃も物を切ることはできません。
カスター隊も周囲を囲まれ身動きが取れなくなりました。
彼らは何とかこの窮地を突破するしか道はありませんでした。
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- 2013/10/18(金) 21:08:56|
- カスター隊の壊滅
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陸軍中佐として第7騎兵隊の指揮官となったカスターは、ほどなく名誉少将に昇進し、「対インディアン戦闘」に従事することになりました。
この当時、アメリカでは中西部に入植する白人とインディアンとの軋轢がすでに「インディアン戦争」と呼ばれるまでに発展しており、陸軍はインディアンとの戦闘を数多く行っていたのです。
カスターはシェリダン将軍の命の下でスー族やシャイアン族といったインディアン部族と戦っておりましたが、彼自身はこの戦争にさほど乗り気ではなかったようで、勝手に軍務を離れて家に帰ってしまったりしたこともあったようです。
このことは陸軍としては当然問題視されましたが、シェリダン将軍はカスターを対インディアン戦闘に必要と考えており、刑罰を免れることになったようでした。
ところがそんな行動を取ったほどのカスターは、1868年11月27日、現在のオクラホマ州の西部に位置するワシタ川という川の流域に野営していたシャイアン族内の和平派ブラック・ケトル酋長の率いる一行を襲撃します。
この戦闘はカスター隊によるほぼ一方的な虐殺となり、女子供を含む一行は全滅。
ブラック・ケトル酋長も妻とともに殺されました。
この戦いはシャイアン族の土地を占領する目的で行われたといわれ、「インディアン戦争」におけるアメリカ陸軍の最初の勝利として宣伝されました。
そのため、カスターはほぼ女子供を含むほぼ無抵抗の一行を虐殺したにもかかわらず、シェリダン、シャーマン両将軍からは褒められ、白人社会では英雄として再び脚光を浴びたのです。
そして、この「ワシタ川の虐殺」以降、合衆国政府はインディアンとの交渉を打ち切り、保留地に入ろうとしないインディアンに対しては容赦なく軍事的に攻撃をするようになっていきました。
1873年、カスターはダコタの鉄道敷設を妨害するスー族と交戦。
翌年にはインディアンが聖地として崇める「ブラックヒルズ」に侵入し、そこに金鉱があることを発見します。
それほど多くの量の金があるわけではなかったようですが、目立ちたがりのカスターはこのことを誇大に報告し、注目を集めようとしました。
はたしてカスターの報告に飛びついた人々が「ブラックヒルズ」に押し寄せ、その人々が踏み荒らした道は「カスター道」とまで呼ばれるほどでした。
ブラックヒルズはそこがインディアンとの間に結ばれた不可侵条約の地であったにもかかわらず、金鉱開発のために条約は全く無視されることになったのです。
ブラックヒルズを踏み荒らす白人に対し、当然インディアン各部族は怒りに燃えて襲撃を加えました。
時の大統領はジョンソンのあとを継いだ南北戦争の北軍総司令官グラントでしたが、彼はブラックヒルズ一帯を占領するために強い態度で臨み、1876年1月31日までに指定居留地に移住しない場合、スー族とアラバホ族を殲滅すると宣言します。
グラント大統領とカスターは、一時期グラントの汚職問題に関する証言などで対立していたこともありましたが、このときもやはりシャーマンとシェリダンがカスターの後ろ盾となり、カスターは第7騎兵隊の指揮官職を続けることができました。
グラントもまた、結局のところカスターの能力は対インディアン戦に必要とみなし、彼をクビにはできなかったのです。
そして1876年5月17日、グラント大統領は期限切れとみなしてインディアンに対する軍事行動を発令し、カスター率いる第7騎兵隊を先発隊としてエイブラハム・リンカーン要塞から出撃させました。
カスターもまたこの戦闘でスー族を壊滅させることができれば、再び英雄として名声を得るチャンスと考えておりました。
一方たび重なる白人たちの暴虐に対し、今後の対白人政策と宗教的行事「サン・ダンス(太陽の踊り)」を行なうためスー族やシャイアン族、アラバホ族などのインディアン各部族が「リトルビッグホーン」という名の川のほとりに集まっておりました。
彼らは特にこれから白人と戦おうとして集まったのではなく、上記したように政策の会談と宗教的行事のための集まりではありましたが、各部族が集まったことで、必然的に数多くのインディアン戦士も集まることになりました。
その中にはシッティング・ブルやクレイジー・ホースといった有名な戦士たちもおりました。
カスター隊はそんな場所に向かって進んでいたのです。
今まさに、「リトルビッグホーンの戦い」と呼ばれる戦闘が始まろうとしておりました。
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- 2013/10/15(火) 21:05:47|
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ジョージ・アームストロング・カスターは1839年12月5日生まれ。
オハイオ州で鍛冶屋兼農家の家に生まれました。
大学卒業後、両親は彼に聖職者の道を歩んで欲しかったそうですが、彼はウェストポイントの陸軍士官学校に合格し、士官候補生となりました。
ただ、成績はそれほど優秀ではなく、平時であれば昇進しても佐官どまりというレベルだったそうで、また素行にも問題があり、しばしば退学を迫られるということもあったといいます。
しかし、彼にとって幸運といえるのか、在学中に「南北戦争」が勃発。
彼は卒業を一年繰り上げて少尉に任官し、騎兵隊の将校となりました。
そして「ブルランの戦い」で初陣を飾ると、持ち前の勇敢さで南軍と戦い、時の司令官マクレラン将軍にも気に入られて中尉から一時的に名誉大佐の階級を与えられ副官に任じられるという栄誉を受けます。
