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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

スペイン内戦(7)

「エブロ川の戦い」でフランコ側ファシスト軍に大損害を与えた人民戦線側でしたが、踏みとどまったファシスト軍に対し、人民戦線側はもはや攻勢を行なう力を失っておりました。
人民戦線側にとって最後の望みは、ヒトラー率いるドイツがチェコスロバキアに対しておこなった領土割譲要求を英仏が拒否することで第二次世界大戦が始まり、ファシスト軍に対抗する人民戦線に英仏の支援が行なわれるというものでありましたが、9月におこなわれたミュンヘン会談の結果は人民戦線の期待を裏切るものでした。
英仏はヒトラーのドイツに宥和政策で望み、第二次世界大戦はまだこの時点では起こらなかったのです。

それどころか英仏は、ソ連が広げつつある共産主義という脅威に対して、ファシストが防波堤の役目を果たしてくれるとまだ考えており、ソ連の影響下に置かれてしまった人民戦線を逆に不安の目で見ていたのでした。
その結果、人民戦線への英仏の支援の望みは無くなり、もはや人民戦線が頼るのはソ連だけという状況になりますが、ソ連とのつながりが強くなればなるほど、スペインの民衆からは支持されなくなって行きました。

1938年10月、人民戦線側の大攻勢をしのぎきったフランコは、ファシスト軍に反撃を命じます。
勢力を使い果たしていた人民戦線軍の陣地は瞬く間に突破され、ファシスト軍は各地で人民戦線軍を敗走させました。
人民戦線側は態勢を立て直すこともできず、戦いは一方的なものだったといいます。

12月にはファシスト軍はカタロニア地方への攻撃を開始。
翌年の1939年1月末には大都市バルセロナがついにファシスト軍の攻撃に陥落いたします。
人民戦線政府の首脳や人民戦線側と行動を共にする人々は、冬のピレネー山脈を徒歩でフランスに落ちのびていきました。

2月には英仏がフランコの政権を承認し、人民戦線政権は崩壊。
スペインの政権はフランコにあると認められました。

3月、フランコは内戦の終結を目指し、マドリッド攻略に取り掛かります。
今回もマドリッド攻防戦は熾烈を極めるものの、ここにいたってもなお徹底抗戦をおこなおうとするスペイン共産党と戦意をなくしていたアナーキスト派による内紛が発生。
もはや統制の取れない状態の人民戦線側に勝ち目があろう筈がなく、3月28日にはついにマドリッドは陥落、人民戦線側の最後の砦も失われました。

3月30日にはフランコがマドリッドに入城。
4月1日をもってスペイン全土に内戦の終結が宣言されました。
ここに1936年から足掛け3年にわたってスペイン全土に吹き荒れた内戦は、ようやく終結を見たのでした。


内戦終結後もフランコは人民戦線側の残党を弾圧して行きました。
多くの人民戦線派の人々が投獄され、死刑になったといいます。
ある統計では、この内戦で60万人の死者が出たとされますが、そのうち戦死は10万人にしかならず、2万人が人民戦線側のテロにより、20万人がフランコ側のテロにより死亡し、空襲や内戦中の食糧事情の悪化で栄養不良により死んだ人などが6万人、そしてフランコ側に投降後病死や処刑などにより死んだ者が20万人だったとされてます。
バスク地方とカタロニア地方の自治権は取り上げられ、バスク語やカタロニア語も使用を禁じられました。
このような状況により、スペイン国外へ逃亡した人はかなりの数に上ったといいます。

スペインはこの後の第二次世界大戦や東西冷戦期を、フランコによる独裁政権で過ごします。
フランコはスペイン総統として独裁を行い、1975年に83歳でその生涯を閉じました。
彼は独裁者としての自分の後継者は作らず、かつての国王の孫であるフアン・カルロスを後継者に任命。
フアン・カルロスはフランコの遺言に従い、国王フアン・カルロス一世として即位。
そのため、フランコ没後はスペインは王政復古により王国へと変わります。
(ただし、国名はスペインとされ、スペイン王国という呼び方はしません)

