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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

普墺戦争(17)

「ケーニヒグレーツの戦い」で敗北したオーストリア軍でしたが、まだまだ戦う力は充分に残っておりました。
大きな痛手をこうむったとはいえ、イタリア方面に回した兵力をシフトするなど行えば、まだまだ兵力も数をそろえることができたのです。

事実オーストリアはイタリア方面に回されていたアルブレヒト大公の兵力約十五万のうち、半数を引き抜いて首都ウィーンの防備に回します。
イタリア方面に残されたのは野戦軍一個軍団と、各地の守備隊兵力合わせて七万七千ほどに過ぎませんでした。

このようにまだ戦う力を持っていたオーストリア軍でしたが、政府と軍上層部はすでにやる気を失ってしまっておりました。
戦争継続の意思を失ってしまっていたのです。
「リッサ海戦」での勝利もさほど意味はなく、もはやプロイセンに対しどの時点で和議を結ぶかということのみでした。

一方「ケーニヒグレーツの戦い」で勝利を収めたプロイセンでしたが、こちらもまた内部で意見が分かれておりました。
このまま軍をオーストリアの首都ウィーンに進め、ウィーンを陥落させるべきと主張する参謀総長モルトケに対し、もはやオーストリアとの戦いは勝利したのだから、このまま和議を結ぶべきと主張する国王ヴィルヘルム一世が対立していたのです。
オーストリア軍を叩き潰して後顧の憂いを断ちたい軍と、政治的な思惑からオーストリアに恩を売っておきたい政府の立場の違いでした。

このとき、すでにヴィルヘルム一世とビスマルクの目はオーストリアから離れてしまっておりました。
もはやオーストリアはドイツ統一の妨げになることはないでしょう。
ドイツはプロイセンを中心とした「小ドイツ主義」で統一するのです。
その妨げとなるのはすでにオーストリアではなくフランスでした。
プロイセンはドイツ統一のためにはおそらくフランスと戦わなくてはなりません。
そのためには対フランス戦時にオーストリアに中立を守ってもらわなくてはならないのです。
ここで首都ウィーンを攻撃せずに和議を結べば、オーストリアが恩義に感じるであろうとヴィルヘルム一世とビスマルクは考えたのでした。

それに「ケーニヒグレーツの戦い」でのプロイセンの一方的勝利に驚いたフランスのナポレオン三世が、早速両国間の和議に関して仲裁を行いたいと申し出てきておりました。
これを無視することでフランスの余計な介入を招いてしまうのは得策ではありません。
国王とビスマルクはモルトケを説得し、プロイセン軍のウィーン侵攻は中止されました。

イタリア方面のオーストリア軍の撤収でイタリア軍は勢いを盛り返しました。
イタリア軍は7月7日から再度ヴェネツィア方面へと軍を進めます。
すでに兵力を引き抜かれていたオーストリア軍にはこれを押しとどめることはできず、イタリア軍は快調に軍を進めることができました。

フランス政府の仲裁でオーストリア政府とプロイセン政府の間で幾度かのやり取りがあった後、7月下旬には休戦が成立。
イタリアもこれに同調しイタリア方面でも休戦が成立します。
わずか七週間ほどの戦争期間であったため、「普墺戦争」は別名「七週間戦争」とも呼ばれます。

翌月1866年8月23日、「普墺戦争」の終戦条約である「プラハ条約」が結ばれました。
これにより、オーストリアを含んだ諸邦連邦であった「ドイツ連邦」の解体と今後のドイツ統一に対するオーストリアの不干渉が定められます。
さらに戦争勃発のきっかけであったシュレスヴィヒ州とホルシュタイン州の両州ともがプロイセンに帰属すること、ハノーファー、ヘッセン、ナッサウ、フランクフルトも同様にプロイセンに帰属すること、ヴェネツィアがイタリアに帰属すること、オーストリアが賠償金を払うことなどが定められました。

この条約はオーストリア側にとっては本土の領土を割譲させられたわけではなく、極めて寛大ともいえる内容でした。
これはすでに述べたようにオーストリアに恨みを買うことなく対仏戦を行うことを考えていたプロイセン側の思惑であり、もはや次なる戦争への準備にほかなりませんでした。

事実この条約を結ぶ前段階において、フランス皇帝ナポレオン三世はプロイセン側に歩み寄った姿勢を取りつつも、プロイセンに対し仲裁の見返りとしての領土割譲を要求してきており、ドイツ統一の障害となってきていたのです。
これに対しビスマルクは敢然と跳ね除け国民の信望を高めました。
一方ナポレオン三世は面子をつぶされ、フランス国民から失望されてしまうのでした。


「普墺戦争」は終わりました。
オーストリアはプロイセンの覇権を認めざるを得ず、ドイツ統一への影響力を失いました。
プロイセンは「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクの主張どおりに鉄と血でもってドイツ統一をまた一歩推し進めることができました。
プロイセンの参謀本部もその能力を見せ付け、参謀総長モルトケもその名を高めました。

そして・・・
ドイツ統一に対する最後で最大の障害、ライン河以東に影響力を及ぼそうと画策するフランス第二帝政に対するプロイセンの挑戦が始まります。
プロイセンとフランスの直接対決である「普仏戦争」は、これからわずか四年後のことでした。


普墺戦争 終

                    ******

参考文献
「普墺戦争」 歴史群像2002年2月号 学研
「リッサ沖海戦」 歴史群像2005年10月号 学研
「普仏戦争」 歴史群像2001年8月号 学研
「リッサ海戦」 シミュレイター誌リニューアル2号 翔企画
ほか

参考サイト
「Wikipedia 普墺戦争」
「Wikipedia 1848年革命」
「Wikipedia オットー・フォン・ビスマルク」
「Wikipedia ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」
「Wikipedia リッサ海戦」
等々その他Wikipedia記事
「普墺戦争 イタリア戦線」
「オーストリアとプロイセン」
ほか

