リチャード3世の謀略をからくも逃れたヘンリー・テューダーは、フランスの援助を受けてリチャード3世と対決することを選びました。
1485年8月、彼は亡命してきた支持者たちとフランス人の傭兵を引き連れてイングランドに再び上陸。
これに対し、リチャード3世の任命した代官たちは静観するか自らヘンリーの下にはせ参じてしまう有り様でした。
このため、ヘンリーの行軍はだんだんと軍勢の数が増えていったのです。
この状況にリチャード3世も、自らが軍勢を率いて当たるしかないと決心し、ヘンリー・テューダーとの間に決戦を行ないます。
のちに「ボズワースの戦い」と呼ばれることになるこの戦いは、1485年8月22日のことでした。
戦いに望んでの戦力ではリチャード3世が約8000だったのに対し、ヘンリー・テューダー側は約5000とリチャード3世側が優勢でした。
しかし、リチャード3世側はその優勢なる戦力を生かすことができませんでした。
リチャード3世の配下にはウィリアムとトマスのスタンリー兄弟がおりました。
彼らはこれまでよくリチャード3世に仕えておりましたが、トマス・スタンリーはヘンリー・テューダーの血筋にあたるため、場合によっては寝返る可能性もあり人質を取ることでつなぎとめようといたしました。
しかし、やはり彼らは動きませんでした。
彼らスタンリー兄弟は、戦闘が始まっても参加せず、様子見を行ったのです。
しかも、彼らばかりかノーサンバーランド伯ヘンリーまでもが様子見を始めておりました。
リチャード3世はやむなく彼ら抜きで戦うしかありませんでした。
それでもヘンリー・テューダーの軍勢の足並みがそろわないことにつけこみ、序盤は優勢に戦いを進めておりました。
リチャード3世は勝利を確実にするつもりだったのかもしれません。
彼は麾下の軍勢に突撃を命じます。
そしてこの突撃にノーサンバーランド伯も参加するよう命じました。
しかし、ノーサンバーランド伯は動きませんでした。
これによって彼は命令不服従により逮捕されてしまいます。
ですが、突撃には彼の配下は参加しなかったようでした。
そして、リチャード3世にとって不幸だったのは、この突撃が食い止められてしまったことでした。
しかも、その食い止めた相手は誰あろう、様子見をしていたスタンリー兄弟だったのです。
リチャード3世の突撃は、一時はヘンリー・テューダーの間近にまで迫り、旗手を打ち倒すほどでしたが、スタンリー兄弟の軍勢が横合いからこれを押しとどめてしまったのでした。
リチャード3世は再度決死の突撃を敢行しますが、これも押しとどめられ、落馬したところを首を切られて殺されました。
「ボズワースの戦い」は、ヘンリー・テューダーの勝利に終わったのです。
勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入城し、議会を召集して国王に即位し、ヘンリー7世となりました。
そして、「ボズワースの戦い」で逮捕されたノーサンバーランド伯を釈放して放免し、所領も爵位も安堵しました。
さらに日付をさかのぼって「ボズワースの戦い」で敵になった人物を国王に対する反逆罪とし、寝返ったスタンリー兄弟のトマスをダービー伯に任命しました。
ヘンリー7世となったヘンリー・テューダーは、これ以上の争いを避けるべくヨーク家の血筋の女性エリザベスと結婚し、ランカスターの血筋とヨークの血筋を一体化させました。
そして、家紋を中央にヨーク家の白バラを配し、その周りにランカスター家の赤バラが広がるような紋章として、テューダーローズと名付けました。
そして、このヘンリー7世が100年以上続くテューダー朝の始まりでした。
「ボズワースの戦い」を持って、「薔薇戦争」は一応の終結を見ました。
ランカスター家もヨーク家も結局はテューダー家に吸収されてしまったようなものでした。
ヘンリー7世は禍根を残さないためにも対立しそうな王位継承権者を次々と粛清し、次代のヘンリー8世までも対立者の粛清は続きました。
「薔薇戦争」は30年にもわたった英国の内戦でした。
しかし、戦闘自体は全部あわせても400日ほどに過ぎず、また国民もほとんど犠牲になるようなことはありませんでした。
そのため、内戦と言う言葉から受けるイメージとは違い、国土が荒れ果てるようなことはなかったといいます。
ヘンリー7世は良好な国土を継承することができ、「薔薇戦争」で力や血筋を失った大貴族たちを国政から遠ざけ、「絶対王政」の基礎を固めることができました。
英国の中世は終わり近世の発展へとつながっていくのでした。
薔薇戦争 終
参考文献
「歴史群像2001年10月号 薔薇戦争」 学研
参考サイト
Wikipedia 薔薇戦争 百年戦争等
今回も各種資料の自分なりのまとめに過ぎませんでしたがいかがでしたでしょうか?
