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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

フォークランド紛争(14)

英軍による南サンドイッチ島の再占領をもって、すべての戦闘は終結いたしました。
フォークランド諸島近海には再び静寂が訪れました。

アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が戦争責任を取らされる形で辞任に追い込まれました。
後を継いだビニョーネ新大統領も12月にはアルフォンシン大統領に政権を奪われて退陣。
以後アルゼンチンでは軍の発言力が大幅に低下して、政府による軍のコントロールが進みました。

ガルチェリ大統領はその後懲役刑を言い渡されますが、1991年、時のメネス大統領による特赦で釈放されました。
また、この紛争で英国軍に降伏したアルゼンチン軍の捕虜は、ウルグアイ経由でアルゼンチンへと送り返されております。

アルフォンシン大統領は、この紛争で傷ついたアルゼンチンの対外評価の回復に努めました。
その結果、かねてより国境問題などを抱えていた隣国チリやブラジルとの関係改善がおこなわれ、アルゼンチンはじょじょに信頼を回復することになります。

一方の英国は、紛争の勝利者としてサッチャー首相の支持率が大幅に上がりました。
一時期は80%を越えるほどでしたが、これは戦前の不人気を考えると信じられないほどのものでした。
サッチャー首相はこれによって政権を続投し、英国経済も紛争勝利に引きずられて回復して行きました。

しかし、フォークランド諸島を再占領したことは、帝国主義的であるという批判も大きく、香港の返還につながって行きました。
また、フォークランド諸島には紛争後も英軍の一部が駐留しており、その維持費用も莫大なものとなるため、英国にとっては頭の痛い問題でもありました。

アルゼンチンにとっては経済政策の失敗から国民の目をそらすための行為が、じょじょに国民をその気にさせてしまい後戻りができなくなってついには軍事行動に発展いたしました。
しかし、英国の反撃を過小評価した結果、冬の訪れより前に行動を起こしてしまい、英軍に反撃の時間を与えてしまいました。

英国にとってはフォークランド諸島を奪われたままにしておくことは、香港やジブラルタルなどの英国海外領土の連鎖的崩壊を招く可能性があり、何が何でも奪回しなければなりませんでした。
どれだけ損害を出そうとも取り戻さなくてはならなかったのです。

双方の思惑が絡み、結果的にはこの紛争で、英国は約千名の死傷者を、アルゼンチン側は約二千名の死傷者を出しました。
艦船や航空機の損害も大きく、英国は大型艦六隻と七機のハリアー及び十一機のヘリを失い、アルゼンチンも一隻の巡洋艦と八十機以上の航空機を失いました。
しかも、それだけの損害を出して得たものは、フォークランド諸島の戦前状態への復帰、いわゆる現状維持でした。

1986年。
メキシコで行なわれたサッカーワールドカップにおいて、アルゼンチン代表はイングランド代表に2対1で勝ち、敗戦の屈辱に打ちひしがれた国民を勇気付けました。

1989年。
英国とアルゼンチン両国は敵対関係の終結を宣言。
翌1990年に国交を再開いたします。

ですが、現在に至るも、フォークランド諸島の領有権は英国及びアルゼンチン双方が主張して譲っておりません。

フォークランド紛争 終

                   ******

参考文献
「フォークランド紛争」 歴史群像2000年秋・冬号 学研


参考サイト
「Wikipedia フォークランド紛争」


今回もお付き合いくださいましてありがとうございました。
資料本の簡易な引き写しですが、少しでもこの紛争のことを知っていただければうれしいです。

一月も今日で終わり。
今月中には200万記念作をと思っておりましたが、間に合いませんでした。
もう少しお待ちくださいませ。

それではまた。
  1. 2010/01/31(日) 20:55:34|
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フォークランド紛争(13)

英国艦隊の夜間砲撃から始まった主都市ポート・スタンレーへの攻撃は、深夜0時過ぎにはアセンション島からの長距離爆撃も加わりました。
この砲撃と爆撃によって、実戦経験の乏しいアルゼンチン軍は大混乱に陥ります。
そして翌6月12日の午前2時ごろには英軍地上部隊による攻撃がついに始まり、アルゼンチン軍の外郭防衛ラインへ攻撃が行なわれました。

アルゼンチン軍は必死の防衛戦を展開しますが、戦闘に不慣れなことが災いし、数の優位を活かしきれません。
戦闘は英軍側に取っても苦しいものでしたが、やはりプロフェッショナルの実力を発揮する英軍が優位に進めることとなり、9時間ほどの戦闘でアルゼンチン軍側の外郭防衛ラインはほぼ制圧されてしまいました。

アルゼンチン軍は外郭防衛ラインから撤収し、残った兵力でポート・スタンレーの周囲の丘陵地帯に構築した最終防衛ラインの通称「ガルチェリ線」を固めます。
さらには英軍の監視網をかいくぐって空輸してきたエグゾセミサイルを陸上から発射。
このエグゾセミサイルは、沖合いで遊弋(ゆうよく)中の駆逐艦「グラモーガン」に命中します。
「グラモーガン」はエグゾセを探知すると対空ミサイルで迎撃したのですが、対空ミサイルで撃墜することはできず、エグゾセは後部のヘリコプター甲板を直撃。
「グラモーガン」は火災を発生しますが、幸い沈没することはまぬがれました。

