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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

エチオピア戦争(14)

1936年5月2日、フランス領ソマリランド(現ジブチ)に脱出したハイレ・セラシエ皇帝は、そこから船で英国へと向かいました。
彼は一縷の望みをかけて、国際連盟に彼自らが姿を表してエチオピアの現状を訴えることで、何とかイタリアの侵略を止めることができないものかと考えていたのです。

しかし、皇帝自らが首都を捨てて国外へ脱出したという事実は、その思惑がどうであれ国民にとっては納得できるものではありませんでした。
エチオピア国民はこのことを忘れず、後々までハイレ・セラシエ皇帝の治世に影響を残すことになります。

5月5日、ついにイタリア軍は、エチオピアの首都アディスアベバへの入城を果たします。
皇帝の脱出した首都は、もはや治安を守る者もなく混乱の局地にあり、暴動と略奪が荒れ狂っておりました。
イタリア軍はそんな中で武力抵抗するものなどを捕らえるとただちに処刑し、占領政策を始めます。

ソマリランド方面から侵攻したグラツァーニ将軍麾下の部隊も、「ヒンデンブルク・ライン」を突破した後はエチオピア東部の制圧を進め、5月8日にはハラールを占領。
これでエチオピア軍の抵抗はほぼ潰え去りました。

5月9日、イタリアは以前からの植民地であるエリトリア及びイタリア領ソマリランドと、エチオピアを合わせた地域にイタリア領東アフリカ帝国の建国を誇らしげに宣言します。
帝国の皇帝には、イタリア国王エマヌエーレ三世がそのまま即位いたしました。
この瞬間、アフリカ最古の独立国は消滅し、エチオピアはイタリアの植民地となったのです。

1936年6月30日
国際連盟の総会が開かれました。
席上イタリア代表は、「わが国は文明の使者としてエチオピアに公正と解放をもたらす聖なる使命を完遂した」とエチオピアを占領したことを述べ、「文明国の責務を果たしたイタリアが、経済制裁を受けているという異常事態はいかなることか」として、経済制裁の解除を求めました。
一方、英国に亡命していたハイレ・セラシエ皇帝がそれに反論し、「イタリアはエチオピア人が文明人でないために(侵略も毒ガス使用等も)赦されるとしているが、それは事実ではない」として熱弁を振るいますが、各国の賛同を得ることはかないませんでした。

結局イタリアのエチオピア侵略は黙認され、経済制裁すら賛成多数、反対はエチオピアの一票だけという結果で解除されてしまいます。
国際連盟には、国際紛争を解決する力がないことをまざまざと見せ付けた瞬間でした。

「(第二次)エチオピア戦争」は終わりました。
双方の損害、特にエチオピア軍の損害はかなりなものだったと思いますが、はっきりした数字はわかりません。
これによってイタリアはようやくエチオピアを植民地として支配することに成功したわけですが、まだその領土の三分の二は支配できておらず、その支配にはさまざまな困難が待ち受けておりました。

エチオピア人は各地でレジスタンス活動を行い、グラツァーニ将軍も爆弾テロの標的として狙われます。
イタリア軍もそれに対して厳しい態度で臨んだため、各地で衝突が絶えませんでした。
エチオピア人指導者は多くが処刑され、エチオピア正教の聖職者たちも多くが処刑されました。

イタリアはイタリア人百万人を入植させる計画でしたが、こうしたエチオピア人の抵抗も根強く、わずか十四万人程度にとどまりました。
しかもその大半は現地に根付くことができず、十万人以上がイタリアへ戻ったとも言います。

1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。
翌1940年6月、オランダ、ベルギー、フランスの相次ぐ敗退にイタリアも枢軸国として急遽参戦。
火事場泥棒のようだと非難されましたが、フランス領の一部を手に入れることに成功します。
そして、アフリカでも英領ソマリランドを手に入れようと侵攻し、一時は占領いたしますが、英国軍の反撃が始まると、イタリア軍はじょじょに押され始めました。

1941年に入ると、フランス軍と英軍の共同攻撃によりエリトリアのイタリア軍が壊滅。
英国に亡命していたハイレ・セラシエが英軍とともにエチオピアの地を再び踏みしめます。

イタリア軍の敗走はとどまるところを知らず、ついにエチオピアのイタリア軍は抗戦を断念して降伏。
イタリア領東アフリカ帝国は、わずか5年で崩壊します。
ハイレ・セラシエが、首都アディスアベバに帰還したのは、くしくもイタリア軍が1936年に入城した5月5日のことでした。

エチオピア戦争 終


エピソード

大日本帝国陸軍の参謀として、とかくいろいろと言われることの多い服部卓四郎大佐(最終階級)は、大尉の時にこの(第二次)エチオピア戦争の観戦武官としてエチオピアの地に赴任しております。

高知県香南市にある「近森大正堂」様という菓子店では、「エチオピア饅頭」という一口サイズのお饅頭を販売していらっしゃいます。
漉し餡を包んだお饅頭ということですが、残念ながら私は食べたことはございません。
現在ではエチオピア大使館からの公認もいただいているお饅頭とのことですが、この「エチオピア饅頭」という名前の由来が、(第二次)エチオピア戦争で粗末な武器しかないながらも勇敢に祖国防衛のためにイタリア軍に立ち向かうエチオピア兵のことを新聞記事で知った当時の初代店主が、そのことに感動して名づけたというものだそうです。

                      ******

参考文献
「コマンドマガジン日本版第27号」(国際通信社)

参考サイト
「Wikipedia エチオピアの歴史」
「Wikipedia 第一次エチオピア戦争」
「Wikipedia 第二次エチオピア戦争」
「Wikipedia ベニート・ムッソリーニ」
「Wikipedia ハイレ・セラシエ一世」


今回もお付き合いくださいましてありがとうございました。
8月からところどころ間を空けて14回続けてきたわけですが、エチオピアとイタリアというどちらかというとマイナーな両国間の戦争を知っていただければ幸いです。
また、資料等によっては若干違う部分もあるかと思いますが、ご了承くださいませ。
  1. 2010/12/08(水) 21:23:05|
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エチオピア戦争(13)