多少なりとも「薔薇戦争」と言うのがどういうものかわかっていただけたら幸いです。
お付き合いありがとうございました。
- 2012/11/13(火) 21:10:08|
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危難を乗り越えたエドワード4世は、しばらくの間安定した治世を送ることができました。
第二幕で協力してくれた末弟グロスター公リチャードやヘイスティング卿らには充分な恩賞を与えましたが、一方では不仲となったクラレンス公ジョージを謀反の嫌疑で処刑するなど足元を固めることも忘れませんでした。
しかし、そのグロスター公リチャードは、ウォリック伯の遺児で未亡人となったアン・ネヴィルと結婚し、ウォリック伯の私党を引き継ぐなど勢力拡大に余念がありませんでした。
1483年4月、エドワード4世が急死。
これによって英国内はまたしても権力争いがはじまります。
国王が死んだことで王妃の親族グッドウィル家と、王の側近ヘイスティング卿との間の対立が表面化。
エドワード4世には嫡子エドワード5世がおりましたが、この時点でまだ12歳と幼く、リバース伯の元で養育されている最中でした。
エドワード4世は死に際し、グロスター公リチャードを護国卿に任命したと言われます。
しかし、グッドウィル派はこれを有名無実にしてしまうべく画策。
武力を背景に評議会を取り仕切り、ヘイスティング卿の反対を押しのけてグロスター公に実体のない名誉職を与える決定をくだしました。
これに危機感を持ったヘイスティング卿はグロスター公に対し、グッドウィル一族に対抗する戦力を用意するように伝えます。
グロスター公はこれを好機と見たか、彼もまた兵力を持ってグッドウィル一族に対抗しようといたしました。
グロスター公はバッキンガム公ヘンリーとともに、父の跡を継ぐためにロンドンに向かっていたリバース伯とエドワード5世を拘束。
これはグッドウィル一族によるエドワード5世に対する陰謀を防ぐためと言う名目でしたが、リバース伯はのちに処刑され、エドワード5世はロンドン塔に幽閉されてしまいました。
さらにグロスター公はヘイスティング卿も処刑し、エドワード5世の弟も確保してロンドン塔に送ります。
そして兄エドワード4世の結婚は違法であり、子供たちに王位を継ぐ資格はないと訴えました。
この訴えは議会によって認められ、グロスター公を新たにリチャード3世として王位につけました。
リチャード3世によって捕らえられた二人の少年は、その後ついに姿を見せることはありませんでした。
このため、リチャード3世を快く思わない人々は、新たなるリチャード3世に対抗する王位継承権者を探す必要に迫られました。
そして彼らが見つけたのがヘンリー・テューダーでした。
ヘンリー・テューダーはリッチモンド伯の称号を持ち、父がヘンリー6世の異父弟、母がランカスター家の祖ジョンの血筋と言う人物でした。
王位継承権としてはかなり遠かったために、王位継承権者としては疑義もありましたが、結局のところ、彼以外にめぼしい人物がいなかったのでした。
彼を最初に担ぎ上げてリチャード3世に反旗を翻したのはバッキンガム公ヘンリーでした。
彼はリチャード3世の即位に協力した人物ではありましたが、その後王とは不仲になっていたのです。
彼の側近たちは王位継承権が遠いヘンリー・テューダーよりもエドワード5世かその弟を王位継承者として担ぎ上げるよう申し出ましたが、バッキンガム公は二人の少年はすでにリチャード3世によって殺されてしまっていると考えたのでした。
バッキンガム公はヘンリー・テューダーに誘いかけ、亡命先のブルターニュから戻ってくるよう要請します。
ヘンリーもそれに応えてイングランドに向かいましたが、このバッキンガム公の蜂起はリチャード3世によってつぶされ、バッキンガム公自身も捕らえられて処刑されてしまいました。
ヘンリー・テューダーはやむなく再度ブルターニュに戻りますが、そこにもリチャード3世の手が伸びました。
ブルターニュ公の重臣を賄賂でそそのかし、ヘンリーを亡き者にしようとしたのです。
しかし、警告を受けていたヘンリーはブルターニュを脱出。
フランスへと逃れ、そこで庇護を受けました。
そして、フランスにいる彼の元にはバッキンガム公の残存勢力やリチャード3世に不満を持つ連中が次々と参集しました。
また、彼の元までは行かずとも、彼に協力を惜しまないとする反国王派の人々がイングランド本土にも数多くおりました。
ヘンリー・テューダーが立ち上がる機は熟していたのです。
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- 2012/11/09(金) 21:12:25|
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ランカスター家を抑え、英国王となったエドワード4世でしたが、彼の治世は意外なところからほころびを始めます。
第一幕において彼を支え、彼のよき協力者であったウォリック伯リチャードが、エドワード4世と不仲になってしまったのです。
事の発端は、エドワード4世が秘密裏に結婚をしてしまっていたことでした。
エドワード4世に協力したことで、イングランド最大の土地所有者となったウォリック伯は、国王からも当然信任厚くさまざまな職をまかされておりました。
そのうちの一つが大陸にあるカレーの町の守備隊司令というものでしたが、おそらくこのことが大陸にある唯一残ったイングランド支配地であるカレーを失わせないためにフランスに接近する理由になったのかも知れません。
ウォリック伯は「百年戦争」も終結したことから、英国とフランスの融和を目指しており、親仏派として知られておりました。
彼はフランス国王ルイ11世と交渉し、エドワード4世とフランス王室との婚姻を成立させようと尽力します。
しかし、エドワード4世はすでに1464年に騎士の未亡人エリザベスと秘密裏に結婚しており、彼はこれを「覆せない事項」としたことで、婚姻を進めていたウォリック伯の面子をつぶしてしまいます。
さらにエドワード4世は自身の身内に次々と爵位や地位を与え、高級貴族たちと婚姻を結ぶなど派閥を固めていきます。
