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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

大和沖縄へ向かう(4)

米軍の第一波攻撃が終わりホッとする暇もない13時02分、大和の電波探信儀(いわゆるレーダー)が米軍の第二波攻撃隊を探知します。
第二波攻撃は約100機ほどと言われ、そのうちの60機ほどが大和に向かったものと言われています。

大和を中心とした第一遊撃部隊はすでに第一波の攻撃で軽巡矢矧が航行不能となり、駆逐艦朝霜と濱風を喪失、涼月が損傷と大きなダメージを負っておりました。
ダメージは対空砲火の減少ももたらすため、米軍にとってはより攻撃しやすくなり、第一遊撃部隊はさらにダメージを受けやすくなるのです。

米軍機は執拗に大和を付け狙い爆弾や魚雷を投下してきます。
大和以下の各艦は必死に回避運動を行い何とか直撃を免れようとしますが、やはりそこは多勢に無勢、各艦のうち損傷を受けるものが相次ぎます。

第二波攻撃の最中である13時半過ぎには第三波の攻撃隊も第一遊撃部隊の上空に現れます。
米軍機は入れ代わり立ち代わり攻撃を仕掛け、14時過ぎまでの間に軽巡矢矧が沈没、駆逐艦磯風と霞も損傷を受け落伍します。

大和も爆弾や魚雷を次々と受け、満身創痍の状態に追い込まれていきました。
高角砲も機銃も損傷し、対空砲火は激減。
何より問題だったのは魚雷の命中が左舷に集中し、浸水によって左に大きく傾いてしまったことでした。

大和は何とかバランスを取るために右側に注水しますが、一時的に傾きを改善できても船体内に大量の海水が入ったことで速度が落ち、またしても攻撃を受けやすくなってしまいます。

14時5分ごろ、もはや沖縄に到着する望み無しとの判断から、大和艦上の伊藤中将は作戦の中止を命じます。
しかし、今はとにかくこの空襲を切り抜けなければなりません。

14時17分にはまたしても大和左舷に魚雷が命中し、左側への傾斜が増大。
バランスを取りたくても、もはや右舷の機関室にまで注水していた大和には、注水するべき右舷区画がもう残ってはおりませんでした。

14時20分には左に20度も傾き、もはや傾斜復旧の望み無しとの報告が入ってきます。
大和艦長有賀大佐は総員に退艦を命じ、伊藤中将は長官休憩室に入って、そのドアが開かれることはもうありませんでした。

退艦命令が出た直後から大和は急速に傾斜を増し、傾斜計は一説によれば90度にまで達したと言われます。
赤い船底が海上に現れ、米軍機からもその船底が確認できたとき、大和は大爆発を起こしました。
これは弾薬庫の砲弾が爆発したからだとも、機関室のボイラーが爆発したとも言われます(その双方とも言われる)が、その爆発の爆炎は空高く上がりました。
Yamato_explosion.jpg (大和爆発の瞬間)
大和の爆沈は14時23分とされ、のちの海底調査で船体が二つに分断されて海底に沈んだことが明らかになっております。

大和が沈没したことにより伊藤中将は戦死、有賀艦長も大和と運命をともにいたしました。
このため第一遊撃部隊の指揮官は古村少将が引き継ぎます。
ただ、この時点では古村少将も乗艦だった軽巡矢矧を沈められており、海上をなすすべなく漂っている状態でした。

14時30分ごろ、ようやく米軍の攻撃が終了しました。
第一遊撃部隊の中で損傷が軽く、戦闘行動可能な状態だったのは、駆逐艦冬月、雪風、初霜の三隻のみ。
冬月座乗の吉田大佐は各艦に生存者の救助を命じます。

16時39分、陸上の連合艦隊司令部から、連合艦隊司令長官の豊田大将が作戦中止を命令。

17時42分、古村少将が駆逐艦初霜に救助され、引き続き生存者を収容して佐世保に帰投することになりました。

損傷を受け航行不能となっていた駆逐艦霞と磯風は、砲雷撃を加えて処分。
この時点では駆逐艦涼月が行方不明であり、おそらく沈没と思われておりましたため、作戦で沈没したのは10隻中7隻と考えられておりました。

