1941年2月3日、喜望峰を回ってインド洋に入った「アドミラル・シェーア」は、マダガスカル沖で獲物を探します。
ですがこの時には獲物はさっぱり見つかりませんでした。
そんななか、ドイツの仮装巡洋艦「アトランティス」と会合するように命じられたクランケ艦長は、インド洋で暴れている「アトランティス」から情報を得ることができると考えます。
2月14日、無事に「アトランティス」と合流した「アドミラル・シェーア」は、「アトランティス」のロッゲ艦長から情報を得ることができました。
それによると、英国の商船たちはドイツの通商破壊艦を恐れ、沿岸沿いを主に航行しているために、「アドミラル・シェーア」のいる通商航路にやってこないのだというのです。
そこで今度は東アフリカのザンジバル沖に移動し、そこで通商破壊を行なうことに決めました。
この移動は功を奏し、2月17日から2月20日にかけて、英国のタンカーとノルウェーの商船を相次いで拿捕及び撃沈します。
しかし、2月20日に英国船「カナディアン・クルーザー」を捕捉したとき、通商破壊艦に追撃されているという無電を発信されてしまいました。
しかも、通商破壊艦は大型巡洋艦クラスであることも付け加えられてしまったのです。
「アドミラル・シェーア」の位置がこれで英国海軍に知られてしまったのでした。
クランケ艦長はこの事態を重く見て、すぐにザンジバル沖から移動することに決定します。
ドイツ本国からも3月には帰投せよとの命令が来ていたこともあり、インド洋での通商破壊活動も止める潮時でした。
ザンジバル沖から喜望峰へ向かう「アドミラル・シェーア」でしたが、英国海軍の包囲網はじょじょに狭められつつありました。
上空を偵察の水上機が飛んで行ったり、小型の商船に発見の無電を発信されるなどもありましたが、より深刻な事態はレーダーの故障でした。
「アドミラル・シェーア」搭載のレーダーが使えなくなってしまったのです。
このことは敵を先にキャッチできないということになり、相当な不利になることは間違いありませんでした。
この時「アドミラル・シェーア」を追っていた英国海軍の艦艇は、重巡「グラスゴー」「オーストラリア」、軽巡「ホーキンス」「エメラルド」に加え、空母「ハーミーズ」とその護衛に当たる軽巡「ケープタウン」、さらには重巡「キャンベラ」と「シュロップシャー」という膨大なものでした。
それら英国海軍の艦艇が、まさに包囲網を閉じようとしていたのです。
しかし、「アドミラル・シェーア」にはまだ運がありました。
商船の一隻が不用意に打った無電により、「アドミラル・シェーア」の進路上に英国海軍の巡洋艦二隻がいることがわかったのです。
クランケ艦長はただちに針路変更を命じ、この英国海軍の巡洋艦群をやり過ごすことができたのでした。
2月26日、無事にインド洋を抜け大西洋に戻った「アドミラル・シェーア」に対し、クランケ艦長に騎士十字章、乗組員に鉄十字章が与えるものとするとのドイツ本国からの無電が入ります。
クランケ艦長は乗組員全員を集めてそのことを知らせたのち、これより帰投する旨を伝えました。
インド洋を脱出したとはいえ、前途には広大な大西洋が広がっておりました。
この大西洋をレーダーが故障したままで航海するのはきびしいと考えたクランケ艦長は、レーダーだけでも修理しようと本国へ部品の供給を依頼しました。
この要望は受け入れられ、「U-124」潜水艦が修理部品を「アドミラル・シェーア」に届ける手はずとなりました。
この部品受け取りのため、「アドミラル・シェーア」はまたしてもアンダルシア会合点にやってきます。
ここで「U-124」の到着を待ちながら、「アドミラル・シェーア」は水線下のフジツボなどを落として速度発揮に支障のないようにいたしました。
3月11日、待ちに待った「U-124」が到着し、レーダーの修理部品が届きます。
クランケ艦長はお礼に「デュケサ」から手に入れた大量の肉と卵を「U-124」に分け与え、レーダーの修理に取り掛かりました。
レーダーの修理を終えた「アドミラル・シェーア」は本国への航海に取り掛かります。
3月22日ごろから北大西洋では暴風が荒れ狂い、「アドミラル・シェーア」はそれにまぎれてデンマーク海峡を突破することにしました。
3月26日には英国の巡洋艦をレーダーがキャッチしますが、幸い探知はされませんでした。
その後レーダーが再び故障するものの、3月28日にはデンマーク海峡を突破。
3月30日にはノルウェーのベルゲンに到着します。