フアン・カルロス一世はフランコの独裁路線を継承せず、スペインを民主化された立憲君主国へと導き、現在のスペインへと変えて行きました。
スペインはようやく近代化を終えたのです。

スペイン内戦 終

                   ******

参考文献
「スペイン内戦」 歴史群像2000年夏・秋号 学研


参考サイト
「Wikipedia スペイン内戦」
「Wikipedia フランシスコ・フランコ」
「Wikipedia 国際旅団」
「裏辺研究所 歴史研究所内ヨーロッパ史スペイン内戦」
「スペイン内戦とその影響 酒井 輝」


今回もお付き合いいただきましてありがとうございました。
資料の簡易的な引き写しですが、ある程度スペイン内戦のことを知っていただけましたなら幸いです。
  1. 2010/07/02(金) 21:27:27|
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スペイン内戦(6)

ファシスト軍がコンドル軍団によるゲルニカ爆撃を経てバスク地方に対する攻撃を強めていたころ、ファシスト軍内において初期に指導者的役割を果たしていたモラ将軍が、飛行機事故によって亡くなりました。
このモラ将軍の事故死は、フランコによるものではないかとの憶測も飛び交いましたが、それを裏付けるものはなく、結局以後ファシスト側勢力はフランコに権力が一極集中していくことになりました。

それに対し人民戦線側内部では、権力争いが続いておりました。
もともと多数の左派勢力の連合である人民戦線では、各党派がそれぞれ民兵を指揮してばらばらに戦っているようなありさまであり、味方であっても他党派の部隊が敗れるとそれを喜ぶような雰囲気さえあったのです。
そのような中で、軍事援助を中心としたソ連の影響力は大きく、スペイン共産党が急激に人民戦線内で勢力を伸ばしました。
人民戦線結成時には小さな党であった共産党の躍進に対し、独自の論理を持つアナーキスト派は脅威を感じ対立を深めます。
ついに人民戦線内での分裂は歯止めが利かなくなり、1937年5月、バルセロナにおいて人民戦線内での内戦とも言うべき武力衝突がアナーキスト派と共産党の間に発生。
双方合わせて500名もの死傷者を出すという凄惨な衝突となりました。

スペイン共産党の後押しをするソ連は、これまでもさまざまな介入を人民戦線に対しておこなってきましたが、このあたりから人民戦線の内部抗争にも介入していくようになります。
5月17日に共産党の後押しでファン・ネグリンが首相に就任した人民戦線政権は、ソ連の秘密警察NKVDによって対立する派閥の有力者を次々と暗殺するという強硬手段に訴えました。
これにはアナーキスト派も対抗しえず、人民戦線はほぼ共産党に支配されることとなりました。

このソ連の露骨な介入と人民戦線内部の権力闘争は、諸外国と国民の失望を誘うのには充分でした。
共産党の理念に賛同する共産党員は増大していたものの、一般民衆に対する影響力はじょじょに低下していくことになったのです。

一方フランコは対外的な影響を考え、カトリック教会を擁護する姿勢を見せました。
これによってカトリック教会はフランコのファシスト政権を容認し、スペイン内の敬虔なカトリック信者を取り込んでいくことに成功します。

1937年7月のマドリッド西方の「ブルネテの戦い」では、人民戦線側の繰り出してきた百両以上ものソ連製戦車に対し、ファシスト軍は少ないながらも自軍の戦車を効率よく使うことで大損害を与えることに成功します。
人民戦線側は政治上でも軍事上でもファシスト側に押され始めていたのでした。

1937年10月にはスペイン北部バスク地方が陥落し、ファシスト軍はスペイン全土の六割を掌中にいたしました。
さらに翌年1938年に入ると、ファシスト軍は北部カタロニア地方と南部地域の間に楔を打ち込むように進撃。
バレンシア地方の北でついに地中海へと達し、カタロニア地方を切り離しました。

1938年4月15日には「ビナロスの戦い」が発生。
ここではドイツ製の88ミリ高射砲が人民戦線側の戦車を次々と撃破したといいます。
人民戦線側はここでも手痛い敗北を喫することになりました。

