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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

アラモの戦い(10)

サミュエル・ヒューストン率いるテキサス軍が窮地の逃亡を続けているころ、メキシコ軍を率いる大統領サンタアナは、テキサス軍の補足に躍起になっておりました。
サンタアナとしては、いつまでも戦争が長引くのは決して望ましいことではなかったのです。
そのため彼は、麾下のメキシコ軍を数隊に分け、それぞれを分派してテキサス軍を追わせたのです。
このことがサンタアナにとっては痛いミスとなりました。

1836年の4月に入ると、テキサス軍は以前の約半数の1000名ほどにまで弱体化しておりました。
ところが、追撃してくるメキシコ軍も兵力を分散させ、サンタアナ率いる本隊もわずか700人ほどになっていたのです。
逃亡に疲れたテキサス軍は、ここで一気に乾坤一擲の反撃を行い、サンタアナの本隊を打ち破ろうと考えます。
最初は乗り気ではなかったといわれるヒューストンでしたが、もはやこれ以上の逃亡は難しいと感じ、ついに彼も戦いを決心します。

4月20日、斥候の報告によりサンタアナのメキシコ軍がサンジャシント川近くにいると知ったヒューストンは、テキサス軍をサンジャシント川まで進めます。
一方サンタアナも、逃亡を続けていたテキサス軍がサンジャシント川にいることを知り、今度こそ逃がすまいと部隊を進めました。
さらにサンタアナは、近くにいるはずのコス将軍に連絡を取り合流するように命じます。
コス将軍はすぐさまこの命に従い、500人以上の部隊を率いて合流いたしました。

メキシコ軍が700人ほどだと思っていたヒューストンは、コス将軍の合流で1200人ほどに増強されたことを知り動揺します。
攻撃をためらうヒューストンでしたが、テキサス軍の兵士たちはもうこれ以上の逃走は望みませんでした。
攻撃しかないと腹をくくったヒューストンは、約800人の兵力でメキシコ軍への奇襲をおこなうことにしました。

4月21日の早朝、テキサス軍はメキシコ軍への攻撃を開始します。
長い間の追撃で疲労していたメキシコ軍は、テキサス軍の攻撃はないと思っていたのか、まったく無防備に休息しておりました。
「アラモを忘れるな! ゴリアドを忘れるな!」の言葉を大声で叫ぶテキサス軍の攻撃は、完全なる奇襲となり、メキシコ軍は大混乱へと陥ります。
たった18分ほどの戦闘で、メキシコ軍は600人以上が戦死し、700人以上が捕虜になってしまいます。
それに対しテキサス軍の戦死者は、10人に満たないという少ないものでした。

自軍が一瞬のうちに崩壊した大統領サンタアナは、戦場からの逃亡を図ります。
彼は一兵士の服と自分の服を取替えてまで脱出しようとしましたが、テキサス軍は見逃しませんでした。
4月22日、メキシコ大統領サンタアナはテキサス軍に捕らえられ、捕虜としてヒューストンの前に連れてこられます。
ただ一度の敗戦が、メキシコ軍を崩壊させてしまいました。

サンタアナが捕らえられたことで、メキシコ軍はテキサスから後退しました。
捕らえられたサンタアナは、自らの命を救うためにはテキサスの独立を承認するしかありませんでした。
1836年5月14日に条約が結ばれ、サンタアナはテキサスの独立を承認します。
ただし、サンタアナはすでにメキシコ大統領としての地位を追われており、メキシコとしての承認ではなかったといいます。
サンタアナは放免され、メキシコに戻って退位させられていた大統領に再び復帰。
その後メキシコ各地でテキサスに習って発生した独立要求をねじ伏せて行きました。

こうしてメキシコとの間の独立戦争を戦い抜いたテキサスは、テキサス共和国として歩みだしたのち、1845年にわずか10年に満たない生涯を終えアメリカ合衆国へと併合されます。
テキサスは住民の総意という名目で、アメリカの28番目の州になりました。
当然このことはメキシコとの間に軋轢を生むことになり、翌1846年の「米墨戦争(アメリカ-メキシコ戦争)」へとつながります。
この米墨戦争のアメリカの勝利により、ついにメキシコはテキサスをあきらめざるを得ませんでした。

最初は放棄するはずだったアラモの砦。
それがいつしか守るべき場所になってしまい、メキシコ軍との間に激戦が行われてしまいます。
そして、危惧したとおりに全滅という憂き目を見てしまいました。
しかし、そのことでテキサスはもとよりアメリカでもメキシコに対する戦いを「正義の戦い」として訴えることができるようになりました。
こうしてアラモの戦死者たちは英雄とされ、今でもアメリカ国民に取り思い入れのある人々になっているのです。

アラモの戦い 終

                   ******

参考文献
「アラモの戦い」 歴史群像2001年12月号 学研


参考サイト
「Wikipedia テキサス革命」
「Wikipedia アラモの戦い」


今回もお付き合いいただきましてありがとうございました。
  1. 2010/04/24(土) 21:39:55|
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アラモの戦い(9)

アラモの砦は陥落しました。
180人を越えるアラモの守備隊は、ごくわずかの人数を残して全滅いたしました。
ですが、これはテキサス独立戦争にとっては一つの局面に過ぎませんでした。
事実、メキシコ大統領サンタアナは戦闘の終結したアラモ砦に入り、些細な出来事だったなと側近に漏らしたとも言われます。
戦争はまだ続いておりました。