6月13日。
英軍は「ガルチェリ線」への攻撃を開始。
ここでもアルゼンチン軍の必死の抵抗が英軍を苦しめます。
アルゼンチン軍が設置した機関銃座は英軍の接近を許さず、英軍はこれに対抗するために対戦車ミサイルを機関銃座に撃ち込むなどして一つ一つ潰していかなくてはなりませんでした。
また一部部隊では手持ちの弾薬不足から、前時代的な銃剣突撃までおこなってやっとアルゼンチン軍を排除するような箇所さえありました。

こうして英軍はアルゼンチン軍の防御拠点を一つずつ破壊し、6月14日の午前中までには「ガルチェリ線」をほぼ制圧。
ポート・スタンレーを丸裸にすることに成功いたしました。
アルゼンチン軍にはもはや拠るべき拠点はなく、抵抗のすべはなくなりました。

6月14日午後3時ごろ、アルゼンチン軍のフォークランド諸島守備隊司令官メナンデス少将がラジオ放送で英軍に対し停戦を受け入れる用意がある旨を放送。
これに伴い午後5時45分ごろにポート・スタンレーに白旗が掲げられました。

6月14日午後9時。
この時をもってフォークランド諸島全域のアルゼンチン軍が降伏。
東フォークランド島での戦闘は終わりを告げました。

6月15日。
アルゼンチンのガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を発表。
ですが、フォークランド諸島の主権はあくまでもアルゼンチンにあることと、英国が再び植民地化の動きを見せるのであれば戦闘を続けると主張しました。

しかし、もはやガルチェリ大統領には国民をまとめる力はありませんでした。
わずか二日後の6月17日、ガルチェリ大統領はこの紛争の責任を取らされる形で大統領を辞職。
後を継いだビニョーネ新大統領も国民の支持を得ることはできず、アルゼンチンの軍政は終わりを告げることになります。

6月19日。
英軍は南サンドイッチ島に部隊を上陸させ、アルゼンチン軍と交戦。
程なくアルゼンチン軍を降伏させ、ついにアルゼンチン軍に占領されていた全地域を再占領することとなりました。
これに伴い6月20日には英国政府も停戦宣言を発表。
七十二日間にわたって陸海空でおこなわれていた紛争に決着がつきました。

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  1. 2010/01/29(金) 21:12:56|
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フォークランド紛争(12)

5月31日に主都市ポート・スタンレーを包囲した英軍でしたが、このまま総攻撃を行なうわけにはいきませんでした。
街には住民が残っており、人質的な扱いを受けることも予想されたからです。
冬の訪れという時間との勝負ではありましたが、ここはしっかりと準備をしてから攻撃をする必要がありました。

6月1日。
英国政府はポート・ダーウィン及びグースグリーン飛行場の陥落とポート・スタンレーが包囲下にあることで、アルゼンチン政府に対してフォークランド諸島からのアルゼンチン軍の撤退を勧告します。
この英国側の勧告に対し、アルゼンチン政府は当時のソ連を中心とした東側諸国からの援助も受け入れると表明し、あくまでも徹底抗戦をするつもりであることを表しました。

しかし、東側諸国からの援助らしい援助はありませんでした。
この東側諸国、特にソ連がアルゼンチンへの援助に及び腰だったのは、日本との間に北方領土問題を抱えているため、下手に藪を突付きたくないという思惑が働いたものだったといわれます。

また、アルゼンチン側からすると、北方領土問題を持つ日本はフォークランド諸島を奪回しようとするアルゼンチンを必ず支援してくれるだろうという思いがあったといわれ、日本が終止英国寄りだったことに落胆して、アルゼンチン在住の日系人が心無い行為を受けるということもあったといいます。

6月7日。
アルゼンチン政府は国連の撤兵提案も拒否。
英国はこの間にも着々とポート・スタンレーへの攻撃態勢を固めつつありました。

6月8日。
ついに英国には待望の増援が到着します。
豪華客船クィーンエリザベス二世で陸軍第五歩兵旅団が到着したのです。
すぐに揚陸の手はずが整えられ、ポート・スタンレー南西の漁村フィッツロイに上陸することになりました。

この英軍によるフィッツロイ上陸作戦は、ただちにアルゼンチン軍の知るところとなり、揚陸作業中の英軍艦艇に対する航空攻撃がすぐさま行なわれます。
この攻撃もまた熾烈を極め、ミラージュ戦闘機の投下した爆弾が12型フリゲート「プリマス」に命中。
爆弾はこれまた不発だったにもかかわらず、搭載していた魚雷が炎上。
「プリマス」は大破いたしますが、かろうじて沈没はまぬがれました。

