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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

西南戦争(32)

明治10年(1877年)9月24日午前4時。
官軍の砲台から三発の砲声が鳴り響きます。
官軍の城山総攻撃の合図でした。

まだ残月の残るなか、官軍の兵士たちは城山のすべての方位から、薩軍残存部隊の篭る陣地を目指しました。
銃を撃ち放ち、銃剣を付けた銃を構えて突撃する官軍兵士たち。
かつて薩軍に惰弱な農民兵と揶揄された姿はそこにはありませんでした。
薩軍残存部隊の陣地は、官軍兵の前に飲み込まれていったのです。

薩軍本営の第一洞があった岩崎谷は当然ながら激戦が予想されましたが、参軍の山県有朋は、岩崎谷正面に薩長閥ではない柳河藩出身の曽我祐準少将率いる第四旅団を充て、西郷らを迎え撃たせました。

この時西郷隆盛は、40名ほどの将士とともに篭っていた洞窟の前に整列し、彼らを率いて岩崎口へと進撃します。
付き従う者たちには、桐野利秋、村田新八、別府晋介、辺見十郎太、池上四郎、桂久武ら薩軍残存部隊の主要人物が揃っており、それぞれが新しい着物に着替え、いわば死に装束をまとっての出陣でした。

城山を下り始めてすぐに小倉壮九郎が道端で自刃します。
この小倉壮九郎はのちの日露戦争の日本海海戦で有名になる東郷平八郎の兄でした。

続いて桂久武が官軍の銃弾に倒れます。
桂はかつては島津藩の家老を務めたこともある人物で、流刑中だった西郷と親交を結び、以後西郷の僚友として尽くしてくれた人物でした。

このあたりから官軍の銃撃に西郷の周りでも倒れるものが相次ぎ、傍らの辺見十郎太がもういいのではないでしょうかと尋ねたものの、西郷はまだまだと答えたと言い、さらに山を下ります。

しかし、ついに島津応吉久能邸門前にまで来た時点で、官軍の銃弾が西郷を襲いました。
股とわき腹に相次いで被弾した西郷はその場に倒れ、すでに負傷してかごに乗って付き従っていた別府晋介を呼び寄せます。

「晋どん、晋どん、もうよかろう」
西郷は別府にそういうと、皆が見守るなかでひざを揃え、襟を正して東に向かって遥拝したと言います。
別府はかごを降りて西郷の準備が終わるのを待つと、最後の挨拶を交わし、静かに介錯の準備をいたしました。

「先生、ごめんやったもんせ!(お許しください)」
別府はそう叫び西郷の首を一刀の下に落とします。
西郷隆盛、享年51歳(満49歳)でした。

別府はその後西郷の首を従僕に預け、従僕が立ち去ったのを見てから、辺見と刺し違えたとも官軍に突入して銃弾を浴びたとも言われます。
西郷の首は折田正助邸門前に埋められたと言われますが、これも異説が多く定かではありません。

西郷の死を見取った残りの薩軍残存部隊の将兵は、ある者は降伏し、ある者は戦死し、ある者は自刃いたしました。
戦死、あるいは自刃した者には桐野、辺見、村田、池上らがおり、特に桐野利秋は自ら銃を撃ち、弾がなくなれば刀をふるって官軍兵士と切りあったと言われます。
最後は官軍の銃弾が桐野の眉間に命中したと言い、壮絶な最後だったことをうかがわせます。

降伏した者には別府晋介の兄別府九郎、野村忍助、神宮寺助佐衛門らがおり、彼らは今回の戦いの意義を法廷で明らかにしようという者や、単に桐野らとともに死にたくはないと思った者などだったといいます。

午前9時ごろ、銃声はやみました。
薩軍残存部隊最後の戦い、「城山の戦い」はここに終結します。
「西南戦争」が終わった瞬間でした。

西郷の遺体は仮埋葬ののち、明治12年にほぼ現在の位置に埋葬されました。
またその首も見つけられ、ともに埋葬されたと言います。
敗軍の将として扱われた西郷でしたが、その人物を深く愛した明治天皇や、黒田清隆などの尽力により、明治22年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、汚名は消えました。

西南戦争全期間を通じての官軍の動員兵力は約六万八千。
そのうち死傷者数が約一万六千ほどに上りました。
一方薩軍及び党薩隊の兵力は約四万八千。
うち薩摩兵が約二万三千と言われます。
死傷者数は約二万。
うち薩摩兵が約八千と言われ、官軍薩軍双方ともに大きな犠牲を払ったことがうかがえます。
まさに激戦だったと言えるでしょう。
(動員数、死傷者数などは異説あり)

西南戦争の終結により、日本は中央集権の近代的国家へと歩み始めました。
明治維新がやっと終わったと言ってもいいものでした。
以後日本は国内から国外に目を向けるようになり、明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争へとつながっていくことになります。

西南戦争 終


                      ******


参考文献
「西南戦争」 歴史群像シリーズ21 学研
「乃木希典」 松田十刻著 PHP文庫
「熊本城」 週刊名城をゆく8 小学館
ほか

参考サイト
「Wikipedia 西南戦争」
「Wikipedia 西郷隆盛」
「大東亜戦争 研究室 戦史 乙 近代日本戦争史概説 西南戦役」
「風色倶楽部 西南戦争の部屋」
ほか

このたびも多くの参考文献及び参考サイト様のお世話になりました。
この場を借りまして感謝を述べさせていただきます。
本当にありがとうございました。

6月から書き始めた「西南戦争」の記事も足掛け半年でようやく終えることができました。
今回も資料本等の簡易な写し記事ですが、多少なりとも「西南戦争」に興味を持っていただければ幸いです。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
  1. 2009/11/06(金) 21:27:26|
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西南戦争(31)

開戦以来約半年という時を経て鹿児島市に戻ってきた薩軍残存部隊でしたが、県庁近くの米倉に篭る官軍を撃破することができず、薩軍残存部隊は城山に後退せざるを得ませんでした。