そしてフランス王室とは対立関係にあるブルゴーニュ公シャルルに妹を嫁がせて同盟を結んだ上、ウォリック伯の娘と身内の縁談には乗り気ではないなど、どちらかというとウォリック伯を排除するような動きが目立ち始めました。
ウォリック伯は国王に対抗するためにエドワード4世の弟であるクラレンス公ジョージと盟約を結びます。
クラレンス公はエドワード4世の反対にもかかわらず、ウォリック伯の娘を娶ってくれていたのです。
1469年4月、ウォリック伯はついにエドワード4世に対する反乱をそそのかし、イングランド北部で反乱の火の手が上がります。
国王エドワード4世はすぐに鎮圧に向かいますが、その隙にウォリック伯は軍勢を引き連れてカレーからイングランドに上陸。
7月の「エッジコート・ムーアの戦い」で国王軍と直接対決し、国王軍を破りました。
これによってエドワード4世はウォリック伯側に捕らえられ、ミドルハム城に幽閉されてしまいます。
ウォリック伯はさらに王妃の父親や弟を処刑し、エドワード4世の側近連中も粛清して国王の勢力を削りました。
しかし、これによって息を潜めていたランカスター派などがまたしても動き出し、国内は騒然となってしまいます。
ウォリック伯による権力掌握も支持する貴族たちはわずかで、ウォリック伯はやむを得ず幽閉したエドワード4世を釈放し、表面上の和解をするしかありませんでした。
一方、前国王ヘンリー6世の王妃マーガレットと、その子はフランスに亡命しておりました。
この亡命王妃に目をつけたフランス国王ルイ11世は、エドワード4世とブルゴーニュ公との同盟に対抗するため、ウォリック伯とマーガレット王妃との同盟を提案します。
ウォリック伯とマーガレットはその提案を受け入れ、以前は仇敵同士だった二人は同盟者となりました。
ウォリック伯はマーガレットに忠誠を誓い、ウォリック伯の娘とマーガレットの息子が婚姻を交わして両者は親類となったのです。
このことでウォリック伯は再度エドワード4世の排除に動き始めました。
1470年10月、ウォリック伯は再び国王軍の留守にイングランドに上陸。
ロンドンを制圧して前国王ヘンリー6世を救出します。
そして軍勢を率いてエドワード4世の軍と対決するべく北上しました。
エドワード4世にとってこの事態は予想外のものでした。
彼は大軍が接近中との報に弟のグロスター公とともに海路ブルゴーニュへと脱出してしまいます。
ウォリック伯は戦わずに勝利を収めたのでした。
ですが、ウォリック伯の勝利はブルゴーニュ公に危機感を覚えさせました。
フランスと英国の同盟で苦しい立場に追い込まれるであろうことは間違いないからです。
ブルゴーニュ公はエドワード4世に軍備調達のための資金を提供し、再度英国へ戻るように促しました。
これによってエドワード4世はドイツ傭兵などを集めてイングランドへと舞い戻ります。
ヨークの町を制圧して支持者を集めるエドワード4世に対し、ウォリック伯はすぐに軍勢を差し向けましたが、エドワード4世は逆にウォリック伯の軍勢をすり抜けてロンドンへ入城。
ロンドンにいたヘンリー6世を逮捕します。
1471年4月、「バーネットの戦い」でウォリック伯の軍勢とエドワード4世の軍勢が激突しました。
霧の中で行なわれたこの戦いは、視界が閉ざされ敵味方の区別が難しい状況でした。
そのためウォリック伯の軍勢は同士討ちを演じるものも現れ、それを味方による裏切り行為と思ってしまったウォリック伯の軍勢は混乱し、エドワード4世の軍勢の前に総崩れとなってしまいます。
ウォリック伯は戦場を離脱しようとしましたが、かなわずに戦死。
身内のモンターギュ候も戦死してしまいました。
ウォリック伯の同盟者となったマーガレット王妃でしたが、イングランド上陸後軍勢を集めていたものの、この戦いには参加せず、ウェールズのランカスター派と合流しようとしたところを迎撃され、「テュークスベリーの戦い」で壊滅。
息子エドワード王子とサマセット公は処刑され、夫ヘンリー6世ものちに殺害されました。
マーガレット王妃は5年間ほどロンドン塔に幽閉されたのちにフランスに返され、アンジュー家の相続権を没収され1482年に没しました。
こうしてエドワード4世は危機を乗り越え、薔薇戦争の第二幕が終わったのです。
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- 2012/10/29(月) 21:15:01|
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「ノーサンプトンの戦い」に勝利し、再び護国卿となって権力を握ったヨーク公でしたが、ランカスター派は当然このままで済ますつもりはありませんでした。
ヘンリー6世の王妃マーガレットは、息子エドワード王子とともにランカスター派の影響下にある北部ウェールズへと逃れ、そこから船でスコットランドに渡り、スコットランド王に軍勢の派遣を要請します。
スコットランド側は土地の割譲と姫とエドワード王子との結婚を代償にマーガレット王妃の申し出を受け入れ、スコットランド軍が王妃とともに南下してヨークシャーを制圧しました。
マーガレット王妃の下には次々とランカスター派の貴族が集結し、またしてもヨーク公は軍勢を率いて対決することを余儀なくされました。
1460年の暮れ、ヨーク公はソールズベリー伯とともに出立し、ウェークフィールド近郊まで進出します。
しかし、その時点でマーガレット王妃の下に集まったランカスター派の軍勢はなんとヨーク公側の四倍を越えており、とても正面切って戦闘を挑めるような状態ではなくなっておりました。
ヨーク公の軍勢はやむを得ずサンダル城に篭もって援軍を待つことにしましたが、ランカスター派はこれを包囲。
食糧補給の道を閉ざされたヨーク公は一か八かの野戦を戦うべく出撃し、ここに「ウェークフィールドの戦い」が始まります。
この戦いは最初からヨーク公側の圧倒的に不利な状態での戦闘でした。
四倍を誇るランカスター派の軍勢の前にヨーク公側はかなうはずもなく、ヨーク公は戦死。
一緒に来ていた次男エドムンドも戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられて斬首されました。