またアルゼンチン軍のA-4スカイホークが投下した爆弾は揚陸艦「サー・ガラハド」を直撃。
「サー・ガラハド」は耐え切れずに沈没します。

他にも揚陸艦「サー・トリストラム」が攻撃によって大破。
揚陸艇一隻が沈没するという大損害を英軍はこうむります。
空中警戒機を持たない英軍艦隊の脆弱さがまたしても表面化したのでした。

一方攻撃を仕掛けたアルゼンチン軍機も、シーハリアーによって三機が撃墜されます。
この紛争において、シーハリアーはついに空中戦では一気の損失も出しませんでした。
(事故や対空砲火では落ちています)

大損害をこうむった英軍でしたが、それでも攻撃準備は進められました。
「アトランティック・コンベア」喪失による輸送ヘリの数の少なさや、「サー・ガラハド」の喪失による物資の少なさなどもあり、攻撃準備は遅々とはしておりましたが、6月11日にはどうにか攻撃態勢を整えることができました。

6月11日午後9時ごろ、ポート・スタンレー南東沖合いの英国艦隊から、いっせいに対地上砲撃が開始されました。
主都市ポート・スタンレー攻撃の開始でした。
紛争は最終局面を迎えることになったのです。

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  1. 2010/01/28(木) 21:35:03|
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フォークランド紛争(11)

1982年5月27日。
英軍陸上部隊司令官ムーア少将はポート・ダーウィンへの攻撃を開始します。
攻撃の主力は第三海兵旅団第42大隊と空挺第2大隊の二個大隊でした。
アルゼンチン軍の前衛陣地を海兵第42大隊が突破したのち、空挺第2大隊は数少ない輸送ヘリを使って夜間にポート・ダーウィンの背後に進出、街を包囲することに成功しました。

翌28日早朝、英軍は空挺第2大隊を中心に砲撃と攻撃ヘリの支援を受けつつ街への攻撃を行ないました。
街への攻撃は順当に進捗し、ポート・ダーウィンの街そのものは程なく英軍の占領するところとなりました。

ポート・ダーウィン占領の余勢を駆ってグースグリーン飛行場に対する攻撃も開始する英軍でしたが、アルゼンチン軍はグースグリーン飛行場にはポート・ダーウィンとは比べ物にならないほどの防御態勢を敷いておりました。
フォークランド諸島防衛司令官であるメナンデス少将は、グースグリーン飛行場の保持が重要であるとして守備態勢を固めていたのです。

英軍空挺第2大隊はたちまちのうちに大きな損害を受け、大隊長であるジョーンズ中佐も戦死してしまいます。
しかし、ここで攻撃の手を緩めるわけにはいきません。
ムーア少将は攻撃の続行を指示。
英軍は損害をこうむりながらもグースグリーン飛行場へと迫りました。

フォークランド諸島に配置されていたアルゼンチン軍兵士たちは、主に徴兵で集められた徴集兵が主でした。
新兵とそれほど変わりがないと言っていい徴集兵は、やはり戦闘には不慣れでした。
一方英軍の中核は空挺第2大隊です。
志願兵で構成された戦闘のプロフェッショナルの集団であり、そこに大きな違いがありました。

数で勝るアルゼンチン軍でしたが、プロフェッショナルである英軍がじょじょにその実力を発揮してくるに伴い、戦場の支配権を喪失していきます。
激戦ではありましたが、アルゼンチン軍の徴集兵たちにその激戦を耐え抜く力はありませんでした。

28日の午後9時ごろに至りグースグリーン飛行場はついに英軍の占領下に置かれます。
アルゼンチン軍はもはや戦闘を支えることができず、約千四百名もの兵士たちが投降いたしました。

この「グースグリーンの戦い」は、フォークランド紛争中で最大の激戦であり、英軍アルゼンチン軍双方に大きな損害が出た戦いでした。
英軍は五十名ほどの死傷者を出し、アルゼンチン軍も約二百五十名ほどが死傷したのです。
参加した人数の規模で言えば、損害としては大きいものでした。

ポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を激戦の末に確保した英軍は、残る最重要地点である主要都市ポート・スタンレーの攻略に全力を向けることになりました。
これに対しアルゼンチン軍は、小規模の空挺作戦を行なって英軍の後方かく乱を図ろうとしましたが、降下した兵士たちが潜伏中に発見されて失敗に終わりました。

英軍はポート・スタンレー周辺の山々を制圧して街を包囲下に置こうと部隊を進めます。
5月31日、ポート・スタンレー西方のケント山を英軍が確保。
程なくその南東にあるツーシスターズ山も確保し、西側からポート・スタンレーを見下ろせる状態となりました。
これによってポート・スタンレーはほぼ包囲態勢となり、アルゼンチン軍には時間を稼ぐことでの英軍の消耗を待つしかほぼ手が無くなりました。

しかし、戦争はまだ続きます。

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  1. 2010/01/26(火) 21:20:10|
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フォークランド紛争(10)

5月22日にフリゲート「アーデント」を、5月24日には同じくフリゲート「アンテロープ」を失った英海軍でしたが、翌5月25日にもまた、アルゼンチン軍の航空攻撃を受けました。