城山とは、鹿児島市の中心部にある標高107メートルの山です。
現在は国の史跡及び天然記念物に指定されており、もともとは鶴ヶ峯と呼ばれておりました。
中世に上山氏がここに城を建てたと言われ、のち島津氏によっても城が築かれました。

しかし、わずか10年ちょっとでこの城は廃城となり、以後は立ち入り禁止とされていたため、江戸期を通じてこの山は樹木の生い茂る山へとなって行ったのです。
薩軍残存部隊は、この城山に拠点を築いたのでした。

三百七十二名。
それがこの城山に篭った薩軍残存部隊のすべてでした。
そこでこの人数を約二十から三十人ほどの小隊に編成し、城山の十方面に振り分けました。

一方の官軍は、9月6日に城山の包囲体制をほぼ完了しましたが、山県参軍が9月8日に包囲防戦を主とし、攻撃を従とするという方針に決定したため、城山への攻撃は控えられ、集結する部隊で城山を完全に包囲しつくして行きました。
これは可愛岳での薩軍残存部隊の突破に懲りたためで、まさに水も漏らさぬ包囲陣を敷くことにしたのです。

官軍は続々と鹿児島へと集結しつつあり、第二、第三、第四旅団、別働第一、別動第二旅団の五個旅団に加え、警視隊など約五万名もがわずか三百七十二人を包囲したのです。
城山の周囲には、塹壕や堡塁、竹の柵までが構築され、約二週間もかけて完全なる包囲を行なったのでした。

包囲する官軍は、その間も連日城山に対して砲撃を行い、薩軍残存部隊を圧迫しました。
薩軍残存部隊は城山の一角、岩崎谷に横穴を掘り、上層部はそこで寝起きを行なうほどでした。
横穴はいくつか掘られ、西郷のいる場所を第一洞とし、桐野がいる第五洞が本営として使われました。

包囲が二週間を越えた9月20日ごろ、河野主一郎と辺見十郎太は、国家の柱石である西郷隆盛をこのままこの城山で死なせるわけにはいかないとして、官軍に西郷の助命を嘆願することを幹部連中と話し合いました。
席上、桐野利秋は今や義に殉じての死あるのみと反対しますが、残りは河野と辺見の訴えに賛同し、官軍に西郷隆盛の助命を嘆願することで決します。

9月21日、河野は西郷に面談し、西郷の助命のことは伏せたままで、官軍の元へ赴いてこのたびの挙兵の大義を説いて賊名を雪いでくることを許してくれるよう求めます。
これに対し、西郷は助命のことを知ってか知らずか、ただ無言で微笑み許可したといわれます。

9月22日、河野は山野田一輔をともに連れ、白旗を掲げて別働第一旅団に投降し、知り合いである川村純義参軍に面会を求めました。
河野は川村参軍に西郷の助命を願いますが、すでにそのときには官軍の総攻撃が決まっておりました。

9月23日、河野は官軍に捕らえられたまま、山野田のみが西郷宛の官軍よりの書を携えて城山へ戻されます。
西郷宛の書には、翌24日午前4時をもって総攻撃を行なうので、時すでに遅いのではあるが、もし西郷自らが言いたいことがあるならば、本日(23日)5時までに回答するようにとの文面がありました。
これに対し西郷は、きっぱりと回答の要無しと拒絶したといいます。

その日の夜、薩軍本営では最後の宴が行なわれたといいます。
みな飲んで歌って惜別の宴を楽しんだといいます。

明治10年(1877年)9月24日午前4時。
官軍の砲台から三発の砲声が鳴り響きました。
城山総攻撃の合図でした。

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  1. 2009/10/28(水) 21:27:12|
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西南戦争(30)

可愛(えの)岳を突破した薩軍残存部隊は、8月21日に三田井に到達。
翌22日には三田井を出発、鹿児島へと向かいました。

この時点で桐野利秋は官軍による包囲が厳重であることなどから、再度熊本へ進出して熊本城の奪取という策を進言します。
しかし、この進言は西郷によって却下され、薩軍残存部隊は鹿児島へと向かったのでした。

とはいえ真っ直ぐに鹿児島へ向かったのではなく、九州中南部の山々を渡り歩き、あるときは流言を流し、あるときは部隊を分けて行軍し、またあるときはもと来た道を引き返すなどして行動の秘匿に努めました。
そのかいあってこの時点で官軍は薩軍残存部隊を完全に見失っており、官軍は部隊の分散を余儀なくされたばかりか、振り回されるばかりでした。
官軍の小部隊は、ときどきにおいて薩軍残存部隊と遭遇はするものの、少数精鋭となっていた薩軍残存部隊を補足するまでにはいたらなかったのです。

薩軍残存部隊はこうした行動を取りながらも、じょじょに鹿児島へと近づきました。
一週間の彷徨のあと、8月28日には霧島山の北にある小林という町に到達した薩軍残存部隊は、小林の警察屯所を襲撃し、さらに霧島山をかすめるように南下して29日には横川という町に達します。
ここから先は、さらに南下して加治木という町を抜ければ、鹿児島はすぐでした。

ですが、ここでようやく官軍の部隊が薩軍を阻みます。
延岡から急遽船で移動してきた第二旅団が、加治木に上陸して薩軍の前に立ちはだかったのです。
薩軍残存部隊は少数精鋭とはなっていたものの、やはり官軍の正規部隊と戦うには数が少なすぎました。
数度の交戦ののち、官軍を突破することはできないと判断した薩軍残存部隊は、加治木進出をあきらめ有川から蒲生へと迂回します。

鹿児島にはこの時点で第二旅団の一部と新撰旅団、それに警視隊約二百名がおりましたが、薩軍残存部隊に対するため、第二旅団の一部から三個中隊、新撰旅団から一個大隊を引き抜くなどして兵力が低下しておりました。
そのため、残存兵力では鹿児島市街全体を守ることは難しいと考え、いざというときには県庁近くにある米倉に篭って戦うこととされておりました。