今回もお付き合いくださいましてありがとうございました。
今回もまた予想以上に長くなってしまいました。
各種資料本からのまとめに過ぎませんが、多少なりとも「普墺戦争」というものに興味を持っていただけましたなら幸いです。
  1. 2011/12/20(火) 21:17:35|
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普墺戦争(16)

オーストリア装甲艦「フェルナンド・マックス」の衝角により、イタリア装甲艦「レ・デ・イタリア」は沈められました。
しかし、オーストリア戦列艦「カイザー」によるイタリア装甲艦「レ・デ・ポルトガロ」への衝角攻撃は失敗し、むしろ「カイザー」のほうが損傷を受けてしまいました。

体当たりの衝撃と砲撃で損傷した「カイザー」に対し、イタリア側も装甲艦「アフォンダトーレ」が何度か衝角攻撃を試みましたが、やはり非装甲艦とはいえ足の止まっていない敵艦への衝角攻撃はうまく行かず、結局「カイザー」はその場を脱出することに成功します。

お昼12時過ぎになり、両艦隊はいったん戦列を立て直すために南北に分かれます。
これが事実上の「リッサ海戦」の終了でした。

オーストリア・イタリア両艦隊はこれ以後もしばらくにらみ合いを続けますが、14時30分ごろに海戦で砲撃を受け炎上していたイタリア装甲艦「パレストロ」がついに火薬庫に引火して爆発。
「パレストロ」は海の底へと沈んでいきました。

イタリア艦隊司令官のペリオン提督はもはや戦闘を続ける気はありませんでした。
麾下のイタリア艦隊はすでに残弾も燃料も乏しく、装甲艦も二隻沈められてしまっておりました。

オーストリア艦隊司令官のテゲトフ提督も以後の戦闘をためらっておりました。
二隻のイタリア装甲艦を沈めたとはいえ、敵はまだ装甲艦九隻を持っているのです。
必殺のはずの衝角攻撃がほとんど当たらないというのも想定外のことでした。

結局両艦隊は日没とともに引き上げ始めました。
イタリア艦隊はリッサ島上陸をあきらめてアンコナ港へ向かい、オーストリア艦隊もそれを見送ったあとでポーラ港へと帰還しました。
「リッサ海戦」の終了でした。

イタリア艦隊は海戦で「レ・デ・イタリア」「パレストロ」の二隻を失い、六百名以上の戦死者を出しました。
それに対しオーストリア艦隊は一隻も失わず、戦死者も四十名ほどと少ないものでした。
海戦はどう見てもオーストリア側の勝利でした。

アンコナ港に帰還したイタリア艦隊でしたが、ここで更なる悲運に見舞われます。
ペリオン提督の旗艦を務めた新鋭装甲艦「アフォンダトーレ」が、荒天によって転覆沈没してしまったのです。
これは海戦での損傷も原因だったといわれます。
(ただ、「アフォンダトーレ」の近代化改装後の写真が残っているので、のちに引き揚げられたものと思われます)

この海戦の勝利で、オーストリア艦隊の指揮官テゲトフ提督は名声を確固たるものにいたしました。
普墺戦争後、彼はマリア・テレジア勲章を受章し、中将へと昇進します。
さらに軍事省海軍部長にも就任し、オーストリア海軍の改革と発展に努めました。
しかし、この海戦からわずか五年後の1871年、肺炎のため急死いたします。
43歳という若さでした。

一方イタリア艦隊司令官ペルサーノ伯カルロ・ペリオン提督は、自己保身のために海戦は勝利したという捏造まで行ったといいます。
しかしそのような捏造が通じるはずもなく、司令官を罷免された後査問委員会で怠慢と無能を理由に大将の階級を剥奪されたといいます。
また、ペリオン提督の命令を無視して戦闘に参加しなかった非装甲艦部隊の指揮官アルビーニ提督も司令官職を罷免されました。


「リッサ海戦」は終わりました。
ただ、この海戦が「普墺戦争」にもたらした影響はほとんどありませんでした。
勝利したとはいえオーストリア海軍はアドリア海の制海権を奪うことはできず、アドリア海はなおイタリア海軍が優勢でありました。
しかし、イタリアにとっても目的であったヴェネツィアを奪い取ることにこの海戦は何の益ももたらしませんでした。

この海戦は、非装甲艦の時代が完全に終焉したことを告げるものでした。
双方の装甲艦で大砲によって装甲を撃ちぬかれた艦は一隻もありませんでしたが、非装甲艦は大きな損傷を受けました。
非装甲艦では装甲艦に勝つことはできないとはっきりしたのです。

また、装甲艦に対する衝角戦闘の威力を見せ付けた海戦でもありました。
「フェルナンド・マックス」の衝角は「レ・デ・イタリア」の舷側を貫き、撃沈せしめたのです。
これ以後、各国の軍艦は衝角戦闘こそが装甲艦を撃沈する手段だと考えるようになりました。

ですが、自由に動く艦艇に衝角を当てることが至難の業だということもまたこの海戦で明らかになりました。
「レ・デ・イタリア」に対する衝角攻撃は、相手が停止していたから命中したに過ぎません。
以後動力が発達するにつれ艦艇の速力も上がってくると、衝角を当てることはますます困難になっていきました。

そしてついに、1894年の「日清戦争」における「黄海海戦」において、衝角攻撃を行おうとした清国艦隊に対し、日本艦隊は砲撃をもってこれを撃破したことで、衝角戦闘がもはや通用しないことがはっきりしてしまいます。
以後、海戦において衝角戦闘が行われることはなくなりました。
「リッサ海戦」は、装甲艦による衝角戦闘というものの、ほんの一瞬の輝きだったのでした。

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  1. 2011/12/16(金) 21:11:27|
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普墺戦争(15)

三段の後翼単梯陣を組んで突撃してくるテゲトフ提督のオーストリア艦隊に対し、散開隊形からようやく単縦陣を組み始めていたペリオン提督指揮するイタリア艦隊でしたが、ここで世界の海戦史上にも例を見ない奇妙な出来事が起こります。