ラス・ムルゲータとその軍勢を失い、ラス・イムルの軍勢もまた散り散りとなり、ラス・カーサ、ラス・セイオームの軍勢もほぼ戦力を失うという大敗北を喫したエチオピア軍に、残された戦力はもはやハイレ・セラシエ皇帝直属の軍勢しかありませんでした。

セラシエ皇帝は、その親衛隊とともに首都アディスアベバ防衛のため、マイ・チュー(マイチャウ)の町に布陣しておりました。
そして、前線の崩壊を知ると、最後の決戦に向けてマイ・チューを出発します。
すでに勝算などなく、これは賭けにも等しい出陣でした。

しかし、彼の率いる皇帝親衛隊こそが、エチオピア最強の部隊であることは紛れもない事実でした。
フランスの軍事顧問により軍事教練を受けた彼らは、フランス製の火砲を持ち近代化された軍勢でした。
その能力は欧州の一線級軍隊になんら引けをとるものではなかったのです。

そして、各省庁からの官僚を集めた「エチオピア閣僚軍」も皇帝に付き従います。
彼らも最終決戦に向けて士気は高く、その能力を存分に発揮することが可能でした。

1936年3月31日。
世に言う「マイ・チューの戦い」が始まります。
エチオピア軍の攻撃を迎え撃ったのは、イタリア軍山岳歩兵師団と、第一エリトリア人師団および第二エリトリア師団という二つの植民地兵部隊でした。

この日はエチオピア軍にとって幸いなことに曇天であり、イタリア軍の航空戦力は使えない状態でした。
セラシエ皇帝は、まず露払いとして皇帝親衛隊以外の部隊に前進を命じ、イタリア軍山岳歩兵師団を攻撃します。
しかし、高地での戦いに慣れている山岳歩兵はなかなか手ごわく、エチオピア兵の攻撃に崩れそうもありません。
そこでセラシエ皇帝は矛先を変え、植民地兵であるエリトリア人師団を攻撃します。

やはりエリトリア人兵は士気が低く、エチオピア軍の攻撃に一旦は陣地を退きます。
しかし、すぐに反撃を行い、前線では一進一退となりました。
ここでセラシエ皇帝は親衛隊の投入を決断。
満を持して皇帝親衛隊が戦闘に参加します。
近代火砲の支援を受けた皇帝親衛隊はさすがに強く、エリトリア師団はたちまち後退を余儀なくされました。
ここで更なる追撃を行えば、エリトリア師団は崩壊し、イタリア軍は前線を維持できなくなるはずでした。
しかし、またしても女神はイタリア軍に微笑みます。
空が晴れたのでした。

晴天となった空にイタリア軍航空機が現れます。
イタリア軍航空機は爆弾と毒ガス弾をまたしても容赦なく撒き散らし、エチオピア軍は大きな被害を受けました。
エチオピア軍に戦闘機がないため戦う相手のいないイタリア軍の戦闘機は、グッと高度を下げて機銃掃射までしていきます。
優勢に戦いを進めていたエチオピア軍は、ここでもまた航空機によって戦勢を逆転されてしまいました。

セラシエ皇帝の下、果敢に戦ったエチオピア軍でしたが、二時間ののちに残ったものは壊滅した軍勢だけでした。
セラシエ皇帝は部下に引き連れられ戦場を離脱。
残ったエチオピア兵も退却を余儀なくされました。

こうしてこの戦争における最大の戦いとなった「マイ・チューの戦い」は、十四時間で終わりを告げました。
エチオピア軍は最強の皇帝親衛隊を失い、もはや戦う力は残されていませんでした。
イタリア軍はエチオピア軍の負傷兵が運び込まれた病院にまで爆弾や毒ガス弾を落とし、エチオピア軍の兵力は五千人に満たないほどまで減らされたのです。

首都アディスアベバでは、もはや皇帝自身の安全も確保できないとして、議会がセラシエ皇帝に戦場より帰還することを懇願しました。
セラシエ皇帝はそれを受け入れてアディスアベバに帰還します。

アディスアベバ正面には、もうエチオピア軍の軍勢はほとんど残っていませんでした。
バドリオ元帥は進撃を再開し、それに呼応するかのように、ソマリランド方面のグラツァーニ将軍も進撃を再開します。

ソマリランド方面では、トルコ人ウェヒブ・パシャの築いた「ヒンデンブルク・ライン」という防御線がイタリア軍を迎え撃ちます。
ラス・ナシブが約三万の兵で、この「ヒンデンブルク・ライン」に立て篭もりますが、ここでも毒ガスや火炎放射器装備の戦車などが威力を発揮し、イタリア軍は10日間ほどの戦いで二千の損害を出しながらも突破することに成功します。

4月5日にカロム、4月14日にデシェ、4月25日にはフィシェが陥落。
バドリオ元帥麾下のイタリア軍は、アディスアベバまで指呼の距離へと迫ります。

1936年5月2日。
ついにセラシエ皇帝は一族を引き連れてアディスアベバを脱出。
フランス領ソマリランド(現ジブチ)に逃げ込まざるを得ませんでした。

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  1. 2010/11/30(火) 21:32:27|
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エチオピア戦争(12)

ソマリランド方面でグラツァーニ将軍が勝利を収めたことは、エリトリア方面のイタリア軍を率いるバドリオ元帥にも勢いを与えることになりました。

1936年2月、バドリオ元帥はエチオピア軍に対して大規模な攻勢を実施します。
イタリア軍のこの攻勢を正面から受け止めたのは、ラス・ムルゲータの部隊でした。
ラス・ムルゲータは、防御のしやすい高地アンバ・アラダンに陣を敷き、そこでイタリア軍を迎撃します。