この日はアルゼンチンにとっては最初の政府ができた記念日、いわゆる五月革命記念日でした。
(独立記念日とはまた別)
この日、ポート・スタンレーに設置されたアルゼンチン軍のレーダーが英国艦隊を捕捉。
ただちに航空攻撃が開始されます。

機動部隊の外周で対空防御に当たっていた42型駆逐艦「コヴェントリー」がまず攻撃され、A-4スカイホーク攻撃機を二機撃墜するものの、自らも投下された爆弾を三発被弾いたします。
三発も爆弾を食らった「コヴェントリー」に助かるすべはなく、「コヴェントリー」は転覆して沈みました。
またしても対空艦が航空攻撃で沈められたのでした。

直後、今度は空母機動部隊そのものが、シュペル・エタンダール攻撃機による攻撃を受けます。
シュペル・エタンダールは、今回も「シェフィールド」を撃沈した対艦ミサイルエグゾセを装備しており、機動部隊の中核である英空母「ハーミーズ」へ向けて二発のエグゾセが放たれます。

大型の航空母艦である「ハーミーズ」といえど、エグゾセを二発も食らってはただではすみません。
「ハーミーズ」は必死に「チャフ」(電波妨害用の金属片:エグゾセのレーダー波を妨害するため)をばら撒き、回避行動を取りました。
これが功を奏し、二発のエグゾセは「ハーミーズ」を捉えることはできませんでした。
しかし、それてしまったエグゾセに取り、第二の目標がおりました。
コンテナ船「アトランティック・コンベア」です。

「アトランティック・コンベア」はごく普通の貨物船です。
軍用船ではありません。
たまたま英国海軍に徴用され、物資を積んではるばるフォークランド諸島近海にやって来たに過ぎません。
対空防備などほとんど無く、エグゾセを回避するなど不可能でした。

エグゾセミサイルは、この無力のコンテナ船に襲い掛かり二発ともに命中します。
(一発説あり)
「アトランティック・コンベア」は炎上し、もはや救うことはできませんでした。
「アトランティック・コンベア」は英軍にとって重要な積み荷、シーハリアーとハリアーGR.3だけはかろうじて「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」に移し替えておりましたが、上陸部隊にとって必要な輸送ヘリチヌークとウェセックスに関してはまだ積んだままでした。
また、上陸部隊にとって必要な野営施設や飲料水製造装置、陸上でハリアーを運用するための設備など今後の作戦に必要な物資も積んだままでした。
それらを積んだまま、「アトランティック・コンベア」はついに南大西洋の波間に没します。
この損失は、英軍にとっては非常に大きいものでした。

22日、24日、25日とわずか四日間の間にフリゲート二隻、駆逐艦一隻、重要な物資を積んだ徴用コンテナ船一隻を失った英国海軍は大きな衝撃を受けました。
英国のマスコミは、かつて太平洋戦争中に戦艦二隻を航空攻撃で失った「マレー沖海戦」を引き合いに出し、それ以来の失態と政府と軍を批判しました。
まさに英国海軍に取り、悪夢のような四日間だったのです。

「アトランティック・コンベア」の喪失により、英軍地上部隊は今後の作戦行動を大幅に見直さなくてはならない状況に陥りました。
手持ちの少ない輸送ヘリで何とかやりくりするしかなく、進撃は大幅な速度ダウンをまぬがれません。
ですが、間もなく冬を迎えるにあたり、本国から輸送ヘリを待つことはできませんでした。

英軍陸上部隊の総司令官ムーア少将は、やむを得ず現有戦力のみでの東フォークランド島制圧を決意します。
そのためにはまず島の中央部のポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を制圧しなくてはなりません。
英国軍に取りきびしい戦いとなる「グースグリーンの戦い」が始まろうとしておりました。

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  1. 2010/01/25(月) 21:34:18|
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フォークランド紛争(9)

5月21日の午前6時30分ごろ、強襲揚陸艦「フィアレス」及び「イントレピッド」より発進した上陸用舟艇は、フォークランド海峡に面する東フォークランド島のファニングヘッド、サンカルロス、ポート・サンカルロスの三ヶ所に英国兵を送り込みます。
アルゼンチン軍はこの英軍の上陸作戦をまったく予期しておらず、英軍はほぼ何の抵抗も受けることなく上陸を完了。
この三ヶ所に橋頭堡を築くことに成功いたしました。

しかし、夜が明けてだんだんとアルゼンチン軍側にも状況がわかってくるに連れ、上陸した英軍に対する攻撃が主に航空機によって行なわれるようになります。
アルゼンチン軍は攻撃の主目標を主に英軍艦艇に定めており、昼ごろから午後にかけて、アルゼンチン軍機による攻撃が英国艦艇を襲いました。

アルゼンチン軍はまず東フォークランド島のスタンレー飛行場からプロペラ攻撃機プカラを、そして本土からはスカイホーク攻撃機とミラージュ戦闘機が、繰り返し英国艦艇に対艦攻撃を行ないました。
この攻撃により英軍は、21型フリゲート「アーデント」が投下された爆弾の直撃を受けて炎上。
そのほかの艦艇にもいくつかの損傷を受けました。
「アーデント」は翌22日には沈没しますが、これは英軍にとって二隻目の大型艦艇の喪失となりました。

