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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

三国同盟戦争(6)

ウマイタ要塞の陥落によってパラグアイ川の玄関は開きました。
三国同盟軍はここからパラグアイの首都アスンシオン目指して北上を開始します。
ソラーノ・ロペス大統領はやむを得ず、パラグアイ軍を首都の南35キロの地点にあるピキシリ川沿いに展開。
ここを最終防衛線として徹底抗戦をする構えを見せました。

相次ぐ戦いで、すでにパラグアイ軍はぼろぼろの状態でした。
成年男子はおろか、老人子供までもが前線に駆りだされておりました。
そうしてかき集めた1万3千の兵力で、何とか三国同盟軍を迎え撃つつもりだったのです。

一方三国同盟軍も、主力であるブラジル軍は別として、アルゼンチンとウルグアイの兵力は減少しておりました。
三国同盟軍はピキシリ川の防衛線に直接攻撃を仕掛けることは得策ではないと判断し、パラグアイ川の対岸であるアルゼンチン領のチャコ地方を進撃。
ピキシリ川のラインを迂回して背後に回ります。
その数約3万8千。
彼らはアスンシオンの手前のサンアントニオで再びパラグアイ川を渡河し、パラグアイ領に入ります。
もはやパラグアイ川の交通は三国同盟軍の自由でした。

サンアントニオを占領した三国同盟軍は、本隊をアスンシオンに向けるとともに、1万8千の支隊を南下させてピキシリ川の背後からパラグアイ軍を襲わせます。
パラグアイ軍は3500の兵力でこれを迎え撃ちますが、やはり多勢に無勢、パラグアイ軍は後退を余儀なくされました。

ソラーノ・ロペス大統領は増援を合わせて約4000の兵力で再び三国同盟軍に挑みます。
パラグアイ軍は決死の覚悟で挑み、自殺的な切り込み攻撃を行ないましたが、三国同盟軍の前に完敗。
パラグアイ軍約4000はほぼ全滅だったといわれます。

1868年12月末、アスンシオン南方のイタ・イパテでは七日間の激しい攻防戦が行なわれました。
約600人の女性までもが戦いに参加したというパラグアイ軍でしたが、この戦いでもまた三国同盟軍に敗退し、約8000もの死傷者を出したといわれます。

ほぼ全滅したパラグアイ軍にあって、ソラーノ・ロペス大統領は約60人ほどの部下とともに戦場を離脱。
三国同盟軍側も約4000もの死傷者を出したことから、これを追うことができず、翌年1月1日にパラグアイの首都アスンシオンに入るのが精いっぱいでした。

三国同盟軍はアスンシオンに臨時民主政府を樹立。
しかし、戦争はまだ終わりません。
アスンシオンの東にある山岳地帯に逃げ込んだソラーノ・ロペス大統領は、ピリベブイに首都を移しさらなる抵抗を続けます。

もはや老若男女かまわずに新軍を編成したパラグアイ軍は、ただの武装し飢えた民衆にほかなりませんでした。
騎兵は馬を持たず、歩兵は靴さえなく、武器も刀剣や斧という状態でした。
それでもソラーノ・ロペス大統領は戦いを続けました。
大統領夫人のエリサも軍服をまとって夫のそばで励ましたといいます。

三国同盟軍との小競り合いが続き、1869年8月には新たな首都ピリベブイすらも追われたパラグアイ軍でしたが、8月16日に最後の組織的抵抗といわれるアコスタ・ニューの戦いが起こります。
撤退するソラーノ・ロペス大統領の小部隊を守るため、パラグアイ軍約3500が追撃してきたブラジル軍約2万を迎え撃ったのです。

パラグアイ軍のほとんどは少年兵でした。
多くは九歳から十五歳。
中には六歳から八歳という子もいたといいます。
成人兵はわずか500人に過ぎなかったそうです。

彼らは勇敢に戦いました。
ソラーノ・ロペス大統領を無事に脱出させることに成功したのです。
代償は彼らの全滅でした。
戦闘終了後、戦場には我が子の遺体を抱く母親たちの泣き声で覆われたといいます。

これほどの悲劇を起こしながらもソラーノ・ロペス大統領は戦い続けました。
さらに半年の間戦い続け、1870年2月、ついに北部山岳地帯にまで追い詰められてしまいます。
付き従うものわずかに400名ほどとなっておりました。

ここでソラーノ・ロペス大統領は最後の叙勲式を行なったといいます。
生き残ったものたちに手作りの粗末な勲章を与え、士気を高めました。

1870年3月1日。
ブラジル軍の攻撃が始まります。
生き残った者たちが次々と倒れていくなか、ソラーノ・ロペス大統領も自ら戦い、ついにここで戦死します。
十五歳の息子も戦死し、妻エリサと幼い幼児だけが生き残りました。