もはやこれ以上の勢力圏喪失は許されない人民戦線は、ファシスト軍に対して乾坤一擲の大反撃をおこなうことにいたします。
1938年7月25日、人民戦線側の軍勢がエブロ川を渡河。
分断されたカタロニア地方との連絡を取り戻そうといたします。
この「エブロ川の戦い」に人民戦線側は持てる最大の力を投入いたしました。
その兵力は10万といわれ、カタロニア地方に孤立していた人民戦線側の戦力もファシスト軍の背後から攻め込みました。

前後から挟撃される形になったファシスト軍は、緒戦で大きな損害をこうむりました。
しかし、すでに人民戦線側に対して大きな兵力差を持つにいたっていたファシスト軍は、各地から増援を送り込むことでこの危機を乗り越えます。
逆にあとに続く兵力の無い人民戦線側は、じょじょに攻撃が先細りになって行きました。

戦いは10月までずるずると続けられますが、もはや人民戦線側には勢いはなく、戦線はこう着状態に陥ります。
さらにその間には衝撃的なニュースも人民戦線側には飛び込んでまいりました。
9月におこなわれた英・仏・伊・独四ヶ国の国際会談ミュンヘン会談で、英仏はドイツの主張するチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を認め、それによってドイツとの融和を図ることがはっきりしたのです。
それは英仏が人民戦線を支援しないということであり、さらに政治的な思惑から国際旅団も解散へと追い込まれてしまいます。

国際旅団の参加メンバーのうち、解散後も約一万人ほどが終戦まで義勇兵として戦いましたが、多くはこの時点でそれぞれの母国へと戻りました。
しかし、彼らのその後は決して恵まれたものではなく、その多くが「共産主義者」として危険分子と見なされたり、「トロツキスト」として粛清されてしまったといいます。
小説家のアーネスト・ヘミングウェイもこの国際旅団に参加しており、のちにこのときの経験を元にして「誰がために鐘は鳴る」を執筆いたしました。

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  1. 2010/06/28(月) 21:32:31|
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スペイン内戦(5)

人民戦線側は国際旅団やソ連による軍事援助、それに何よりマドリッド市民の力によって首都マドリッドを守りきることができました。

1937年の3月におこなわれた「グアダラハラの戦い」では、フランコ率いるファシスト軍のドイツ製戦車やイタリア製戦車は、人民戦線側のソ連製戦車にはまったく歯が立ちませんでした。
ファシスト軍はドイツ製の37ミリ対戦車砲や88ミリ高射砲、さらには「モロトフのカクテル」と呼ばれる火炎瓶を持ってソ連軍戦車に対抗しましたが、攻撃はじょじょに先細りとなり、ついにはマドリッド攻略をあきらめざるをえませんでした。

フランコは戦略を練り直し、人民戦線政府との長期戦を戦う覚悟を決めました。
そのため、スペイン北部のバスク地方を人民戦線政府から切り離し、ここを制圧することにいたします。
バスク地方を含むスペイン北部は、鉱山や工業地帯、港湾など重要な拠点があり、ここを制圧することは長期戦に大きな影響を与えると考えられたからです。

しかし人民戦線政府はこのフランコの戦略に対応することができませんでした。
できなかったというよりもしなかったのです。
バスク地方は今でも自主独立の気風が強く、当時も自治政権が存在しておりました。
人民戦線政府はその自治政権とも折り合いが悪く、人民戦線政府内ではバスク地方を助ける必要なしという気運が醸成されていたのです。

人民戦線側から切り離される形になったバスク地方に対し、フランコはゆっくり着実に制圧することを目指しました。
ファシスト軍は空陸一体となっての進撃でバスク地方に侵攻。
この内戦を自軍兵器の実験場と考えていたドイツは、義勇空軍である「コンドル軍団」が航空機による地上爆撃を何度となくおこなっておりましたが、1937年の4月26日、バスク地方の一地方小都市であるゲルニカに対する爆撃を行ないました。

ゲルニカは小都市とはいえ交通の中継地として戦略上の要所であり、人民戦線軍はまったくいなかったものの、通信所などの軍事目標があったといいます。
しかし、コンドル軍団による爆撃は、こういった軍事目標を狙ったものではありませんでした。