一方アルゼンチン軍側は、この攻撃に参加したスカイホークなどあわせて十三機もの損失を出しており、しかも、三千名に及ぶ上陸した英軍兵士や物資などにもほとんど損害を与えることができませんでした。
損害が大きかったわりには上陸を阻止することも上陸部隊に損害を与えることもできなかったのです。

5月23日。
英軍はまたしても艦艇に対する航空攻撃を受けました。
アルゼンチン軍機による攻撃は今回も激しく、「アーデント」と交代でフォークランド海峡に侵入していた同型艦の21型フリゲート「アンテロープ」が爆弾二発の直撃を受けてしまいます。

爆弾はまたしても不発でしたが、残念なことに信管解除の作業中に誤って爆発させてしまいます。
「アンテロープ」はこれがもとで翌日に沈没。
三隻めの喪失でした。

海上での損害をよそに、英軍の陸上部隊は東フォークランド島の制圧に乗り出します。
この時点で東フォークランド島にはアルゼンチン軍約一万一千名の兵力がおりました。
そのうち約八千名が主都市であるポート・スタンレーに周辺に配置されており、残り約三千名のうち東フォークランド島中央部に位置するポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場近辺には千名ほどが配置され、英軍を迎え撃つことになりました。

一方の英軍は、第三海兵コマンド旅団を中核に約五千名の兵力を持っておりました。
またシミター装甲戦闘車も二十両ほど揚陸されており、航空攻撃に対抗するためのレイピア地対空ミサイルも装備しておりました。
さらに数日後には「クィーンエリザベス二世」による兵員輸送で、第五歩兵旅団の三千名も到着する手はずになっておりました。

英軍は当初、コンテナ船「アトランティック・コンベア」に積載されている大型輸送ヘリのチヌークやウェセックスなどを使い、部隊を迅速に進めていく計画でした。
主攻撃軸はポート・サンカルロスから南へ向かい、ポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を制圧。
その後東に向かってポート・スタンレーへと向かうというもので、補助攻撃軸として島の北側からポート・スタンレーに向かう部隊との二方向からの進撃を予定しておりました。

島の北側から進む補助攻撃軸の部隊は、アルゼンチン軍がいなかったこともあって順調に小集落を解放して行きました。
しかし、主攻撃軸であるポート・ダーウィン攻撃に向かうという矢先、またしても海上の英国艦隊を悪夢が襲うことになります。
フランス製の対艦ミサイルエグゾセが、再びその威力を見せ付けたのでした。

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  1. 2010/01/23(土) 21:18:51|
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フォークランド紛争(8)

アルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」と英国駆逐艦「シェフィールド」の喪失は、あらためて水上艦艇に対する潜水艦と航空機の脅威を見せ付けました。
これにより、アルゼンチン軍はほぼすべての水上艦艇を原子力潜水艦の行動しづらい大陸棚近辺にとどめることに決定。
空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」も、アルゼンチン本国に呼び戻されました。
フォークランド諸島近海からは、アルゼンチン軍の艦艇は姿を消したのです。

一方英国は、水上艦艇を引き揚げることなどできるわけがありませんでした。
フォークランド諸島の奪回には、海上戦力が不可欠だからです。
そのため、これ以後フォークランド諸島近海の英国艦艇対アルゼンチン軍航空機という対立図式が主となって行きました。

5月7日。
英国はあらためて「アルゼンチン本土から十二海里を越える距離にいるアルゼンチン軍艦及び航空機は攻撃対象とする」ことを通告します。
しかし、この頃から海上の気象は悪化の一途をたどり始め、英国の空の守りであるシーハリアーも悪天候に阻まれることが多くなってきます。
そのため、アルゼンチン航空機の攻撃に対しては、対空ミサイルで対応することも多くなってきておりました。

英国機動部隊指揮官ウッドワード少将は、今後の天候悪化に伴う英国側の不利を考慮し、速やかにフォークランド諸島への陸上部隊の投入を行なうことを決定します。
そのための敵情偵察を行なうため、東フォークランド島と西フォークランド島の間にあるフォークランド海峡に艦艇を派遣いたしました。

5月10日にはそのフォークランド海峡で、偵察任務についていた英国の21型フリゲート「アラクリティ」がアルゼンチン軍の輸送艇を砲撃。
これがこの紛争で唯一の水上艦同士の海上戦闘となりました。

5月12日。
アルゼンチン軍航空機による英国艦隊への航空攻撃が行なわれます。
アメリカ製のA-4スカイホーク攻撃機八機(一説では十二機)を投入し、上空直援にはミラージュ戦闘機を配置して英国艦隊に挑みました。
この攻撃でアルゼンチンは、スカイホークを三機を撃墜されるという損害を受けましたが、英国の42型駆逐艦「グラスゴー」(「シェフィールド」の同型艦)に爆弾を直撃させるという戦果を上げます。
「シェフィールド」に命中したエグゾセ同様この爆弾も不発に終わり、「グラスゴー」は沈没という憂き目を見ずにすみましたが、無警戒だった「シェフィールド」と違い強襲で命中弾を受けたことは、英国海軍の防空能力の脆弱さを感じさせるものでした。