「ウォークフィールドの戦い」はランカスター側の圧勝でした。
ヨーク公が戦死したことで、この内戦にも目処が付いたかとも思われました。
ですが、そうはなりませんでした。
ヨーク公は次男を戦場に連れて行っておりましたが、長男のマーチ伯エドワードは残っておりました。
エドワードはすぐにヨーク公位を継承し、王位継承権をもそのまま受け継ぎました。
新たなるヨーク公の誕生でした。
ヨーク派はすぐさま反撃に打って出ました。
翌1461年、ウェールズに侵攻してきたランカスター派の貴族オウエン・テューダー率いる軍勢を「モーティマーズ・クロスの戦い」で撃破し、オウエン・テューダーを処刑します。
そして、援軍のスコットランド軍に給料を払えなかったことからやむなく略奪を認めたマーガレット王妃を非難し、ヨーク派の支持を集めていきました。
マーガレット王妃とその軍勢は「第二次セント・オールバーンズの戦い」でウォリック伯の軍勢を破り夫のヘンリー6世を救出しますが、南イングランドでの略奪を知った市民らの反応は悪く、ランカスター派の威信は地に落ちました。
国王と王妃の軍勢はロンドン市民に受け入れられず、ロンドンに入城することはできなかったのです。
マーガレット王妃の軍勢に敗北したウォリック伯の残存戦力は、新ヨーク公エドワードの軍と合流します。
エドワードは軍勢をロンドンに向けますが、すでにロンドンをあきらめたランカスター派は遠ざかっており、ヨーク派は難なくロンドンに入城することができました。
ロンドンに入城した新ヨーク公エドワードは、ロンドン市民から新王に推戴されました。
ヘンリー6世は王位継承者たる前ヨーク公リチャードの殺害を許してしまっており、王位にいる権利を喪失したとみなされたのです。
評議会と市民の推戴を受けたエドワードは新王となることを了承し、ここにエドワード4世として即位します。
しかし、ヘンリー6世とマーガレット王妃が処刑、もしくは国外追放されるまでの間は戴冠式は行なわないとしました。
新王エドワード4世はいよいよ決着をつけるべく、軍勢を率いて出発します。
1461年3月、ヨーク西方のタウトンと言うところで、ランカスター派とヨーク派は激突しました。
この「タウトンの戦い」は、季節柄吹雪の中で行なわれ、その風向きによって矢が届いたり届かなかったりと言う状況でした。
やがて両軍は接近戦にもつれ込みましたが、一進一退の膠着状態となり、ただただ熾烈な戦闘が続きました。
やがてヨーク派のノーフォーク公の軍勢が参陣し、ヨーク派の勢いが増すと、ランカスター派は突然崩れ去りました。
こうして「タウトンの戦い」はヨーク派の勝利に終わりましたが、薔薇戦争最大の戦闘となったこの戦いでは双方の死傷者がとても多く、一説によるとヨーク派で12000、ランカスター派で20000の損害を出したと言います。
また、ランカスター派の貴族も次々と討ち死にし、ランカスター派は瓦解しました。
この敗戦でヘンリー6世とマーガレット王妃、エドワード王子はスコットランドに逃亡。
残ったランカスター派の貴族は、多くが新王エドワード4世に従うこととなり、一部が北部で対抗を続けました。
しかし、ほぼヨーク派の勝利は決まり、エドワード4世はロンドンで戴冠式を行い正式に国王として就任しました。
イングランド北部ではまだランカスター派の抵抗はありましたが、それもじょじょに収まり、ヘンリー6世は捕らえられ、マーガレット王妃とエドワード王子はフランスに亡命します。
こうして薔薇戦争の第一幕は終結いたしました。
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- 2012/10/24(水) 21:07:39|
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「セント・オールバーンズの戦い」で勝利を得たヨーク公側でしたが、その後国王と王妃らによる巻き返しにより、その成果はほとんどが失われることになりました。
それに伴い、両派閥にかかわるネヴィル家とバシー家の争いなどが再開され、再びきな臭い空気がイングランドに漂い始めます。
時を同じくして、イングランド沿岸ではフランス人海賊などの被害が増加しており、住民はその対策を国王に期待しましたが、国王ヘンリー6世はフランスとの関係悪化を望まなかったのか、何もしませんでした。
そのため、大陸側の対岸であるカレーを治めるカレー総督となっていたウォリック伯リチャードは、海賊行為から商人を守ろうとする動きを見せたため、商人たちの人気を集めるようになっておりました。
1458年、このままではまたしても戦いになると危惧したカンタベリーの大司教が両派の和解を仲介しようとしましたが、両者とも大司教の前では和解を受け入れたものの、すぐににらみ合いは再開してしまいます。
そして、海賊取締りに加え、自らがハンザ同盟やスペインの商船を攻撃するような行為を行なっていたウォリック伯を国王が査問のために召還しようとしましたが、これを自らを害する行為とみなしたウォリック伯が拒否。
ヨーク公らも大評議会への参加要請を受けましたが、これも赴けば逮捕されかねないとして拒絶。
ついに再び軍勢を集結させ始めました。
1459年、ウェールズ地方のラドローに集結したヨーク公の軍勢に対し、ヘンリー6世も軍勢を差し向けます。
途中ヨーク公と合流するべく行動していたソールズベリー伯の軍勢と遭遇、一戦を交えるものの逆にソールズベリー伯の軍勢に敗退してしまいます。(ブロア・ヒースの戦い)
ヘンリー6世はやむを得ずいったん後退し、軍勢を立て直します。
それに対してソールズベリー伯の軍勢と合流したヨーク公は、ヘンリー6世の軍勢を討つべく進軍しましたが、戦力を立て直したヘンリー6世の軍勢が予想以上に強大なことを知り愕然としました。
今度はヨーク公側が自軍の拠点たるラドローまで後退。
近くのラドフォード橋でヘンリー6世の軍勢と対峙します。
この戦いはのちに「ラドフォード橋(ラドフォードブリッジ)の戦い」と呼ばれますが、戦いとは名ばかりのようなもので、自軍の少なさに勝ち目はないと判断したカレー軍司令官トロラップが部下の軍勢丸ごと率いてヘンリー6世に寝返るという事態が発生。