高地に陣取るエチオピア軍を正面攻撃するのは不利だと判断したバドリオ元帥は、グラツァーニ将軍のやり方を取り入れました。
つまり機動力のある機動部隊を作り、それによってエチオピア軍の陣地を迂回して包囲しようと図ったのです。
ラス・ムルゲータの部隊はこの迂回行動に対応することができず、部隊が丸ごと高地の陣地で包囲されてしまいました。

ラス・ムルゲータは麾下の部隊を窮地から救うため、果敢にも包囲網からの突破を図ります。
エチオピア軍の戦士たちは、まだしっかりとした包囲陣が整っていなかったイタリア軍を攻め立て、なんと包囲の輪をこじ開けてしまいました。
そして部隊はほぼその戦力を保持したまま包囲網から脱出することに成功します。
機動力ではイタリア軍に一歩譲ったエチオピア軍でしたが、まだまだ個々の戦闘ではその強さを発揮したのでした。

しかし、この包囲からの脱出は部隊の戦力を発揮しやすい昼間に行われたものでした。
このことは逆にイタリア軍にも戦力の発揮がしやすいということでもあります。
特に、イタリア軍には昼間の利点として航空機による攻撃がありました。
イタリア軍は、ただちに脱出したラス・ムルゲータの部隊に対して、航空攻撃をかけたのです。

地上での戦いには強さを発揮するエチオピア軍も、航空機からの攻撃には弱いものでした。
さらにイタリア軍は爆弾だけではなく毒ガス弾も投下して、エチオピア軍を痛めつけます。
そして、もっと悪いことに、イタリア軍側に寝返った部族の攻撃を受けて行方不明になった二人の息子を探しに出かけたラス・ムルゲータが、この空襲で戦死してしまったのです。
指揮官を失ったラス・ムルゲータの部隊は、もはや部隊としての戦力を維持できませんでした。
また一つ、エチオピア軍の戦力が失われたのです。

エチオピア軍のダメージはこれだけにとどまりませんでした。
ラス・ムルゲータの部隊と同様にイタリア軍の攻撃を受け止めていた、ラス・セイオームとラス・カーサの部隊も、じょじょに押し込まれ始めます。
そして高地戦に強いイタリア軍の山岳歩兵師団がエチオピア軍の守りの要であるワーク山の頂上を強襲すると、エチオピア軍はもはや戦線を維持することができなくなってしまいます。
やむなくラス・セイオームとラス・カーサの軍勢は退却を始めますが、そこにもイタリア軍は航空機を使って空襲を繰り返しました。

エチオピア軍の退却に対し、イタリア軍は追撃を行います。
逃げるエチオピア軍を、完膚なきまでに叩きのめそうとした追撃は、逆にエチオピア軍に利用されることになりました。
追撃するイタリア軍の隊列が伸びきったところを見計らい、幹線道路の両側面に兵を伏せるように配置していたラス・イムルの軍勢が、イタリア軍に襲い掛かったのです。

ラス・イムルの襲撃は、イタリア軍にとって完全に奇襲となりました。
先ほどまで逃げるエチオピア軍を追い立てていたはずなのに、今度は自分たちが追い立てられる羽目になったのです。
イタリア軍はその場にとどまって何とか態勢を立て直そうとしましたが、あまりのことに同士討ちをするものまで現れる始末。
それでも、このときのイタリア軍は、何とか踏みとどまることができました。

あと一歩でまたしてもイタリア軍を退却させることができたエチオピア軍でしたが、今回は女神はイタリア軍に微笑みました。
踏みとどまったイタリア軍は果敢にエチオピア軍に立ち向かい、一部では銃剣突撃も行って何とかエチオピア軍を食い止めます。
逆にラス・イムルの軍勢のほうが、イタリア軍の頑強な粘りに押され、その攻勢を止められてしまいました。

そうなると戦場上空を支配するイタリア軍航空機がものを言い始めます。
爆弾や毒ガス弾がエチオピア軍を襲い、ついにラス・イムルの軍勢も退却を余儀なくされてしまいました。
退却はやがて潰走となり、エチオピア軍の前線はついに崩壊したのです。
ラス・イムルは、わずか千名ほどとなった部隊を率い、ゲリラ戦を続けるしか手がありませんでした。

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  1. 2010/11/26(金) 21:16:15|
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エチオピア戦争(11)

エチオピア軍の攻撃に自軍が崩壊寸前まで陥ったことに、ムッソリーニは激怒しました。
欧州の文明国の近代的軍隊が、アフリカの野蛮人の軍隊に負けることなど許されるものではなかったのです。
ムッソリーニは重ねて毒ガスの使用を命じました。

ムッソリーニの命を受け、イタリア軍司令官バドリオ元帥は毒ガスの使用に踏み切りました。
イタリア軍は負けるわけには行きません。
もはやなりふりかまってなどいられなかったのです。

進撃を再開するにあたり、イタリア軍は航空機による毒ガス散布を行いました。
エチオピア軍は毒ガス戦に対抗する手段を用意しておらず、イタリア軍の毒ガスの前にはなすすべがありませんでした。
ガスマスクもなく、毒ガスの知識さえないエチオピア軍の兵士たちは、ただ毒ガスの前に逃げ惑うことしかできません。
前線のエチオピア軍は崩壊し、イタリア軍はようやく進撃を再開することができたのです。

イタリア軍の毒ガス散布はセラシエ皇帝に衝撃を与えました。
彼はすぐさま国際連盟にイタリア軍の毒ガス使用を訴えます。
「毒ガスはすべての文明国において禁止された兵器である」とのエチオピアからの抗議に、イタリア政府は当初毒ガスを使用した事実は無いと突っぱねました。
しかし、毒ガス使用の事実がじょじょに伝わるに連れて、「確かにガスは使用したが、あくまでも殺傷力のない、もしくはきわめて低いガスしか使っていない」という主張に切り替えます。

ガス使用を認めたイタリアに対し、国際連盟はまったく無力でした。
有効な経済制裁も実力行使もできず、ただイタリアに対する言葉だけの制裁に終わってしまったのです。
結局イタリア軍の毒ガス使用は終戦まで止まることはありませんでした。