イタリア艦隊旗艦「レ・デ・イタリア」に座乗していた艦隊司令官のペリオン提督が、なんとこの戦闘直前になって艦を降りてしまったのです。
そして提督はなんとまだ列外にあった装甲艦「アフォンダトーレ」へと移乗してしまいました。
海戦直前のこのときに旗艦が変更されるなど前代未聞の出来事です。

このペリオン提督の行動はいったい何を考えたものかよくわかりません。
一説には新鋭艦でお気に入りだった「アフォンダトーレ」に乗りたかったからだというものもありますが、それにしてもこの時点での移乗は考えられません。

案の定この旗艦変更はイタリア艦隊を混乱に陥れてしまいます。
提督の移乗のために停止した「レ・デ・イタリア」およびそれ以後の五隻の艦と、「レ・デ・イタリア」より前にいた三隻の艦との間に大きな間隙ができてしまい、一本の単縦陣が二本に分かれてしまったのです。
さらに旗艦が変更されたことも各艦の艦長には伝えられておらず、ほとんどの艦の艦長はいまだ「レ・デ・イタリア」が旗艦だと思い込んでおりました。
レ・デ・イタリア (イタリア装甲艦「レ・デ・イタリア」)

このイタリア艦隊の混乱を見逃すテゲトフではありませんでした。
彼は麾下の七隻の装甲艦をイタリア艦隊の前列と後列の間に割り込ませ、前列の後尾に砲撃を加えつつ後列の側面に回りこみました。
第二陣以降のオーストリア艦隊は第一陣の援護に回ります。

こうしてイタリア艦隊は列外の「アフォンダトーレ」を含めて九隻の装甲艦が戦闘態勢に入ったにもかかわらず、前列の三隻は大きく飛び出してしまって離れてしまい、後列の五隻も後ろ二隻がオーストリア艦隊の第二陣以後に拘束され、後列の前半分と列外の「アフォンダトーレ」の計四隻のみがオーストリア艦隊の装甲艦七隻と戦うはめになっってしまいました。
つまりイタリア艦隊の数の優位が一瞬にして消えてしまったのです。

混戦となった海上には双方の砲煙が漂い、視界は急速に悪化します。
テゲトフ提督はイタリアの軍艦が灰色、オーストリアの軍艦が黒色に塗られていることに目をつけ、「灰色の艦を(衝角で)突き沈めよ」と命じますが、蒸気機関で自由に動ける装甲艦は、ぶつける側以上に回避する側も自由に動けるためになかなか艦首をぶつけることができません。
これは衝角戦術の大きな誤算でした。

逆にものを言ったのは火力のほうでした。
イタリア艦隊の後列の前半分にいた「レ・デ・イタリア」、「パレストロ」、「サン・マルティーノ」の三隻はオーストリア装甲艦によって半ば包囲される形となり集中砲火を受けてしまいます。
これによって「パレストロ」は大火災を起こし戦列を離脱。
かつてのイタリア艦隊の旗艦「レ・デ・イタリア」も砲撃を受けて操舵装置に損傷が発生、航行不能に陥りました。

旗艦を変更したペリオン提督は再三にわたって「アフォンダトーレ」のマストに信号旗を掲げ、艦隊に指示を下そうとしましたが、混戦の中ではどの艦も気がつきません。
艦長たちの目は旗艦であると思われていた「レ・デ・イタリア」に向けられているのですから当然です。

これはオーストリア側も同様で、テゲトフ提督はイタリア艦隊の旗艦と思っていた「レ・デ・イタリア」が操舵機の損傷で停止したのをチャンスと見て、座乗する「フェルナンド・マックス」に衝角攻撃を命じます。
航行不能になっていた「レ・デ・イタリア」にはこれを回避することはできず、ついに「フェルナンド・マックス」の衝角が「レ・デ・イタリア」の横腹を突き破ります。
フェルナンド・マックス (オーストリア装甲艦「フェルナンドマックス」)

横腹に大穴を開けられ、これが致命傷となった「レ・デ・イタリア」は転覆。
ついに沈没してしまいます。
この海戦での最初の沈没艦となりました。

一方イタリア艦隊の後列後尾の二隻の装甲艦を相手にしていたオーストリア艦隊第二陣ですが、さすがに非装甲艦対装甲艦では分が悪く、イタリア装甲艦に損害を与えることはできておりませんでした。
そこで第二陣の指揮官ペッツ代将は、第二陣の旗艦である木造戦列艦「カイザー」による衝角攻撃を敢行。
イタリア装甲艦「レ・デ・ポルトガロ」に艦首をぶつけます。
「レ・デ・ポルトガロ」に突っ込んだ「カイザー」 (「レ・デ・ポルトガロ」に突っ込んだ「カイザー」)

しかし、木造である「カイザー」の衝角は「レ・デ・ポルトガロ」の舷側を貫くことはできず、逆に衝突の衝撃で「カイザー」のほうが艦首を損傷してしまいました。
「レ・デ・ポルトガロ」はこのチャンスに「カイザー」を砲撃。
さらにペリオン提督の「アフォンダトーレ」までもが砲撃を仕掛けてきたために「カイザー」は急遽離脱を余儀なくされ、損傷を受けながらもかろうじて脱出に成功いたしました。

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  1. 2011/12/14(水) 21:14:07|
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普墺戦争(14)

1866年7月16日、イタリア海軍のペルサーノ伯ペリオン提督は旗艦「レ・デ・イタリア」をはじめとする十一隻の装甲艦と十四隻の非装甲艦、それに陸軍と陸戦隊1500名を載せた輸送艦を伴いリッサ島へと向かいました。

イタリア艦隊は7月18日にはリッサ島に対する砲撃を開始。
これに対し、リッサ島守備隊はすぐさま砲台で応戦するとともに、オーストリア本国にイタリア艦隊の出現を通報いたしました。
このとき、すでにリッサ島と本土の間には海底ケーブルがつなげられ、電信で本土と通信できるようになっていたのです。