ですが、マクレラン将軍がリンカーン大統領と対立して職を解かれると、カスターも再び一中尉に戻って前線に戻ることになりましたが、その後も彼は騎兵隊の士官として勇猛果敢振りを発揮し、騎兵旅団長に目をかけられて正規軍の中尉から義勇軍に出向という立場にはなりますが、准将という将官にまで昇進することになります。
義勇軍准将となったカスターは、騎兵旅団長としてあの有名な「ゲティスバーグの戦い」に参加。
そこで南軍スチュワート将軍の騎兵旅団を迎え撃ちこれを撃退するという華々しい戦果を上げました。
そしてこの功績からシェリダン将軍の麾下に加えられ、義勇軍少将へと昇進します。
このときカスターはまだ23歳であり、いかに戦争中とはいえ異例の人事であることは間違いなく、「少年将軍(Boy General)」というあだ名で呼ばれたといいます。
カスターはその後も北軍の戦勝に貢献し、時には独断専行をしたり越権行為をするようなこともありましたが、その勇敢さで名を馳せました。
敵前では何度も銃弾の飛び交う中に飛び込んで行ったにもかかわらず、南北戦争中は一度も敵弾で負傷することはなかったといわれ、彼の強運ぶりは彼自身も認めるほどだったといいます。
とはいえ、決して無謀だったわけではなく、計算をした上での突撃だったとされ、事実彼の部隊の突撃はしばしば北軍を有利に導いたのでした。
一方彼は派手好きでおしゃれな面があり、自分の配下の騎兵隊に赤いマフラーを身に着けさせたり、自分は特注の金モールに飾られた軍服を着るなど目立ちたがりだったといいます。
また当時としては珍しく新聞記者などを積極的に引き入れ、自分をイメージよく書いてくれるよう彼らに気を配ったとも言います。
南北戦争が終結すると、陸軍は多くの兵士を除隊させ、義勇軍に出向していた士官を正規軍に呼び戻しました。
その際戦時の階級を平時の階級に調整することが行なわれ、まだ24歳というカスターは将官としては若すぎるということもあり階級を下げられました。
戦争も終わったことで除隊も考えていたカスターでしたが、ちょうどフランスとの戦争状態にあった隣国メキシコ政府がカスターを陸軍中将という階級でスカウトするという話が持ち上がります。
カスターはこの話に乗り気ではあったものの、フランスとの関係悪化を懸念した合衆国政府によって妨害され、メキシコ行きはあきらめざるを得なくなりました。
そんなカスターのもとに、陸軍より第7騎兵隊の司令官職に着くようにという指示が来ます。
これは時の大統領アンドルー・ジョンソンにシェリダン将軍が推挙したからでしたが、カスター自身が一時民主党のジョンソン大統領の支持を表明していたことも関係があるかもしれません。
ともあれ、カスターは第7騎兵隊の司令官として、陸軍中佐の階級を与えられました。
そしてすぐに名誉少将に昇進すると、シェリダン将軍の命で作戦行動に付くことになります。
それは、「対インディアン戦闘」でした。
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- 2013/10/12(土) 21:08:59|
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1865年4月、4年の長きに渡って続けられたアメリカ史上最大の内戦、「南北戦争」は終わりを告げました。
これによってリンカーン大統領が提唱した「奴隷解放宣言」により、アメリカから黒人奴隷というものは解消され、1868年には黒人を含むすべてのアメリカ国民に平等の権利を与えるという憲法修正第14条が発効されることになりました。
しかし、表面上黒人に対する差別がなくなったのと対象的に、この時点でこの「アメリカ国民」に該当しない人々が合衆国内に多数おりました。
アメリカ先住民族、当時の言葉で言う「インディアン」です。(以下記事内ではインディアンと表記)
アメリカの白人たちは、かつては先住民であるインディアンが多く暮らす中部から西部地域にはあまり関心を持たず、それほど交流することもありませんでした。
しかし、南北戦争が終わったことで、じょじょに広がっていた中西部への進出が増大したことにより、白人とインディアンたちの接触も増えていきました。
また、西部での金鉱脈発見やバイソンなどの動物資源を確保しようとする人々と、そういった動物や鉱物資源のある土地に住むインディアンたちとの軋轢は日を追うごとに激しくなり、白人とインディアンの武力衝突も増えて行ったのです。
そういった武力衝突が増えてくると、必然的に白人側の住民保護のためにアメリカ陸軍が動くことも多くなり、陸軍内にはインディアンに対する憎悪が芽生えていくことになりました。
南北戦争で北軍勝利に多大な貢献をし、その後陸軍大臣となったウィリアム・シャーマンも、北軍の将軍として名を馳せ、ミズーリ軍管区司令官となっていたフィリップ・シェリダン将軍もインディアンに対してはいい感情を持っておらず、シェリダン将軍にいたっては、「よいインディアンは死んだインディアンだけ」というような言葉すら言ったと伝わっております。
それに対し、南北戦争の英雄で、その後大統領に就任していたユリシーズ・グラントは、政治的な面からインディアンに対する融和策をとっておりました。
しかし、このグラントの融和策は白人社会内でも批判が集まり、グラント派と反グラント派が対立するような状態でした。
このグラント派と反グラント派の争いに巻き込まれた一人の青年将校がおりました。
その名をカスター。
ジョージ・アームストロング・カスターといいました。
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- 2013/10/11(金) 21:03:38|
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