ソラーノ・ロペス大統領が戦死したことで、ようやく「三国同盟戦争」は終わりを告げました。
実に五年にわたった戦争は、参加したどの国も悲惨な戦争でした。

勝者となったブラジルでしたが、5万人近い死傷者を出し、軍部の発言力が強まりました。
また戦費を英国に借りたため、いっそう英国に対する従属度が高まりました。
そうしたことが組み合わさり、ついにブラジルは1889年に帝政が崩壊することになります。

アルゼンチンは国内を統一できたものの、やはり英国に対する従属度が深まりました。
ソラーノ・ロペスとの密約がありながらも立ち上がらなかったウルキーサは、この戦争を通じて軍需物資を売り財を成しましたが、結局そのことで顰蹙を買い暗殺されました。

ウルグアイは緩衝国が必要と再認識したブラジルとアルゼンチンにより、以後の両国からの干渉は少なくなっていきますが、やはり何も得るものはありませんでした。
コロラド党とブランコ党の両党による政情不安も解消されず、二十世紀にまで続くことになります。

最大の被害はパラグアイでした。
国家の存続は認められたものの、領土の約四分の一をブラジルとアルゼンチンに割譲しなければなりませんでした。
土地もアルゼンチンの地主によって買い占められるなどし、英国からも借款を押し付けられるなど、経済的には英国とアルゼンチン、政治的にはブラジルの影響力が強まりました。

何よりも大きかったのは人口の減少でした。
パラグアイはこの戦争で本当に多くの国民を失いました。
ある統計によれば、戦前の人口が52万5千人に対し、戦後の人口は半数以下の21万1千に過ぎなかったといいます。
なかでも成人男性にいたっては2万6千ほどしか残らなかったという資料もあり、まさに全滅に近かったといえるでしょう。
以後パラグアイでは労働力の中心が女性となり、今でも女性が世帯主として登録される習慣が一部では残っているそうです。

このように政治、経済、国土、人口の全てが荒廃してしまったパラグアイは、その後一世紀以上を経た今日でも完全には傷が癒えていないといわれます。
まさに南米最大最悪の戦争だったといえるのではないでしょうか。

戦後、ソラーノ・ロペス大統領に対するパラグアイ国民の評価はきびしいものでした。
国を破滅させた責任者として非難されたのです。
しかし、評価は時とともに移り変わり、今ではソラーノ・ロペス大統領は、現職大統領が最後まで戦って戦死した史上でもおそらく唯一の例として愛国者としてたたえられているといいます。
今日、この四ヶ国が南米共同市場を発足させ、各分野での協力を推進させるなど友好関係を発展させていることなどもあわせると、「三国同盟戦争」ははるか過去の出来事になってしまったのだと思います。

三国同盟戦争 終

参考文献
「歴史群像 2000年春夏号 パラグアイ戦争」 学研

参考サイト
Wikipedia 三国同盟戦争 パラグアイ ウルグアイ ブラジル アルゼンチン
元老院議員施設資料展示館 パラグアイ戦争
など

日本ではなじみの無い戦争でしたがいかがでしたでしょう。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
  1. 2009/11/17(火) 21:46:29|
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三国同盟戦争(5)

パラグアイのソラーノ・ロペス大統領と三国同盟軍司令官ミトレとの間に和平交渉が行われている間にも、次の戦いへの布石は行なわれておりました。

三国同盟軍は1866年9月初旬には、パラグアイ軍2500の守るパラグアイ川に面するクルス砲台を約1万4千の兵力で攻撃。
この時ブラジル河川艦隊の新鋭戦闘艦「リオ・デ・ジャネイロ」が、仕掛けられていた機雷に触れて沈没するという痛手をこうむったものの、クルス砲台を占領します。

下旬にはクルス砲台の上流側にあるクルパイティ砲台を2万の兵力で攻撃。
しかし、クルパイティ砲台は和平会談の間に防御が強化されており、三国同盟軍はここで手痛い敗北を喫します。
約9千もの死傷者を出しながらクルパイティ砲台を占領できず、三国同盟軍は後退せざるを得ませんでした。
これに対しパラグアイ軍の戦死者はなんとたったの50人ほどだったといわれます。

この大敗北に三国同盟側では司令官が交代します。
アルゼンチンのバルトロメ・ミトレに代わり、ブラジルのカシアス公爵が三国同盟軍の司令官になったのです。
この交代劇にはアルゼンチンの国内事情が関わっておりました。
ソラーノ・ロペス大統領が望んでいたアルゼンチンの国内暴動が起こったのです。