イタリア艦隊は装甲艦ばかりではなく非装甲艦も砲撃に加わらせましたが、守備隊の砲撃にすぐさま損傷してしまったため、翌19日は装甲艦だけで砲撃を行います。

この日にはペリオン提督待望の装甲艦「アフォンダトーレ」もリッサ島沖に到着し、イタリア艦隊の装甲艦は十二隻となりました。
アフォンダトーレ
(イタリア装甲艦アフォンダトーレ)
この新鋭艦「アフォンダトーレ」は、ほかの装甲艦が舷側砲門タイプだったのに比べ、23センチ砲を砲塔形式で前後に搭載するという近代の戦艦に通じる強力な装甲艦でしたが、ペリオン提督が期待していたのはむしろこの艦の砲撃力よりも、艦首に装備されていた衝角(ラム)でした。

この時代、装甲と砲の貫徹力の勝負は装甲側が有利な時代でした。
船体を装甲で覆った装甲艦に対し、艦載砲の貫徹力は装甲を撃ち抜くには不足し、少々の距離では砲を撃っても装甲を射抜くことができなかったのです。

そのため各国の海軍は古代ガレー船のように艦首部分に衝角(ラム)というものを取り付け、艦首を敵艦の横腹にぶつけることで穴を開け沈めるという方法をまた取り入れようとしておりました。
帆船とは違い蒸気機関で自由に動ける装甲艦は、相手に対する体当たりもまたしやすいと考えられたのです。
「アフォンダトーレ」もまた強力な衝角を持った装甲艦でしたので、ペリオン提督はこの衝角を持って相手を沈めようと考えていたのでした。

18日と19日のイタリア艦隊の砲撃により、リッサ島守備隊の砲台は大きな損害を受けました。
しかし、イタリア艦隊の方も砲弾が残り少なくなったうえ、装甲艦の一隻がたまたま砲門より飛び込んできた砲弾で損傷してしまうという損害を受けて勝手に帰還してしまっておりました。

7月20日、いよいよリッサ島に陸兵を送り込もうとした矢先、イタリア艦隊は北西から接近してくる艦影を認めます。
リッサ島救援に現れたテゲトフ提督指揮するオーストリア艦隊でした。
オーストリア艦隊はリッサ島沖にイタリア艦隊が出現したという報告を受けると、19日にはポーラ港から出撃して来ていたのです。

テゲトフ提督の指揮下には、旗艦「フェルナンド・マックス」以下装甲艦七隻と非装甲艦二十隻がありました。
彼はそれを三つに分け、第一陣は自ら指揮する装甲艦七隻、第二陣は非装甲戦列艦「カイザー」以下七隻、第三陣は中小の非装甲艦十三隻の三段の後翼単梯陣(旗艦を中心に左右に傘のように広がるいわゆる逆V字型の陣形)を組み、イタリア艦隊へと突進していきました。

テゲトフは麾下の艦隊がイタリア艦隊に比べて劣勢であることを承知しておりました。
しかし、機動力によって先手を取ることで劣勢を補おうとしたのです。

これに対しイタリア艦隊は装甲艦十一隻、非装甲艦十四隻を擁しておりましたが、上陸部隊を支援するために広く散開してしまっておりました。
ペリオン提督はとりあえず装甲艦を集結させ単縦陣(先頭艦から一列に並ぶ陣形)を組もうとしましたが、どうにか陣を組めたのは八隻しかおらず、「アフォンダトーレ」はまだ列外にあり、残り二隻の装甲艦は離れすぎていて陣に加わることができませんでした。
また、非装甲艦部隊を指揮していたアルビーニ提督はペリオン提督の命令を無視して戦闘に参加しようとはしませんでした。

1866年7月20日午前10時35分ごろ、テゲトフ提督座乗のオーストリア艦隊旗艦「フェルナンド・マックス」のマストに信号旗が上がります。
「装甲艦は衝角を持って敵を撃沈すべし」
テゲトフ提督もまた、砲撃ではなく衝角によって敵艦を沈めることを命じたのでした。

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  1. 2011/12/12(月) 21:12:36|
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普墺戦争(13)

プロイセンに同調し、ヴェネツィア地方獲得のためにわざわざオーストリア帝国に宣戦布告したイタリア王国でしたが、「クストッツァの戦い」において一敗地に塗れてしまいました。

これはオーストリア軍側司令官アルブレヒト大公による積極果敢な行動も大きく影響しておりましたが、イタリア側もまだ統一後わずか五年しか経っておらず、イタリア国内各地の旧各国軍の統一的運用も未熟で将兵に対する扱いの格差など問題点も山積していたことも見逃せない事実でした。

特にかつては南イタリア地方で権勢を誇っていた旧ナポリ王国の兵士たちは、イタリアを統一したのがサルディニア王国だったからといって、当時は辺境の島国であったサルディニアの指揮官たちに従わなくてはならないなどということは屈辱以外の何者でもなかったのです。
そのため彼らは往々にして陸軍内で反抗を繰り返し、イタリア陸軍の戦闘力を減じてしまっていたのでした。

イタリア軍は「クストッツァの戦い」後オーストリア軍が追撃してこなかったことから、何とか体勢を立て直して再度の侵攻を試みようとします。
一方イタリア軍は地中海に有力な艦隊を持っていたこともあり、海軍力を持って陸軍の支援を行おうと考えました。

当時、欧州では海上戦闘艦に大きな変革が訪れてきておりました。
産業革命により蒸気機関や製鉄などの分野が発達したことで、海上戦闘艦のスタイルも大きく変わってきていたのです。

1860年にはフランスで船体に装甲を施した装甲艦「ラ・グロアール」が竣工。
翌1861年にはいまも英国で記念艦として保存されている装甲艦「ウォーリア」が竣工するという具合に、海上戦闘艦はかつての木造帆船である戦列艦から、蒸気機関を備え装甲を張り巡らせた装甲艦へと変わってきていたのでした。

「普墺戦争」開戦時、イタリア王国には大小十二隻の装甲艦があり、非装甲の艦も大小合わせて二十二隻を擁しておりました。
これに対しオーストリア帝国には大小七隻の装甲艦しかなく、非装甲の艦も二十隻とイタリア海軍より劣勢でした。
しかも戦闘力の要である艦載砲も新型の後装式(大砲の後ろ側から弾を込める)の大砲をイタリア海軍の艦は装備していたのに対し、オーストリア海軍の艦載砲は大部分が前装式(前から弾を込める)大砲だったため、命中精度と発射速度両面でイタリア海軍に後れを取っていたのです。