4月26日の夕方、ドイツ軍のハインケルやユンカースと言った爆撃機がゲルニカの中央広場上空に現れます。
これらは三時間にわたって無差別に爆撃を行い、低空で機銃掃射まで加えました。
ゲルニカの町は大きく破壊され、当時の市民約七千人中千六百人以上が死亡、九百人近くが負傷したと言われます。(諸説あり)
これは大規模無差別都市爆撃の先例とされており、世界でこのことが報じられると、ファシスト軍とコンドル軍団に対する非難が沸き起こりました。
第一回目で記事にしましたパブロ・ピカソによる絵画「ゲルニカ」は、このゲルニカ空襲に対する非難の意を込めて描かれたものでした。
また、そのほかにも多くの知識人がゲルニカ空襲を非難し、国際旅団への義勇兵志願も増えたといいます。

各国の非難に対し、ファシスト軍はバスク地方の民族主義者やアナーキストがおこなった犯行であり、我が軍は関与していないとの報道をおこない、一部ではそう信じ込ませることに成功したものの、現在ではゲルニカ空襲はコンドル軍団によるものと判明しております。
さらにコンドル軍団やイタリアの爆撃隊は、この後もスペイン北部で都市爆撃を行ないました。

ゲルニカへの都市空襲は、バスク地方でのファシスト軍に対する抵抗を打ち砕きました。
これ以後バスク地方の都市はファシスト軍の攻撃に次々と陥落していくことになります。
6月にはビルバオが、8月にはサンタンデールが、10月にはヒホンが陥落し、ゆっくり着実にを目指したフランコは、1937年10月の終わりにはバスク地方を含むスペイン北部をほぼ制圧することに成功したのでした。

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  1. 2010/06/22(火) 21:26:33|
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スペイン内戦(4)

右派ファシスト勢力に対抗するために連合を組んだ人民戦線政府側は、当初から内部分裂の危険をはらんでおりました。
それはやがて自由主義・社会主義の派閥と、アナーキスト・共産主義の派閥に分かれ、人民戦線内部でも権力争いに発展していきます。
このため、内戦に際して両派の分裂を阻止すべく、ヒラル内閣に代わってカバレロ内閣が成立します。
カバレロは社会党でしたが、アナーキストや共産党員も主要閣僚に取り込み、どうにか両派の分裂を防ぎました。

陸軍の将軍であったモラやフランコが指揮するファシスト軍は、主として陸軍の兵士が所属しておりました。
そのため人民戦線政府軍は、主に労働者が銃を取って戦うという民兵を主戦力として戦わざるを得ませんでした。
彼らはファシストへの対抗心は高かったものの、軍事的技量は未熟であり、数は多かったものの戦力としてはあまりあてにはならないものでした。
ですが、そんな彼らも防御に回るととてつもない粘りを発揮することもあったのです。

1936年10月末。
フランコは内戦の早期終結を図るべく、スペインの首都マドリッドに対する攻撃を開始します。
これに対し人民戦線政府は早々にマドリッドからバレンシアへと疎開。
ですが、市民と人民戦線政府軍の民兵は、マドリッドを守るために必死の防戦を行ないました。
これには反ファシストの国際旅団も参加し、各国からやって来た義勇兵がファシスト軍と戦います。
国際旅団は50以上の国の義勇兵からなっており、多くはそれぞれの国の共産党員でしたが、ヘミングウェイなどの小説家など著名人や知識人も参加しておりました。
しかし、のちには人民戦線政府によりこうした知識人は投獄されるなどし、共産党員以外はいなくなっていったといいます。

国際旅団と民兵及び市民の必死の防戦、それにソ連からの軍事援助がマドリッドに届くようになると、ファシスト軍の攻撃は撃退され、こう着状態に陥りました。
ソ連からの軍事援助が予想外に人民戦線軍を強化していることを知ったファシスト軍は、ドイツ人義勇航空軍団「コンドル軍団」を結成したり、ドイツ製の一号戦車やイタリア製のCV33戦車を戦場に投入しましたが、これらの戦車の主武装は機関銃しかなく、人民戦線軍の投入してきたソ連製のT-26戦車やBT-5戦車にはほとんど通用しませんでした。
逆にT-26やBT-5は45ミリ砲という当時としては強力な主砲を搭載しており、1000メートル離れた地点からでも、容易に一号戦車やCV33戦車を撃破することができました。
このためファシスト軍は、戦車戦ではほぼ一方的に敗北することが多く、以後人民戦線軍の戦車に対しては対戦車砲や88ミリ高射砲で対抗するようになって行きました。