クルパイティ砲台攻撃の失敗で大損害を出したことにより、アルゼンチンではこの戦争に反対する反対派が国内で暴動を起こし始めました。
もともとブエノスアイレスを中心とする中央集権派と各州の地方分権派との対立に、今回の三国同盟戦争の賛成反対が絡み合い、アルゼンチンの内部分裂が表面化したのです。
今回もウルキーサは立ち上がりませんでしたが、ウルキーサの代わりに各州のカウディージョ(人名ではなく地方の政治軍事を掌握した指導者のこと)が立ち上がります。
中でもカタマルカ州のフェリペ・バレーラが中心となり、政府に対抗したのでした。

これに対しアルゼンチンはその軍事力を国内に振り向けざるを得ませんでした。
ソラーノ・ロペス大統領が望んだとおり、以後アルゼンチン軍は三国同盟軍から大きく兵力を撤収することになります。

しかし、長引く戦争はパラグアイを急速に疲弊させていきました。
物資不足が深刻化し、ついに金属供出運動が始まります。
各家庭などから金属を集め、それで大砲を作ったり、敵弾を回収して再生して使うなど、日本の太平洋戦争末期のような状況が現れ始めておりました。
また薬草を集めて医薬品を作ったり、士気高揚のための勲章を各家庭の婦人から集めた宝石で作るなども行なわれたといいます。

一年以上のにらみ合いが続き、1868年2月ごろには三国同盟軍約5万に対し、パラグアイ軍は約1万5千にまで低下しておりました。
この頃三国同盟の一角ウルグアイでも状況が変わります。
ブランコ党から政権を奪取したコロラド党党首のフローレスでしたが、ブランコ党は息の根を止められたわけではなく、再びコロラド党との激しい内戦が起こっておりました。
2月19日には、コロラド党党首フローレスとブランコ党党首ベロが二人とも同じ日に暗殺されるというすさまじさで、ウルグアイはパラグアイとの戦争どころではなくなったのです。

同盟関係の維持からアルゼンチンもウルグアイもパラグアイとの単独講和にはいたりませんでしたが、以後三国同盟軍の中心はブラジル軍へと移行します。
三国同盟戦争はほぼパラグアイ-ブラジル戦争となりました。

アルゼンチンとウルグアイの兵力が少なくなったとはいえ、パラグアイにとっては戦争はきびしい状況のままでした。
同じく2月、ブラジル軍はパラグアイ川ににらみを利かせるパラグアイの重要拠点ウマイタ要塞に対し攻撃を仕掛けます。
河川戦闘艦艇など四十三隻もの艦隊で攻撃するブラジル軍に対し、ウマイタ要塞も必死に防戦を行いブラジル軍を寄せ付けません。
ですが、この戦闘の最中にブラジル軍の河川戦闘艦が三隻、ウマイタ要塞をすり抜けてパラグアイ川をさかのぼります。
この三隻はパラグアイ川岸にあるパラグアイの首都アスンシオンにまでさかのぼり、アスンシオンを砲撃しました。
パラグアイ軍はカヌーで決死隊を送りますが、ブラジル艦には歯が立たず、かえって大きな損害を出してしまいます。
ブラジル艦は砲撃を終えると悠々とパラグアイ川を下って行きました。

このアスンシオン砲撃はソラーノ・ロペス大統領を愕然とさせました。
前線で軍の指揮を取っていた彼は、ただちにアスンシオンの市民と政府を疎開させることを決します。
24時間以内の疎開を命じられたアスンシオン市民は、取るものもとりあえず移動するしかなく、多くは着の身着のままでした。
アスンシオンの東にあるルーケという町に避難した政府と住民は、多くが野外生活を余儀なくされました。

あくまでも戦争を続けるソラーノ・ロペス大統領に対し、パラグアイ内部でも反戦の活動が起こり始めておりました。
しかし、それらの活動はすぐにソラーノ・ロペス大統領の知るところとなり、反戦運動に関わった人々は多くが捕らえられてしまいます。
処刑された人の数だけでも368人といわれ、その中にはソラーノ・ロペス大統領の弟や、二人の義弟までもが含まれておりました。

1868年7月。
一年以上にわたって抵抗してきた重要拠点ウマイタ要塞が、物資欠乏のためについにクルパイティ砲台とともに三国同盟軍に降伏します。
パラグアイ川の門は開きました。

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  1. 2009/11/16(月) 21:39:22|
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三国同盟戦争(4)