翌日4月1日、ついに「アドミラル・シェーア」は無事にドイツ本国のキール軍港に到着。
五ヶ月に及ぶ航海に幕を下ろしました。
出迎えたレーダー提督から乗組員に鉄十字章の授与が申し渡されたのち、提督は「アドミラル・シェーア」の士官室でふんだんに料理を振舞われました。
「デュケサ」より手に入れた食料はここでも大活躍でした。
「アドミラル・シェーア」の航海が終わったのち、わずか二ヵ月後には同様に通商破壊の航海に出発した戦艦「ビスマルク」が英国海軍の集中攻撃によって撃沈されてしまいます。
もはやドイツの水上艦による通商破壊活動は望み薄になっており、「アドミラル・シェーア」の航海が最後の輝きと言ってもよいものでした。
「アドミラル・シェーア」はこの航海で6000海里以上を航行し、武装商船「ジャービス・ベイ」をはじめ合計九万トン以上もの商船を撃沈いたしました。
さらに英国海軍の多くの艦艇を引きつけ、翻弄してきました。
「アドミラル・シェーア」の航海は大成功だったのです。
これはテオドール・クランケ艦長以下乗組員の努力の賜物でした。
その後「アドミラル・シェーア」はバルト海やノルウェーで行動しましたが、ヒトラーの命令や制空権制海権の喪失などで、大戦後半にはほとんど行動できなくなってしまいました。
戦争終結直前の1945年4月9日、英国空軍の空襲を受けた「アドミラル・シェーア」は、キール軍港内で横転。
そのまま沈没してしまいます。
この時32名が戦死しました。
ドイツの水上艦で最も活躍したと言ってもいい「アドミラル・シェーア」の最後でした。
参考文献
「英独航空決戦」(第二次大戦欧州戦史シリーズ3) 学研
「ポケット戦艦」歴史群像2003年4月号 学研
参考サイト
Wikipedia「アドミラル・シェーア」
- 2009/12/29(火) 20:56:40|
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冷蔵船「デュケサ」の発信した無電により、またしても英国海軍は翻弄されることになりました。
英国海軍はこのこしゃくな通商破壊艦を探すため、空母「ハーミーズ」と「フォーミダブル」、それに巡洋艦数隻をアフリカ沿岸に派遣しましたが、「アドミラル・シェーア」の行方は杳として知れませんでした。
1940年12月19日。
英国海軍の懸命の捜索をよそに、「アドミラル・シェーア」は「デュケサ」とともにアンダルシア会合点に到着。
ここで「デュケサ」より大量の食料を運び込みます。
卵だけでも四万数千個という数が運び込まれ、さらにはウィスキーやワインなどのアルコール類も積み込まれました。
艦内では早速ご馳走が振舞われ、ある水兵が卵を四十八個も食べたとの噂が艦内に流れると、軍医が真剣に食べ過ぎを心配したとまで言われました。
出港して二ヶ月ほどが経過して、そろそろ機関のオーバーホールが必要だと感じていたクランケ艦長は、この海上の会合点でオーバーホールをやってしまおうと考えます。
機関長はこの困難な命令をやってのけ、「アドミラル・シェーア」はドック入りすることなく機関のオーバーホールを行なってしまいました。
しかもクリスマスになる前にです。
「アドミラル・シェーア」の機関はこれでまた万全に近い状況に戻りました。
アンダルシア会合点にはクリスマスから新年にかけドイツの艦船が集結してきておりました。
通商破壊艦の仮装巡洋艦「トール」、補給艦「ノルトマルク」、給油艦「オイロフェルト」、これらが「アドミラル・シェーア」とともに新年を祝いました。
もちろん「デュケサ」の食料が、乗組員たちの腹を満たしてくれました。
年も明けて1941年1月、「アドミラル・シェーア」は再び行動を開始します。
艦内の無線傍受及び暗号解読班がまたしても活躍し、英国海軍の空母「ハーミーズ」がセント・ヘレナ島近海にいることがわかったため、「アドミラル・シェーア」はその海域を避けて行動することができました。
1月17日から19日にかけ、「アドミラル・シェーア」は貨物船二隻を撃沈し、タンカー一隻を拿捕します。
英国海軍はまたしても「アドミラル・シェーア」にスコアを上げられてしまいました。
1月25日、「アドミラル・シェーア」は再び会合点アンダルシアに戻ります。
仮装巡洋艦「ピンギン」が拿捕した捕鯨船団をドイツ本国まで回航するための要員を派遣せよとの命令を受けたのです。