このアラモの戦いは、アラモ砦の守備隊の全滅だけではなく、また新たな悲劇も呼び起こしてしまいます。
「ゴリアドの虐殺」です。

アラモ砦の守備隊指揮官だったトラヴィスは、テキサス軍司令官ヒューストンに対し再三の援軍要請をおこなっておりました。
しかし、各所でメキシコ軍の圧力を受けていたテキサス軍には、援軍を送る余裕はありませんでした。
ヒューストンとしてはどうすることもできなかったのです。

トラヴィスの援軍要請はヒューストン以外にも各所に向けて放たれておりました。
その一つは、ゴリアドの町にいた「ジェームズ・ファニン」大佐の下へもその援軍要請は届きました。

ファニン大佐は約500名近くの兵士及び民兵からなるテキサス軍を率いておりました。
ゴリアドの町には砦もあったので、ここでメキシコ軍を迎え撃つつもりだったのです。

アラモ砦からの援軍要請を見たファニンは、アラモ砦の窮地を知りました。
そこで彼は、アラモ砦を救うべく、部隊をつれてゴリアドの町を出発します。
これが悲劇の始まりでした。

ゴリアドの町を出発し、アラモ砦に向かったファニンの軍勢でしたが、行軍は予想以上に難儀でした。
当時は大砲を牽引するのは非常な重労働であり、簡単に移動できるものではなかったのです。
ファニンはこの状況ではどうしようもないと悟り、引き返そうとしましたが、この時すでにメキシコ軍のホセ・デ・ウレア将軍率いる部隊が迅速な行軍でゴリアドの町を確保してしまっておりました。

ウレアはすぐに部隊を展開させ、ファニンの部隊を追い始めます。
行き場を失ったファニンの部隊は、数隊に分かれて逃走しますが、メキシコ軍に次々と追いつかれ降伏を余儀なくされました。

ファニンの率いる本隊も「コレトの戦い」でメキシコ軍に大きな損害を与えたものの、物資欠乏でこれ以上の戦闘は不可能と見たファニンは、やむなくメキシコ軍に降伏をいたしました。

降伏し捕らえられたファニンの部隊は、占領されたゴリアドの町に収容されました。
ウレアは立派に戦ったファニンの部隊に対し、寛大な処置を取るようサンタアナ大統領に要望しますが、サンタアナは彼らの処刑を命じます。

1836年3月27日、ゴリアドの町においてファニンとその部隊340人ほどはほぼ全員が殺されました。
死んだふりなどをしてわずかに生き残った人がいたといいますが、彼らによってこの処刑は伝えられ、「ゴリアドの虐殺」としてテキサス人の間に新たなメキシコ軍への憎悪を植えつけることになりました。

とはいえ、アラモ砦の陥落とファニンの部隊の壊滅により、テキサス軍は苦しい状況に追い込まれることになりました。
ヒューストンは、この時点で2000人ほどにまで低下していたテキサス軍では、メキシコ軍と戦うことはできないと判断し、アメリカ合衆国との国境近くまで軍を後退させることにいたします。
そして一種の焦土作戦をおこなうことで、メキシコ軍の士気の低下と物資の欠乏を導き出そうとしたのです。
窮地の逃亡とも呼ばれたこの後退は、確かにメキシコ軍に食料を与えないなどの効果を発揮しましたが、テキサス軍の間にも疲労と絶望が広がっていき、脱走者を多く出してしまうことにもなりました。

しかも、メキシコ軍の追撃は執拗を極め、テキサス軍は常に追いつかれる危険性を孕んでおりました。
ヒューストンはゴンザレスやサンフェリペの町も放棄せざるを得ず、ただひたすら東への逃亡を続けなくてはなりませんでした。
町を放棄しなくてはならなかったことで、テキサス人たちの怒りは逆にヒューストンに集まることにもなりました。
しかし、彼は逃亡をやめようとはしませんでした。
そしてそのことが彼に、ひいてはテキサスに転機を迎えさせることになったのです。
「サンジャシントの戦い」でした。

その10へ
  1. 2010/04/23(金) 21:35:59|
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アラモの戦い(8)

1836年3月6日早朝。
前日までの砲撃に引き続き、頃合いと見たメキシコ大統領サンタアナは、ついにメキシコ軍による総攻撃をアラモ砦に向けて開始します。
メキシコ軍は総兵力のうち約1500から1600人を四隊に分けて攻撃いたしました。
コス将軍率いる約400人は北西から、デュク大佐の約400人は北東から、ロメロ大佐の約400人は東から。
そしてモラレス大佐の約100人が南から攻撃を開始し、残りは予備隊として周囲の警戒に当たらせました。

メキシコ軍の総攻撃が行なわれる前日、2月23日からの包囲戦がいよいよ最終局面に迫ったと見たアラモ砦の指揮官ウィリアム・トラヴィスは、守備隊全員にこう言いました。
「自分はここに残って戦うが、諸君がここに残って戦うかどうかは諸君らの判断にゆだねる」
そして地面に線を引き、残留して戦うと決めた者はこの線を越えよと言ったともいわれます。
結果は一人を除いて全員が残留を希望し、病床に臥していたボウイ大佐は周りの者の手を借りるまでして線を越え、守備隊は最後まで戦うことを誓ったのでした。