明治10年(1877年)9月1日。
薩軍残存部隊は蒲生から街道を南下し、鹿児島市街へ向かいます。
途中官軍の迎撃を受け、ここでも足止めをされてしまいますが、辺見十郎太の機転によってここでも迂回行動を取ることにより城山から鹿児島市街へと入りました。
可愛岳突破より約半月、2月中旬の鹿児島出兵から半年以上が経過した中で、ようやく西郷隆盛ら薩軍将兵は鹿児島に戻ってきたのです。

鹿児島市外に戻ってきた薩軍残存部隊は、すぐさま市街の制圧に乗り出しました。
まず辺見率いる部隊が、私学校に駐屯していた官軍新撰旅団の輜重隊約二百名を攻撃。
輜重隊はなすすべなく米倉へと後退しました。
西郷の帰還は鹿児島市民にも歓迎され、鹿児島市街はすぐに薩軍残存部隊に協力する態勢となったため、官軍はやむなく予定通り米倉へと集結し、ここで篭城する形となりました。
この時米倉には、米八百石と薪炭数千貫が備蓄されていたと伝えられます。

9月2日、薩軍残存部隊は鹿児島市街を見下ろす城山に大砲を設置し、米倉に篭る官軍に対して砲撃を加えます。
この砲撃で官軍部隊は大いに苦しめられてしまいますが、残念ながら陥落させるまでにはいたりませんでした。

翌9月3日には官軍も増援を鹿児島市街に投入します。
別働第一旅団が鹿児島に上陸し、第二旅団も陸路鹿児島市街に到達して、米倉にいる官軍の救出をはかりました。
薩軍残存部隊にこれを妨害する力はなく、官軍は米倉に篭る部隊との連絡に成功。
薩軍残存部隊は城山へと撤収しました。

城山に後退した薩軍残存部隊でしたが、戦意は変わらず高いものがありました。
薩軍の貴島清は官軍の態勢が整う前に米倉を奪取すべきと訴え、桐野もそれに賛同します。

9月4日午前3時、貴島率いる決死隊約百名が、二隊に分かれて米倉を襲撃します。
決死隊は抜刀突撃を行い、官軍の兵士と壮絶な白兵戦を繰り広げますが、駆けつけた第二旅団に圧倒され、ほぼ全滅の憂き目を見てしまいます。
貴島清自身も白兵戦によって戦死。
薩軍残存部隊は城山に押し込められる形になってしまいました。

9月1日から始まった「米倉の戦い」はこれで終了。
いよいよ薩軍最後の戦い、「城山の戦い」が始まります。

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  1. 2009/10/14(水) 21:13:49|
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西南戦争(29)

台風の被害が各所ででているようです。
札幌も風雨が強まってきました。
何事もなく通り過ぎてくれることを祈ります。

「西南戦争」の29回目です。
そろそろ終わります。

延岡の北に長尾山という山があり、そこから東南に張り出す山並みが北川の下流にある無鹿付近の山並みと合流するあたりが和田越と呼ばれるところでした。
この和田越に辺見、村田の両隊が布陣し、そこから無鹿に向かって中島、貴島、河野の隊が布陣します。
薩軍は、この和田越で最後の一戦を挑むつもりでおりました。

これに対し官軍は、和田越正面に別動第二旅団を充て、無鹿方面には第四旅団、その右翼に新撰旅団を配置。
第一、第二、第三旅団が左翼から大きく迂回攻撃を行なう計画でした。

明治10年(1877年)8月15日。
この日は朝から濃い霧が立ち込めておりました。
その霧も午前8時ごろには綺麗に晴れ、夏の朝の日差しが降りそそぎます。
薩軍は西郷隆盛自身が和田越の戦場に姿を現し、桐野、村田、別府らとともに全軍を指揮します。
西郷自身が陣頭指揮に立つのは、開戦以来初めてのことでした。

この西郷自身の督戦に薩軍の兵たちの意気は上がりました。
ふもとを埋め尽くす官軍の兵士たちにも臆することなく、山上から銃撃を行い抜刀して切りかかりました。
この薩軍の攻撃に、別動第二旅団は苦戦を強いられたといいます。

一方の官軍も、実質的指揮官である参軍の山県有朋が、和田越からわずか二キロの樫山に陣取り、この戦いを眺めておりました。
距離的に言って西郷自身を見ることができたかどうかは不明ですが、両軍の大将格が戦場に姿を現したことからも、この戦いが最後の決戦であるという認識だったと思われます。

官軍は北川の河口に軍艦を遡上させ、そこから艦砲射撃で支援砲撃を行ないます。
また、和田越ばかりでなく無鹿山を含め全線で攻勢を開始。
その兵力にものを言わせて薩軍を圧迫します。

山上から撃ちおろす薩軍は地の利を得てはいるものの、やはり官軍との兵力差はいかんともしがたく、じょじょに薩軍は追い詰められていきました。
やがて西郷自身の付近にも銃弾が飛び交い始め、桐野や村田が後退するように進めましたが、西郷は頑として動きませんでした。
ですが、西郷を死なせてはならないとばかりに周囲の者が抱きかかえるようにして戦場を離脱。
西郷の後退とともに薩軍の気力も尽き、昼ごろには総崩れとなりました。
薩軍は北にある長井村に退却。
ここに薩軍最後の組織的戦闘は終わりました。

翌8月16日、西郷は長井村で残った全軍に解散令を布告します。
「諸隊にして降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり卒の士となる。ただその欲するところに任ぜよ」
西郷自身の筆による書は、薩軍全員に行動の自由を許すものでありました。

解散令を発した後、西郷は陸軍大将としての軍服と全ての書類を焼却しました。
また負傷していた長男とも別れ、常にそばに寄り添っていた愛犬二頭も鎖を解き放ったといいます。
身辺整理は終わりました。

