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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

クリミア戦争(20)

戦争は終わりました。
「パリ条約」により、欧州には再びつかの間の平和が訪れることになりました。
しかし、それがわずかの間のことであろうことは、各国にはわかりきったことでもありました。

フランス皇帝ナポレオン三世は、この「クリミア戦争」で大いに威信を高めたと思い込みました。
セバストポリを陥落させることができたのは、間違いなくフランス軍の力のおかげであり、欧州の強国としての地位は安泰と思われました。
そのため、彼はさらに威信を高めフランスの力を誇示するべく外征を繰り返すようになります。
そしてついに、プロイセンとの普仏戦争(1870年-1871年)において完膚なきまでに敗北し、その政治生命を絶たれることになります。

サルディニア・ピエモンテ王国は、この「クリミア戦争」終結に尽力したとして、欧州各国にその名を知らしめることに成功いたしました。
「パリ和平会議」においても、サルディニア代表のカミッロ・カブールは、「クリミア戦争」にはなんら関係のないはずのオーストリアのイタリア半島北部地域への圧迫を訴え、欧州各国の関心を引いてのちに行なわれたイタリア統一戦争に大きな助力を得ることができました。

英国は、アバディーン内閣の後のパーマストン内閣が、この際ロシアをもう少し痛めつけたいと戦争継続を望んでいたものの、英国経済も疲弊のきわみにあってこれ以上の戦争継続は難しい状況でした。
「パリ条約」により、ロシアの黒海から地中海への出口はふさぐことに成功したものの、以後英国は中央アジア方面でロシアと対立を深めていくことになります。
そして、ナイチンゲールの活躍によって医療面では大いに進歩が見られたものの、軍政改革を行なった陸軍はその後も戦術面での進歩は見られず、いくつもの戦いで大きな損害を出すこととなるのでした。

オスマン・トルコもロシアの圧力を跳ね返すことには成功したものの、莫大な戦費を借金でまかなうしかなかったため、国家の衰退が顕著になっていくことになります。
領内のキリスト教徒の地位向上を約束させられた結果、そのキリスト教徒を足がかりとして欧州各国の勢力が浸透してくるのを防ぐことは難しくなり、また、戦勝国であるにもかかわらずロシア同様に黒海の艦隊と軍港の所持が禁止されたことは大きな痛手でありました。

そして、ロシアはまったく得るものがなかったといっていい戦争でした。
営々と築き上げてきた黒海とバルカン半島周辺への影響力を一挙に失い、人的損害も膨大なものでありました。
また、産業革命を経ていないロシア軍は、いかに数的優勢であろうとも質的に劣勢であり、戦場での主導権を得ることができないということを思い知らされる戦いでもありました。

アレクサンドル二世はこのことをひどく憂慮し、ロシアの国家改革を推し進めます。
農奴解放や軍政改革など多くのことを上から行い、ロシアの近代化を図りました。
この結果、ロシアはまた力をつけてくることになり、のちの日露戦争の遠因ともなるのです。

「クリミア戦争」はまた、日本にも影響のある戦争でした。
英仏が欧州に目を奪われ、日本を開国させようとしたロシアのプチャーチンも日本へ来るのが遅れます。
その間に「クリミア戦争」に一切関係を持たなかったアメリカが、マシュー・ペリー提督を日本に派遣し、幕府に開国させることに成功したのでした。

個々人にもこの「クリミア戦争」が影響を与えた人は多くおりました。
のちの「ノーベル賞」のその名を残すアルフレッド・ノーベルは、ロシア軍のために機雷設置を請け負い、大儲けをします。
しかし、戦争終結後に事業は行き詰まり、破産を余儀なくされました。

のちにトロイ遺跡発見で一躍有名となるハインリヒ・シュリーマンは、武器商人としてロシアに武器を密輸し、莫大な利益を上げました。
この利益が発掘事業の資金になったといわれます。

そして、スクタリの野戦病院で医療向上に努めたフローレンス・ナイチンゲールは、戦争終結後看護婦たちを帰国させ、最後の患者を見送ったのちにひそかにフランス経由で英国に戻ります。
大々的な歓迎を受けたくなかったとも、その帰国を人に利用されるのがいやだったからとも言われます。
帰国したナイチンゲールは、スクタリでの医療の実態をデータとしてまとめ、英国政府に提出します。
そのデータは女王にも一目でわかるようにされていたといわれ、スクタリでの死亡率の推移などを表した貴重なものでした。