しかし、戦闘は最初から守備隊側にとって不利でした。
メキシコ軍の持つマスケット銃に対し、守備隊側の持つライフル銃の射程や命中精度の差が、メキシコ軍を何度か後退させるものの、やはり圧倒的な兵力差が守備隊側に重くのしかかってきたのです。

さらに戦闘開始早々に、守備隊側を悲劇が襲っておりました。
北側からの攻撃に対して応戦中だった指揮官トラヴィスが、頭部にメキシコ軍の銃弾を受けて戦死していたのです。
守備隊側はそれでもなお防戦を続けますが、北西、北東、東側のメキシコ軍の三隊の攻撃を防ぎきれるものではなく、やがて各所で防壁が突破されました。

サンタアナはここで予備隊を投入し、一気にアラモ砦の制圧を目論みます。
破られた防壁からメキシコ軍は雪崩をうって砦に侵入し、内部では凄惨な白兵戦が繰り広げられることになりました。
病床にいたボウイ大佐はその場で殺され、デビー・クロケットも抵抗むなしく戦死いたします。
(クロケットに関しては捕らえられ処刑されたとも言われます)

メキシコ軍は捕獲した大砲を守備隊に向けて発射するなど、もはや一方的な虐殺になってしまった戦闘は、開始からわずか一時間半ほどで終結いたしました。
砦にいたほんのわずかの女性と子供、数人の奴隷だけが生き残り、守備隊は全滅いたしました。
アラモ砦は陥落したのです。

この戦いでは、テキサス側アラモ守備隊約180名が戦死。
一方のメキシコ軍は諸説ありますが、約400人ほどが戦死し、ほぼ同数ほどが負傷したといわれます。
メキシコ軍としても大きな損害だったといえるでしょう。

こうして「アラモの戦い」は終わりました。
サンタアナにとってはこしゃくなテキサス軍の拠点を一つ叩き潰すことができました。
一方でテキサス軍は、危惧したとおりアラモ砦を包囲され殲滅されてしまいました。
テキサス軍司令官ヒューストンは、アラモ砦を陥落させたメキシコ軍の圧力をどう受け止めるのか、苦心することになりました。

ですが、アラモ砦の陥落はテキサスの人々のみならず、アメリカにも衝撃を与えました。
テキサスやアメリカの人々は、最後まで勇敢に戦ったアラモの守備隊を英雄として祭り上げ、メキシコの暴虐を非難しました。
「アラモを忘れるな」は合言葉となり、人々を結集させたのです。

その9へ
  1. 2010/04/22(木) 21:41:15|
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アラモの戦い(7)

ニール大佐の後任としてトラヴィス中佐が選ばれたことで、アラモ砦の内部ではそれを快く思わないボウイ大佐との間で、指揮権をめぐる不協和音が顕在化してしまいました。
そんな状況下、メキシコ軍が接近してきたことを知ったトラヴィスは、サンアントニオ・デ・ベクサーの町に残っていたテキサス人をアラモ砦に収容します。

アラモ砦は、長方形型の広場を兵舎と壁で囲むような形で作られていて、その一角に伝道教会だった建物の名残があるようなものであり、それほど防御がしっかりしているとはいえませんでした。
守備隊は周囲に土を盛るなど補強工事を行い、17門の大砲を据えつけておりましたが、やはり守備力に自信を持てるというものではありませんでした。

メキシコ軍の先遣隊がベクサーの町に入ってきたことを知ったボウイは、現状のアラモ砦の守備力に自信を失ったのか、それともこの時彼を襲っていた病魔によるものなのか、トラヴィスに無断でメキシコ軍と休戦交渉を行おうとしたといいます。
このことはトラヴィスの知るところとなり、怒った彼はボウイに勝手なことをするなと詰め寄りました。
これでボウイとトラヴィスの険悪な状況は決定的になるかと思われましたが、病魔(結核だったといいます)に冒されていたボウイが折れるような形で、指揮権はトラヴィスに集束することになりました。

1836年2月24日、メキシコ軍の最初の攻撃がアラモ砦に対して行なわれました。
攻撃はまず砲撃を持って行なわれ、メキシコ軍の砲弾がアラモ砦を襲います。
この攻撃はアラモ砦側の守備力を探るような攻撃であったため、この日はほぼ砲撃に終止したようで、幸いアラモ砦側には死傷者は出なかったといいます。

この攻撃を受け、トラヴィスはテキサス軍司令官のサミュエル・ヒューストンに援軍を求める手紙を書きました。
この手紙には、最後の言葉の下にアンダーラインが三本引かれていたといいます。
その最後の言葉は、「勝利か、しからずんば死」というものでした。

しかし、ヒューストンは援軍を送ることはできませんでした。
テキサス軍はアラモだけではなく、各地でメキシコ軍の圧力を受けていたのです。
兵力を引き抜いてアラモ砦に送る余裕はありませんでした。

最初の攻撃以降、メキシコ軍は主力の来着までアラモ砦を包囲する態勢を取りました。
兵力の逐次投入を避け、大兵力の到着と同時に一気に押しつぶすつもりだったのです。
そのため、砦の防備を探るための威力偵察と呼べる小規模な戦闘を繰り返すのみでした。