解散令により薩軍兵士は行動の自由を許されました。
官軍への投降が相次ぎ、一部は自決して身を処しました。
それでも西郷の周りには、鹿児島士族を中心に約六百名が残りました。
彼らは最後まで西郷と行動を共にするつもりだったのです。

長井村は官軍の包囲下に置かれておりました。
西郷らのいる本営のそばにも砲弾が落ち始めておりました。
そんな中で、今後どうするかの会議が行なわれておりました。

降伏か、玉砕か、再起を図るために脱出か、会議は紛糾します。
まず決まったのは突破でした。
ここから脱出して落ち延びることに決します。
だがどこへ行くかがまた問題でした。
桐野は熊本へ、別府は鹿児島へ、野村は豊後へとそれぞれが主張します。
いったんは豊後方面ということに決まりかけましたが、北の熊野が陥落したとの報が入り、豊後案は断念されます。

8月17日になっても結論は出ませんでしたが、辺見と河野が主張する可愛岳(えのだけ)からの突破を西郷が受け入れ、西郷の裁定によって可愛岳突破に決しました。
とりあえず現状の包囲を可愛岳で突破して、三田井で次の策を講じようとなったのです。

可愛岳は、標高728メートルの山で断崖が続く険しい山でした。
その高さ以上に見る者には威容を感じさせ、思わず圧倒されるほどだったといいます。
西郷らはこの山を越えようというのでした。

17日午後10時ごろ、突破の前のささやかな酒宴を終え、薩軍残存部隊は地元猟師の案内のもと可愛岳に登り始めます。
部隊を前軍、中軍、後軍の三つにわけ、西郷自身は中軍で負傷した別府ともども山かごでの登坂でした。

さすがに私学校からのつわものたちは軍律を守って粛々と行動し、夜間行軍で困難を極めつつも午前4時半ごろには前軍が山頂付近に到達。
ここから北斜面を見ると、断崖の南斜面とは違ってなだらかな斜面になっており、屋敷野と呼ばれる台地に官軍部隊の天幕があるのが見えました。

官軍の警戒部隊であると思われましたが、意外にもその防備は手薄のようであり、前軍の辺見らは中軍後軍の到着を待ってこれを攻撃することに決定。
到着後に突撃を開始します。

不意を突かれた形になった官軍は混乱し、なすすべなく逃走を開始。
実はここにいたのは警戒部隊ではなく第一、第二旅団の本営でした。
総攻撃に備えて食料や銃砲弾を運び上げて集積していたところを襲われたのでした。
旅団長以下は命からがら脱出し、薩軍残存部隊は銃弾三万発と大砲一門を捕獲して、さらに部隊を進めます。

可愛岳を突破した薩軍残存部隊は、その後も官軍の小部隊と小競り合いを繰り返しながら、8月21日に目的地である三田井に到達いたします。
蟻の這い出る隙間もなかったはずの官軍の包囲網は、予想もしなかった可愛岳突破という薩軍残存部隊の行動により、抜けられてしまったのでした。
官軍の山県参軍は、包囲網を抜けられたことに大いに悔しがったと伝えられます。
官軍はまたしても西郷に逃げられたのでした。

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  1. 2009/10/08(木) 21:43:18|
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西南戦争(28)

人吉が陥落したのち、薩軍は後退する兵を取りまとめ、大畑(おこば)・漆田(うるしだ)方面で官軍を迎え撃ちますが、ここも持ちこたえることはできませんでした。
薩軍はじょじょに都城方面に追い込められ、村田新八はこの都城で官軍と対峙することに決します。

大口方面から後退した辺見十郎太率いる雷撃隊や、鹿児島奪回に向かい果たせず後退してきた振武隊も続々と都城へと集結し、薩軍はこの都城にその残存兵力の多くをそろえます。
村田はこの兵力の指揮を取り、都城から西に向かって半円を描くように防御陣を敷きました。
福山方面を正面として、振武隊と奇兵隊の一部を配し、左翼の岩川・末吉方面には雷撃隊と行進隊、右翼の庄内方面に破竹隊が布陣して官軍に対します。

これに対し官軍は、国分に第三旅団と別働第三旅団を、敷根には第四旅団、高隈の別働第一旅団、高原の第二旅団、小林に別動第二旅団を配し、薩軍のさらに外側から包囲する態勢を取りました。

6月下旬から7月中旬にかけ、薩軍はこの官軍の包囲網に対して各所で攻撃を仕掛けます。
薩軍は、攻撃を仕掛けた場所では局所的優勢を見せ官軍に多大な損害を与えますが、包囲網を突破することはならず、官軍は一時的後退をすることはあっても全面崩壊には至りませんでした。
官軍は薩軍が窮鼠猫を噛むような追い詰め方はせず、薩軍の疲弊を待つ形でじわじわと攻めあげます。
薩軍はいくら損害を与えても回復してしまう官軍に徐々に疲弊せざるを得ませんでした。

7月下旬になり、薩軍の陣地は次々に陥落して行きます。
粘りに粘っても、もはや薩軍には官軍を防ぐ力はありませんでした。

7月24日、薩軍はついに都城も放棄。
本隊を宮崎へと後退させるしかありませんでした。

宮崎には5月下旬から桐野利秋が拠点作りを進めており、人吉陥落直前には西郷隆盛も来ておりました。
北方には野村忍助の奇兵隊が布陣し、南西方向には大口の辺見の雷撃隊がまだがんばっていた頃、この宮崎は官軍の手が届いてない一種の後方地区でした。
薩軍はこの宮崎を占領して拠点とし、ここに小さな地方政府を築きます。
そしてこの宮崎で兵員の補充や物資の調達を行なうため、西郷札という紙幣を発行し、資金不足を補いました。

しかし、この宮崎の平穏な状況もすぐに破られてしまいます。
北方こそ奇兵隊ががんばっていたものの、南西の大口は落ち、今また都城も落ちました。
薩軍は残存兵力を宮崎に集めますが、官軍はすぐに薩軍を追撃し、7月31日には増水した大淀川を渡河して市街に突入します。