ますます兵力差が開いたヨーク公側は、司令官たるヨーク公が息子やソールズベリー伯らとともに夜中に脱出してしまうと言うとんでもない状況に陥り、朝になって司令官の脱出を知ったヨーク公の軍勢が自然と瓦解してしまったと言うものだったようです。
戦場を逃れたヨーク公でしたが、この戦いでの敗北は大きな痛手でした。
ヘンリー6世を中核とするランカスター家はこれでますます勢いを増し、ヨーク公側についた貴族は次々と反逆罪で称号や領地を奪われていきました。
もちろんヨーク公やウォリック伯も例外ではなく、彼らの称号も領地も取り上げられることになりましたが、ヨーク公もウォリック伯も領地や任地で抵抗し、力づくで領地を取り上げるまでにはいたりませんでした。
1460年、ヨーク公らは反撃を開始。
ウォリック伯とソールズベリー伯、それにヨーク公の長男マーチ伯が奇襲をかけ、海路から上陸してロンドンを制圧します。
驚いたのはコベントリーの宮廷にいたヘンリー6世たちでした。
ヘンリー6世はすぐさま軍勢を集めて南下し、ウォリック伯の軍勢と対峙します。
折からの雨で国王側の軍勢は大砲が使えず、ウォリック伯の軍勢の接近を許してしまいました。
さらには今度は国王側の軍勢から寝返る者が出てしまいます。
国王側に勝ち目はなくなりました。
この戦いは「ノーサンプトンの戦い」と呼ばれ、このときもまた国王を守るためにバッキンガム公や多くの高級貴族が戦死してしまいました。
国王はまたしても捕らえられ、精神疾患を発症してしまいます。
この勝利でヨーク公は息を吹き返しました。
彼は意気揚々とロンドンに入場し、ヘンリー6世およびランカスター朝を非合法として自らに王位を要求します。
しかし、さすがにこれはウォリック伯らからも拒否され、王位は認められませんでした。
ヨーク公はそれでもあきらめませんでしたが、妥協案を受け入れてヘンリー6世の王位継承権者となり、護国卿として再任されることになりました。
ヨーク公は再び権力を握ったのです。
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- 2012/10/19(金) 20:57:06|
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長かった英仏間の「百年戦争」もようやく終局を迎え、英国は残念ながら大陸における支配地のほとんどを失ってしまいました。
間の悪いことに、その終局と軌を一にするように国王ヘンリー6世もまた、精神疾患に悩まされてしまいます。
ヘンリー6世は王子の誕生さえも理解できず、苦慮した王妃マーガレットが自らを摂政に任じてほしいと訴えましたが、それもかなわず、貴族院の指名でヨーク公リチャードが護国卿(摂政)に任じられることになります。
護国卿に任命されたヨーク公リチャードは、「百年戦争」では主戦派として行動しており、今回の「百年戦争」の敗退を和平派による軍備と資金面での妨害によるものと考えておりました。
そのため、和平派の中心人物であったサマセット公エドモンド・ボーフォートを激しく憎んでおり、権力を握ったことで彼を投獄してしまいます。
サマセット公ボーフォートはランカスター家の傍流であり、これによってヨーク家とランカスター家の間には容易に修復できない溝ができてしまいました。
護国卿として政務をつかさどっていたヨーク公リチャードでしたが、思わぬことから事態が変わります。
国王ヘンリー6世が精神疾患から回復したのです。
ヘンリー6世は1455年に政務に復帰すると、護国卿であったヨーク公を解任し、投獄されていたサマセット公を宮廷に復帰させました。
ヨーク公自身は王位を手にしようとは思っていなかったと言われますが、王のお気に入りであるサマセット公をこのままにしておいてはヨーク家の崩壊であると感じた彼は、いよいよ王に対して反発を強めます。
事実王妃マーガレットをはじめとする反ヨーク公の党派が構築されており、このままではヨーク公自身の命も危うくなってきていたのでした。
こうしてヨーク公はついに武力を持って国王と対峙するしかないと決意したのです。
1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃、サマセット公以下の一行は、軍勢を率いて公正な審理を求め南下してきたヨーク公の軍勢と対峙します。
このときの兵力はヨーク公側が同盟貴族のウォリック伯の軍勢と合わせて約三千。
それに対する国王側の兵力は約二千でした。
両軍はセント・オールバーンズという町でにらみ合いますが、双方ともまだ話し合いの余地はあると考え、交渉が行なわれます。
しかし交渉は不首尾に終わり、両軍は戦闘状態に。
戦いは序盤は国王側が有利で、狭い路地を進むヨーク公側は手痛い損害を受けました。
しかし、ウォリック伯が手勢を率いて迂回行動をとったことで形勢は逆転。
国王側の軍勢は手薄な箇所を破られて狼狽し、さらにウォリック伯の命で国王の周辺にいる貴族たちに矢の集中射を浴びせたことから国王側の高級貴族に損害が続出。
これによって国王側の総崩れとなりました。
この(第一次)「セント・オールバーンズの戦い」はヨーク公側の勝利に終わり、国王側は国王ヘンリー6世が捕縛された他、サマセット公も戦死すると言う痛手を負いました。
軍勢の損害はそれほどでもなかったのですが、国王が捕らえられサマセット公が戦死すると言うのは政治的には大打撃であり、ヨーク公側にとっては予想以上の大勝利となったのです。
この勝利によってヨーク公は影響力を取り戻しました。
彼は戦傷と精神疾患の再発で執務不能となった国王に代わり再び護国卿に任命され、国王側のノーサンバーランド伯を処刑するなど権力の強化に励みます。
しかし、これもまた長続きしませんでした。
翌1456年、ヘンリー6世はまたまた精神疾患から回復。
政務に復帰すると、ヨーク公を解任します。
これによってヨーク公は宮廷から離れ任地で足場を固めに入り、同盟者のウォリック伯もカレーで力を蓄えることにいたします。
ヘンリー6世は戦死したサマセット公の息子ヘンリー・ボーフォートをサマセット公に取り立て、以前のサマセット公同様に寵臣として重用し、マーガレット王妃もまたランカスター家の力を背景にしたコベントリーに宮廷を移させるなどいたします。