しかし、涼月は佐世保まで戻ってきます。
米軍機の攻撃で艦首部分を切断された涼月は、そのままでは前進ができなかったため、そろそろと後進で航行し帰投してきたのです。
涼月はそのままドックに入りましたが、ドックが排水するまで持ちませんでした。
涼月はなんと、ドックの排水が終わる前にドック内で沈没します。
とはいえ、どうにか佐世保まで帰ってきたのは幸運だったと言えるでしょう。

結局第一遊撃部隊は、10隻中6隻を失いました。
参加兵力約4300名中、戦死者は約3700名に上り、そのうち約2700名が大和乗員の戦死者でした。
一方攻撃側の米軍は、6機が撃墜され5機が帰還後廃棄されました。
戦死者はわずか13名であり、かなり一方的な戦闘であったことが伺えます。

この作戦以後、日本海軍は艦隊として出撃することはついにありませんでした。
残存艦艇は燃料もなく、ただ停泊するのみというものがほとんどでした。
そして、大和の沈没を伝えられた政府は、いよいよ敗戦というものを覚悟しなくてはなりませんでした。

大和は今も、長崎県男女群島女島の南方176キロ、水深345メートルの海底に、静かに眠っているそうです。




参考文献
「太平洋戦争海戦全史」(歴史群像シリーズ) 学研


参考サイト
Wikipedia 「大和(戦艦)」
Wikipedia 「坊ノ岬沖海戦」
  1. 2011/04/10(日) 21:09:12|
  2. 大和沖縄へ向かう
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大和沖縄へ向かう(3)

昭和20年(1945年)4月7日。
戦艦大和を中核にした第一遊撃部隊は九州南部の大隈半島と種子島の間を通過し、一路沖縄へと向かっておりました。
艦隊の形状は軽巡矢矧と大和を中心にし、八隻の駆逐艦が輪になって中央の艦を守る「輪形陣」を取っており、対空対潜警戒を行いながら約20ノットの速度で進んでおりました。

午前7時ごろ、随伴の第二水雷戦隊の一隻、駆逐艦朝霜が機関故障を起こし12ノットほどしか速力を出せなくなってしまいます。
艦隊は速度を落とし朝霜の修理完了を待ちますが、朝霜の修理はすぐには終わりそうもありませんでした。

艦隊として行動しているときには集団としての戦力を発揮できますが、一隻ではたかが知れており航空機にも潜水艦にも狙われたら終わりです。
艦隊は何とか朝霜の修理が終わることを祈りましたが、今後の予定を考えるといつまでも速度を落としているわけには行きません。
ついに艦隊は朝霜を残し速度を上げる決断を下します。
朝霜は単艦で取り残されてしまうことになりました。

九隻になった第一遊撃部隊ですが、それでも10時ごろまでは九州の航空基地から上空援護に零戦が数機単位でやってきてくれ、大和以下に最後の別れの見送りを行います。
最後の零戦が翼を振って引き返していくと、今まで距離をとっていた米軍の飛行艇が艦隊に張り付くようになりました。
大和が米軍機に向けて三式弾を撃ちますが、飛行艇は撃墜できません。
そこで艦隊は一時進路を西にとり、日本海側へ抜けるような欺瞞航路を取ります。

第一遊撃部隊の出撃を知ったスプルーアンス提督の米第五艦隊は、当初戦艦部隊による砲撃戦で対処しようと考え新型戦艦「アイオワ」と、旧式戦艦「ニューメキシコ」「テネシー」「ウェストバージニア」「メリーランド」「コロラド」の計六隻の戦艦と七隻の巡洋艦を差し向けます。
しかし、第一遊撃部隊が西への進路を取っているため取り逃がすことを恐れ、ミッチャー提督指揮下の空母艦隊に航空攻撃を行うように指示しました。
(一説にはスプルーアンス提督の指示の前にミッチャー提督の独断で航空攻撃をかけたという話もあります)