パラナ川の水上戦闘で、パラグアイ軍は重要な河川制水権を失いました。
このことは、ただちに侵攻中のパラグアイ軍にはね返ります。

8月、ウルグアイ川のアルゼンチン側拠点ヤタイを占領していたパラグアイ軍は、約1万3千の三国同盟軍によって攻撃され、ほぼ壊滅状態に追い込まれます。
またブラジル側のウルグアヤーナを占領していたパラグアイ軍もまた、三国同盟軍に包囲され降伏を余儀なくされてしまいます。
これらはまさに河川制水権の喪失によるものでした。

ここにいたりソラーノ・ロペス大統領は、アルゼンチンやウルグアイ方面に進出していたパラグアイ軍を国内へと引き揚げます。
ヤタイとウルグアヤーナの敗戦で、パラグアイ軍は約2万の精兵を失いました。
電撃的勝利を目論んだソラーノ・ロペス大統領の構想は完全に瓦解したのでした。

ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟にとって、同盟の意義は次のようなものでした。
互いに単独ではパラグアイと講和はしないこと。
ソラーノ・ロペス政権の打倒が目的であること。
パラグアイの独立そのものは保障すること。
賠償金と一部領土を割譲させること。
パラグアイ防衛の重要拠点であるウマイタ要塞を破壊すること。
しかし、これらはパラグアイ、特にソラーノ・ロペスにとっては受け入れがたいものでした。
パラグアイはこの戦いが自存自衛のものと認識し、態度を強固にしてしまいます。

河川制水権を失ったパラグアイに対し、三国同盟軍はパラグアイ川沿いに戦線を押し上げ、パラグアイの首都アスンシオンを目指す作戦を取りました。
当時このあたりは鉄道のような輸送機関がなく、軍の移動及び輸送には河川を使うのが有効だったからです。

年が明けて1866年。
ブラジル河川艦隊がパラグアイ川を遡上し、並行して三国同盟の陸軍が川沿いにパラグアイへと向かいました。
その数約5万。
三国同盟も多くの兵力をそろえてきたのです。

それに対しパラグアイ軍は、パラグアイ川とパラナ川の合流点である三角地帯に兵力を集中。
その数約3万をもって三国同盟軍を迎え撃ちます。
要衝パソデパトリアやウマイタ要塞で防衛ラインを敷き、少人数の特別攻撃隊で繰り返し三国同盟軍に夜襲をかけるのがパラグアイ軍の戦術でした。

しかし、この特別攻撃隊の夜襲は思ったほど効果を挙げませんでした。
むしろパラグアイ軍には損害ばかりが増える結果となりました。

4月、ブラジル河川艦隊が援護射撃を行なう中、三国同盟軍はパラナ川を押し渡り、イタビル要塞を奪取。
一部部隊はパソデパトリアの背後にまで回ります。
パラグアイ軍はこの攻撃を支えきれず、ついにパソデパトリアを放棄。
貴重な物資が失われる結果になりました。

パラグアイ軍はパソデパトリアを放棄したものの、その士気はまだ旺盛ですぐ北のトゥユティ付近に展開します。
一方の三国同盟軍もパラグアイ軍に対峙するように展開。
塹壕を掘ってパラグアイ軍の攻撃に備えました。

パラグアイ軍の兵力は約2万5千。
対する三国同盟軍は約4万5千の兵力と圧倒的に三国同盟軍が勝っておりました。
そのためパラグアイ軍は打って出るのではなく、拠点に篭って三国同盟軍を迎え撃ち、機を見て別働隊を三国同盟軍の背後に回りこませて撃破するという作戦を取る予定でした。

おそらくこの作戦のとおりに戦えば、パラグアイ軍は善戦することができたでしょう。
ですが、ソラーノ・ロペス大統領が突然この作戦を放棄します。
そして三国同盟軍の陣地に対して先制攻撃を行なうことにしたのです。

1866年5月20日。
パラグアイ軍は三国同盟軍に対して一斉攻撃に打って出ました。
三国同盟軍は最初はパラグアイ軍の攻撃に驚きましたが、やがて衝撃から立ち直ると、パラグアイ軍に対して反撃を行ないます。
銃砲撃がパラグアイ軍に浴びせられ、湿地帯を進むパラグアイ兵をなぎ倒しました。
騎兵部隊の突撃も歩兵の死兵となっての突撃も三国同盟軍の銃砲撃に倒されました。

この戦いは南米史上もっとも血なまぐさい戦いといわれ、パラグアイ軍は惨敗を喫しました。
戦場に残された遺体だけでも6千を数えたといいます。
三国同盟軍も被害は大きく、死傷者8千名を出しました。
そのため、後退するパラグアイ軍を追撃することはできませんでした。