わずか1年で(第一次)「セント・オールバーンズの戦い」で得たものを失ったヨーク公はたまったものではありません。
つぎの戦いが目の前に迫ることになりました。
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- 2012/10/16(火) 21:08:26|
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のちの裁判による証言によれば1412年1月6日に生まれたとされるジャンヌ・ダルクは、1425年に初めて「大天使の声」を聞いたといわれ、その「声」によって包囲下のオルレアンを解放せよと告げられたといいます。
ジャンヌはその声に従い、王太子シャルルの下へ赴き王太子本人と直接に会話をします。
このことが直接の要因となったのかどうかはわかりませんが、それまで百年戦争にあまり乗り気ではなかったといわれる王太子シャルルはオルレアン解放を決意。
フランス軍はオルレアンへと向かいました。
1429年の4月末から5月初旬にかけ、オルレアンの包囲陣に対するフランス軍の攻勢が行なわれたことで、オルレアンの包囲は解かれ、英軍は撤退することになりました。
この戦いでジャンヌ・ダルクは兵士の士気をとても高める役割を果たし、今日においても彼女を救世主や聖女としてあがめる要因となったのです。
王太子シャルルはジャンヌの勧めに応じてランスで戴冠式を挙行。
晴れてフランス王シャルル7世として即位いたします。
しかし、シャルル7世の命でパリ解放に向かったジャンヌ・ダルクはこれに失敗。
1430年にはコンピエーヌの戦いで負傷し、捕虜となってしまい、翌1431年に異端者として火刑に処せられました。
ジャンヌ・ダルクを失ったシャルル七世でしたが、その後もフランスの力の強化に努め、1431年にブルゴーニュ公と休戦、その4年後には英国と同盟を結んでいたブルゴーニュ公はこれを破棄し、新たにフランス-ブルゴーニュ同盟が結ばれました。
これに対し英国王でありフランス王位継承権者であるヘンリー6世は、支配下であったパリでフランス国王の戴冠式を挙行しますが、当然のようにフランス国民がこれを受け入れるはずも無く、事態はじょじょに英国にとって不利になっていきました。
ブルゴーニュとの同盟に成功したシャルル7世は、矢継ぎ早に国内の強化や大陸における英国支配地に対する圧力を強めます。
1445年には常設軍が設置され、訓練・軍役と引き換えに税が免除される徴兵制も施行されました。
英国はここにいたっても足並みがそろわず、宮廷内の権力争いに明け暮れました。
1435年にベッドフォード公が死去し、グロスター公とサフォーク伯やボーフォート枢機卿らが反目。
1445年にサフォーク伯はフランスとの和平を画策してシャルル7世の親類とヘンリー6世の結婚を取り決めますが、この結婚に伴う和平には領地割譲が含まれていたことから英国内では大変に不評な結婚でした。
1447年、サフォーク候へと昇格したサフォーク伯は、和平に反対するグロスター公を反逆罪で逮捕。
五日後にグロスター公は獄中で死亡します。
グロスター公を死に追い込んだことでサフォーク候の立場は悪化の一途をたどりました。
そのためサフォーク候は自らの立場を回復するために、これまでとは一転して百年戦争での勝利を求めます。
そして大陸において攻勢に打って出ますが、すでにフランスは常備軍の設置などで軍備を強化しており、英軍が歯の立つ相手ではなくなっておりました。
英軍は各地でフランス軍に追い立てられ、じょじょに大陸での支配地を失っていきます。
そして1450年、「フォルミニーの戦い」でフランス軍に大敗し、ついにノルマンディー地方を完全に失いました。
このことで公爵にまで登りつめていたサフォーク候はついに失脚。
国外追放を命じられ、その途中で殺害されてしまいます。
このような状態になっても英国内の権力争いは収まりませんでした。
むしろ各地で新興貴族と旧貴族との間の確執が強まり、貴族同士の私闘が繰り広げられるような有り様でした。
英軍にはもはや大陸の支配地を保持する力は無く、アキテーヌ地方の都市ボルドーが1451年に陥落。
翌年に英軍が再度占領するも、1453年の「カスティヨンの戦い」でフランス軍に大敗し、再びボルドーは失われました。
歴史上、このボルドー再陥落で、長きに渡った「英仏百年戦争」は終結したとみなされます。
そして、いよいよ英国内の権力争いが内乱にまで発展することになるのでした。
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- 2012/10/11(木) 21:04:11|
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英国王エドワード3世の死去により、わずか9歳のリチャード2世が王位につきました。
イングランドではそのためランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭にした評議会を設置し、年少のリチャード2世を補佐する態勢を整えます。
ところが、百年戦争に基づく戦費調達等の問題から「ワット・タイラーの乱」をはじめとした民衆反乱が続発し、リチャード2世を悩ませました。
民衆反乱をどうにか抑えたリチャード2世は、評議会を廃して自らが政治を行なおうとしましたが、今度はそのことが寵臣政治とされ、政策そのものもフランス寄りと批判されることになりました。
さらにリチャード2世には子が無く、王位継承の問題も発生します。
親類のマーチ伯モーティマーを王位継承権者に任命したものの、彼は王より先に死去してしまい、かといってマーチ伯の息子であるエドマンド・モーティマーを次ぎの王位継承権者に任命することもしなかったようでした。
こういった相次いだ民衆反乱や寵臣政治、百年戦争等の諸問題はリチャード2世からじょじょに貴族たちの信頼を奪い去ってしまいます。
これに対しリチャード2世は、議会派諸侯のグロスター公やアランデル伯を対仏政策に反対したとして処刑するなどの強攻策を取ってきたことで諸侯との対立は決定的となりました。