3月1日、32人のテクシャン義勇兵が、ゴンザレスの町からアラモ砦にやってきます。
彼らはメキシコ軍の包囲をうまくすり抜け、守備隊に合流することができました。
守備隊は大歓声でこの増援を迎え入れますが、アラモ砦に対する兵力増強は、これが最後となりました。

3月2日、この日テキサス暫定政府は「テキサス独立宣言」を発表します。
アメリカ独立宣言に範を仰いだこの宣言は、テキサスがなぜ独立するかの理由についても述べられており、正式に「テキサス共和国」を建国するという宣言でした。
ですが、アラモ砦の守備隊が、この事実を知ることはありませんでした。

3月3日、メキシコ軍の主力がベクサーの町についに到着いたします。
これによってメキシコ軍の戦力は、各地に散開させた分を除き約4000名から5000名ほどになったといわれます。
このメキシコ軍の到着はアラモ砦からも見ることができ、ベクサーの町にはメキシコ軍の歓声が響きました。

3月4日、5日とメキシコ軍はアラモ砦に砲撃を仕掛けました。
これはこれまでの砲撃とは違い威力偵察などではなく、総攻撃の前段階としての砲撃でした。
砦の外壁は各所で崩され、砲弾はあちこちで炸裂します。
メキシコ軍の総攻撃は、目前でした。

その8へ
  1. 2010/04/21(水) 21:40:50|
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アラモの戦い(6)

少し間が開いてしまいましたが、アラモの戦いの6回目です。

サンアントニオ・デ・ベクサーに向かって、サンタアナ大統領自身がメキシコ軍を率いて進軍していた頃、テキサス軍はベクサーの町とアラモの砦とをどうするか、頭を悩ませておりました。
テキサス軍の前線からは突出したような形になっていたベクサーの町は、これから考えられるメキシコ軍の反抗に対し、包囲され孤立しやすいと思われたのです。

そこでテキサス軍司令官のサミュエル・ヒューストンは一人の人物に命令書を携えさせ、アラモ砦に派遣しました。
その命令書には、アラモ砦の破壊と放棄が記されていたといいます。
命令書を持たされたのは、「ジェームズ(ジム)・ボウイ」という大佐でした。
ボウイ大佐は、この時40歳にならんとしておりましたが、若いころから民兵に入ったり奴隷貿易を一時期おこなったりと荒々しい気性の持ち主として知られておりました。
特に狩猟用ナイフを愛用しており、彼はこのナイフで何度か決闘をおこなったりしておりました。
同型のナイフは彼の名前からボウイナイフと呼ばれ、今でもアメリカ人の間では使われる物となっています。

1836年1月、ボウイ大佐は30名の小部隊を率いてアラモ砦に到着します。
彼は砦の指揮官であるニール大佐に、ヒューストンからの命令書を渡しますが、一方でこのアラモ砦を重要拠点として保持するようにと要請したともいわれます。
ボウイは他人にあれこれ指図されるのがきらいな性格だったため、ヒューストンの元を離れて自分の考えで行動したいと思ったのかもしれません。

結局アラモ砦は破壊されることなく、逆に強化がなされます。
ボウイ大佐とその小部隊は、そのまま守備隊に加わることになり、さらに数週間のうちにあちこちからアラモを守ろうと義勇兵が集まってくることになりました。
その中には、ウィリアム・トラヴィス率いる30名の兵士もおりました。

最初トラヴィスは、テキサス軍の命令でサンアントニオ・デ・ベクサーに派遣されてきただけだったのですが、これは僻地に追いやられたと感じていたトラヴィスにとっては面白くないことでした。
そんな折、アラモ砦の指揮官ニール大佐から砦の防備に加わらないかとの申し出を受けたトラヴィスは、これをやりがいのあることと感じて守備隊に加わります。

2月8日には、今度はアメリカテネシー州の義勇兵を引き連れた元テネシー州議員「ディビッド(デビー)・クロケット」もアラモ守備隊に加わります。
1960年に作られました映画「アラモ」では、名優「ジョン・ウェイン」が演じましたデビー・クロケットは、今でもアメリカの国民的な英雄の一人ですが、三歳で熊退治をおこなったという逸話の持ち主であり、彼の名前を取った「クロケット帽」という毛皮でできていて尻尾が垂れ下がる格好の帽子を愛用しておりました。

原住民との戦いにも身を投じ、テネシー州の下院議員も勤めた彼は、サミュエル・ヒューストンと親交があったため、このたびのテキサス独立戦争にも参加することに決めたのです。
彼のつれてきたテネシー州義勇兵は、わずか12人ほどだったとも言われますが、人数の少ない守備隊には貴重な援軍であり、これでアラモ守備隊は140名ほどになりました。

この時点で、アラモ砦にはニール、ボウイ、クロケットと大佐の階級を持つものが三人、トラヴィスが中佐の階級を持つため、大佐中佐が合わせて四人という状況でした。
そんななか、家族の病気などの理由から、アラモ砦の指揮官であるニール大佐が砦を離れることになります。
これによりアラモ砦の後任指揮官を決める必要がでてきましたが、ここで選ばれたのは、なんと中佐であるウィリアム・トラヴィスでした。

しかし、この人選は周囲に不満をもたらします。
規律を重んじ厳格なトラヴィスは、当然兵からは好まれませんでした。
また、自分の好きなように行動したいボウイも、大佐である自分が中佐であるトラヴィスに従うのはいやだとばかりに、何度となく指揮権のことでトラヴィスと口論になりました。