進撃を再開したイタリア軍には、ムッソリーニからの支援として、本国から新たに二個師団と重爆撃機が送られました。
また、ソマリランド方面のグラツァーニ隊にもリビア師団が配属され、戦力はこれまでになく充実します。
毒ガス使用ともあいまって、もはやイタリア軍の進撃を止められるものはいないように思われました。

しかし、イタリア軍の進撃はまたも止められてしまいます。
ラス・カーサの部隊に全面攻撃を仕掛けたイタリア軍は、当初は圧倒的に有利にラス・カーサの部隊を攻撃しておりました。
ところが、イタリア軍の一部が側面の守りを忘れて前進してしまい、本隊の側面が手薄になるという状況が生じたのです。
ラス・セイオームがその隙を見逃しませんでした。
ラス・セイオームは、自らの軍勢を率いてイタリア軍の側面に開いた間隙に攻め込みます。
側面を突かれたイタリア軍はまたしても崩壊。
部隊は総崩れとなり、またも火砲も戦車も放棄して逃げざるを得なくなります。
エチオピア軍の強さをまたしてもイタリアは見せ付けられたのでした。

エリトリア方面の躓きに対し、ソマリランド方面ではグラツァーニ将軍に率いられたイタリア軍が順調に攻め込んでおりました。
このグラツァーニ隊の動きがイタリア軍に転機をもたらします。

このグラツァーニ将軍率いるイタリア軍に対し、エチオピア軍はラス・デスタ及びラス・ナシブ率いる合計八万の兵力をソマリランド方面に送り込んでおりました。
これはエチオピア軍全体の約四分の一ほどに上ります。
さらに塹壕構築や鉄条網の配置など野戦築城に造詣の深いトルコ人ウェヒブ・パシャを用い、頑強な野戦陣地を構築してイタリア軍を迎え撃つ準備をしていたのです。

このエチオピア軍に対し、グラツァーニは機動戦で対抗しようといたしました。
彼は指揮下の部隊を自動車化し、さらには馬やらくだまで用いて部隊の機動力を高めたのです。
そしてのちの第二次世界大戦でドイツ軍が用いたような電撃戦とも言うべき機動部隊による迂回包囲行動を行い、要塞化されていたコラヘという町を難なく陥落させたのです。

コラヘの陥落に驚いたラス・デスタは、グラツァーニ隊の後方を遮断して補給を断とうと考えました。
いかに精強な部隊でも、補給無しでは戦えません。
ラス・デスタはイタリア軍の補給拠点であるモガディシオに向かい部隊を送り出しましたが、これはイタリア軍の知るところとなってしまいます。
イタリア軍には空軍があり、また機動力の面でもグラツァーニ隊は優れておりました。
グラツァーニは空からラス・デスタの部隊に攻撃をかけて足止めし、自らは急遽引き返して、逆にこれを包囲いたします。
エチオピア軍は機動力に勝るグラツァーニ隊から逃れることはできず、包囲されて各個に撃破されていきました。

年が明けた1936年1月20には、ソマリランド方面のエチオピア軍の要衝ネゲリの町が陥落。
グラツァーニはここで部隊の休息と再編成を行います。
ソマリランド方面のエチオピア軍は、ほぼ壊滅状態に追い込まれてしまいました。

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  1. 2010/11/22(月) 21:26:26|
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エチオピア戦争(10)

1935年10月7日、国際連盟はイタリアとエチオピアの紛争はイタリアによる侵略行為であると認めました。
ですが、実際に効力のある経済制裁をイタリアに対して行うことはほとんどできませんでした。
しかし、このことはイタリアの首相ムッソリーニには焦りをもたらしました。
国際情勢が不利にならないうちにこの戦争を終わらせなくてはならない。
ムッソリーニはそう考えたのです。

ムッソリーニは、補給所や飛行場の完成を待ってから攻撃を再開しようというデ・ボーノ将軍に、早急に進撃を再開するように命じます。
さらには今後予想されるエチオピア軍の抵抗に対しては、毒ガスの使用も念頭において攻撃するようにと指示を出しました。
これはエチオピア軍が1907年のハーグ陸戦協定(戦争のときのルールを定めた協定)で使用しないと定められたダムダム弾(目標内部で弾頭が広がり大ダメージを与える弾丸で狩猟等にはよく使われるもの:炸裂するわけではない)を使用しているとの情報に基づき、それに対抗する手段として考えられたといわれます。
しかし、デ・ボーノ将軍は毒ガス使用については拒絶し、進撃も後方支援をしっかりさせてからにしてほしいとムッソリーニに再考を求めました。

ムッソリーニは再考する気などありませんでした。
彼は進撃を渋るデ・ボーノ将軍を解任し、新たにピエトロ・バドリオ元帥を総司令官に任命。
再度イタリア軍の進撃を求めました。

ムッソリーニの意を汲んだバドリオ元帥は進撃を開始。
イタリア軍は再びエチオピア内陸の首都アディスアベバへ向かいます。
ですが、その前にはエチオピア軍が待ち構えておりました。

アジクラット近郊から後退したラス・セイオームの部隊に加え、アディスアベバからラス・イムルが約四万の兵を従えて布陣。
皇帝の二番目の従兄弟ラス・カーサも軍勢を引き連れてラス・セイオームと合流し、さらに軍務大臣であるラス・ムルゲータも約六万という兵力を引き連れてイタリア軍を迎え撃つために向かっておりました。

両軍はそれぞれ三つの部隊に分かれて対峙します。
エチオピア軍の左翼ラス・イムルの軍勢に対してイタリア軍は第二軍団と第四軍団が、中央のラス・セイオームとラス・カーサの軍勢に対してはエリトリア師団が、右翼にやってきたラス・ムルゲータの軍勢に対しては第一軍団と第三軍団が布陣する隊形でした。