そんな折、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去。
リチャード2世はこの機会にランカスター家の勢力を削ってしまおうとしてランカスター公の息子ヘンリーからランカスター家の領地と爵位を没収してしまいます。
(1)でも触れましたが、これは当然ヘンリーにとって受け入れられるはずも無く、ヘンリーはリチャード2世に領地と爵位の返還を要求。
リチャード2世がそれを突っぱねたことから、ヘンリーはリチャード2世に対して反旗を翻しました。
議会派諸侯の支持を失っていたリチャード2世に対し、ヘンリーは多くの貴族の支持を集めることに成功。
ヘンリーは国王の軍勢を打ち破ると、リチャード2世を退位に追い込みます。
これによって百年戦争前半の英国側の主役であったアンジュー・プランタジネット朝が滅亡。
ヘンリーが新たにヘンリー4世として即位したことで、ランカスター朝が始まりました。
1399年のことでした。
この後、ヘンリー4世は前王朝の血筋であるエドマンド・モーティマーを担いだいくつかの反乱も制圧し、英国を安定させることに尽力します。
そして1413年、息子のヘンリー5世に王位を引き継いで死去。
ヘンリー5世は父が国内を安定させてくれたことから対外に目を向け、休止していた百年戦争を再開させました。
1415年、ヘンリー5世は自ら兵を率いて大陸に乗り込み、「アジャンクールの戦い」でフランス軍を撃破。
その勢いを持って1420年にフランスと「トロワ条約」を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランスの王位継承権を認めさせました。
しかし、ヘンリー5世の勢いもここまででした。
1422年、ヘンリー5世は急死。
わずか生後9ヶ月のヘンリー6世が即位します。
同じころフランスでもシャルル5世の後を継いだシャルル6世がこれまた死去し、「トロワ条約」に従えばフランス王位もヘンリー6世が相続するはずでした。
しかし、シャルル6世には王太子シャルルという後継ぎがおり、フランスは王太子シャルルを国王にしようとしてヘンリー6世のフランス王就任に抵抗します。
これに対し英国側は足並みがそろいませんでした。
ヘンリー6世にはベッドフォード公とグロスター公という二人の叔父がいて、年長のベッドフォード公が摂政として政治を行なっておりましたが、その補佐をするグロスター公とサフォーク伯等の有力貴族とが反目しあうようになっていたのです。
それでも英国はフランスのブルゴーニュ公と同盟を結ぶなどして大陸における影響力の拡大を図っていきました。
そしてフランス側の拠点となっている町のひとつオルレアンを制圧するために包囲します。
苦境に陥ったオルレアンの町でしたが、そのとき一人の少女が立ち上がりました。
ジャンヌ・ダルクでした。
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- 2012/10/06(土) 20:59:13|
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ヘンリー・ボリングブロクによって命脈を絶たれてしまったアンジュー・プランタジネット朝でしたが、そもそもこのアンジュー・プランタジネット朝こそが英仏「百年戦争」の発端でした。
アンジュー・プランタジネット朝は、もともとはフランスの北西部に勢力圏を持っていたアンジュー伯が大本でした。
アンジュー伯は同じフランス内のノルマンディー公国やブルターニュ公国、そして場合によってはフランス王国そのものとも勢力争いを繰り広げておりました。
1120年、嫡男を失ったイングランド王ヘンリー1世が自らの姉をアンジュー伯に嫁がせたことで、アンジュー家はイングランドの王位継承権を手に入れます。
そして紆余曲折ののちに、アンジュー伯となったヘンリー1世の姉の息子アンリがヘンリー2世としてイングランド王として即位したことからアンジュー・プランタジネット朝が始まりました。
ちなみにプランタジネットとはエニシダのことで、アンジュー家の家紋として使われていたことからプランタジネット朝と呼ばれるようになったといいます。
イングランドではヘンリー2世、そして大陸ではアンジュー伯アンリとなったことで、アンジュー伯の勢力圏は飛躍的に増大いたしました。
こうして一時は「アンジュー帝国」とも呼ばれるほどの一大勢力となったアンジュー家でしたが、大陸ではフランス王やその他による有形無形の圧力を受け、じょじょに大陸に置ける領土を侵食されてしまいます。
1259年、アンジュー・プランタジネット朝のイングランド王ヘンリー3世はフランス王に臣下の礼をとることでギュイエンヌ地方の領土を安堵してもらうことに成功しますが、その後もフランス王からの干渉はやむことがありませんでした。
1328年、300年以上にわたってフランス王家を継いできたカペー朝がシャルル4世の死によって断絶。
王位はシャルル4世の従兄弟であるヴァロア伯フィリップが継ぐことになりました。
これに対してイングランド王となっていたエドワード3世は自らの血筋(母がシャルル4世の妹)を持ってフランス王の王位継承権を主張。
しかし、この訴えはフランス諸侯が受け入れることなく終わり、ヴァロア伯フィリップがフランス王フィリップ6世として即位。
エドワード3世はギュイエンヌ地方の領主(ギュイエンヌ公)としてフィリップ6世に臣下の礼をとらざるを得ませんでした。
その後、フランドル地方の問題やスコットランドにおける問題などで、フィリップ6世とエドワード3世はことあるごとに対立、両者は険悪な状況になっていきます。
1337年、ローマ教皇の仲介もむなしく、エドワード3世とフィリップ6世の対立は収まらず、ついにフィリップ6世はギュイエンヌ地方の没収を宣言。
これに対しエドワード3世はフィリップ6世を偽のフランス王であるとしてフィリップ6世に対する臣下の礼の撤回と自らのフランス王就任を宣言。
これによって両者の間に戦端が開かれました。
世に言う「百年戦争」の始まりでした。
「百年戦争」は、序盤は英国側の有利に戦いが展開しました。
1346年の「クレシーの戦い」でフランス軍は大敗を喫し、1350年には発端となったフランス王フィリップ6世が死去。