同日、英国本土から増援部隊である第五歩兵旅団を乗せた豪華客船「クィーンエリザベス二世」がフォークランド諸島へ向けて出港。
同じくすでに現地に行っている豪華客船「キャンベラ」とともに徴用され兵員輸送の任につきました。

5月14日から16日にかけて、英国はSBS及びSASの二大特殊部隊によるフォークランド諸島上陸を敢行。
小部隊ばかりで本格的な上陸ではなかったものの、拠点をいくつか作ることに成功いたします。
その間英国艦隊は、陽動のためにポート・スタンレーの砲撃などを行ないました。

5月18日。
すでに対空砲火や事故などで数機のシーハリアーの損失を出していた英国機動部隊に、待望の増援が到着いたします。
コンテナ船「アトランティック・コンベア」がシーハリアー八機と、英空軍用のハリアーGR.3を六機運んできたのです。
ただちにこれら二種のハリアーは「インヴィンシブル」と「ハーミーズ」に移され、英国艦隊の航空戦力は格段に強化されることになりました。

5月21日に日付が変わった午前0時過ぎ、客船「キャンベラ」などで輸送されてきた第三海兵コマンド旅団の兵士たちが強襲揚陸艦「フィアレス」及び「イントレピッド」に移乗し、フォークランド海峡へと侵入します。
いよいよ英国軍の陸上部隊によるフォークランド諸島上陸作戦の始まりでした。

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  1. 2010/01/22(金) 21:52:28|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(7)

英国海軍の原子力潜水艦「コンカラー」による、巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」撃沈は、アルゼンチン国民を沈痛な面持ちにさせるに充分な出来事でした。
アルゼンチン国民は、この戦争が小競り合いで済むものではないと思い知らされたのです。
ここはなんとしても、英国に対し一矢報いて欲しいと思ったことでしょう。

そのチャンスは意外に早く訪れました。
「ヘネラル・ベルグラノ」喪失からわずか二日後の1982年5月4日。
上空哨戒中のアルゼンチン軍哨戒機のレーダーに、英国機動部隊の外周警備に当たる駆逐艦の姿が捉えられます。
これは英国海軍の42型駆逐艦「シェフィールド」であり、主に対空戦闘用の艦艇でした。
(英国海軍は、駆逐艦を対空用、フリゲートを対艦対潜用と区別しています)
ですが、「ヘネラル・ベルグラノ」の仇討ちに燃えるアルゼンチン軍は、ただちにシュペル・エタンダール攻撃機二機を発進させて「シェフィールド」の攻撃に向かいます。

シュペル・エタンダール攻撃機はフランス製の攻撃機で、翼下には同じフランス製の対艦ミサイルエグゾセが搭載されておりました。
当時このエグゾセミサイルは、まだ実戦での評価が定まっておらず、その実力は未知数でした。

アルゼンチン本土を発進したシュペル・エタンダールは、途中空中給油を受けて英国機動部隊に接近。
敵の警戒を避けるために低空から侵入し、距離約40キロメートル前後という限界射程ぎりぎりの距離で二発のエグゾセミサイルを発射しました。

シュペル・エタンダールは発射後すぐさま反転して離脱。
エグゾセは真っ直ぐ「シェフィールド」へと向かいます。
「シェフィールド」はこの時ほぼ無警戒であったと言われ、エグゾセへの対応が遅れました。
そのため、二発のエグゾセは一発が船体に命中。
もう一発は射程を越えてしまったために海面に着弾しました。

命中したエグゾセはなんと不発でした。
弾頭が炸裂しなかったのです。
「シェフィールド」にとっては救いかと思われました。

しかし、ミサイルの恐ろしさは弾頭が炸裂するだけではありませんでした。
音速に近い速度で船体に命中したエグゾセは、その衝撃力もただ事ではなく、船体に大きなダメージを与えました。
また、ミサイルを飛翔させるためのロケットモーターの燃焼は、高温の噴流を船体に撒き散らし、火災を発生させました。
「シェフィールド」にとって不幸なことに、命中箇所近くには調理室があり、そこには調理用の油があったのです。
油はたちまち燃え上がり、「シェフィールド」は大火災に包まれます。

命中の衝撃が艦内の電気系統に故障を生じさせたため、艦内の消火システムは作動せず、可燃物の出す有毒ガスが艦内に広まったために、消火活動は困難を極めました。
火災は手が付けられない状況となり、艦長は消火が不可能と判断、ついに総員退艦が命じられます。
「シェフィールド」はやむなく放棄されました。

その後もしばらく燃えていた「シェフィールド」でしたが、沈没はせずに浮いており、やがて火災も燃えるものを燃やし尽くして鎮火します。
英国海軍はこの「シェフィールド」を曳航して持ち帰ろうとしましたが、5月10日になって浸水が激しくなり、ついに波間に没します。
「シェフィールド」の最後でした。