先手を取ったのはエチオピア軍でした。
勇猛果敢なラス・イムルの軍勢が浅瀬を渡河し、イタリア軍に奇襲をかけたのです。
予想外のエチオピア軍の行動にイタリア軍は混乱し、まともな対応ができませんでした。
混乱が恐慌を生み、イタリア軍は算を乱して潰走していきます。
これは戦意の低い植民地兵が多かったことも一因でした。

イタリア軍右翼を崩壊させたラス・イムルは、そのままイタリア軍中央を襲います。
ラス・セイオームとラス・カーサの軍勢もこれに呼応するようにイタリア軍を攻撃。
中央部にはエリトリア師団を置いていたイタリア軍は、これまた戦列を支えきれませんでした。

右翼と中央の崩壊に直面したイタリア軍総司令官バドリオ元帥は青ざめました。
このままでは全軍が潰走してしまいます。
彼は一時後退を命じるしかありませんでした。

とはいえ、混乱する味方を秩序だって後退させることなどできません。
イタリア軍は火砲も戦車も放棄して、マカレという補給所まで後退を余儀なくされてしまいます。

イタリア軍の崩壊の危機を救ったのは航空機でした。
戦場上空に飛来したイタリア軍航空機が、エチオピア軍に爆弾の雨を降らせたのです。
イタリア軍を追撃し崩壊させようとしたエチオピア軍でしたが、ここで追撃を断念せざるを得ませんでした。
イタリア軍はかろうじて全軍崩壊を免れます。

イタリア軍の侵攻は止まりました。
エチオピア軍は近代火力で武装した欧州の軍勢を撃破したのです。
これは欧州各国にとっても予想外のことでした。

ですが、イタリアはあきらめたわけではありません。
再度体勢を立て直して侵攻を続けるつもりでした。
そして、もはやなりふりかまってなどいられないとも思っておりました。
エチオピアに取り、苦しい戦いが待ち受けることになりました。

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  1. 2010/11/17(水) 21:38:40|
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エチオピア戦争(9)

1935年10月3日。
宣戦布告無しに始まった「(第二次)エチオピア戦争」は、イタリア軍の二方向からの侵攻で幕を開けました。
エミリオ・デ・ボーノ将軍率いる主力部隊はエリトリアから。
一方機動性に富むロドルフォ・グラツァーニ将軍率いる助攻部隊はソマリランドから侵攻します。
それぞれの目標は、デ・ボーノ将軍の主力部隊がエチオピアの首都アディスアベバであり、グラツァーニ将軍の助攻部隊はそれを支援しつつイタリアの勢力圏を増大させるというものでした。

デ・ボーノ将軍は、この侵攻のためにエリトリアの港マッサワから、エチオピアとの国境までの道路をトラックが通れるように改修しておきました。
また中間点のアスマラという地に補給所を設け、補給が滞りなく行えるようにしておりました。
そのため、開戦に際しても補給の面で問題となるようなことはありませんでした。

デ・ボーノ将軍率いるイタリア軍主力部隊は、怒涛の進撃でエチオピア国境を通過、エチオピア国内へと進みます。
しかし、迎え撃ってくるはずのエチオピア軍はおらず、イタリア軍は戦闘の無いまま丸二日間もエチオピア国内を無傷で進撃いたしました。

このエチオピア軍の反撃の無かった理由は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ一世の考えによるものでした。
彼はイタリア軍の行動が間違いなくエチオピア侵攻であることを確認するために、各地の軍勢に対して国境より一日以上の距離をとるよう通達を出していたのです。

イタリア軍の軍勢が最初にエチオピア軍の軍勢と出会ったのは、アジクラットという町でした。
ここにはセラシエ皇帝の義弟であるラス・ググサ率いる部隊が駐屯していたのです。

ところが、このラス・ググサはデ・ボーノ将軍の買収に応じ、イタリア軍はここでも無傷でアジクラットを確保します。
エチオピア内部もセラシエ皇帝に忠誠を誓う者たちばかりではなかったのです。

アジクラットを占領したイタリア軍は、さらに進撃を開始しますが、ここでようやくエチオピア軍が立ちはだかりました。
ティグレ州防衛の任を帯びた、ラス・セイオーム率いる軍勢がイタリア軍を迎え撃ったのです。

洞窟や谷間、荒地を利用して防御するエチオピア軍に、イタリア軍は当初から苦戦を免れませんでした。
しかし、近代的な火力と兵力の多さが、次第にエチオピア軍を圧倒し、ラス・セイオームは部隊を後退させざるを得なくなります。

ラス・セイオームの部隊を後退させたイタリア軍は進撃を再開。
アジクラットから約80キロ進撃したところでいったん停止をいたします。
ここで再度補給所を設置し、進撃体制を整えるつもりでした。

10月7日、国際連盟はイタリアの軍事行動を侵略と断定。
イタリアに対して経済制裁を行うことを決定しました。
しかし、これは石油などの重要物資には適用されず、イタリアにそれほど影響を与えるものではありませんでした。
たとえ適用したとしても、アメリカなど国際連盟に未加盟の国から購入することができることに加え、英仏がドイツに対するのと同様宥和政策を行ったことによるものでした。

国際連盟はイタリア・エチオピア両国に和平案(ホーア・ラヴァル案)を提案しますが、この案は実質エチオピアの植民地化を容認するものと受け止められたため、エチオピアはこの提案を拒否します。
こうして国際連盟による戦争終結の努力はほとんど実を結ぶことはありませんでした。

とはいえ、この国際連盟の動きは、イタリアの首相ムッソリーニの危機感をあおることになりました。
ムッソリーニはこの戦争が長引くことで国際的に不利になることを恐れ、迅速にこの戦争を終結させようと考えます。

しかし、現地主力部隊の指揮官であるデ・ボーノ将軍は、急激な進軍は部隊に過重な負担を強いるとして後方支援体制を整えてからの進撃を主張。
補給所ばかりではなく、補給に使う道路の整備や前線飛行場の設置など長期にわたる後方整備を行おうと考えておりました。