こうしてニール大佐が離れてしまったアラモ砦では、指揮権が明確に定まらないという不安定な状態に陥ります。
そうしているうちにも、サンタアナ率いるメキシコ軍はコス将軍の残党などを加えて、再び約6000名ほどの戦力となっておりました。
2月21日ごろにはメキシコ軍の先遣隊がベクサーの町を望む位置にまでやってきていたのです。

攻守ところを替えたアラモ砦を巡る戦いが、刻一刻と迫っておりました。

その7へ
  1. 2010/04/20(火) 21:28:51|
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アラモの戦い(5)

「ゴンザレスの戦い」に一応の勝利を収めた「テキサス軍」は、その余勢を駆ってコス将軍の率いるメキシコ軍のいるサンアントニオ・デ・ベクサーへと進軍いたします。
これに対しコス将軍は、ベクサーの町の守備を固め、自らは「アラモ」と呼ばれる伝道教会跡の石塀に囲まれた場所に司令部を置いて立て篭もりました。

1835年11月1日、テキサス軍はサンアントニオ川に到達し、ベクサーの町とアラモの砦を臨みます。
しかし、所詮は民兵の寄せ集めに過ぎないテキサス軍は、防御された町や砦に対する攻撃の仕方がわかりませんでした。
テキサス軍の指揮官の一人であるサミュエル・ヒューストンは、部隊の訓練に時間を費やすべきだと主張しましたが、当時テハス地区(以後テキサス)におけるテクシャンの政治的指導者だったステファン・オースチンはそれを退けます。
オースチンは町への攻撃を主張しましたが、今度は他の指揮官たちが難色を示しました。
結局テキサス軍はなし崩し的にベクサーの街を包囲するだけとなり、ただ時間だけが過ぎることになりました。

退屈な包囲戦は、テキサス軍の士気をがっくりと低下させました。
多くの志願兵が軍を抜け、指揮官も何人かが辞職していきました。
そんな中でオースチンはテキサス独立戦争の支援を得るためにアメリカに向かうこととなり、ベクサー包囲の指揮は副官のバールソン将軍が取ることになります。

テキサス軍とコス将軍指揮下のメキシコ軍は、ちょっとした小競り合いはあったものの、包囲戦が続いておりました。
冬が近づき、物資と士気の低下した軍ではこのまま包囲戦を続けることはできないと考えたバールソンは、一度軍を撤収させようと考えます。
しかし、ここまで包囲戦を続けてきたこともあり、多くの指揮官は撤収には反対しました。
中でもベンジャミン・ミラム大佐は撤収には強硬に反対し、彼に付き従う者たちをつれてベクサーの町を攻撃しようといたします。
テキサス軍と同様に包囲されたままのメキシコ軍の士気も大幅に低下していることを知ったバールソンは、ミラム大佐の意見を取り入れてここで一気にベクサーの町を攻撃することに決めました。

12月5日、ミラム大佐とジョンソン大佐の部隊がベクサーの町に突撃し、一軒一軒の家を奪い合う激戦を繰り広げます。
ミラム大佐はこの戦いで戦死してしまいますが、ジョンソン大佐が指揮を引き継ぎ、コス将軍以下のメキシコ軍はついにベクサーの町を放棄してアラモ砦に逃げ込むこととなりました。

12月9日、これ以上の戦闘は無理だと悟ったコス将軍は、テキサス軍に降伏を申し入れました。
バールソンはコス将軍と降伏についての話し合いを行い、大砲や武器を放棄する代わりに、メキシコ軍兵士を今後戦闘には参加しないとの約束の下でメキシコへと返しました。

これによってメキシコ軍は現在のメキシコとアメリカの国境であるリオグランデ川まで後退することになり、テキサス軍兵士は歓喜に沸きました。
メキシコ軍をテキサスから追い払ったことで、テクシャンたちはゴンザレスで会議を行い、ここにテキサス暫定政府が樹立します。
知事にはヘンリー・スミスが任命され、テキサス軍の指揮官にはサミュエル・ヒューストンが、そしてステファン・オースチンが外交を担当することになりました。
ただし、この暫定政府の目的は、あくまでもテキサスの分離独立を目指したものではなく、メキシコ中央政府に対しテキサス側の要望を通しやすくするためというものでした。

一方義理の弟のコス将軍が一敗地にまみれたことを知ったサンタアナ大統領は、ついに自らが軍勢を率いてテキサス奪回に向かうことにします。
メキシコ中部の「サンルイスポトシ」に集められたメキシコ軍は、総数約6000という大規模なものでした。
サンタアナは、自らこの軍勢を率いてテキサスへと向かったのです。
1836年の1月のことでした。

冬の行軍は難渋を極め、いく人もの脱落者を出しサンタアナ自身も病に倒れるなどしましたが、その後回復したサンタアナは、ついに2月12日にリオグランデ川に到達。
ここからベクサーまでは約10日ほどの距離でした。

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  1. 2010/04/15(木) 21:37:07|
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アラモの戦い(4)

当時ゴンザレスの町には、1831年に原住民(ネイティヴアメリカン:いわゆるインディアン)の襲撃から町を守るためにメキシコ政府より与えられた大砲がありました。
しかし、メキシコの大統領サンタアナは、テハス地区のテクシャン民兵から武装を解除しようとしていたため、当然のことながらその大砲も回収するよう軍に命じておりました。