イタリアとしてはこの海軍力の優位を生かそうと考えました。
そこで「クストッツァの戦い」以前より、イタリア海軍に対してオーストリア海軍への攻撃を命じておりましたが、イタリア艦隊の司令長官ペルサーノ伯カルロ・ぺリオン提督は60歳になる老提督であり第一線指揮官よりも政治家というほうがふさわしいような人物であったためはなはだ戦意が低く、イタリア艦隊をアンコナ近海で訓練に明け暮れさせるだけという有様でした。

一方戦力的には劣勢のオーストリア海軍でしたが、その指揮官にはヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督が就任しておりました。
彼はまだ38歳という若き指揮官であり、しかも「第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争」でデンマーク海軍とも戦ったことのある有能な人物で部下たちの信望も厚い人物でした。

テゲトフは自艦隊が劣勢であるにもかかわらず艦隊を率いて出撃し、1866年6月27日にイタリア艦隊のいるアンコナ沖に現れます。
イタリア艦隊は突然のオーストリア艦隊の出現にあわてて出港準備を行いますが、機関故障を起こす艦や戦闘準備の整わない艦、果ては火災事故まで起こす艦が現れる始末でした。

それでもイタリア艦隊司令官ペリオンは麾下の装甲艦四隻を率いてアンコナ港外へ出撃します。
しかし、彼はアンコナ港の砲台の援護射撃が届く範囲から出ようとはせず、洋上で作戦会議を行うなどしているうちにテゲトフのオーストリア艦隊は悠然と引き上げてしまいます。
このペリオンの態度は艦隊の下級兵士からイタリア政府にいたるまでがっかりさせたことは間違いありませんでした。

「クストッツァの戦い」で陸軍が敗退し、アンコナ港外では海軍も消極的な態度に終始したイタリア軍でしたが、7月3日に「ケーニヒグレーツの戦い」においてオーストリア軍がプロイセン軍に大敗したという報告がもたらされました。
このため、遠からずプロイセン軍がオーストリア帝国の首都ウィーンに進撃するものと考えたイタリア政府は、戦争が終結する前に何らかの戦果を上げる必要に迫られます。

イタリア政府は陸軍に再度のヴェネツィア地方への侵攻を命じるとともに、海軍に対してもアドリア海の対岸にあるオーストリア領ダルマティアのリッサ島にある要塞を攻略し、救援に駆けつけてくるであろうオーストリア艦隊を撃破するよう強く命じます。

おりしもイタリア艦隊には英国に発注していた装甲艦「アフォンダトーレ」が到着し、この装甲艦の到着してないことを口実に出撃を引き伸ばしていたペリオンもついに出撃せざるを得なくなりました。
装甲艦同士の海戦として名高い「リッサ海戦」が、今始まろうとしておりました。

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  1. 2011/12/09(金) 21:08:55|
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普墺戦争(12)

のちに「ケーニヒグレーツの戦い」と呼ばれることになるプロイセンとオーストリアの会戦に向け、プロイセン軍は着々と戦力を集中させておりました。
そしてこの戦いを前線で指揮するべく、プロイセン国王ヴィルヘルム一世、首相のビスマルク、参謀総長のモルトケと言った首脳陣もベルリンを離れ前線へと駆けつけておりました。

1866年6月30日、モルトケは各軍に指示を発し、第一軍はケーニヒグレーツへ前進、第二軍はそのままエルベ河左岸を確保しつつ前進、エルベ軍はオーストリア軍を左翼から包囲するよう前進することを命じました。
プロイセン各軍は直ちにこれに呼応し、今回も分進合撃の態勢を整えます。

7月1日、プロイセン軍はオーストリア軍に対する攻撃準備を開始。
翌2日を兵たちの休養に充て3日に敵陣を偵察、4日に攻撃を開始すると言うタイムテーブルをたてておりました。

しかし、2日にオーストリア軍の様子を確認したところ、いまだオーストリア軍は陣地で防備を固めていないことが判明。
第二軍がこの時点ではまだ40km.以上離れた位置にいたものの、防備を固められる前に攻撃を行うことに決定し、翌3日に攻撃を行うこととなりました。

1866年7月3日早朝、オーストリア軍に対するプロイセン軍の攻撃が始まりました。
このときまずプロイセン軍はオーストリア軍の正面に位置するスェープの森を早期に確保し、オーストリア軍を圧迫します。
これに対しオーストリア軍もスェープの森に戦力を集中し、これを奪回しようと試みました。

この普墺戦争においてはプロイセン軍とオーストリア軍の間には装備の質の差が結構影響をもたらしておりました。
プロイセン軍はその兵の主要装備として後ろから弾を込める当時新式の後装銃を装備しておりました。
これは今でも狩猟用の銃等では一般的なものであり、いちいち銃を立てて前から弾を込める必要がないため発射速度も速く、また兵士が伏せたまま射撃を行うことができるというものでした。
これに対しオーストリア軍はまだ銃口から弾を込める前装銃を装備しており、発射速度や射撃姿勢などの面でかなりの不利を受けていたのです。
またプロイセン軍は銃と同じく後装式の砲も多く装備しており、こちらもまた射撃速度の面などでオーストリア軍を圧倒しておりました。

当時のオーストリア軍は後装銃は弾を無駄遣いするだけだと考え、むしろ銃剣突撃を重視して白兵戦により相手を圧倒するという思想であったことから、この普墺戦争中常に多くの損害をこうむってきておりました。
それはこの「ケーニヒグレーツの戦い」でも同様で、スェープの森に対するオーストリア軍の攻撃は多くの損害を出すことになりました。

しかし、兵力を集中したオーストリア軍の攻撃はプロイセン軍をたじろがせ、スェープの森はオーストリア軍が奪回します。
プロイセン軍の攻撃に対しても砲の火力を集中して撃退し、エルベ軍からの側面攻撃にも持ちこたえておりました。