回航要員の派遣は乗組員の減少を意味し、ひいては戦力の減少につながるため、クランケ艦長としては避けたいことではありましたが、命令には逆らえません。
「アドミラル・シェーア」は捕鯨船団と合流し、回航要員を派遣して今度はインド洋へと向かいます。
巡洋戦艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」、重巡洋艦「ヒッパー」が北大西洋で通商破壊を開始する旨の情報があり、北大西洋とインド洋で同時に通商破壊を行うことで英国海軍を翻弄しようとクランケ艦長は考えたのでした。
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- 2009/12/28(月) 21:15:45|
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北大西洋上にでてすぐに、「アドミラル・シェーア」は活動を開始します。
艦内の無線傍受及び暗号解読班がキャッチした情報により、カナダのハリファクス港より英国に向けて出港した輸送船団HX83、HX84の二つが近場を航行中であることが「アドミラル・シェーア」にはすでにわかっておりました。
艦長のクランケ大佐は、情報を精査した末にタイミングの合いそうなHX84船団を攻撃することに決定。
「アドミラル・シェーア」はHX84船団へと向かいました。
HX84船団に向かって索敵のために水上機を飛ばしたのち、途中で独航船(船団を組まずに単独で航行する商船のこと:船団だと狙われやすいと思い、単独で航行する商船も少なくなかった)の英国商船「モパン」を偶然にも発見。
停船させて撃沈したのち、さらに船団へと向かいました。
索敵機がHX84船団を発見しその進路を知らせてきていたため、「アドミラル・シェーア」は11月4日16時30分に難なく船団を捕捉します。
当時の英国海軍は護衛艦艇の数が足りず、このHX84船団にも護衛艦艇は正規の軍艦はついておりませんでした。
わずかに通常の商船に武装を施しただけの武装商船「ジャービス・ベイ」が護衛についているだけだったのです。
「アドミラル・シェーア」に発見されたHX84船団は、ただちに被害を最小限にするべく蜘蛛の子を散らすように散開します。
また護衛についていた武装商船「ジャービス・ベイ」が、必死に船団の退避時間を稼ごうと「アドミラル・シェーア」に対して砲門を開きます。
しかし、単なる商船に武装を施しただけの「ジャービス・ベイ」では勝負にならないことは火を見るよりも明らかでした。
「アドミラル・シェーア」はさほど時間をかけることなく果敢に立ち向かってきた「ジャービス・ベイ」を砲撃で撃沈。
「ジャービス・ベイ」は艦長以下約200名の乗員とともに波間に没しました。
その後HX84船団の商船たちは「アドミラル・シェーア」によって狩り出され、三十八隻の商船のうち五隻が撃沈されました。
またそのほかにも損傷を受けた商船があり、英国は大損害を受けたのです。
これ以後、英国海軍は輸送船団の護衛に旧式戦艦を充てることにするほどの衝撃でした。
HX84船団への攻撃を成功させた「アドミラル・シェーア」は、誇らしげに戦果を報告し現場を離脱します。
ですが、この攻撃により弾薬の三分の一ほどを消費したため、補給を受ける必要がありました。
そこで前もって決めてあった会合点に向かい、そこで補給船と合流するすることにします。
11月14日、補給船「ノルトマルク」と無事に合流し、食料や弾薬の補給を受けました。
ここでクランケ艦長は「アドミラル・シェーア」を一度カリブ海近くのサルガッソ海へ向け、英国海軍の目をくらませることにします。
「アドミラル・シェーア」は西へ向かい、11月24日にはサルガッソ海で英国商船「ポートホバート」を撃沈。
しかも「ポートホバート」は通商破壊艦に襲撃されたという無電を発信していたため、英国海軍の目をサルガッソ海に引きつけるという目的も果たすことができました。
そこで「アドミラル・シェーア」は再び東へ向かってアフリカ沿岸へと向かいます。
12月1日にはカナリア諸島の南で英国商船「トライブズマン」を撃沈。
ここからさらに南下して赤道を越えました。
12月18日、「アドミラル・シェーア」に少し早いクリスマスプレゼントが手に入ります。
英国商船「デュケサ」を捕獲したのです。
この船は冷蔵船で、9000トンもの肉と果物に加え、900トンもの卵を積載しておりました。
これにより「アドミラル・シェーア」は外洋で不足する食料の心配がなくなったのです。