結局ファシスト軍は人民戦線軍の守るマドリッドを攻略することはできませんでした。
フランコは短期決戦での内戦の終結をあきらめ、長期戦に備えて戦略の練り直しをおこないます。
それはイベリア半島北部の港湾や鉱山、そして工業地帯の制圧を図り、人民戦線政府を疲弊させるというものでした。

マドリッド防衛は人民戦線政府側に一応の勝利をもたらしました。
しかし、このことはソ連からの軍事援助が大きく作用したことは間違いなく、人民戦線政府内では共産党の発言力がいやが上でも増しました。
さらに国際旅団を率いていたエミリオ・クレーベルという将軍も実はソ連人の軍事顧問であり、国際旅団だけではなく、人民戦線政府軍内ではソ連人軍事顧問が実権を掌握していくことになります。

1937年の春になると、フランコの新戦略が動き始めました。
ファシスト軍はスペイン北部のバスク地方に戦線をしき、人民戦線政府から切り離します。
孤立したバスク地方でしたが、人民戦線政府はバスク地方の救出をおこなおうとはしませんでした。
バスク地方には当時自治政府がおかれており、その自治政府と人民戦線政府との関係が悪化していたのです。

邪魔が入らないことを理解したファシスト軍はじっくりとバスク地方を攻略していく予定でしたが、そこである事件が起きました。
ドイツ義勇空軍「コンドル軍団」による「ゲルニカ」爆撃でした。

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  1. 2010/06/18(金) 21:46:43|
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スペイン内戦(3)

モロッコで叛乱軍と合流し、その指揮官に収まったフランコでしたが、意気揚々とスペインに乗り込もうと思った彼の軍勢はいきなり出鼻をくじかれる形となりました。
モロッコとスペインの間にはジブラルタル海峡があり、地中海が彼らの前には横たわっていたからです。
当初叛乱軍は海軍の部隊が味方してくれるものと期待しておりましたが、案に相違して海軍の主たる部隊は人民戦線側についてしまったのです。
ファシスト側の右派勢力に付いたものもあったとは思いますが、フランコの部隊を対岸のスペインに送るには安全に海上輸送ができることが前提であり、海軍が味方にいないフランコの部隊はモロッコで立ち往生となってしまったのでした。

フランコの部隊がモロッコに足止めされている間に、スペイン本土では人民戦線側の攻勢が強まりました。
各地で沸き起こったファシスト勢力や叛乱軍の蜂起は、アナーキストや労働者たちなどが抵抗し、急速に鎮圧されつつあったのです。
叛乱軍側はモラ将軍の率いる部隊のいるスペイン北部の地域と、フランコ率いる部隊のいるモロッコに分けられてしまう状況に陥りかけておりました。

フランコはこのままでは人民戦線側に戦局を有利に進められてしまうと感じ、一刻も早いスペイン本土への上陸を果たそうと考えます。
そして彼の取った手段は、外部勢力の助けを借りるというものでした。
同じファシスト勢力であるナチス・ドイツと、イタリアの両国に軍事的な援助を依頼し、その力でスペインへ渡ろうとしたのです。

ドイツ及びイタリアにとっては、このフランコの申し出はまさに渡りに船でした。
ドイツもイタリアも内戦以前からスペイン国内のファシスト勢力にひそかに援助をおこなってきておりましたが、これによってよりいっそうスペインに対して影響力を行使できるようになるのです。
ヒトラーにとってもムッソリーニにとってもスペインとの同盟関係が構築できることは望ましく、地下資源の豊富さやスペインという国の位置的関係などからも、両国の援助でスペインにファシスト政権ができることは大いに歓迎されるべきものでありました。
そのため、両国とも即座にフランコの申し出を受け入れ、軍事援助をおこなうことを決めました。