午前中はこのようにややオーストリア軍が優勢に戦闘を進め、プロイセン国王ヴィルヘルム一世も戦闘の先行きに不安を感じたといいます。
しかし、プロイセン軍にはいまだ戦場に到達していない無傷の第二軍がおり、この第二軍が到着すれば戦況は変わると思われました。

はたしてお昼近くにプロイセン軍の第二軍が戦場に到着すると、三方から囲まれる形となったオーストリア軍には勝機はなくなってしまいました。
オーストリア軍はその後も激戦を続けて粘りましたが、夕方にはついに戦場から後退せざるを得ませんでした。

オーストリア軍はやむなくケーニヒグレーツの要塞に立てこもろうとしましたが、なんと要塞指揮官がこれを拒否してしまいます。
要塞指揮官はプロイセン軍が追撃してくることで要塞が混乱に巻き込まれると考え、味方の収容を断ったのです。
オーストリア軍はさらに後退を続けるしかありませんでした。

一方戦場に残って勝者となったプロイセン軍にもこの戦いによる疲弊は激しく、追撃を行うことはできませんでした。
プロイセン軍はこの「ケーニヒグレーツの戦い」で九千という損害を出したのです。
ですが、敗者となったオーストリア軍が受けた損害は死傷者四万四千名という大きなものでした。
ただ、まだ完膚なきまでに敗れたわけではありませんでした。

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  1. 2011/12/06(火) 21:05:48|
  2. 普墺戦争
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普墺戦争(11)

1866年6月22日、アルブレヒト大公はイタリア軍第二兵団約八万に対しわずか歩兵1個大隊および騎兵4個中隊だけを残して、全野戦部隊を率いてイタリア軍第一兵団を撃破するべく行動を開始しました。

このときイタリア軍側はまさか兵力の少ないオーストリア軍が打って出てくるとは思わずに油断していたうえ、長期の行軍に備えるために重い装備を背負って行動しておりました。
それに対しオーストリア軍は最低限の装備のみで行動し、悪天候をものともせずに強行軍でイタリア軍に向かって行ったのです。

6月24日、両軍は四ヶ所で激突しました。
ヴィラフランカではオーストリア軍の騎兵2個旅団がイタリア軍の2個歩兵師団を襲撃してこれを撃滅します。
このときイタリア軍側は前夜の悪天候のために大砲が戦場に到着するのが遅れていたことが反撃を妨げてしまったと言います。

オリオシではオーストリア軍1個師団とイタリア軍1個師団がぶつかり合い、一旦はイタリア軍が高地を占領して優勢になったものの、オーストリア軍の反撃を受けてあえなく後退。
さらにオーストリア軍の追撃で大損害を出し、イタリア軍1個師団が救援に駆けつけるもオーストリア軍を食い止めることはできませんでした。

セント・ルシアでもオーストリア軍がイタリア軍を蹴散らします。
この戦闘でも高地を占領したイタリア軍は有利なはずでしたが、オーストリア軍の攻撃に後退せざるを得ませんでした。

クストッツァではイタリア軍3個師団がオーストリア軍の攻撃を一時は食い止めましたが、オーストリア軍が予備の2個旅団を前線に投入し、さらにセント・ルシアやヴィラフランカで勝利したオーストリア軍が戦場に駆けつけてくるともはやどうしようもなく戦場を離脱するしかありませんでした。
そしてこちらでも追撃してくるオーストリア軍のために少なくない損害を出す羽目になったのでした。

この6月24日に行われた一連の四ヶ所の戦いを総称して「クストッツァの戦い」と言います。
イタリア軍は結局のところ四ヶ所すべてで敗退し、オーストリア軍の前になすところがありませんでした。

この「クストッツァの戦い」における敗報を知らされたイタリア軍第二兵団は戦意を喪失してしまいました。
第二兵団はオーストリア軍と戦うことなく後退し、イタリア領まで撤収します。
これを知ったオーストリア軍イタリア方面司令官のアルブレヒト大公はイタリア領まで追撃することも考えましたが、それを行うとフランスの中立を刺激してしまう可能性があったために追撃を行うことはしませんでした。

一方、イタリア方面での勝利とは裏腹に、プロイセン方面でのオーストリア軍は思わしくない状況が続いておりました。
皇帝陛下から会戦を強要する伝聞が届いてしまったベネデク将軍は、やむを得ずプロイセン軍との決戦に臨むことにいたします。

ベネデクは麾下の部隊をケーニヒグレーツ近郊にあるサドワと言う村の付近にある高地に布陣させ、そこでプロイセン軍を待ち構えるつもりでした。
ところがベネデクは戦う気力が尽きていたためか、各部隊に配置は指示したもののどのようにしてプロイセン軍を待ち受けるかの具体的な指示は行われず、それどころか戦う前から退路を考えるような有様だったと言います。
そのためサドワ付近に展開したオーストリア軍は、しっかりした態勢を整えることなくプロイセン軍を迎え撃つことになってしまうのでした。

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  1. 2011/11/29(火) 21:16:05|
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普墺戦争(10)

参謀総長モルトケの指示のとおり、プロイセン軍は多方面からオーストリア領ベーメンへと侵攻を開始いたしました。
この時点でプロイセン軍の最大の懸念は、オーストリア軍が内線の利を生かして侵攻してきたプロイセン軍を各個撃破してくることでしたが、幸いなことにオーストリア軍はそのような行動をとってはきませんでした。

とはいえ、オーストリア軍もただ座してプロイセン軍の侵攻を指をくわえて見ていたわけではありません。
プロイセン方面に対するオーストリア軍の司令官ベネデク将軍は、プロイセン方面に対する全軍が集結する時間を稼ぐため、小規模な軍勢をそれぞれ侵攻してきたプロイセン軍にぶつけます。

1866年6月27日から28日にかけオーストリア軍の第6軍団、第10軍団、第8軍団がそれぞれプロイセンの第二軍に対して時間稼ぎの戦闘を仕掛けましたが、いずれも撃退されてしまいました。
6月29日にはオーストリア軍の第1軍団とザクセン軍の連合軍がプロイセン第一軍にこれまた敗退。
オーストリア第4軍もプロイセン第二軍に攻撃を仕掛けこちらも敗退という結果に終わります。