トゥユティの惨敗から一ヵ月後の6月には、ソラーノ・ロペスの下には約2万の新戦力が集まっておりました。
しかし、それらはすでに以前の精強なパラグアイ軍ではなく、子供や老年兵の多い寄せ集めとなっておりました。

パラグアイ軍は陣地戦を展開して三国同盟軍をどうにか押さえつけておりましたが、このままではジリ貧でした。
そこでソラーノ・ロペス大統領は、9月に三国同盟軍司令官であるアルゼンチンのバルトロメ・ミトレに和平会談を申し入れます。
ですが、三国同盟側とパラグアイ側の間に妥協点は生まれず、和平会談は物別れに終わりました。
戦争はまだ続くことになったのです。

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  1. 2009/11/14(土) 21:19:15|
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三国同盟戦争(3)

ソラーノ・ロペス大統領が考えていたのは、おそらくはウルグアイのブランコ党政府の救援だったでしょう。
ですが、救援が間に合わなかったとしても、コロラド党軍やブラジル軍との戦いに勝利することで、ウルグアイとあわよくばブラジル南部までも占領できると考えていたのかもしれません。

しかし、パラグアイとウルグアイは国境を接してはおりませんでした。
間には回廊のように細長いアルゼンチン領が横たわっていたのです。
パラグアイが軍隊をウルグアイに進めるには、このアルゼンチン領の回廊を横切っていかなくてはなりません。

ソラーノ・ロペス大統領は、アルゼンチンに対しパラグアイ軍の領内通行権を求めました。
もちろんこの領内通行権が認められれば何の問題もありません。
パラグアイ軍は大手を振ってウルグアイ領へ入れるでしょう。

ですが、パラグアイ軍の目的はコロラド党軍の排除です。
コロラド党軍はアルゼンチンによって支援されており、コロラド党軍に敵対するパラグアイ軍をアルゼンチンが通すはずがありません。
当然アルゼンチンはパラグアイ軍の領土通行を拒否するでしょう。

これに対しソラーノ・ロペス大統領はある密約を持っておりました。
アルゼンチン内の反体制派フスト・ホセ・ウルキーサと謀り、領内通行権が拒否された場合にはウルキーサが反政府暴動を起こすことになっていたのです。
ウルキーサの反政府暴動が起きれば、アルゼンチンは国内がごたごたになり、パラグアイ軍はその隙を突いてウルグアイに侵攻する手はずだったのでしょう。

しかし、ウルキーサは動きませんでした。
アルゼンチンが領土通行を拒否してきたにもかかわらず、アルゼンチン国内で暴動は起きなかったのです。

ソラーノ・ロペス大統領は愕然としました。
このままではパラグアイ軍はウルグアイに侵攻できません。
ウルキーサが立ち上がってくれなくては話にならないのです。

思い余ったソラーノ・ロペス大統領は、1865年3月、ついにアルゼンチンに対して宣戦布告を行ないます。
パラグアイ対ブラジル戦争だった今回の戦争に、アルゼンチンが加わりました。

ソラーノ・ロペス大統領は、約1万のパラグアイ軍をアルゼンチンに侵攻させます。
パラグアイはその後も兵力を増強し、約2万の兵力でアルゼンチンのコリエンテス州を制圧。
1865年4月には、州都コリエンテスも占領します。
しかし、ここにいたってもウルキーサは動かず、アルゼンチン国内で暴動は起きませんでした。

同4月、ついにウルグアイで孤立していたブランコ党政府が崩壊。
コロラド党党首のベナンシオ・フローレスがアルゼンチン、ブラジル両国の後ろ盾で政権を奪取します。
コロラド党支配となったウルグアイは、即座にパラグアイに対して宣戦を布告。
とうとうパラグアイは同時に三ヶ国を相手に戦争しなくてはならなくなってしまいました。

1865年5月、南米の目の上のたんこぶパラグアイが窮地に陥っていることをいいことに、英国主導でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイが三国同盟を結びます。
こうしてこの戦争が「三国同盟戦争」と呼ばれることになりました。

当初の目論見が大幅に狂ったソラーノ・ロペス大統領でしたが、まだまだ速戦速決をあきらめたわけではありませんでした。
精強パラグアイ軍をもって電撃的勝利を目指したのです。

1865年6月、パラグアイ軍はアルゼンチンのコリエンテス州から南進してエントレ・リオス州へと進軍。
さらに別働隊がパラグアイとウルグアイの間にあるアルゼンチンの回廊ミッショネス地方を席巻し、ブラジル領へと進みます。
パラグアイ軍はそのままウルグアイ川に沿って進軍し、ウルグアイ川のブラジル側のウルグアヤーナと、対岸にあるアルゼンチン側のヤタイを占領しました。