1936年7月30日には早くも第一陣としてイタリア空軍の爆撃機がモロッコに到着。
続いてドイツ空軍の輸送機もやってきて、フランコの部隊をスペインへ輸送する作戦を開始します。
ドイツは外交的配慮から偽装会社を設立し、その会社を通じて軍事援助を行ないました。
これ以後ドイツは約一万人近くの義勇兵を送り込み、イタリアにいたっては約七万とも言われる数の義勇兵が内戦に参加することになります。
ファシスト側はこうしてドイツ、イタリア両国の援助を受けることになりました。

ファシスト側右派勢力がドイツとイタリアの援助を受けたことに対して、人民戦線側左派勢力は、当初英国とフランスの動向に期待しておりました。
しかし、英国は共産主義勢力の欧州内での拡大を恐れ人民戦線を援助しようとはしませんでした。
フランスは当時自らも人民戦線と名乗る左派勢力が政権を握っており、はじめはスペイン人民戦線政府側に軍事援助をおこなおうといたしましたが、英国からの圧力と国内でも右派と左派の分裂につながりかねないとの懸念から、ついに援助を断念。
ここに英仏両国は内戦に対して中立であるとの立場を表明いたしました。

ドイツとイタリアの協力でモロッコにいる部隊をスペインに空輸することができたフランコは、早速人民戦線側に対して行動を開始します。
1936年8月12日にポルトガルとの国境近くの都市バダホスにフランコの軍勢が突入。
15日にはこの都市を陥落させますが、その際二千人ほどの人民戦線側民兵を虐殺したとして悪名を響かせました。

とはいえ、スペインに上陸したフランコの軍勢は勢いを持続して進撃を続け、9月にはトレドを陥落させてモラの率いる軍勢と合流。
ここに叛乱軍は一つにまとまることができました。
そしてモロッコ以来のフランコのすばやい行動は叛乱軍内でも声望を集め、ついにフランコはファシスト右派勢力を取りまとめた新政権の元首に選ばれ、軍の総司令官も兼任することになりました。
以後新政権をファシスト政府、叛乱軍をファシスト軍と呼称します。

トレドを陥落させ、首都マドリッドを包囲する態勢を取り始めると、人民戦線側は苦境に立たされることになりました。
すでに世界各地からはフランコのファシスト勢力に対抗する反ファシスト義勇兵が人民戦線側には到着しており、それらはのちに国際旅団として活躍することになりますが、それ以上に人民戦線側としては外国の援助を必要としておりました。
中立の英仏の支援は望めないと判断した人民戦線は、共産主義の大国ソビエト連邦に支援を要請します。

この要請はソ連にとっても西ヨーロッパに影響力を広げる絶好のチャンスと思えました。
スターリンはすぐに人民戦線の要請を受けることを決め、ソ連製の武器弾薬を積んだ船舶が続々とスペインへ向けて出発します。
そしてそれだけではなく、数多くのソ連軍人が人民戦線軍の内部に入り込み、軍事行動を指導するようになっていきます。
スペイン内戦は、ここに独伊対ソ連の代理戦争へと発展することになりました。

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  1. 2010/06/15(火) 21:31:19|
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スペイン内戦(2)

1936年の選挙で政権を握った「人民戦線」(左派勢力の連合協定)は、それまでの二年間の右派政権に辟易していた民衆には大きな期待を持って迎えられました。
しかし、当然のごとくこの新政権に対し、右派勢力はただちにさまざまな妨害を行います。
それはデモやストライキなどといった比較的穏健のものではなく、人民戦線の代議士宅に爆弾を送りつけたり銃撃をおこなうなどのテロ行為にまで発展して行きました。

一方政権をとった人民戦線側も、もともとが寄せ集めの連合協定であるだけに結束した一枚岩ではなく、強硬派と穏健派が内部で対立しているというありさまでした。
強硬派は警察力や武力をもって右派勢力のテロ行為を鎮圧して行きましたが、それはじょじょにエスカレートしていきます。

ついに1936年7月12日、人民戦線政府側のカスティリョ中尉がそれまで鎮圧に当たっていた右派勢力ファランヘ党の党員によって暗殺されるという事件が起きました。
これに対して穏健派の憂慮をよそに人民戦線内の強硬派は報復を行い、治安警察を使って右翼勢力の大物カルボ・ソテロを暗殺します。
この暗殺のやり取りによって事態は急速に悪化の一途をたどりました。