プロイセン軍は第一軍とエルベ軍が合流してオーストリア軍の北西から近づく形をとり、第二軍が北東から近づくことでオーストリア軍を挟撃する態勢を整えつつありました。
これに対し当初は対プロイセン方面の全軍を集結させてプロイセンの第一軍と決戦に及ぶつもりであったオーストリア軍のベネデク将軍でしたが、オーストリア各軍団の敗走の報が次々ともたらされるに伴いだんだんと意気消沈してしまいます。

ベネデク将軍はついに対プロイセン方面のオーストリア軍全軍をケーニヒグレーツの要塞に後退させることにし、7月1日にオーストリアとザクセンの連合軍はケーニヒグレーツへと後退いたしました。

プロイセン軍はオーストリア軍がケーニヒグレーツに後退したことでオーストリア軍を封じ込めることに成功しましたが、これは実はモルトケの望んだ結果とは異なりました。
モルトケとしてはオーストリア軍を野戦で包囲殲滅するつもりであり、オーストリア軍を要塞に押し込めるつもりはなかったからです。

一方オーストリア軍司令官のベネデク将軍はすっかりプロイセン軍との戦いに対する自信を失ってしまっておりました。
いまだオーストリア軍は大きな損害を受けてはおらずまだまだ戦える状態にあったにもかかわらず、ベネデク将軍はオーストリア皇帝に対し以下のような電報を打ってしまいます。
「早急に(プロイセンと)講和を結んでください。そうでなければわが軍の破滅は不可避です」

これが「1866年の破滅電報」と呼ばれ戦史に残るものとなりましたが、当然のごとくいまだたいした戦いも行わないうちからのこの電報に対し、皇帝からは「講和は不可能。会戦は行われたのか?」という電報が届き、ベネデク将軍に対して暗にプロイセン軍との決戦を行うよう要求します。
ベネデク将軍はこれにより気の進まない会戦を行わざるを得なくなりました。

一方、プロイセンとともにオーストリアに宣戦布告をしたイタリア軍も、ヴェネツィアを手に入れるために動き出しておりました。

ところがこの戦争は実はイタリアにとっては行う必要のない戦いでした。
プロイセンとオーストリアとの間の戦争が不可避となってくるに従い、オーストリアからイタリアに対して「中立を守ってくれるのであればその見返りとしてヴェネツィアを引き渡す」という申し入れがなされていたのです。
つまり、イタリアは戦争に参加せずに中立を守っているだけで手に入ったヴェネツィアを、わざわざ戦争で取りに行くということをしていたのです。

とはいえイタリアはすでにプロイセンと同盟を結んでしまっていたので戦争に参加せざるを得ませんでした。
イタリア軍はオーストリア方面に約二十五万もの兵力を集めそのうち約二十万を主力とし、国王直卒の第一兵団十二万とジャルジニ将軍率いる第二兵団八万の二つに分けてヴェローナを目指してこちらも分進合撃を行うべくオーストリア領へと侵攻を開始しました。

このイタリア軍に対抗するイタリア方面のオーストリア軍の司令官はアルブレヒト大公でした。
一説によれば彼は激戦の予想されるプロイセン方面の指揮をさっさとベネデクに押し付け、自分はそれほど激戦にはならないと思われたイタリア方面の指揮を引き受けたといいます。

ともあれアルブレヒト大公の手元には、オーストリア軍約十五万がおりました。
しかし、その半数は海岸守備隊や要塞守備隊であり、野戦兵力としては三個軍団約七万五千しかありません。
イタリア軍主力は二十万もいるので、数的にはオーストリア軍は圧倒的に不利です。
しかし、アルブレヒト大公はベネデク将軍とは違い、この七万五千を率いてイタリア軍を各個撃破しようともくろみました。

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  1. 2011/11/25(金) 21:16:27|
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普墺戦争(9)

「普墺戦争」が勃発した時点で、プロイセン王国軍の指揮官はもちろんプロイセン国王であるヴィルヘルム一世でしたが、参謀本部制度を確立していたプロイセンでは、実質的には参謀総長であるモルトケが総司令官である国王を輔弼(ほひつ:助言などを行い補佐すること)すると言う名目で指揮を取ることになっておりました。

モルトケはオーストリア帝国と戦うにあたり、作戦として以下のようなことを考えておりました。
多方面から同時侵攻的にオーストリア領内に攻め込み、それらが一ヶ所で合流するような行動をとることでオーストリア軍を集結させ、そこを一挙に包囲殲滅すると言う作戦です。

これは一般的に外線作戦による分進合撃と呼ばれるもので、外線とは敵を複数の部隊で外側から押し込むようにして主導権をとることをいい、分進合撃とは複数の部隊が別々に戦場を目指し行軍を行って、戦場では合流してひとつの部隊として戦うことを言います。

これにはメリットも大きい反面デメリットも大きく、たとえばナポレオン戦争の序盤でナポレオンが行ったように、オーストリア軍が内線の利を生かして部隊を集結させ、外側から別々に向かってくるプロイセン軍を各個撃破すると言うことも考えられました。

内線とは外線に対して内側から外側に向かって押し出していくことで主導権を得ると言う考え方で、事実当時はこのナポレオンの内線の利による各個撃破があまりにも衝撃的だったため、外線作戦に対する内線作戦の優位さが軍事学の主流を占めていたのです。

しかし、そのナポレオンも終盤には列強各国の軍による外線からの封じ込めでじょじょに戦力を喪失していき、最後には敗北を喫してしまったと言う事実をプロイセン参謀本部は理解しておりました。
また、ナポレオン戦争から50年が経ち、その間に鉄道や電信など移動にも通信にも新技術が発達したことで、当時とは比べ物にならないほど外線作戦を行う各部隊相互の連携がとりやすくなっていることもモルトケは理解していたのです。