テハス地区にやってきたコス将軍は、現地の軍事司令官ウガルテチェア大佐に指示して、フランシスコ・カスタネダ中尉にその大砲の回収を命じます。
カスタネダ中尉は約100名ほどの兵力を引き連れて、ゴンザレスの町へと向かいました。

1835年9月29日。
カスタネダ中尉の率いるメキシコ軍は、ゴンザレスの町のすぐそばを流れるグアダルーペ川へと到着します。
ところが、グアダルーペ川が増水していたのと、対岸にテクシャンの民兵18名がいたことから渡河をおこなうことができませんでした。
この時ウガルテチェア大佐はメキシコ政府とテクシャンたちとの間が険悪になっていることを理解していたため、カスタネダ中尉には可能な限りは武力行使をおこなわないように命じておりました。
そこでカスタネダ中尉はゴンザレスの町に対し、平和裏に大砲を引き渡すよう要求します。

テクシャン側が意図したことではなかったのかもしれませんが、この時ゴンザレスの町には交渉に当たるべき有力者が留守にしていたといいます。
カスタネダ中尉はやむを得ず、その帰りを待つために部隊を野営させました。
ところが、この数日の野営の間に、ゴンザレスの町には各地から義勇軍が集まってきます。
彼らはメキシコ軍に大砲を引き渡すことは考えられないとして、じょじょにメキシコ軍との戦闘に備えていきました。

10月1日になると、ゴンザレスの町の兵力は160人を数えるほどになっていました。
原住民からその情報を聞いたカスタネダ中尉は、いつの間にか兵力が逆転していることに驚き、野営地を変えることにします。
一方ゴンザレスの町では、この兵力を持って先制攻撃をしたほうがよいという意見が大勢を占め、ついにメキシコ軍が回収しようとしていたその大砲を持ってグアダルーペ川を逆渡河いたします。

10月2日早朝、野営地を変えたことでほっとしていたカスタネダ中尉率いるメキシコ軍は、テクシャン民兵からの奇襲攻撃を受けました。
この民兵側の最初の発砲が、「テキサス独立戦争」の最初の一弾として伝えられるものとなりました。

カスタネダ中尉は何とか戦闘を収めようとしましたが、それはかないませんでした。
武力行使を控えるよう命じられていたこともあり、仕方なく彼は部隊をベクサーの町まで後退させるほかありませんでした。

こうして戦闘はメキシコ軍の後退で集結しました。
戦闘そのものは小規模でしたが、この「ゴンザレスの戦い」は、ついにメキシコ政府とテクシャンたちとの間に戦争が始まってしまったことを告げるものでありました。

メキシコ軍の後退によりこの戦闘に“勝利”した民兵側には、以後続々と義勇兵が集まってくることになりました。
10月13日には兵力は500人を超え、彼らは自らを「テキサス軍」と呼称するようになります。
そして意気上がる彼らの次の目的地は、カスタネダ中尉率いるメキシコ軍が後退した町、ベクサーへと向けられました。

ちなみにこの時メキシコ軍が回収しようとして果たせなかった大砲は、紆余曲折を経て現存し、ゴンザレスの町の博物館に保存されているそうです。

カスタネダ中尉の率いる部隊が後退してきたことで、ベクサーの町にいたコス将軍は驚きました。
しかも、テキサス軍の目標がこのベクサーであると知ったコス将軍は、急遽守りを固める必要に迫られました。
そこで彼は、ベクサーの町の要所に大砲や部隊を配置し、自身の司令部をかつての伝道教会に置くことにします。
そこは昔まだスペイン軍がいた頃に、メキシコの「アラモ・デ・パラス」というところから来たスペイン軍部隊が駐屯していたことから「アラモ」と呼ばれるようになっておりました。
建物そのものは再建途中で放棄され、廃墟同然の代物ではありましたが、周囲を頑丈な石塀に囲まれていたため砦として使うことができ、司令部を置くには何の問題もなかったのです。

その5へ
  1. 2010/04/14(水) 21:18:19|
  2. アラモの戦い
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アラモの戦い(3)

メキシコ政府の政策による好条件のおかげでテハス地区(テキサス)に移住してきたアメリカ人は多数に上りました。
彼らはテハス地区の開拓に力を尽くしましたが、やはり疫病の脅威は少なくありませんでした。
そういった開拓の苦労や疫病などの脅威への対策からか、やがてアメリカ人たちはメキシコ政府の思惑からはずれ、アメリカ式の生活をそのままテハス地区でも持ち込むようになっていきます。

また、アメリカ人入植者が多くなったことから、アメリカ政府もテハス地区のメキシコからの買収を試みるようになります。
1827年と1829年の二度にわたり、アメリカはメキシコに対してテハス地区を金銭で買い取りたいという旨の交渉を行いました。
メキシコはもちろんこれを拒絶。
テハス地区へのアメリカ人入植者の受け入れを中止することに決め、「4月6日法」という法律を制定します。
この法律は、今まで免除されていたテハス地区の開拓民への税の徴収をおこなえるようにしたほか、法の執行に軍事的手段を用いることもできるようにされておりました。