かねてより人民戦線政府に対して強硬な姿勢で望んでいた右派勢力は、さらに態度を硬化させ内乱も辞さずという雰囲気にまで発展。
これに呼応するかのように、ひそかにクーデター計画を進めてきた一部の軍上層部も政府に対して叛乱を起こすことを決定します。

一方人民戦線政府側も強硬派が民衆への武器供与を要求。
さらに民兵の動員などもおこない始めました。
まさに状況は一触即発となったのです。
そんな中、一人の人物が大西洋上のスペイン領カナリア諸島におりました。
のちにスペイン総統となるフランシスコ・フランコです。

フランシス・フランコは1892年生まれの当時43歳の働き盛りでした。
彼は最初海軍を志すものの定員に空きが無く、やむなく陸軍士官学校へと進みます。
その後当時スペイン領だったモロッコへ赴任し、そこで現地の独立運動を鎮圧しながら出世の階段を登って行きました。
フランコは現地のアフリカ人を外人部隊として訓練し、強力な部隊へと育てます。
独立運動に対しても、その外人部隊を率いて戦ったといわれます。

帰国後、スペイン第二共和制政府によって軍政官に任命されたフランコは陸軍少将へと昇進し、その後陸軍参謀総長まで出世を果たしますが、ここで人民戦線政府が成立し、右派の危険人物と見なされていたフランコはカナリア諸島へと左遷されてしまいます。
人民戦線政府によって左遷されたフランコが、反乱軍に与するのはある意味当然だったのかもしれません。

1936年7月17日。
アフリカのスペイン領モロッコのメリリャで、ファシストの将校に率いられた軍の叛乱が発生します。
「スペイン内戦」の始まりです。

メリリャの叛乱は上官である将軍の殺害にまで発展し、そのことを知ったフランコは、早くも翌18日にはクーデターの開始の宣言をカナリア諸島から行ないました。
そしてすぐさまモロッコへと飛行機を飛ばして叛乱軍と合流。
以後モロッコの叛乱軍の指揮を取ることになりました。

フランコのおこなったクーデター宣言に呼応するかのように、スペイン本土各地でも軍や右派ファシスト勢力による叛乱が相次ぎます。
これらは陸軍の将軍エミリオ・モラが計画していたものであり、当初はこのモラが叛乱軍の指導的役割を担っておりました。

各地での相次ぐ叛乱に人民戦線政府は対応を余儀なくされました。
当初は人民戦線側も右派との融和を図り、首相を穏健派のバリオに代えてモラとの交渉を行いますが、もはや小手先の手段では叛乱の火の手を鎮めることはできませんでした。
逆に叛乱軍の指導者モラと話し合いをしたバリオは人民戦線内の強硬派からは裏切り者呼ばわりされ、バリオはわずか2日で首相の座を降りざるをえなくなります。
7月19日には、叛乱軍との戦いを行なうことを鮮明にしたヒラル内閣が成立し、左派の人民戦線と右派のファシスト勢力及び叛乱軍との戦いは避けられなくなりました。
スペイン国内は二つに分かれてしまったのです。

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  1. 2010/06/11(金) 21:13:30|
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スペイン内戦(1)

スペインと聞いて皆様は何を思い浮かべますでしょうか?
食べ物に興味のある方でしたら、ガスパチョやパエリアといった美味しいスペイン料理でしょうか。
スポーツに興味のある方なら、数日後に開催されるサッカーワールドカップでも強豪といわれるスペインサッカーでしょうか。
それとも情熱的な踊りフラメンコでしょうか。
はたまた絵画に興味のある方は、スペイン生まれの画家パブロ・ピカソ氏を思い出されますでしょうか。