しかし、パラグアイが河川装甲戦闘艦を戦争前に手に入れなかったつけがここで回ってきます。
6月11日、パラナ川でパラグアイ河川艦隊とブラジル河川艦隊との間に水上戦が起こったのでした。

パラグアイ河川艦隊は大小合わせて十四隻、一方のブラジル河川艦隊は九隻でした。
数ではパラグアイ軍が優勢ではあるものの、ブラジル軍はそのほとんどが大型の有力艦ばかりでした。
パラグアイ艦隊には有力艦と呼べるのは八隻しかありません。

パラグアイ艦隊は自軍の不利を承知で決戦を挑みました。
夜陰にまぎれて上流から接近し、ブラジル艦隊の脇をすり抜けて下流に出、そこからUターンして再度接近。
接舷戦に持ち込んであわよくばブラジル艦を奪取しようというものです。

ですが、この作戦はパラグアイ軍にあまりにもタイミングのよさを要求しすぎました。
パラグアイ艦隊は上流から下るのに手間取ってしまい、ブラジル艦隊の脇をすり抜けようとしたあたりですでに夜が明け始めてしまったのです。
ブラジル艦隊に発見されてしまったパラグアイ艦隊は、もはや不利な状況で戦うしかありませんでした。
運良く接舷戦に持ち込めそうな艦も、接舷用のフックがなかったり、ブラジル艦の舷側が高すぎたりで接舷戦には持ち込めず、優秀なブラジル艦に各個撃破されてしまうばかりでした。

結果はパラグアイ河川艦隊の大敗でした。
パラグアイは七隻もの河川戦闘艦を失い、ブラジルは一隻損失、一隻大破のみでした。
以後、パラグアイは国土防衛に欠かすことのできない河川制水権を失います。
パラグアイ敗北への第一歩でした。

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  1. 2009/11/13(金) 21:49:26|
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三国同盟戦争(2)

前回も述べましたとおり、もともと南米大陸はポルトガルとスペインの両国による植民地でした。
両国はその植民地支配における勢力争いで世界中で火花を散らしました。
この南米でもそれは例外ではなく、特にポルトガル植民地だったブラジルと、スペイン植民地であったアルゼンチンの間では、勢力争いが激しいものでした。

勢力争いはアルゼンチンやブラジルが宗主国より独立を果たしたのちも続けられ、両国の間にあるバンダ・オリエンタルと呼ばれる現在のウルグアイ地域では、戦争にまで発展いたしました。
結局、ラプラタ川河口の両岸をアルゼンチンが単独支配するのは好ましくないと考えた英国の介入で、バンダ・オリエンタル地域にアルゼンチンとブラジルの緩衝国として「ウルグアイ東方共和国」が成立します。
1828年のことでした。

しかし、緩衝国として成立したウルグアイは、政治的に極めて不安定な状況に陥りました。
国内の二大政党、ブランコ党とコロラド党の二党が、まさに内戦にまで発展するほどの闘争を繰り返すようになってしまったのです。
これにブラジルやアルゼンチン、さらにはフランスや英国の思惑も絡み、ウルグアイは一触即発の状況を引きずり続けたのでした。

ウルグアイの政治的な不安定は、パラナ川及びパラグアイ川の両河川が流れ込むラプラタ川河口の安全性に問題を投げかけます。
ラプラタ川河口が何らかの理由で航行不能となれば、そこを通じて貿易を行なうパラグアイにとっては死活問題になりかねません。
パラグアイとしては、ウルグアイになんとしても安定して欲しいと考えました。

そこでパラグアイのフランシス・ソラーノ・ロペス大統領は、政権を持っていたブランコ党に肩入れし支持します。
一方アルゼンチンは公然とコロラド党を支援し、援助を始めます。
かつてはブランコ党を支持していたブラジルも、コロラド党に鞍替えし、こちらも援助を始めます。

この状況はパラグアイにとっては座視できないものでした。
いまやアルゼンチンとブラジルがコロラド党支持の名の下にウルグアイを分け合おうとしているのです。
ウルグアイの次はパラグアイでしょう。
パラグアイはブラジルに対し、これ以上のウルグアイへの干渉はラプラタ川河口地域の安定を崩すためやめるよう警告します。
さらにはブラジルが干渉を続ける場合、パラグアイは戦争も辞さないとまで訴えました。