テハス地区に住むアングロ系開拓民は、自らをテクシャンと呼んでおりましたが、テクシャンたちにとってはこの4月6日法は当然不満を覚える法律でした。
メキシコ政府に対する抗議集会がテハス各地区で行なわれるようになり、メキシコ政府もまたそういった集会を武力で解散させるようになって行きました。
また、メキシコ政府によってテハス地区に派遣されてくるメキシコ軍の兵士の多くは、犯罪者が刑の代わりに従軍した者たちであったといわれ、テクシャンたちと普段から摩擦を引き起こす基にもなったといいます。
こうしたメキシコ政府の対応にテクシャンたちは幻滅し、やがてテハス地区をメキシコから独立させてしまおうという動きが起こり始めたのです。

1833年にアントニオ・ロペス・デ・サンタアナが大統領になったことで、彼はテハスでの混乱の元となった4月6日法を廃止いたしましたが、この頃にはテハス地区には無許可のアメリカ人が大勢移住してくるようになっておりました。
サンタアナはこれをテハスを我が物にしようとするアメリカの策略だと考えましたが、その対応をすぐにおこなうことはできませんでした。
独裁色を強めていくサンタアナに対し、メキシコ各地で叛乱が起こったのです。
あまりの独裁制の強化に、サンタアナを支持してきたメキシコの人々もついに分裂を余儀なくされたのでした。

このメキシコ各地での叛乱は、サンタアナの手によって強引につぶされていきました。
約二年間の軍事行動により、各地の叛乱勢力はねじ伏せられていったのです。
その中には虐殺行為がおこなわれたものもありましたが、ともあれ1835年半ばごろには、(テハス地区を除く)メキシコはほぼサンタアナの独裁政権下に治められることとなりました。

しかし、その間にもテハス地区では混乱が続いておりました。
テクシャンたちは新たに移住してきたアメリカ人も含め、各地で武装勢力を作ります。
そしてこの武装集団とメキシコ軍との衝突が頻繁に起こるようになり、まさに一触即発の状況へと発展していきました。

1835年6月、ついにテクシャンの武装勢力は徴税の問題に端を発した事件でメキシコ軍をアナウアクという町から追放してしまいます。
この事件に関わったのが、「ウィリアム・バレット・トラヴィス」でした。

1809年に生まれたトラヴィスは、アラバマで法律を学んだあとで、1831年に妻と娘を置き去りにして単身テハス地区に移住しました。
テハス地区での生活が気に入ったのか、トラヴィスはその後法律家として地域住民の相談に乗ったり仲裁に入ったりするなどして生計を立てておりました。
ですが、次第にテクシャンとメキシコ政府との間が険悪になっていくと、彼はメキシコに対する抵抗運動を行なうようになり、次第に武装集団の中で頭角を現すようになったのです。
そしてアナウアクの事件では、25人ほどの民兵を連れたトラヴィスが、駐屯する40人ほどのメキシコ軍を降伏させ、ついに追放してしまったのでした。

アナウアクからメキシコ軍が追放されたという報告は、サンタアナを激怒させました。
彼はテハス地区をアメリカ人たちから取り戻すため、ついに軍勢を派遣することを決定します。
軍勢の指揮は義理の弟である「マルティン・ベルフェクト・デ・コス」将軍に任されました。

1835年9月、コス将軍は部隊を率いてテハス地区へと侵攻。
中旬にはまだメキシコ軍の制圧下にあったサンアントニオ・デ・ベクサー(ベクサー)へと達します。
事件はこのベクサーから、東に90キロほどの位置にある「ゴンザレス」という町で起きました。

その4へ
  1. 2010/04/13(火) 21:42:49|
  2. アラモの戦い
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アラモの戦い(2)

スペインからの独立を果たしたメキシコでしたが、それで万々歳というわけにはいきませんでした。
独立革命に功績のあったスペイン人の将軍「アグスティン・デ・イトゥルビデ」が、皇帝の名乗りをあげ「メキシコ帝国」を作り上げてしまったからです。

これはもともとはメキシコ独立に際し、新たな国王を欧州からもらおうということになっていたのですが、欧州の各王家はスペインに遠慮して国王となる人物を派遣しようとはしなかったのです。
そのためイトゥルビデが、自ら皇帝となることでメキシコをまとめようとしたのでした。

ですが、これはメキシコ人にとってはおもしろいものではありませんでした。
イトゥルビデはスペイン人であり、スペインの影響を排除できなかったため、メキシコ人にとってメキシコ帝国は真の独立とは思えなかったのです。
そのため、アグスティン一世を名乗ったイトゥルビデの政権はたちまち国民の信頼を失いました。
政権を維持しようとしたアグスティン一世は強圧的な手段でこれに望んだため、結局約一年半ほどしか皇帝の座にいることができず追放されてしまいます。

そんな中、一人のメキシコ人が国民の信望を集めていきます。
若くしてメキシコ帝国軍の准将にまで昇進した、「アントニオ・ロペス・デ・サンタアナ」という人物でした。
独立当時まだ27歳という若さだったサンタアナは、最初スペイン軍の一士官として独立派を鎮圧しておりましたが、途中で寝返りイトゥルビデの側近としてメキシコ独立に尽力します。
そしてメキシコ帝国の成立にも関わったあとで、今度はアグスティン一世の追放後もうまく立ち回り、政府に対して影響力を持ち続けることに成功しました。
こうして彼は一歩ずつ権力への階段を登り始めます。

1824年、新憲法(1824年憲法)が公布され、メキシコ帝国は「メキシコ共和国」へと生まれ変わります。
そしてこの1824年憲法が、テキサスの将来に大きな影響を及ぼすのでした。