「アドミラル・シェーア」はこの「デュケサ」をつれてドイツ海軍の南大西洋での合流点の一つであるアンダルシア会合点に向かいました。
この一連の「アドミラル・シェーア」の行動に英国海軍は翻弄され続け、ただむなしく捜索を続けるだけでした。
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- 2009/12/27(日) 21:27:38|
- シェーアの航海
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第二次世界大戦が始まって二ヶ月ほどの1939年11月1日、一人のドイツ海軍大佐がある軍艦の艦長に就任いたしました。
大佐の名前はテオドール・クランケ。
軍艦の名前は装甲艦「アドミラル・シェーア」といいました。
「アドミラル・シェーア」は、ドイツが第一次世界大戦に敗北後押し付けられたヴェルサイユ条約の制限内で建造された装甲艦「ドイッチュランド」級の一隻で、その重武装とそこそこの速力から「ポケット戦艦」とも呼ばれるものでした。
基準排水量は一万二千トン。
全長は186メートル、最大幅は21.6メートル。
ディーゼルエンジンを八基搭載し、二軸推進で最高速度は28ノットまで出せました。
武装は28センチ砲三連装砲塔を前後に一基ずつ計二基搭載し、他にも15センチ砲八門や、魚雷発射管八門などを備えておりました。
当時の戦艦が速力25ノットから26ノット程度だったのに対しては優速なため、戦艦に出会えば逃げ出せるし、自分より速度の速い巡洋艦に対してはその28センチ砲の砲撃力で撃沈してしまおうという考えのもとで建造された軍艦であり、連合国である英仏海軍には対抗できる艦艇がありませんでした。
「アドミラル・シェーア」はこの「ドイッチュランド」級の二番艦として、1934年の11月に就役したのです。
それから5年。
「アドミラル・シェーア」はスペイン内戦に派遣されるなどしたのち、二代目艦長のテオドール・クランケ大佐を迎えます。
クランケ大佐は海軍大学校の校長を勤めていた人物であり、頭でっかちの理論家と乗組員には思われておりました。
ですがその思いは、このあとの「アドミラル・シェーア」の航海によって、見事に覆されることになります。
第二次世界大戦開戦直後の空襲によって損傷した「アドミラル・シェーア」は、その後修理と改装で1940年の半ばまで過ごしました。
その間にドイツ海軍は、1939年12月の「アドミラル・グラーフ・シュペー」の自沈や、1940年4月のノルウェー戦などによっていくつかの艦艇を失いました。
もともと海軍力の整備を1945年に完了することを目標にしてきたドイツ海軍にとって、1939年の開戦は予想外でした。
ドイツ海軍は艦艇の数の揃わぬままに第二次大戦に突入したのです。
そのような状況では、英仏海軍に対し取れる作戦の選択肢は多くありませんでした。
そこでドイツ海軍は通商破壊戦に力を注ぎます。
主要敵国である英国は島国であり、その経済活動の多くを海上輸送に頼っています。
その海上輸送を断ち切ることで、英国の国力を低下させ、戦争から脱落させることを目論んだのです。
通商破壊戦に適していたのは潜水艦でしたが、長大な航続距離を持つ水上艦艇もまたその任に適しておりました。
燃費のよいディーゼル機関で20ノット時の航続距離が8900海里という「アドミラル・シェーア」は、まさに通商破壊艦としてもうってつけだったのです。
1940年10月23日、「アドミラル・シェーア」はバルト海に面したゴーテンハーフェン港より出港します。
クランケ大佐以下乗組員たちは意気揚々と出発しました。
行く手は広大なる大西洋。
クランケ大佐はそこで通商破壊艦狩りを行うであろう英海軍との戦いを、まるでチェスのような先読みのゲームと捕らえているかのようだったといわれます。
「アドミラル・シェーア」は、キール運河を通り北海に出た後、ノルウェーのスタヴァンゲルに立ち寄り、アイスランドとグリーンランドの間のデンマーク海峡を通り抜けて大西洋へと到達します。
通商破壊の始まりでした。
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- 2009/12/26(土) 21:17:09|
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