増水のために官軍の攻撃はないと見ていた薩軍は混乱し、なすすべなく官軍に追い立てられ、宮崎はさほどの抵抗もできずに官軍に占領されてしまいます。
西郷も宮崎から佐土原へと落ち延び、そこから高鍋へと移動します。
ですがその高鍋も8月2日には官軍の攻撃に晒されて陥落。
薩軍はさらに美々津へと後退し、本隊は延岡に入りました。

南から追い立てられた薩軍は、いつの間にか豊後方面に布陣していた野村の奇兵隊と背中合わせになっておりました。
官軍はここでもやはり力攻めはせず、じわじわと戦線を押し上げます。
さらに薩軍の側背に別動第二旅団を迂回させ、薩軍をはさみ撃つ体制をとることで薩軍の兵力を分断しました。

薩軍にはもはやどうすることもできず、8月9日には美々津が陥落。
8月14日には本隊のいた延岡も官軍に占領されました。

薩軍はここにいたって全ての部隊を集結。
野村の奇兵隊も合流し、延岡北方の山地である無鹿山から和田越、長尾山に連なるラインで官軍に最後の抵抗を試みることにします。

2月下旬の決起からすでに半年あまり。
薩軍の兵士もすでに疲労の色濃く、その士気も低下していたが、奇兵隊などとの合流でまた士気も盛り上がり最後の決戦に臨もうとしておりました。

薩軍最後の組織的抵抗である「和田越の戦い」が始まろうとしておりました。

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  1. 2009/10/03(土) 21:26:41|
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西南戦争(27)

野村忍助の率いる奇兵隊が豊後(大分)で暴れている頃、薩軍の左翼に位置する形になった薩摩(鹿児島)方面では、またもう一つの薩軍部隊が暴れておりました。
辺見十郎太率いる雷撃隊(編成替え後の新部隊名称)です。

雷撃隊は、人吉にある薩軍本隊の左側面を守備する役目として、鹿児島と熊本の県境に近い大口に拠点を置いておりました。
明治10年(1877年)5月に入り、官軍の人吉攻撃が始まると、官軍はこの方面でも別働第三旅団の一部が水俣から大口に向かって攻め込みます。

これに対し、辺見はすぐさま雷撃隊を率いて迎撃し、逆に官軍を水俣付近まで追い返すという技を見せ付け、別働第三旅団の旅団長川路少将をあわてさせました。
雷撃隊は党薩隊の一つ熊本隊と連携し、矢筈岳や鬼岳と言った山岳地帯をうまく使って、田原坂以上とも言われる激しい攻防戦を行ないます。
官軍はまったく手も足も出ない状況に陥ってしまいました。

この状況に官軍は戦力の増強を決定。
別働第三旅団の一部で充分と思われていた大口攻略に、当の別働第三旅団のほか、佐敷の第三旅団と水俣の第二旅団を投入せざるを得なくなってしまいます。

さすがに三個旅団計万を越える兵力ともなると、薩軍の苦戦が始まり、山岳地帯で粘っていた熊本隊が後退を余儀なくされてしまいます。
辺見自身も自ら陣頭に立って兵の士気を鼓舞しましたが、やはり兵力の多寡はいかんともしがたく、雷撃隊はじわじわと大口に追い込まれて行きました。

6月1日には薩軍本隊の篭る人吉が陥落。
人吉に対する左翼の防備だった大口は、今度は薩摩本国への入り口を守る形となります。
この苦境に、辺見自身はますます闘志を燃やし、部下をよく掌握して戦いを続けました。

しかし、人吉攻撃をひと段落させた官軍は、その矛先を雷撃隊へと向けました。
官軍の攻撃の前に前線の陣地は次々と突破され、大関山、久木野、山野と陥落していきます。
また、その頃には人吉から後退した薩軍本隊との連絡も絶たれ、雷撃隊は孤立無援での戦いを余儀なくされておりました。

6月18日、官軍は大口盆地をほぼ包囲。
辺見は以後三日にわたる激戦を部下とともに戦いますが、ついに6月20日に拠点高熊山が陥落。
大口から撤退せざるを得なくなります。
この時辺見は、「おいに田原からの兵児(へこ)たちがおれば・・・」と思わず嘆いたといわれます。

その後雷撃隊は熊本隊などといっしょに横川へ後退。
二ヶ月にわたった大口での戦いは終わりました。

時を前後して、官軍の人吉攻撃の前、まだ薩軍が人吉に盤据していた頃、官軍は薩軍の退路を断つために鹿児島占領を企図します。
海軍の川村中将率いる艦隊が、別働第一旅団を輸送し、鹿児島に到着したのは4月27日のことでした。
官軍はすぐさま県庁など主要な箇所を制圧し、本営を置いて占領しますが、やはり住民の抵抗が始まります。

鹿児島には薩軍自体はおりませんでしたが、士族はまだ多数残っており、彼らが反抗の基礎となりました。
官軍は何とか治安の維持に努めますが、別働第一旅団だけでは手に負えず、川村中将は増援を求めます。
官軍は第四旅団や別働第五旅団の一部などを鹿児島に派遣。
しかし、鹿児島での住民抵抗はなかなかやまず、思い余った官軍は鹿児島市街に火を放つことまで行ないました。
この鹿児島での抵抗運動は、6月下旬まで続きます。

人吉、大口、鹿児島を失った薩軍は、日向(宮崎県)へと入ります。
日向での戦いが始まるのでした。

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  1. 2009/09/30(水) 21:43:56|
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西南戦争(26)

西郷隆盛の直接命令を受け、豊後(大分)方面に進出するべく進発した野村忍助の奇兵隊(薩軍の部隊名称)ほか約二千五百は、4月30日に延岡に入りました。
そしてこの延岡を策源地とした野村は、弾薬製造をはじめるなどし、部隊を各地区に展開させて態勢を整えます。