後を継いだジャン2世も1356年の「ポワティエの戦い」で英国軍に敗北し、ジャン2世自身が英軍の捕虜となってしまう有り様でした。
ジャン2世はその後の和平交渉でフランス側が身代金を払うことが成立し解放されました。
しかし、彼の代わりとなった人質が逃亡するという事態が起こったため、ジャン2世はわざわざ再度英国の捕虜となりに出向き、そしてそのままロンドンで死去いたします。
ジャン2世の死でフランス王は息子シャルルがシャルル5世として即位。
シャルル5世は戦費負担のために今までの直轄領からの収入だけに頼るのではなく、税金を徴収することでまかなおうと税制改革を行ないます。
このことからシャルル5世は「税金の父」とも呼ばれるそうです。
シャルル5世は外交にも力を入れ、政略結婚でフランドルを押さえ、ブルターニュの動きを封じることにも成功します。
1376年、イングランド軍の中核として力を振るったエドワード黒太子が、翌1377年にはエドワード3世がそれぞれ死去すると、英国とフランスは和平へ向けて動き出しました。
さらに1380年にはシャルル5世も死去し、戦争そのものは休戦状態となりましたが、和平条約まではなかなかこぎつけることができませんでした。
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- 2012/09/27(木) 21:03:38|
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1453年、116年間にわたって続いた英仏間の戦争状態、いわゆる「百年戦争」が集結しました。
フランスは一応国王の元に一つとなり、英国、と言ってもまだスコットランドとは合邦していないのでイングランドとウェールズですが、こちらはカレー以外の大陸における領地をほぼ失ってしまうという痛手を受けました。
この結果、英国では大陸の領土を失った国王ヘンリー6世の権威が大きく低下。
諸侯からの信頼を失ってしまいました。
加えてヘンリー6世は精神疾患を発症し、側近のランカスター公一派に代わってヨーク公リチャードが台頭。
ヨーク公はヘンリー6世の排除を画策しますが、ヘンリー6世が病気から回復したことでランカスター家の反撃が始まりました。
これによって次第に追い詰められる形になったヨーク公はついに武力行使に踏み切ります。
こうして1455年にはじまったのが、英国の内戦として名高い「薔薇戦争」でした。
「薔薇戦争」の呼び名は、主として戦った二大公家ランカスター公家とヨーク公家の家紋が赤薔薇(ランカスター家)と白薔薇(ヨーク家)であったことから名付けられたといわれておりますが、これは後世の小説からとられたものであり、ヨーク家はともかくランカスター家が赤薔薇の紋章を使ったのは戦争最末期であったともまったく使ったことがなかったとも言われております。
ともかくこうして英国では32年間に及ぶ泥沼の内戦が始まったのでした。
と、言うことで、今回から数回で「薔薇戦争」について書いてみたいと思います。
しばらくの間お付き合いいただければありがたいです。
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「百年戦争」終結よりさかのぼること約100年。
まさに「百年戦争」の序盤において、「クレシーの戦い」(1346年)および「ポワティエの戦い」(1356年)でフランス軍を打ち破ったのが、英国王エドワード3世でした。
このエドワード3世の二人の子供、ジョンとエドマンドがランカスター公家とヨーク公家の始まりとなります。
ランカスター家は十三世紀にはすでに伯爵家として存在しておりましたが、その女子相続人にジョンが婚姻を結んだことで王家とつながりができ、公爵家へと格上げされました。
一方のヨーク家は、エドマンドを初代当主として立てられ、最初から公爵家として存在する家でした。
両家はその後複数の貴族諸侯との婚姻を繰り返して所領を広げ、その広さは王室領の三分の一にも匹敵するような広大な領地を手にするようになっていったのでした。
エドワード3世の死後、リチャード2世が王位を継ぎますが、残念なことにリチャード2世には子ができませんでした。
そのため親類のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承権者に任命します。
しかし、ロジャーはリチャード2世より先に死去してしまい、子供のエドマンド・モーティマーが残されたものの、王位継承者とはされなかったようでした。
リチャード2世は英国王として「百年戦争」を指導しますが、エドワード3世とは違いフランスに対して苦戦を強いられました。
そのため英国内ではワット・タイラーの乱など民衆の反乱が相次ぎ、国王の権威は低下し、多くの貴族はリチャード2世に対し失望を禁じえませんでした。
1399年、ランカスター公家の当主でリチャード2世の叔父であるジョンが死去すると、リチャード2世は広大なランカスター家の所領を没収しようとしてジョンの息子であるヘンリー・ボリングブロクを国外追放にいたしました。
当然これはヘンリーにとって受け入れられる話ではなく、ヘンリーはランカスター公位と領地の返還を求めますが、リチャード2世に受け入れてもらえないとわかると、ついに国王に対して挙兵を行ないます。
リチャード2世に失望していた多くの貴族はこの事態にヘンリーを支持。
リチャード2世の軍はヘンリーの軍に敗れ、退位を余儀なくされました。
こうしてリチャード2世は幽閉となり、新国王を選ぶことになりましたが、ここで新王となったのはリチャード2世の血筋のエドマンド・モーティマーではなく、ヘンリー・ボリングブロクでした。
ヘンリー・ボリングブロクはヘンリー4世として即位し、ここにアンジュー・プランタジネット朝は途絶え、ランカスター朝が始まります。
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- 2012/09/25(火) 21:21:19|
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