その画家パブロ・ピカソ氏の代表作の一つに大作「ゲルニカ」があります。
ゲルニカ

白と黒で描かれたこの作品は、縦3.5メートル、横7.8メートルもある大きな作品ですが、とてもインパクトのある作品であり、皆様も一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
タイトルの「ゲルニカ」とは、スペイン北部バスク地方の一小都市の名前であります。
この絵はそのゲルニカという小都市に対しておこなわれた都市爆撃の悲惨さを描いたものなのです。
見ようによっては不気味ともいえるこの「ゲルニカ」は、その都市爆撃の酷さ悲惨さに怒りを込めてピカソ氏が描いたものだったのです。
なぜゲルニカは爆撃されたのでしょう。
それは、スペインが有名な無敵艦隊の敗北後、数限りなく繰り返してきた国内の権力争いを主因とする内乱がおこなわれたからでした。
世に言う「スペイン内戦」です。

スペイン内戦の勃発は、第一次世界大戦後の世界恐慌に端を発したファシズムが欧州を席巻し、アドルフ・ヒトラー率いるドイツがヴェルサイユ条約を無視してラインラントへと軍を進め、また一大セレモニーであるベルリンオリンピックを間近に控えた1936年7月17日のことでした。
この日、スペインとはジブラルタル海峡をはさんで対岸にあるモロッコにおいて、スペイン軍の叛乱が起こったのです。
足掛け四年の長きに渡るスペイン内戦が始まったのでした。

第一次世界大戦が終わり、世界が20世紀という時代に慣れてきた頃になっても、スペインではまだ中世期からの影響が色濃く残っておりました。
国王が国の頂点に位置してはいましたが、国民の支持を受けることはできず、代わりにカトリック教会が国民に対して物心両面で強い影響力を持っておりました。
20世紀初頭のスペインにおいては、カトリック教会が最大の地主でありまた各分野に出資する資本家であったのです。
また農業においても大土地を所有する地主が、農奴さながらに農民を搾取するのも当たり前のような状況でした。

ですが、こんな状況も1920年代に入るとじょじょに変革しようという動きが現れます。
1923年にはミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍がクーデターにより政権を掌握。
軍事独裁制を敷いて政治をおこないますが、これに国内の学生や知識人層が反発し、1930年にはついに政権を打倒してしまいます。
しかし、このことが国内における旧勢力の勢力維持に努めようとする教会や軍部などの右派勢力と、共和制を目指し国内を変えていこうとする学生や知識人層などの左派勢力との間に、強い対立感情を生み出してしまいました。

1931年にスペインでおこなわれた地方選挙には、共和党や社会党、急進党などの左派勢力が王制から共和制への移行を掲げて出馬し、圧倒的勝利を収めます。
これにより国王アルフォンソ十三世はフランスへ亡命、スペイン第二共和制が始まりました。
(第一共和制は1873年に始まったものの、1874年には王政復古がおこなわれました)

しかし、新生スペイン共和国は国内の対立を解消することはできませんでした。
ドン・マヌエル・アサーニャを首班とする政府は、軍隊改革や土地改革などをおこなおうとしたものの、いずれも右派勢力によって妨害され、実効を上げることができなかったのです。

1932年、ホセ・サンフルホ将軍がクーデター未遂事件を起こすと、政府は国内の引き締めにかかり軍部や警察による民衆への圧力が強まります。
すると今度は、それに対抗するように右派勢力の教会や軍部右派の影響を受けたファシスト団体が次々と作られ、スペイン国内は混沌とした状況になって行きました。

こういった状況は選挙にも影響を及ぼし、1933年10月の総選挙では今度は右派勢力が勝利して政権を奪います。
右派勢力は前政権のおこなった改革をつぶしてしまったので、再び農民や労働者にとってはつらい状況に追い込まれてしまいますが、彼らはアナーキスト(無政府主義者)たちの指導の下デモやストライキなどで政府に対抗していきます。

この民衆の動きを見た左派勢力は、アナーキストや共産主義者たちとも連携を取っていくことを考えました。
そして1936年1月、左派勢力は左翼共和党、社会党、共産党、共和同盟など多くの勢力の取りまとめに成功し、連合協定「人民戦線」を成立させます。
人民戦線は翌月2月の選挙で再び過半数を獲得。
右派政権は倒れました。
しかし、混迷はこれで終わりではありませんでした。

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  1. 2010/06/10(木) 21:48:52|
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