つい二日前に「ヘネラル・ベルグラノ」を撃沈した英国は、今度は自分たちが新鋭の対空防御能力に優れているはずの駆逐艦「シェフィールド」を航空攻撃で沈められたことに衝撃を受けました。
このことでエグゾセミサイルは、不発だったにもかかわらず高評価を受けることとなり、一躍武器市場での名声を高めることになりました。

そしてアルゼンチン国民もまた「シェフィールド」の撃沈を喜びましたが、戦争が泥沼化してきたことに懸念も抱いておりました。

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  1. 2010/01/20(水) 21:07:19|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(6)

5月に入り、戦闘はいよいよ激化の一途をたどり始めました。
先日の記事に記したように、5月1日には英国空軍のアブロ・バルカン爆撃機が長駆アセンション島からスタンリー空港を爆撃して行きましたし、英海軍のシーハリアーと艦砲射撃が同じくスタンリー空港とグースグリーン空港を攻撃しました。

これに対しアルゼンチン空軍のミラージュ戦闘機が英国艦隊を攻撃しようとしたものの、逆にシーハリアーによって四機を失うという痛手をこうむります。
ですが、アルゼンチンとてこのまま引き下がるつもりはありませんでした。

アルゼンチン本土からの航空攻撃は、確かにフォークランド諸島との距離の関係で、大幅に制限を受けることになります。
本土の基地からおよそ800kmから1000kmも離れているフォークランド諸島の上空では、アルゼンチン空軍もその滞空時間が少なくならざるを得ないのです。
それに対し、英国艦隊は空母を保持しているため、すぐに上空直衛を行なえます。

で、あれば、こちらも空母を出せばいいのです。
アルゼンチン海軍には、当時一隻の空母がありました。
その名を「ベインティシンコ・デ・マヨ」といい、もともとは第二次世界大戦中に英国が建造した「コロッサス」級の空母でした。
英国が売却した空母をオランダが購入し、そのオランダから今度はアルゼンチンが購入して配備していたのです。
この「ベインティシンコ・デ・マヨ」から艦載機を発進させれば、英国艦隊の大いなる脅威となるはずでした。

一方、英国もこのアルゼンチンの空母には注意を払っておりました。
またアルゼンチン海軍にはもう一隻、「ヘネラル・ベルグラノ」という巡洋艦があり、この二隻がアルゼンチン海軍の主力と目されておりました。
そこで英国海軍は、この二隻の動向を監視するとともに、ことあれば攻撃を行なうために、それぞれに一隻ずつの攻撃型原子力潜水艦を派遣します。
「ベインティシンコ・デ・マヨ」には「スパルタン」を、「ヘネラル・ベルグラノ」には「コンカラー」をそれぞれ差し向けたのです。

「ヘネラル・ベルグラノ」は、もともとはアメリカ海軍の巡洋艦でした。
完成したのはなんと第二次世界大戦前の1938年で、日本軍との戦いを生き延びた巡洋艦でした。
アルゼンチンは1951年にこれを購入し、アルゼンチン海軍の主力と位置づけます。
無論、このフォークランド紛争時にはすでに完成から40年以上が経っていたため、アルゼンチン海軍でも実質上の戦力というよりもいわば象徴のような扱いではありました。

アルゼンチンはこの二隻それぞれを中核とした小部隊をフォークランド諸島沖に派遣しました。
空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」はフォークランド諸島の北側に、「ヘネラル・ベルグラノ」は南側に配置され、それぞれ英国艦隊へ圧力をかけるつもりだったのです。
しかし、機関の不調から「ベインティシンコ・デ・マヨ」は艦載機を発進させることができず、ついに第二次世界大戦後初となる空母同士の海上決戦は行なわれることなく終わります。
また、「ヘネラル・ベルグラノ」には、海中から静かに忍び寄る英国潜水艦「コンカラー」の姿がありました。

5月2日、24時間体制で「ヘネラル・ベルグラノ」に張り付いていた「コンカラー」は、この巡洋艦が味方の脅威になりえると判断します。
いまだ英国の通告した「海空封鎖領域:TEZ」外にとどまっていた「ヘネラル・ベルグラノ」でしたが、英国海軍はこれに対する攻撃を決定。
艦長はあらかじめ定められた交戦規定に基づき、この日の午前四時ごろ、三発の無誘導魚雷を発射しました。
魚雷はこのうち二発が命中。
「ヘネラル・ベルグラノ」は艦首付近を吹き飛ばされ、ゆっくりと沈没。
乗員1092名中323人が運命をともにしました。
「コンカラー」はこれにより史上初めて敵艦を撃沈した原子力潜水艦となり、今現在にいたるまで「コンカラー」のみが保持する記録となってます。

海軍の象徴たる巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を沈められたアルゼンチンは色を失いました。
あわてて空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」をフォークランド沖から呼び戻し、以後「ベインティシンコ・デ・マヨ」に出撃の機会が訪れることはありませんでした。