また、巨大なオーストリア帝国に対しプロイセンは小国であり、長期の戦争を戦い抜く国家的体力はありませんでした。
そのためモルトケは、できるだけ戦争を短期間で終わらせなくてはなりませんでした。
であれば、一番効果的なのはオーストリア軍の主力を野戦で叩き潰すことだとモルトケは考えます。
外線作戦による分進合撃はそのための手段でもありました。

この作戦にのっとり、モルトケは第一軍、第二軍、エルベ軍の三個軍約二十五万をオーストリア領ベーメンに同時侵攻させました。
また、オーストリア側に付いたザクセン王国に対しても一個軍を差し向け、これらの軍を鉄道を使って迅速に移動させることでオーストリア軍との速戦即決を目指したのです。

一方宣戦布告を自らの側から行ったにしては、オーストリア軍の動きは活発ではありませんでした。
第一、第二、エルバと三つの軍に別れ、全体で約500km.の範囲にも広がってベーメンに侵攻してきたプロイセン軍は、当時の軍事学から言えば内線の利を生かしての各個撃破をするには絶好の状態です。
しかし、オーストリア軍はそうした行動をとることができませんでした。

これはオーストリア軍が内包する問題点によるものでした。
複数の民族をその領内に抱える帝国であるオーストリアは、当時主流となりつつあった戦闘単位としての師団制を取り入れようとして失敗し、旅団を中核として軍団を編成せざるを得ませんでした。
何せ多民族国家であるがゆえに部隊を構成する兵士も各民族の寄せ集めとならざるを得ず、言葉も違ったりするために師団として統一運用しようとしてもできなかったのです。

そのためオーストリア軍は軍団の編成に時間がかかり、また編成した軍団の一部はビスマルクの外交力によって参戦してきたイタリア方面にも割かなければならなかったため、侵攻してきたプロイセン軍に対応できる兵力が少なかったことから好機に乗じることができなかったのでした。

またオーストリアでは三十年戦争以来軍の独走を懸念するあまり、政治による軍事に対する干渉が激しく、参謀本部はほとんどその機能を発揮することはできませんでした。
参謀本部は軍事行動を指揮するどころか、兵站管理程度の業務しかやらせてもらえなかったのです。

それでもオーストリア軍は長期戦に持ち込めばプロイセン軍に勝てるであろうと考えておりました。
プロイセンには長期戦に耐える力はなく、時間を稼げば稼ぐほどオーストリアにとっては有利になると考え、持久戦を行うつもりだったのです。
そのためオーストリア軍はオルミュッツ、ヨゼフシュタット、ケーニヒグレーツの三つの要塞を中心にした防御的態勢を整えていくことにいたしました。

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  1. 2011/11/22(火) 21:01:22|
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普墺戦争(8)

プロイセンにとってオーストリアと戦争するにあたり、まず行うべきは外交でオーストリアの味方をしそうな国を減らすことでした。
力を失いつつあるとはいえ巨大なオーストリア帝国は、プロイセンにとってはまだまだ強力な敵であり、オーストリアの味方をする国が出てきてしまうとプロイセンにとっては手に負えなくなってしまう可能性があるからです。

その状況をよく認識していたプロイセンの首相ビスマルクは、積極的な外交を展開いたしました。
まず「イタリア統一戦争」においてオーストリア領として残されてしまったいわゆる「未回収のイタリア」であるヴェネティアやトリエステといった地域のうち、ヴェネティアを戦争後にイタリアに与えるという約束をすることで、来るべき戦争においてイタリアの協力を取り付けることに成功します。

さらに東の大国ロシアに対しても中立を守るように働きかけ、「クリミア戦争」後他国の戦争に介入する余裕を失っていたロシアも申し出を受け入れて中立を維持することを伝えます。

こうしてオーストリアは気がつくと北のプロイセンと南のイタリアには戦争を仕掛けられようとしており、東のロシアは戦争になっても中立を保つという状況に追い込まれます。
残るは西にある大国フランスでした。

フランスの皇帝ナポレオン三世は、「クリミア戦争」「イタリア統一戦争」のときと同様他国の戦争で利を得ようと考えたのか、オーストリアとプロイセンの関係悪化に対して国際会議を開いて問題を解決するよう提案します。
しかし、フランスがこの機にライン河河畔に対する領土的野心をむき出しにしてくる可能性を考えたビスマルクは、フランスの提案する国際会議を拒否。
ただし、ナポレオン三世をうまく誘導して戦争が起こってもフランスは中立を保つという確約を得ることに成功いたしました。

これでオーストリアの東西南北に対して手を打つことができたビスマルクは、いよいよオーストリアに対して強硬的な態度に出ます。
これに対しオーストリアはガスタイン条約の破棄とアウグステンブルク公爵によるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の統治をドイツ連邦議会に提案し、オーストリアもプロイセンも双方がシュレスヴィヒ・ホルシュタインから手を引くことを提示します。

もはや戦争を行うことに決していたプロイセンはこのオーストリアの提案を拒絶。
強くオーストリアを非難しました。

プロイセンとオーストリアが一触即発状態となったことで、両国に挟まれる形となった諸邦ではオーストリアの提案に賛意を示しプロイセンの自重を求めました。
しかしプロイセンにはそのような気持ちはまったくなく、すでにビスマルクより戦争へのGOサインを受け取っていたモルトケはプロイセン軍を動かします。

1866年6月7日、プロイセン軍はオーストリアの支配するホルシュタインに兵を進めます。
ドイツ連邦議会はあわてて平和維持決議を行いますが、これに対しプロイセンはドイツ連邦を脱退。
オーストリア側についていたバイエルンやヘッセン、ザクセン等の諸邦領に対しても軍を差し向けました。

ことここにいたり、オーストリアはついにプロイセンとの戦争を決意。
1866年6月15日(日付は異説あり)、プロイセンに対して宣戦を布告します。
これに応じて翌日にはプロイセンとイタリアがオーストリアに対して宣戦を布告。
ついに「普墺戦争」が始まったのでした。

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  1. 2011/11/16(水) 21:02:15|
  2. 普墺戦争
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北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
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