5月10日、豊後攻撃に八個中隊約千八百を投入することにした野村は、先発として半分の四個中隊を出発させます。
先発した四個中隊は、12日には重岡、13日には豊後竹田に侵入し、警察署や裁判所、役所などを破壊します。
翌日には後続の四個中隊も豊後竹田に到着し、ここで大分へ向かう選抜隊を編成しました。

5月16日、薩軍は選抜隊百十名をもって大分へ進撃しますが、大分は警備が固く選抜隊での攻撃は不可能となったため、大分東方の鶴崎へと向かいました。

鶴崎へは選抜隊の先行部隊十五名が突入しましたが、そこではまさに官軍の警視隊が上陸をしている最中でした。
薩軍十五名はこの警視隊に攻撃を仕掛け、数十名に及ぶ損害を与えましたが、多勢に無勢であり、警視隊の反撃を受けてやがて退却を余儀なくされてしまいます。
この鶴崎こそ、薩軍が到達した最北端でした。

一方、薩軍の豊後侵入を知った官軍本営では、ただちに対応のための部隊を派遣することにいたします。
熊本鎮台、第一旅団、別働第一旅団それぞれから部隊を引き抜き、熊本からは陸路で、鹿児島にいた別働第一旅団からの部隊は海路で豊後へと向かいます。

豊後に入った官軍は、薩軍の占領下にあった豊後竹田へと向かいました。
大分攻撃に失敗した薩軍は、豊後竹田に孤立したような状況に置かれ、延岡の野村に救援を求めます。
野村は二個中隊を救援に差し向けますが、官軍との激戦の末に、5月29日に豊後竹田は官軍の手に落ちました。

6月1日、この日は人吉が陥落した日でしたが、野村は逆に豊後竹田から後退してきた部隊とあわせて三方から臼杵を攻撃、占領します。
官軍はただちにこれに反応し、海軍の軍艦「日進」、「浅間」の二隻の艦砲射撃も加わり、臼杵を攻撃いたします。

薩軍はよくこれを迎え撃ち、6月10日まで臼杵を保持したのちに後退。
追う官軍を相手に巧みな撤退戦を行ないながら、熊田まで後退します。

6月22日には野村率いる奇兵隊の残りの隊も熊田に移動し、以後ここを拠点として各地に遊撃戦を展開。
官軍をさんざんに悩ませながら、8月中旬までの約二ヶ月間ここを守り抜きました。

野村率いる奇兵隊は、西郷の直接命令で豊後に進出いたしました。
野村の考えとしては、豊後から四国さらには本州と連絡を付けることが目的ではありましたが、その目的は達せられませんでした。
その意味では奇兵隊の行動は失敗だったといえるかもしれません。

しかし、おそらくは西郷も野村もその目的は最初から達成不可能と見ており、むしろ官軍の兵力を豊後にひきつけてかく乱することを目的としていたと思われ、その目的は充分に達成されたといえるでしょう。
敗戦続きの薩軍の中でも、この野村の行動は大きく評価されるものとなったのです。

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  1. 2009/09/25(金) 21:41:12|
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西南戦争(25)

城東会戦後、人吉に後退する薩軍に対し、官軍は効果的な追撃を行なうことができませんでした。
大軍であるがゆえの指揮系統の混乱と、部隊配置の錯綜、それに参軍の山県有朋の慎重策が絡み合い、官軍の機動力を封じてしまったのです。
結局薩軍が人吉で態勢を整えはじめるまで、官軍は身動きが取れませんでした。

しかし、明治10年(1877年)5月に入ると、官軍は動き始めます。
人吉に対する包囲を固め、さらには熊本、鹿児島及び宮崎、大分方面と直接間接に薩軍を締め上げる作戦に出ました。
人吉に対する攻撃は、別動第二旅団が充てられ、別働第四旅団がこれに組み入れられる形となりました。

別動第二旅団の司令官山田顕義少将は、人吉のある球磨盆地に通じる七つの街道に部隊を繰り出し、そこから分進合撃の形で人吉を攻略する作戦を立てます。
七つの街道とは、東から五家荘道、五木街道、種山道、万江道、照岳道、球磨川道、佐敷道のことで、もちろん薩軍もこの七つの街道全てに守備隊を置いておりましたが、彼我の兵力差を考えれば、七ヶ所全てを突破することが可能と考えたのでしょう。

官軍は薩軍の防備の固い球磨川道と佐敷道の突破をまず図りました。
しかし、薩軍の破竹隊、常山隊、鵬翼隊(いずれも矢部浜で再編された際につけられた部隊名)の粘りに苦戦し、一時は逆襲を受け佐敷まで押し戻される状況となります。

ですが、兵力的に後が続かない薩軍はじょじょに消耗し、逆に官軍の攻撃に後退を余儀なくされてしまいます。
三ヶ月になる戦いで兵力が消耗し、優秀な下級指揮官を多く失ってしまっていた薩軍には、かつての田原坂で見せたような力はもうありませんでした。

さらに薩軍にとって誤算だったのは、比較的通りやすい道である球磨川道と佐敷道から官軍主力が侵攻してくると見ていたのに対し、別動第二旅団司令官の山田少将は、そちらを牽制として主力は険しい五家荘道、五木街道、種山道、万江道、照岳道など球磨盆地の北方から南下する道に進めたことでした。

球磨川道、佐敷道に比較して小規模の部隊しか置いてなかった各道は、官軍の大部隊に抗しきれずに次々と後退。
二年は持ちこたえられると見ていた人吉は裸同然となってしまいます。
この状況に桐野利秋は5月16日に人吉を離脱。
村田新八に爾後を任せ、新たな展開のために宮崎に向かいます。

当初の目論見どおり各街道を制圧した官軍別動第二旅団は、5月30日をもって人吉に対する総攻撃を仕掛けます。
薩軍は各所で抵抗するものの次々と打ち破られ、各隊ばらばらに孤立するか人吉へと後退して行きました。
そして、この日西郷隆盛も人吉を脱出し、宮崎へと向かいます。