パラグアイには開国以来富国強兵で増強してきた軍がありました。
南米最強とも言われるパラグアイ軍の実力をソラーノ・ロペス大統領は頼りにしておりましたし、まさか戦争にまで発展はしないと考えていたのかもしれません。
それに、両国ともウルグアイのコロラド党を支援しているとはいえ、長年の仇敵であるアルゼンチンとブラジルが手を組むとは考えられず、またアルゼンチンもブラジルも国内問題で手一杯だろうとも考えていたといわれます。

しかし、ブラジルはパラグアイの警告を無視しました。
1864年10月。
ブラジル軍がウルグアイに派遣され、コロラド党軍とともにブランコ党政府軍との内戦に参戦したのです。
ブランコ党を支援するパラグアイは腹を決めました。

1864年11月。
パラグアイ川を航行するブラジル船の拿捕に端を発し、ブラジルとの外交関係を断行したパラグアイは、約6000の兵力でブラジルのマット・グロッソ州へと侵攻を開始します。
「三国同盟戦争」の始まりでした。

パラグアイのソラーノ・ロペス大統領は、問題であったウルグアイの内戦に介入するという手段ではなく、直接ブラジルへと攻撃を開始しました。
このため対ブラジルの全面戦争に火をつけてしまったのです。
これはいいやり方とはいえなかったでしょう。

ですが、パラグアイ軍の直接攻撃を予期していなかったのか、12月にはマット・グロッソ州のコインブラやコルンバといった要衝をブラジルは失います。
また同州のかなりの部分を占領され、パラグアイに編入されてしまいました。

戦争開始当時のパラグアイは、約52万人の人口を擁しておりました。
その中でパラグアイ軍は8万に及ぶ兵力を動員します。
これはまさに数でも南米最大級の兵力でした。

しかし、ソラーノ・ロペス大統領の開戦は早すぎました。
パラグアイは内陸国ですが、パラグアイ川とパラナ川による河川交通が重要であり、海軍力(水軍力)がまた重要だったのです。
ですが、パラグアイ水軍の河川艦隊は外輪の旧式艦船が多く、新鋭艦の多いブラジルの河川艦隊とは戦闘力の差が開いてしまっておりました。
その差を埋めるために六隻もの河川装甲戦闘艦を海外に発注していたパラグアイでしたが、その到着前に開戦してしまったことで、この六隻を手に入れることがかなわなくなってしまったのです。
パラグアイにとっては悔やまれる開戦の早さでした。

とはいえソラーノ・ロペス大統領はまだ楽観的でした。
マット・グロッソ州の大半は手に入れたし、パラグアイ陸軍は精強です。
ブラジル内部の分離主義者も騒ぎ出すだろうし、アルゼンチンでも政情不安が起こるだろうと読んでおりました。

ウルグアイではアルゼンチン及びブラジルの支援を受けたコロラド党がブランコ党政府を追い詰めておりました。
ソラーノ・ロペス大統領は、いずれ遅かれ早かれウルグアイはコロラド党によって新政権が作られるだろうと考え、ウルグアイとブラジル南部への侵攻も考えます。
そのためソラーノ・ロペス大統領は、アルゼンチンに対してパラグアイ軍の領内通行権を求めました。
アルゼンチンを通ってウルグアイへ侵攻するつもりだったのです。

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  1. 2009/11/12(木) 21:45:00|
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三国同盟戦争(1)

今日から数回で日本ではあまり知られていない戦争の紹介を一つ行ないます。

1864年。
日本では文久から元治へと年号が変わり、新撰組による「池田屋事件」が7月に発生。
8月には「禁門の変(蛤御門の変)」で長州勢力が京都から追い払われ、9月にはそれに引き続く第一次長州征伐が起こります。

アメリカでは南北戦争4年目が戦われており、北軍の圧倒的戦力に南軍はじりじりと敗戦へと追いやられつつありました。
11月には大統領選挙が行なわれ、リンカーンが再当選を果たしたことで、南軍の最後の望みも断たれます。

欧州では現在のドイツの一部であるシュレスビヒ-ホルシュタイン公国をめぐり、デンマークとプロイセンが第二次シュレスビヒ-ホルシュタイン戦争を戦っており、この戦争の勝利によってプロイセンがシュレスビヒ-ホルシュタイン公国への影響力を強めることに成功しました。

日本でも、アメリカでも、欧州でもきな臭い動きが見えていたこの1864年。
日本にとっての地球の裏側南米大陸でも、また悲惨な、それは悲惨な戦争が勃発いたします。
「三国同盟戦争」(パラグアイ戦争とも呼ばれる)でした。