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  1. 2010/11/11(木) 21:06:23|
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エチオピア戦争(8)

イタリアの侵略行為に対し、戦争もやむなしとして着々と開戦準備を行っていたエチオピアは、国家総動員を発令して約三十五万人という軍勢を集めました。
しかし、その大半は充分な訓練をされていない新兵同然の兵士であり、その武器も弓矢や槍といったものがまだまだ幅を利かせておりました。

一方エチオピアに攻め込もうとしていたイタリア軍ですが、開戦時点ではアフリカの地方国家相手には充分すぎるほどの軍勢を送り込んできておりました。
イタリアは主戦線をエリトリアからの侵攻に置いており、エリトリアには陸軍五個師団を中核にして、ファシスト党の私兵集団を軍隊に格上げした黒シャツ隊を五個師団、計十個師団という兵力をそろえます。
また、副戦線であるソマリランドにも陸軍一個師団を派遣し、黒シャツ隊も大隊規模で数個送り込んでおりました。

イタリア軍の総兵力はおよそ二十万。
火砲は約七百門。
戦車は約百五十両。
航空機も同じく百五十機ほどが配備されておりました。
さらに、現地徴収兵で構成されたアスカリ部隊が二個師団以上の兵力を持っておりました。

とはいえ、多くのアスカリ部隊を構成する現地人兵士は士気も低く武装も貧弱であり、また戦車も戦車とは名ばかりの機関銃のみを装備した機関銃搭載装甲車といってもいいような代物でしたので、見た目ほどの戦力があるわけではありませんでした。

この当時、欧州の各国軍の一般的な師団編成は、連隊を三個合わせてそれに補助部隊(機関銃などを装備する重装備大隊や偵察大隊、支援砲撃をする砲兵中隊や補給部隊など)が付随するという「三単位編成師団」と呼ばれるものでした。
イタリア軍も基本は三単位編成師団でありましたが、いくつかの師団は連隊を二個しか持たない「二単位編成師団」でした。
これは、通常一個師団が戦闘を行うときには、三個連隊のうち前線に二個連隊を出して、残り一個連隊は予備に回すというやり方をするのですが、二単位編成師団はその予備に回す連隊を削除することで、三単位編成師団よりも小回りが利き補給も少なくてすむという利点があるとみなしたものでした。
この二単位編成師団は、この「(第二次)エチオピア戦争」ではそれほど問題とはなりませんでしたが、のちの第二次世界大戦ではやはり戦力不足が露呈して悲惨な状況になってしまったといいます。

イタリアは、額面的には兵力数でそれほど遜色ない数を誇り、砲や車両、航空機も数的には圧倒的な数を集めておりましたが、その実力はそれほど高いものではなかったのです。

1935年10月3日、宣戦布告なしにイタリア軍がエリトリアからエチオピアへと進撃を開始します。
司令官はエミリオ・デ・ボーノ将軍。
彼は今回のイタリア軍総司令官ではありましたが、ソマリランド方面の部隊を指揮するのは無理があるため、このエリトリア方面からの部隊を主に指揮しておりました。
エリトリア方面からの部隊は総数十二万五千。
ですが、その中にはアスカリ部隊も多く含まれておりました。

一方ソマリランドからは、ロドルフォ・グラツァーニ将軍率いる助攻部隊が進発。
こちらは主力部隊とは異なり兵力は少ないものの、機動戦の何たるかを知っているグラツァーニ将軍は麾下の部隊を機械化機動部隊として編成し、その機動力でエチオピア軍を翻弄する作戦を行います。
また、こちらの方面に配されたアスカリ部隊は、主にリビア人を中心としたアスカリ部隊であり、士気も戦力も高い有力な兵力としてグラツァーニを助けました。

こうして「第二次エチオピア戦争」が始まったのです。

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  1. 2010/10/26(火) 21:25:43|
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エチオピア戦争(7)

チリの鉱山事故は33人全員が無事に救出されましたね。
なんにしてもよかったです。

今日はエチオピア戦争の7回目です。

イタリアの首相に就任したムッソリーニでしたが、世界恐慌に端を発する国内問題の解決はなかなか難しく、失業者対策と経済対策を同時に行う必要性に駆られておりました。
そこでイタリアは失業者などの余剰人口対策と資源奪取のために植民地獲得を行うことを考え、アフリカでまだ独立を保っていたエチオピアに目をつけます。

エチオピアは地理的位置としてイタリアの植民地であるエリトリアとソマリランド(現ソマリア)に北と東をはさまれるような形になっており、侵攻しやすい状況でした。
また、(第一次)エチオピア戦争での敗北という屈辱を払拭するという意味からも、国民の支持を受けやすいものでした。
イタリアはエチオピアに対する領土的野心をじょじょにむき出しにしていき、エチオピアの国境を侵食し始めます。

イタリアは、まずイタリア領ソマリランドとエチオピアとの国境線を策定した条約に目をつけ、海岸線から12リーグ(リーグは距離の単位:1リーグは3マイル約4.8キロメートル)と定めた国境線の位置を、このリーグは海上におけるリーグ(海上でのリーグは1リーグが3海里約5.4キロメートル)であるとして、国境の位置をずらしてしまいます。
そしてオガデン地方のオアシスであるワルワルに拠点を築き、軍の一部を進出させました。

さらにイタリアは既成事実を作るかのようにエチオピア領内に道路を作るなどし、土地を侵食していきます。
エチオピアはこのイタリアの行動に抗議を行い、イタリア領ソマリランドの隣に位置する英領ソマリランドの英国人を巻き込んでイタリアを非難しますが、国際紛争化を恐れた英国はすぐに手を引いてしまいました。

1934年12月、ワルワルでエチオピア軍とイタリア軍が衝突。
双方に死傷者を出す「ワルワル事件」が発生します。
このことでエチオピアはついに翌1935年1月3日にこの国境問題をイタリアの侵略として国際連盟に提訴。
一方イタリアは、今後のアフリカでの行動に掣肘を受けないよう、1月7日にフランスとの間に協定を結びます。