6月1日、官軍各隊が続々と人吉市街に突入。
村田新八率いる薩軍約二千が必死の防戦を試みますが、大勢をくつがえすことはできませんでした。
午後には薩軍は後退を始め、大畑(おこば)方面へと向かいます。
人吉で盤据すると言う薩軍の構想はもろくも崩れ去りました。

孤立した薩軍の小部隊は、一部は官軍を振り切って脱出したものの、官軍の降伏勧告に従い投降する者も多く、また部隊が丸ごと投降するようなことも発生し、開戦以来高い士気を保っていた薩軍の戦意も、もはや低下の一途をたどっていることを如実に示しておりました。

しかし、そんな薩軍にあってなお、官軍を翻弄し続けた部隊がありました。
人吉攻防戦には参加しなかった、野村忍助の奇兵隊(これも矢部浜で再編時に付けられた部隊名称)です。

人吉攻防戦が始まる前の4月30日、野村忍助は兵力約二千五百を率いて大分方面へと向かいました。
中核は奇兵隊で、ほかに党薩諸隊が加わり、薩軍の一部隊としては大兵力でした。
野村の任務は、官軍が人吉方面に集中している今、官軍の手薄な豊後(大分)に突出してそこから四国・本州とも連絡を付けるというもので、いわば起死回生の一手ともいえるものでした。

野村は開戦後の薩軍の戦略には反対でした。
目先の熊本城にこだわることよりも、小倉、長崎、さらには本州への展開を主張し、開戦後もことあるごとに官軍の手薄な豊後進出を唱えては桐野らと衝突しておりました。

今回の人吉盤据も野村は否定的で、ジリ貧になるだけだからとやはり豊後方面への進出を訴えました。
ですが、結局その進言は桐野らには受け入れられませんでした。

こうした野村の主張に耳を傾けたのは、ほかでもない西郷隆盛でした。
西郷は次第に戦力を失っていく現状を何とか打開するべく、野村の作戦に一縷の望みを抱いたのかもしれません。
そこで西郷は特別に直命で野村に豊後進出を命じたのです。

こうして野村は西郷の命を受け豊後へ向かいました。
すでに遅きに失した感は無論野村にもわかっていたことでしょう。
ですが、おそらく野村は意気揚々と出発したのではないでしょうか。
西郷が自分に託してくれた思いを胸に、官軍に一矢報いてやろうと思っていたのではないでしょうか。
この野村の奇兵隊に、官軍はまたてこずることになるのです。

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  1. 2009/09/22(火) 21:26:04|
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西南戦争(24)

「城東会戦」は官軍の勝利に終わりました。
薩軍は木山を放棄して矢部浜町まで後退し、そこで集結後爾後についての軍議を開きます。
そして大きな方向転換を行なうことに決めました。

薩軍はこれまでの目的であった政府への問責のために中央へ向かうという方針から、官軍との持久戦を意味する三州盤踞(ばんきょ:根を張って動かないこと、その地方一帯に勢力を張ること)の態勢を取ることにしたのです。
この三州とは、薩摩、大隈、日向の三つの地方であり、鹿児島県と宮崎県を押さえて官軍と対峙し、機を見て再度攻勢に転じようというものでした。
そして、その拠点となる場所を人吉に定めたのです。

さらに薩軍は部隊編成を大幅に改めました。
今までの小隊を基本とした大隊から中隊を基本とした大隊へと編成を改め、今までの大隊長を本営付きとして首脳部を集中。
各大隊はこれまでの戦いで頭角を現してきた中堅クラスの有望な者に任せることにしたのです。
また、味気ない番号ではなく、“振武”“雷撃”“勇義”などの勇壮な名称を大隊名として士気の向上に努めました。
しかし、中隊に編成したと言っても各地の戦いで兵力は減少しており、各中隊とも百名程度の兵力しかなかったといいます。
また武器弾薬ともに不足しており、実際の戦力としては心もとないものでありました。

こうして部隊を九個大隊に再編成した薩軍は、4月22日には人吉へ向けて進発します。
ですが、平野部には官軍が布陣している以上人吉へ向かうルートは山越えの険しいルートに限られており、行軍には困難が予想されました。

先発したのは西郷隆盛と村田新八、池上四郎などが率いる約二千の兵力でした。
彼らは椎葉山系の胡麻山越えのルートを通り、翌日に出発した桐野利秋率いる主力を含む残りの兵力は、西寄りの那須越えのルートで人吉へと向かいました。

4月とはいえ山々の間を抜ける峠越えは寒さと険しさとの戦いでした。
薩軍は悪戦苦闘しながらも一歩一歩峠を越え、人吉へと向かいます。
党薩隊の一部には女性や子供もいたといわれ、かなり難儀な山越えだったと思われます。

4月27日、先に出発した西郷以下の薩軍がどうにか人吉に到着します。
また翌28日には桐野以下の薩軍も山を越え、人吉北東の江代という地に布陣しました。
西郷は桐野に対して人吉にて合流するように申し入れましたが、桐野はこれを固辞して江代にとどまります。
これは追撃してくる可能性のある官軍に備えてのものだったとも、これまで敗戦続きで西郷に顔を合わせられなかったのだともいわれます。
おそらくその両方であったことでしょう。
この頃から桐野と西郷はうまく行かなくなりはじめておりました。

人吉に到着した薩軍を人吉の人々は温かく迎えました。
人吉は党薩隊の一隊を出していたこともあり、薩軍に協力的だったのです。
薩軍は久しぶりにゆっくりすることができました。