アルゼンチン国民にとっても「ヘネラル・ベルグラノ」沈没の衝撃は大きいものでした。
フォークランド諸島の占領という既成事実さえ作ればあきらめざるを得ないであろうと思っていた英国が、本気で取り返しに来ていることがわかったのです。
アルゼンチンを重い空気が包みました。

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  1. 2010/01/14(木) 21:17:12|
  2. フォークランド紛争
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フォークランド紛争(5)

サンディー・ウッドワード少将率いる英国海軍の機動部隊、第317任務部隊はアセンション島を出港後順調にフォークランド諸島へと向かっておりました。
その間にも空母「ハーミーズ」や「インヴィンシブル」の艦上では、戦闘への準備がおおわらわで進められていきます。
なにせ英国は第二次中東戦争以降大きな戦争を経験しておりません。
シーハリアーの平常時の目立つ塗装を急いで戦時塗装に塗りなおし、上陸する兵士たちはヘリからの降下訓練を空母の飛行甲板で行ないます。
海に向かっての射撃訓練も各艦艇で行なわれました。

1982年4月23日。
英国海兵隊特殊舟艇隊(SBS)のコマンドが南ジョージア島に偵察上陸を行ないます。
25日には英国海兵隊の二百五十名が南ジョージア島に上陸。
アルゼンチン軍と戦闘に入ります。

ですが、アルゼンチン本国から遠いこの南ジョージア島の保持は無理と判断していたアルゼンチン軍はさほどの抵抗はせず、同日南ジョージア島は再び英国の手に戻ります。
英国はようやく一ヶ所取り戻したのでした。

この時点でも英国はまだアルゼンチンに対し宣戦布告は行なっておりませんでした。
英国は自国の軍事行動を、国連憲章の定める自衛権の行使としており、アメリカを通じた外交交渉も続けていたのです。

しかし、アルゼンチンは強硬でした。
ガルチェリ大統領はアメリカの仲介を突っぱね、ついにはアメリカも平和的解決の道なしと手を引くことになります。

4月30日。
アメリカが交渉を断念。
これに伴い、英国はフォークランド諸島から200海里の海上封鎖を、「海空封鎖領域:TEZ」に再設定。
海上だけではなく空域も封鎖されることになり、フォークランド諸島に近づくアルゼンチン航空機も攻撃対象となりました。

フォークランド諸島にいるアルゼンチン軍への補給は主に空路によっており、この日までに同島守備隊の約90日分の武器弾薬を運び込むことに成功しておりましたが、以後、アルゼンチン軍が守備隊兵力を増強することはきわめて困難な状況になったのです。

5月1日。
英国はフォークランド諸島の重要な二つの空港、東フォークランド島にあるスタンレー空港とグースグリーン空港を使用不可にするための大胆な攻撃を行ないます。
大型爆撃機であるアブロ・バルカン爆撃機をアセンション島から発進させ、空中給油を繰り返して東フォークランド島の空港を爆撃するというのです。
さらにシーハリアーによる攻撃と艦砲射撃を行い、二つの飛行場を完全に破壊する計画でした。

この作戦は「ブラックバック作戦」と命名され、バルカン爆撃機二機と空中給油機十五機を使って行なわれました。
途中一機のバルカン爆撃機はトラブルのために帰還しましたが、一機はスタンリー空港上空で二十一発の1000ポンド爆弾を投下しました。
またシーハリアーの攻撃と艦砲射撃が両空港に行なわれ、甚大な損害を与えたと見なされました。

しかし、実際はアルゼンチン軍の航空機の離着陸を阻止するまでにはいたらず、この後もアルゼンチン軍はほそぼそと航空機による補給を行ないます。

一方、これに対しアルゼンチン軍は航空戦力による反撃を開始。
本土の航空基地を発進したアルゼンチン空軍のミラージュ戦闘機が英海軍のシーハリアーに襲い掛かります。
これは史上初の垂直離着陸機(VTOL)による空戦参加でしたが、超音速機のミラージュ戦闘機に対し、亜音速しか出ないシーハリアーはその特有の空中停止能力や小回りのよさなどを生かしてミラージュ戦闘機を翻弄。
四機のミラージュを撃墜するという戦果を収めます。
世界の軍事航空関係者が驚きの声を上げた瞬間でした。

英国機動部隊にとって、上空をカバーしてくれる戦闘機は、わずかに二十機のシーハリアーのみでした。
空母「ハーミーズ」に十二機、「インヴィンシブル」に八機しか搭載してなかったのです。
それに対しアルゼンチンは、ミラージュ戦闘機や改良型のイスラエル製ダガー戦闘機、スカイホーク攻撃機やシュペル・エタンダール攻撃機など、およそ二百機を超える作戦機を保有しておりました。
フォークランド諸島とアルゼンチン本土との距離が問題になるとはいえ、十倍の戦力差があれば、いかにシーハリアーが優秀といえども問題にならないとアルゼンチン空軍は考えていたことでしょう。

ですが、そのシーハリアーは、予想以上の強敵でした。

(6)へ
  1. 2010/01/12(火) 21:46:50|
  2. フォークランド紛争
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