南米の地図を見ていただくとおわかりかと思いますが、南米大陸の太った部分から細くなっていく部分へ向かって南下していくと、「パラグアイ共和国」と言う内陸国があります。
北と北西を「ボリビア共和国」、南西と南を「アルゼンチン共和国」、東と北東を「ブラジル連邦共和国」にはさまれた国で、国土は40万6千平方キロに及び、日本の総面積(37万7千平方キロ)よりもちょっとだけ大きな国です。
現在(2008年)の人口は約635万人。
首都はアスンシオンです。
このパラグアイが、この戦争の一方の当事者でした。

一方これに対し、戦争名ともなっている「三国同盟」はどこの国なのか。
これは「アルゼンチン共和国」「ウルグアイ東方共和国」「ブラジル連邦共和国」(当時はブラジル帝国)の三ヶ国でした。
パラグアイはこの自国の北と北西以外全てを囲んでいる国々と戦争をしてしまったのでした。


南米大陸の国々は、長い間スペインとポルトガルの植民地でした。
パラグアイもスペインの植民地として支配されてきましたが、1811年、南米大陸では最も早く独立を果たします。
海の無い内陸国であり、河川や山々に囲まれたパラグアイは、(ほかの南米諸国に比べれば)国土が小さいこともあり、比較的早期に国がまとまりました。

1814年、ホセ・ガスバル・ロドリゲス・デ・フランシアが執政に就任。
1816年には終身執政官となって、絶対的独裁制を敷くことに成功します。
フランシアは農民の支持の元で経済的鎖国を行ない、対外貿易を極力排しました。
また土地の公有地化を進め、逆らうものには容赦のない恐怖政治を推し進めます。
しかし、鎖国と独裁のおかげで国内は安定し、義務教育などで国民の教育水準も上がり、対外的にもアルゼンチンの一部を併合することができたなど、良い面も大きいものでした。

1840年にフランシアが亡くなると、国内は一時期乱れを見せますが、1844年に甥であるカルロス・アントニオ・ロペスがパラグアイ共和国初代大統領に就任すると、すぐに国内は安定します。
カルロス・ロペスはフランシアの鎖国政策から一転し、開放政策でパラグアイの近代化へと邁進します。

公有化の進んでいた土地にタバコなどの商品作物を植え、保護貿易で莫大な利益を上げました。
そしてその利益を元に工場や鉄道を建設。
欧州にも留学生を送り、また外国人も雇って近代技術の導入に努めます。
奴隷解放や新聞発行なども行なわれ、パラグアイは急速に近代化して行ったのです。
それはまさに、日本の明治維新と同じようなありさまでした。

また軍事にも大幅に力を入れ、銃器や火砲、河川戦闘艦艇などの自国生産にも取り組みました。
パラグアイ軍は、南米でも最強と言っていいほどの軍隊を手に入れたのです。

ですが、良いことばかりではありませんでした。
カルロス・ロペスは隣国アルゼンチンの一部地域における分離独立運動を支援しており、これがアルゼンチンとの軍事衝突を生んでしまいます。
この衝突はパラグアイ側の勝利となりましたが、アルゼンチンとの間にしこりが残りました。

一方ブラジル帝国もまたパラグアイとの間に軋轢を生じます。
パラグアイの北東部に位置するブラジルのマット・グロッソ州は、パラグアイ川の流れる平野で農産物の産地でしたが、その産物を海外へ輸出するためのルートとしてパラグアイ川とパラナ川の両河川が非常に重要な交通路となっておりました。
そのため、ブラジルはこの両河川の自由航行権をパラグアイに求めます。

パラグアイ川はパラグアイの国内を、パラナ川はパラグアイとブラジルの国境を流れる川であり、両河川はパラグアイにとっては国防上非常に重要な河川なので、パラグアイとしてはうかつに自由航行権をブラジルに与えるわけにはいきませんでした。
そのためブラジルとの関係は悪化し、戦争寸前と言う状況までいたりましたが、パラグアイ側がブラジルに自由航行権を認めることで一応の決着がつきます。
しかし、ブラジルとの間にもしこりが残りました。

そして、急速に近代化を成功させ、貿易黒字で経済的にも安定したパラグアイは、英国にとっても疎ましい存在となっておりました。
南米一帯を対英債務漬けにして経済的支配をもくろむ英国は、唯一英国からの債務を持たないパラグアイは目の上のたんこぶだったのです。

そんな状況の中、対外的軋轢と南米最強の軍隊を残してカルロス・ロペスは1962年に死去します。
後を継いだのは息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスでしたが、カルロス・ロペスは息子に「問題点は剣ではなくペンで解決せよ」と言い残したといわれます。
ですが、その遺言は守られることはありませんでした。

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  1. 2009/11/11(水) 21:42:33|
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