4月28日、薩軍は桐野が到着した江代で幹部が集まり軍議を開きます。
ここであらためて人吉を中心にして持久戦を行なうことが確認され、部隊の配置も決定されました。
部隊は球磨盆地の入り口にそれぞれ配置され、盆地を囲む山々を天然の防壁として立て篭もり、大分や鹿児島方面で官軍を牽制しながら兵力と物資を蓄えるというものでした。
薩軍幹部の中には、この態勢なら二年は戦えると豪語するものもあり、その間には土佐などで反政府勢力が立ち上がるだろうと淡い期待を寄せていたのです。

薩軍はこの軍議に基づき、人吉で人口調査を行ないます。
そしてそれによって兵を集め、徴税を行い物資を調達しました。
また人吉城に弾薬製造施設を置き、弾薬製造にも努めました。
この弾薬製造施設の能力は、日産二千発ほどだったといわれます。

つかの間の平穏な時間を過ごした薩軍でしたが、引き締めも行なわれました。
軍令が発せられ、戦場での逃亡や兵士としての本分を尽くさぬものは切腹といったきびしいものとなりました。
薩軍内部に士気崩壊の予兆が起こり始めていたのでした。

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  1. 2009/09/19(土) 21:14:01|
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西南戦争(23)

熊本城の包囲は崩れました。
52日間に及ぶ包囲戦についに耐え抜いたのです。
落城前に熊本城を救出しなければならなかった官軍にとって、これは勝利でした。

薩軍はついに熊本城を落とすことができませんでした。
官軍に包囲を破られた薩軍は、4月14日及び15日にかけて各所で後退していきます。
西郷隆盛も薩軍本営とともに健軍方面へと向かいました。

熊本城を落とせなかったとはいえ、薩軍はまだこの戦争をあきらめたわけではありませんでした。
新たな戦線を構築し、場合によっては熊本への再侵攻も視野に入れていたのです。
後退による混乱を早期に収束させた薩軍は、白川と木山川によって形成された肥後平野東側の扇状台地に部隊を展開。
本営を木山において官軍を迎え撃つ態勢を整えます。

この時点で薩軍兵力は党薩諸隊も含め約八千人。
北から大津の野村忍助隊、長嶺の貴島清隊、保田窪の中島健彦隊、健軍の河野主一郎隊、御船の坂元仲平隊と西に向かって半円状に布陣し、官軍と対峙することになりました。

一方これに対して官軍も薩軍に対峙するように部隊を展開。
こちらは衝背軍と熊本城にいた熊本鎮台兵が合流したため、10個旅団約三万人という大兵力になっておりました。

明治10年(1877年)4月19日早朝。
官軍の熊本鎮台兵と別働第五旅団(新編成)及び別動第二旅団が連携して健軍方面の薩軍を攻撃。
薩軍は最初党薩隊の一つ延岡隊が応戦し、その後河野主一郎率いる部隊が加わって官軍を抑えます。
官軍はここでも防御する薩軍に苦戦し、何度も援軍を仰ぎますが、終始薩軍の防御を抜くことはできず、逆に薩軍の逆襲に追い立てられる状況でした。

翌20日。
官軍は全域で薩軍に対し攻撃を開始。
北の大津へは第一、第二、第三旅団が攻撃を仕掛けますが、野村忍助の薩軍がこれをよく持ちこたえ、互角の戦いを繰り広げます。

健軍方面で戦った別働第五旅団は、20日は保田窪方面へと向かいました。
こちらでは一時薩軍の防衛線を切り崩すも、中島健彦率いる薩軍の逆襲で旅団左翼を突破されてしまい、背後に回られてしまうという状況に陥ります。
腹背に敵を受けた別働第五旅団は包囲の危険をどうにか防いだものの、夜になっても右翼側に位置する熊本鎮台兵と連絡が取れないままでした。

保田窪での中島隊の逆襲により別働第五旅団の左翼が崩壊したことで、長嶺地区にいた薩軍貴島隊は抜刀隊を組織して熊本方面へと突出します。
薩軍の猛攻に驚いた山県参軍は、急遽予備として取っておいた第四旅団を投入せざるを得なくなり、かろうじて薩軍の突出を食い止めるありさまでした。

北の野村隊、西の貴島、中島、河野各隊の奮戦により、薩軍は官軍に対して優位に戦況を進めておりました。
しかし、南では危機的状況が薩軍に起こりつつありました。

御船は一度官軍が制圧したあと、熊本城へ向かったために放棄されておりました。
そこで再び薩軍が制圧し、坂元仲平隊が守備についておりましたが、別働第一、別動第二、別働第三の三個旅団がこれを攻撃。
圧倒的な兵力差に坂元隊はついに抗しきれずに後退を余儀なくされてしまいます。
御船川を泳いで逃げる薩軍は次々と官軍に射撃され、御船川は赤く染まりました。

薩軍本営のある木山は御船に近い位置でした。
御船から後退してきた薩軍兵は木山に逃げ込んできたため、薩軍本営は混乱のきわみに陥ります。
さらに御船を突破した官軍が木山の本営に向かってきたことで、薩軍首脳部は防戦におおわらわとなりました。

そして夜には北でも大津の野村隊が三個旅団の官軍についに抗しきれずに後退を開始。
官軍は北と南から薩軍本営を圧迫する状況となりました。

ここにいたり薩軍首脳部は決断を強いられます。
薩軍本営にいた桐野利秋は、ここを死所として迎え撃つつもりでしたが、後退してきた野村忍助らがこれを説得。
ついに薩軍本営は木山を放棄して矢部浜町へと後退しました。

官軍に対し優位に戦闘を進めていた中島、貴島、河野の各部隊も、本営が後退した以上戦場にとどまることはできず、無念の思いで部隊を引き揚げます。
薩軍との戦闘で疲弊していた官軍は、これを追撃することはできませんでした。

こうしてあの「関ヶ原の戦い」以来最大と言われる平野での野戦、世に言う「城東会戦」はわずか二日で終わりました。
薩軍は局所的には優位に戦闘を進めたものの、兵力差をくつがえすことはできませんでした。
戦いは人吉へと続きます。

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  1. 2009/09/15(火) 21:32:54|
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