11時半ごろ、第一遊撃部隊は進路を南西に変えて沖縄へと向かいます。
12時過ぎ、機関故障で遅れていた朝霜から「敵艦載機見ユ」「我、敵機ト交戦中」の通信が入ります。
艦隊後方の駆逐艦冬月からも朝霜が交戦中と思われる砲煙が観測でき、直後に「九十度方向ニ敵機三十数機ヲ探知ス」との入電を最後に、朝霜はもう呼び出しても応答はありませんでした。

このとき米軍はミッチャー提督指揮下の第58機動部隊の「サンジャシント」「ベニントン」「ホーネット(Ⅱ)」「ベローウッド」「エセックス」「バターン」「バンカーヒル」「キャボット」「ハンコック」「イントレピッド」「ラングレー(Ⅱ)」「ヨークタウン(Ⅱ)」という総勢十二隻もの航空母艦から攻撃隊を発進させておりました。
F6FヘルキャットとF4Uコルセアの両戦闘機、SB2Cヘルダイバー爆撃機、TBF/TBMアベンジャー雷撃機合計380機以上が発進しましたが、日本軍の上空直援が少ないと考えられることからヘルキャットとコルセアの両戦闘機もみんな爆弾を搭載しての出撃だったといいます。

米軍の航空攻撃第一波は、4月7日午後12時30分ごろから始まりました。
約150機が来襲し、第一遊撃部隊は警戒運動をやめて速度を25ノットに増速し対空戦闘を開始します。
この攻撃により大和には魚雷一本と爆弾二発が命中。
速度の低下はなかったものの、爆弾によって後部艦橋が損傷いたします。
しかし、比較的損害は軽微で、乗組員の中にはこれなら沖縄まで行けると思った者もいたといいます。

とはいえ、艦隊としての被害は大きく、軽巡矢矧には魚雷が命中して航行不能となり、駆逐艦朝霜に加えて濱風が沈没、涼月が前部を破損してこちらも落伍確実な状況でした。

第一波の攻撃は30分ほどで終わりました。
ですが、これはまだ始まりに過ぎませんでした。

(4)へ


(今回の記事中米軍空母名に(Ⅱ)とついているのは、初代が日本軍に沈められたりした艦の名前を引き継いだ二代目の艦という意味です。)
  1. 2011/04/09(土) 20:55:35|
  2. 大和沖縄へ向かう
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大和沖縄へ向かう(2)

日本海軍が誇る戦艦大和は、ロンドン海軍軍縮条約の失効にともない米英海軍が新型戦艦を送り出してくるであろうとの予測から建造が開始された戦艦でした。

昭和12年(1937年)11月に起工された大和は、昭和15年(1940年)8月8日に進水。
翌昭和16年(1941年)12月16日に晴れて就役を向かえ、やがて連合艦隊の旗艦としての任務につくことになりました。

全長は263メートル。
最大幅は38.9メートル
最高速力は約27ノット。
基準排水量は65000トンにも及び、当時世界最大の排水量の軍艦であったことは間違いありません。
主砲も46センチ砲を3門装備した砲塔を3基、合計9門備え、これまた当時世界最大の砲弾投射能力を持っていたといえるでしょう。
もちろん戦艦であるからには、自分の主砲で撃たれても主要区画は被害を受けないようになっていなくてはなりません。
大和も主要区画は46センチ砲の砲弾の直撃にも耐えられるよう設計されておりました。

当時日本海軍は、アメリカ海軍は46センチ砲搭載の戦艦は建造しないと踏んでおりました。
理由はパナマ運河を通行する必要性を優先すると考えたからです。
パナマ運河を通過できる船の幅は32メートル。
その幅に船体を収めようとすると46センチ砲を搭載した場合には速力や防御力の大幅な低下を見込まねばならず、ゆえにアメリカの戦艦は最大でも40センチ砲にとどまるだろうと見られたのです。

もちろん大和が46センチ砲を搭載していると知られれば、対抗上パナマ運河の通行を考慮しない46センチ砲以上の主砲を搭載した戦艦を作ってくるでしょう。
そのため大和が46センチ砲を搭載していることは、秘密中の秘密でした。