この時テキサスは、隣接するコアウイラ地区と合併し、新たにコアウイラ・イ・テハス州という州になりました。
テハスがテキサス地区のことです。
これは現在のテキサス州とは違い、広い面積を持っておりました。
この広いコアウイラ・イ・テハス州をメキシコは開拓して価値ある土地にしようと考えます。
広大な土地を開拓するには開拓者が必要です。
この開拓者を、メキシコは隣国アメリカに求めたのでした。

入植者には広大な土地を与え、さらには十年間の租税免除という条件は、すぐに多くの開拓者を引き寄せました。
人数にもよりますが、一家族丸ごとですと約4000エーカーを越える土地が与えられるほどだったといいます。
ただしもちろん条件があり、入植者はカトリックへの改宗が義務付けられたほか、スペイン風の名前への変更や、当然ながらメキシコ共和国への忠誠も求められました。
それでも広大な土地所有という魅力は大きく、多くの申し込みが寄せられたのでした。
テハス(テキサス)地区には、こうして何人ものアメリカ人が移住してくるようになったのです。

1829年、スペインは再度メキシコの支配権を奪回するために軍勢を送り込みます。
しかし、サンタアナ率いるメキシコ軍が「タンピコの戦い」でこれを撃破。
スペインのメキシコ再支配の目論みは絶たれました。
この一件でサンタアナに対する国民の支持は爆発的に上昇し、ついに1833年の大統領選挙でサンタアナはメキシコの新大統領に就任します。

ところが、サンタアナはこれ以後1824年憲法を無視したような独裁路線を歩み始めます。
メキシコにはまだ民主主義の準備ができていないとし、民主的な政策を否定したばかりか、憲法廃止まで視野に入れ始めておりました。
ですが、民衆はまだ「英雄サンタアナ」に対する支持をやめようとはしませんでした。

その3へ
  1. 2010/04/12(月) 21:34:24|
  2. アラモの戦い
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アラモの戦い(1)

先日見たウォーゲームの記事に、昔タクテクス誌に付録で付いた「アラモ」のゲームのことが出ておりました。
私も先輩からユニットを借りて持っているのですが、まだプレイしたことがありません。
なので、その記事を見てプレイしてみようかなという気になったものでした。

で、そのゲームの元となった「アラモの戦い」とはどんなものだったのか?
ちょっと書いてみようと思いました。


1836年。
日本では今年の大河ドラマの主人公となった坂本龍馬が生まれたのがこの年でした。
この1836年の2月23日から3月6日までアメリカ合衆国のテキサス州サンアントニオという町でおこなわれたのが、「アラモの戦い」だったのです。

現在のテキサス州は、初めからアメリカ合衆国の一部だったわけではありませんでした。
16世紀初頭、スペイン人によって“発見”されたメキシコ湾沿岸のテキサス地域南部は、その後17世紀後半までは特に注目を集めることも無く、先住民たちが静かに暮らしている土地でした。

1690年ごろから、このテキサス地域はスペイン人の影響を受けるようになっていきます。
スペイン人は16世紀には現在のメキシコ全土を植民地化することに成功し、その影響力を他地域にまで伸ばして来ていたのです。
メキシコを拠点とするスペイン人はこのテキサス地域に目をつけ、領有権を主張するためにカトリックの伝道所と兵士の小規模駐屯所(兵哨)を設置していきます。
約百年の間に三十六の伝道所がテキサス地域に設置され、ネットワークで結ばれるようになりました。

先住民たちの間で「ヤナグアナ」と呼ばれる地域にも1691年6月にスペイン人の一隊が到着し、その周囲を「サンアントニオ」と名付けます。
到着した日が聖アントニウスの日だったことに由来するとのことです。

このサンアントニオの町には川が流れており、その川の名前もサンアントニオ川と名付けられるわけですが、1718年にはスペイン人の英雄「ベクサー公」にちなんで町の名前のほうは「サンアントニオ・デ・ベクサー」へと改名されました。
そして伝道の中心となる伝道教会「サンアントニオ・デ・ヴァレーロ」教会が建設されます。
その後、この教会はハリケーンによって破壊されてしまいますが、ほどなく川の東側に再建され、これがのちの「アラモ砦」の元となる建物となりました。

こうして単にベクサーの町とも呼ばれる事となるサンアントニオ・デ・ベクサーは、スペイン人によるテキサス支配の中核として位置付けられましたが、不幸なことにたびたび疫病が蔓延して町を痛めつけ住民を死に至らしめて行ったために、やがて町は衰退し、教会の建物も伝道が取りやめられて軍の駐屯地として使われるのみとなっていったといいます。

そんななか、メキシコ植民地では、じょじょに宗主国スペインからの独立を果たそうとする運動が激化しつつありました。
1776年のアメリカ合衆国の独立に刺激を受けたメキシコでは、各地で独立を求める暴動が発生し、1810年にはついにメキシコ独立戦争が勃発します。
最初のうちはスペイン側が優勢に戦争を進めますが、後半になるとスペイン本国での政変などもあってメキシコ側が優勢となり、ついに1822年にメキシコは独立を果たします。
「アラモの戦い」の一方の当事者、メキシコの誕生でした。

その2へ
  1. 2010/04/11(日) 21:09:59|
  2. アラモの戦い
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
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