さらにイタリアは英国との間にも根回しを行い、ほぼエチオピア侵略についてのフリーハンドを得ることに成功。
その間国際連盟はこの問題を「アビシニア問題」として紛糾いたしましたが、結局は英仏の宥和政策がものをいい、9月になって国際連盟の仲裁委員会が下した結論は、当事者双方に責任なしというあいまいなもので、成り行きに任せるしかないというものでした。

国際連盟が紛糾している間も、イタリアは着々とエチオピア侵攻に向けて軍を動かしており、エリトリアとソマリランド双方からエチオピア国境に向けてイタリア軍が集結を始めておりました。
ここにいたりエチオピア皇帝のハイレ・セラシエ一世は、もはやイタリアとの戦争は避けられないと判断。
国家総動員令を発令いたします。
ついに戦争は時間の問題となりました。

この時点でのエチオピア軍の戦力は、おおよそ三十五万名というところでした。
その大半は各部族を中核とした非正規の部隊で、国家から与えられる旧式のライフルと、自前で装備する刀や槍、それに盾というものでした。
中には旧式の火砲を装備していた部隊もあったといいますが、総じて火力は低く、また彼らは勇猛な戦士ではありましたが、きちんとした訓練を受けたものは少なく、その質もばらばらでありました。

エチオピア軍で唯一近代欧州軍に対抗できたのは「皇帝親衛隊」でした。
約三万五千名の兵力を持つ彼らは、第一次世界大戦時の英国軍に似た軍服と個人装備を身に着けておりましたが、ヘルメットはかぶらず、靴も戦闘時には脱いで裸足になって戦うという戦い方をしておりました。
とはいえ、彼らの装備は優秀で、小銃はフランス製の新式のものを持ち、81ミリの迫撃砲や75ミリの野砲も装備しておりました。
また空に対する備えもあり、ヴィッカース社の40ミリ対空機関砲やエリコン社の20ミリ機関砲といった優秀な対空砲を装備しておりました。
さらに第一次世界大戦型でごく少数しかないとはいえ、イタリア製のフィアット3000型戦車まで持っており、イギリス製の第一次大戦型装甲車もありました。
こういった装備を持つ皇帝親衛隊は、イタリア軍に何の遜色もなかったのです。

エチオピア軍にはもう一つ、変わった部隊がありました。
英語で「Army of Ministries」と呼ばれるもので、直訳すると「エチオピア閣僚軍」ということになるのですが、各政府官庁の職員を武装して編成した部隊なのです。
一見ただの武装した事務員というイメージなのですが、なかなかどうして、充分に戦力になったというのですから、エチオピア人の中に流れる戦士の血は侮れません。
約一万名からなり、武装は新式小銃のほかに、若干の新式火砲を装備していたといいます。

こうしてエチオピア軍は、イタリア軍を迎え撃つ準備を進めていきました。

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  1. 2010/10/14(木) 21:11:25|
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エチオピア戦争(6)

エチオピアで、新皇帝に即位したハイレ・セラシエ一世が、国内で富国強兵に邁進しているころ、イタリアでも一人の人物が脚光を集め始めておりました。
ベニート・ムッソリーニです。

青年時代にスイスでウラジーミル・レーニンと知り合ったムッソリーニは、レーニンからさまざまなことを学び、それによって政治運動に身を投じることになりました。
イタリアに戻った彼はイタリア社会党に入党し、そこで党中央紙の編集長を務めるなど辣腕を発揮。
「ドゥーチェ」(指導者・統領)というあだ名をすでにこのころからつけられ、若手党員の筆頭としてその実力を認められておりました。

もともとマルクス思想を引き継いでいたムッソリーニでしたが、時を経るに従い民族の団結が社会的繁栄を約束するとして民族主義的社会主義へと思想が変化していきました。
「第一次世界大戦」では、この戦争がイタリア人の民族意識を高めるとして参戦を主張。
これが中立を主張していたイタリア社会党と衝突を引き起こすことになり、ムッソリーニは党を除名されてしまいます。

社会党を除名されたムッソリーニでしたが、その後も左翼運動家として参戦運動を続け、実際にイタリアが第一次世界大戦に協商国側として参戦すると、志願兵として従軍。
軍曹にまで昇進するも重傷を負って戦場を離れることになりました。

戦後は再び政治運動に身を投じ、武力による権力闘争を繰り広げることになります。
そして「黒シャツ隊」と呼ばれる部隊を駆使して勢力を拡大。
選挙による議席も増やしていきました。

1921年には「国家ファシスト党」を設立。
自ら統領に就任して政治の実権を握ろうと考えます。
1922年、ムッソリーニはのちに「ローマ進軍」と呼ばれる行動に移りました。
これは黒シャツ隊を中心とした武力集団により各地の警察署や郵便局、役所、鉄道などを占拠して、反ファシズム派を威圧しながらローマに向かうことで自分を首相にするように政府に圧力をかけようというものでした。

しかし、「進軍」自体はうまくいかず、軍にローマに向かう列車を止められてしまうなどお粗末なもので、ムッソリーニは落胆いたしましたが、「進軍」を行おうとしたムッソリーニに脅威を感じた国王エマヌエーレ三世が組閣を命じてしまい、ここにムッソリーニはイタリアの首相として政権を握ってしまいます。

首相となったムッソリーニは、自分の足元を着々と固めていきました。
1923年には選挙法を改正。
これによって全得票数の25パーセント以上を得た第一党が議会の議席の三分の二以上を占めるという強引な手法で国家ファシスト党が議席を独占。
さらには労働組合の解散や政敵への弾圧を続け、1928年にはほぼ権力がムッソリーニに集中するシステムを完成し、独裁体制が整いました。