大和搭載の46センチ砲の最大射程は42000メートルにも及び、米軍の「アイオワ」級戦艦の40センチ砲の最大射程も優に超えておりました。
そのため戦艦同士の砲撃戦になった場合、先手を取れるのは日本となり、40センチ砲に対する防御しかしていない米軍の戦艦にダメージを与えることが可能です。
仮に米軍が数の優位等を生かして距離を詰めてきた場合でも、大和は46センチ砲に対する防御力を持っているので米軍の40センチ砲では撃ち抜けず、かえって大和の46センチ砲に米軍戦艦は次々と撃ち抜かれるという結果に終わります。
こうして日本海軍は、大和型戦艦があれば米軍の戦艦隊との砲撃戦には勝利できると考えました。

もちろんこれは机上の空論であり、実際の戦闘でどうなったかは定かではありません。
ただ、砲撃戦で大和を沈めようとするならば、米軍側も相当な損害を覚悟する必要はあったのではないでしょうか。

日米の戦争が始まった直後に就役した大和は、翌昭和17年(1942年)6月の「ミッドウェー海戦」に参加します。
このときは前衛の空母艦隊が米軍の攻撃を受け全滅。
しかし、後方の主力部隊にいた大和はほぼ何もしない状態で帰投を余儀なくされました。

昭和18年(1943年)には米潜水艦からの攻撃を受け魚雷一本を食らったものの、重要部分には損傷なく本土に帰還して修理。
その際に対空砲などを増設し、航空攻撃に備えます。

昭和19年(1944年)6月の「マリアナ沖海戦」では米軍航空機に対する三式弾(いわゆる散弾銃の散弾のようなもので、敵航空機に対する砲弾)ながらも、初めて46センチ主砲を敵に向けて発射。
残念ながら戦果は不明です。

同年10月の一連の「比島沖海戦」では、同型艦の「武蔵」とともに栗田健男中将指揮下の第二艦隊に所属して出撃。
シブヤン海で同型艦武蔵を米軍の航空攻撃で失いますが、サマール島沖の海戦では、米軍の第77任務部隊の護衛空母群に対して砲撃戦を行い、ここで初めて敵艦に対する46センチ主砲の発射という戦艦本来の攻撃を行いました。

ただ、このときは敵艦隊を護衛空母ではなく正規空母と誤認していたため、ある程度装甲があるとみなして砲弾の信管調整を行っていたために、装甲のない護衛空母では命中しても炸裂しなかったという話もあるようです。
(このときの大和の砲撃にはいろいろな評価があり、ほとんど命中しなかったという話もあります)

結局この戦いでレイテ湾突入を断念した大和は、その後日本本土へと戻りました。
そして翌昭和20年(1945年)に入り、最後の戦いとして沖縄への水上特攻とも言うべき「天一号作戦」に参加することになったのです。

夜は静かに明けていき、4月7日の朝を迎えました。

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  1. 2011/04/08(金) 21:14:41|
  2. 大和沖縄へ向かう
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大和沖縄へ向かう(1)

今日4月7日は、今から66年前の1945年に大日本帝国海軍の戦艦「大和」が、沖縄に向かう途中で米軍によって撃沈された日だそうです。
と、言うことで、今日は大和最後の航海について記事にしたいと思います。

昭和16年(1941年)12月に始まった「太平洋戦争」は、序盤こそ日本にとって有利に進んできたものの、昭和17年(1942年)6月の「ミッドウェー海戦」における大敗と、同年8月に始まったガダルカナル島における米軍の反攻作戦の開始に対する不手際から、次第に日本にとって不利な戦況へと向かっていきました。

さらに昭和19年(1944年)6月の「マリアナ沖海戦」と、10月に行われた一連の「比島沖海戦」によって、大日本帝国海軍はその連合艦隊の戦力のほとんどを喪失するという結果になりました。