しかし、ムッソリーニが権力を手にした翌年、1929年にアメリカで大恐慌が起こります。
この影響は欧州にも及び、せっかく第一次世界大戦後に回復してきていたイタリアの景気もどん底に落ち込むことになりました。
失業者は膨れ上がり、公共事業への財政支出は増え、企業の国有化も進めなければなりませんでした。
特に農民は凶作と恐慌の二重の打撃を受けており、その救済が急務となっていきました。
ムッソリーニはどこかでこういう状況を打破する必要に駆られていたのです。

こんな状況下でムッソリーニの目に留まったのはアフリカでした。
しかし、イタリア唯一の植民地であるリビアは土地に力がなく魅力ある場所ではありませんでした。
一方、エチオピアは土地が肥えており、疲弊した本土の農民を送り込むには最適の場所と考えられました。
また地下資源も豊富と考えられ、エチオピアを植民地にすることでイタリアの現状を打破できると考えたのです。

ムッソリーニは「ローマ帝国の復興」を旗印にして国民を鼓舞しようとしておりました。
そのスローガンの下でエチオピアを植民地にすることは理にかなったものと考えておりました。
また、1896年の(第一次)エチオピア戦争における「アドワの戦い」で受けた敗北をムッソリーニやイタリア国民は忘れてはおりませんでした。
こうしてイタリアは国内問題の解決と「アドワの復讐」を遂げるため、エチオピアへの侵攻を考えるようになるのです。
再度のエチオピア戦争の火種がくすぶり始めました。

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  1. 2010/10/08(金) 21:13:24|
  2. エチオピア戦争
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エチオピア戦争(5)

しばし間が開いてしまいましたが、その後のエチオピア戦争のことを記述していこうと思います。

「アドワの戦い」において、回復不可能なほどの大損害を受けたイタリアは、クリスピ首相が辞任して新政権がエチオピアとの間に「アディスアベバ条約」を結び、(第一次)エチオピア戦争は終わりを告げました。
エチオピアはイタリアの侵略を跳ね返し、英仏とも交渉を行って独立を保持することに成功します。

エチオピアの独立保持は、英仏にとってもイタリアにとっても好ましいものではありませんでした。
アフリカをすべて植民地として切り分けようとする欧州諸国にとって、エチオピアが手の出せない国として存続することは望ましいものではなかったのです。
しかし、英仏もイタリアもエチオピアに目を向けるような余裕はなくなりました。

「第一次世界大戦」の勃発です。
欧州各国は未曾有の大戦争に巻き込まれ、国力を疲弊していきました。
アフリカの一国などかまっている余裕はありません。
エチオピアはこの時期、欧州からの干渉をほとんど受けずに過ごすことができました。

第一次世界大戦の直前の1913年、(第一次)エチオピア戦争でイタリアの侵略を退けた皇帝メネリク二世が崩御します。
メネリク二世は、すでに1907年には後継者として孫のイヤス五世を定めていたので、崩御後はすぐにイヤス五世がエチオピア皇帝として即位します。

しかし、イヤス五世の治世は短いものでした。
このころエチオピアにはキリスト教の一派であるエチオピア正教会が帝国の国教として定められていましたが、イヤス五世はイスラム教徒であり、キリスト教の儀式での戴冠を拒否。
さらに国教であるエチオピア正教会を圧迫し、イスラム教国であるオスマン帝国と同盟を結ぶというイスラム教を重視した国家運営を行います。

さらに隣国ソマリアで反乱を起こしていたイスラム教徒を支援しようとするなどの政策が問題視され、ついにエチオピア正教会がイヤス五世を退位に追い込みました。
1916年、イヤス五世は幽閉され退位。
前皇帝メネリク二世の娘のザウディトゥが実権を握り、翌1917年に新皇帝として即位いたしました。

ザウディトゥはメネリク二世の従兄弟の子ラス・タファリ・マコンネンが聡明で若くして各地の知事などを務めていたことなどから、彼を手元において重用し、摂政兼皇太子という立場を与えます。
ラス・タファリは国内政策の傍らで、第一次世界大戦が終わった後の1924年には欧州を訪問し、エチオピアを戦後の国際関係である「国際連盟」へと加入させました。
これはひとつには戦後またしてもアフリカに目を向け始めたイタリアや英仏に対抗するためとも言われ、アメリカや当時の大日本帝国にも接触を果たしたといわれます。

1928年、女帝ザウディトゥは政治の表舞台から引退し、後事をラス・タファリにゆだねました。
そして1930年、ザウディトゥの死にともない、ラス・タファリは正式にエチオピアの皇帝へと即位します。
ハイレ・セラシエ一世の誕生でした。

セラシエ一世は、国内の富国強兵に努めます。
それまでのエチオピア軍は、各部族の勇敢なる若者たちで構成されておりました。
諸部族との戦いで磨かれた戦士たちは勇猛果敢で死を恐れぬ男たちでした。
彼らは主に部族単位で構成された大隊を中核とし、大隊が8から10集まって師団を作っておりました。

しかし、部族単位ということで一見柔軟なこの構成も、部族間に確執があったりすると部隊間の連携が取れなくなったり、有能な指揮官のいる部族といない部族の差が顕著でありすぎたりなど問題を抱えておりました。
また、慢性的に兵站能力が不足しており、待ち伏せ戦術は巧みでも、攻勢に出るには力不足でありました。
概してエチオピア軍はそれぞれが戦士であり兵士ではないことが問題だったのです。

欧州を訪問したセラシエ一世の目には近代化された欧州の軍が映りました。
彼は今のままではいけないと感じ、エチオピア軍の近代化を進めます。
ベルギー及びスウェーデンから軍事顧問団を派遣してもらい、軍事教練に当たってもらいました。
武器も新式のものを購入していきました。
そして当時のフランス軍を模した歩兵、砲兵、騎兵からなる皇帝親衛隊も設立しました。
これは各部族から選抜された精鋭からなる部隊であり、それぞれの部族よりも皇帝に忠誠を誓う若者たちで構成されておりました。
この皇帝親衛隊約三万五千が、今後の戦いで中核を担うことになっていくのです。

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  1. 2010/10/07(木) 21:12:47|
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