戦力を失った連合艦隊は、その後は米軍に対する攻勢能力を発揮することはできず、前線各地と日本本土との海上輸送路を細々と維持するぐらいしかできませんでした。
生き残った艦艇も燃料の不足から行動は著しく制限されており、ほとんど行動不能といってもいい状態でした。

昭和20年(1945年)3月26日、連合艦隊は南西諸島方面に来攻した米軍を迎え撃つべく、「天一号」作戦を発動しました。
それに基づき戦艦大和を旗艦とする第二艦隊は出撃準備に入りますが、4月1日には米軍は沖縄本島に上陸を開始し、その日の午後には読谷の北飛行場及び嘉手納の中飛行場が米軍に占領されてしまいます。

本来の計画では航空作戦が順調に行った場合に第二艦隊を中核とした第一遊撃部隊が沖縄に突入するというものでしたが、予想外に早く北及び中飛行場が米軍占領下になってしまったことで当初の計画は無効になってしまいました。
そこで連合艦隊司令部は、第一遊撃部隊を航空機の援護のない状態で沖縄に突入させ、敵艦隊及び輸送船団の撃滅を図った上、生き残りの艦は沖縄の海岸に乗り上げて弾薬尽きるまで陸上砲台として砲撃戦を行い、その後生き残った乗組員は陸戦隊として沖縄防衛に尽くすというまさに海上特攻作戦を行うことに決します。

もちろんこれが無謀な作戦であることは誰もが承知しており、いく人かの参謀は作戦の再考を求めました。
しかし、もはや通常の作戦では米軍に太刀打ちできない現状で、第一遊撃部隊を有効に使用するためにはこの作戦しかないとのことで、作戦は実行に移されます。

4月5日、第二艦隊司令長官伊藤整一中将は出撃準備の命令を受けます。
伊藤中将は当初作戦に反対でしたが、連合艦隊の参謀が大和に訪れて説得。
「一億総特攻の魁(さきがけ)になってもらいたい」との言葉に伊藤中将も了承せざるを得ませんでした。

海上特攻隊とされた第一遊撃部隊は、第二艦隊の旗艦の戦艦大和及び第二水雷戦隊に所属する軽巡「矢矧」(第二水雷戦隊旗艦)、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「濱風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」の合計十隻の艦艇のみでした。
指揮は第二艦隊司令長官の伊藤中将が取ることに決します。

この日、各艦の艦長は大和に集められ作戦内容を知らされるとともに、大和では有賀幸作艦長(大佐)が当直以外の乗組員に今回の出撃が海上特攻であることを訓示したといいます。
そして配属されたばかりの士官候補生や一部の老兵、傷病兵などがこの時点で艦隊から下ろされました。
士官候補生たちはみな連れて行ってほしいと懇願したものの受け入れてもらえず、涙を飲んで下艦したといいます。

当初沖縄への出撃に際しては、特攻とのことで各艦には片道分の燃料のみが割り当てられたとされ、一部文献ではそのまま片道燃料で出撃したとされたものもありましたが、各地の残燃料をかき集めて振り分けたことで各艦ともに満タンとはいかないまでも往復には支障ない量の燃料を搭載したと現在ではされております。

4月6日夕方、第一遊撃部隊は沖縄に向けて出撃。
この出撃に前後するように日本陸海軍は特攻機を出撃させ、米艦隊への攻撃を行っています。
この時点では第一遊撃部隊を援護するために駆逐艦「花月」「榧(かや)」「槇(まき)」の三隻が随伴しておりましたが、これら三隻は練度不足とみなされて豊後水道まで来た時点で引き返すよう命じられました。
以後、第一遊撃部隊は上記の十隻のみで沖縄に向かいます。

4月6日の20時過ぎ、米潜水艦「スレッドフィン」及び「ハックルバック」が第一遊撃部隊を発見。
司令部に日本艦隊出撃を通報します。
この通報は日本側でも傍受され、発見されたことを知りました。

しかし、この日は米軍側の攻撃はなく、静かに4月7日を迎えます。
いよいよ大和にとって最後の日を迎えることになりました。

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  1. 2011/04/07(木) 21:16:08|
  2. 大和沖縄へ向かう
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舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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