ですが、このデータは逆にナイチンゲールを打ちのめしてしまいました。
スクタリの野戦病院で、じょじょに死亡率が低下していったのは、じょじょに衛生環境が整っていったからであり、汗水たらしてナイチンゲールら看護婦たちが看護に尽力したからではなかったということが示されていたのです。
あまりの衝撃にナイチンゲールは病に倒れますが、まだ若かった彼女はやがてその衝撃から立ち直ります。
そして医療そのものよりもまず公衆衛生を心がけることが必要とし、衛生的な病院の設計を請け負ったり看護婦の養成に尽力したりと、のちにつながるさまざまなことをなして行きました。
彼女の活動が、やがてアンリ・デュナンを初めとする人々に認められ、国際赤十字設立へとつながっていくのはよく知られたことだと思います。

「クリミア戦争」は、19世紀半ばに起きた欧州での大きな戦争でした。
参加国も多数に上り、列強同士の直接戦闘が行われた久しぶりの戦争でした。
そして、数多くの犠牲を出し、国家を疲弊させた結果結ばれた「パリ条約」は、ほぼ戦前の状態維持に等しいものでした。
ここでもまたむなしい戦争が戦われたというだけだったのです。

バルカン半島と黒海周辺での火種はこの後もくすぶり続け、ついには1914年の第一次世界大戦へと走り続けるのでした。

クリミア戦争 終

参考文献
「歴史群像2002年10月号 クリミア戦争」 学研
「歴史群像2004年4月号 バラクラヴァの戦い」 学研
「歴史群像2008年12月号 軍旗 スコットランド近衛隊の進軍」 学研
「コマンドマガジン日本版38号」 国際通信社

参考サイト
Wikipedia クリミア戦争 ナイチンゲール ナポレオン三世ほか
歴史のお部屋 クリミア戦争ほか
ニコライ一世の時代-専制体制の強化とクリミア戦争
セヴァストーポリ
予防医学という青い鳥(7) ナイチンゲール、ノブレス・オブリッジの生涯 挫折と病床でのたゆみない戦い
など

この場を借りまして参考にさせていただきました皆様に厚く感謝を捧げます。
ありがとうございました。

20回にわたり「クリミア戦争」のことを書かせていただきました。
拙い記事に最後までお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。

過去の歴史系記事と同様に、この記事もまた「クリミア戦争」のことを自分なりにまとめてみようと思ったのがきっかけでした。
今回もいろいろなことが調べているうちにわかって楽しいものでした。

今回も資料の簡易な引き写しです。
ですので、どうか皆様も興味がありましたら直接資料にあたってみてください。
歴史の面白さを再認識していただけると思います。

あらためまして、皆様今回もお付き合いくださり、ありがとうございました。
  1. 2009/05/09(土) 20:45:45|
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クリミア戦争(19)

1855年9月8日。
連合軍兵士の突撃により、セバストポリの防御陣の一角を担っていたマラホフの塔がついに陥落いたします。
このマラホフの塔の陥落は、セバストポリの防御がついに打ち砕かれたことを意味しておりました。
もはやトートレーベン工兵中佐にも、セバストポリを守るすべはなくなりました。

ことここにいたっては、これ以上の防御戦闘が無意味であるとゴルチャコフ公は悟ります。
ゴルチャコフ公は港内に残った軍艦を自沈させ、生き残っている砲台も自己破壊するように命じました。
そして9月9日の夜にかけ、残存兵力を引き連れてセバストポリを脱出いたします。
ついにセバストポリが陥落した瞬間でした。
実に332日間(日数は数え方によって諸説あり)に及ぶ攻防戦が幕を下ろしました。
ロシア軍約十一万、連合軍約六万の死傷者を出したセバストポリ攻略戦は終わったのです。

セバストポリ陥落の報は各国へと伝わりました。
英国もフランスもこれで戦争は終わったと感じたことだったでしょう。
しかし、「クリミア戦争」はまだ終わりではありませんでした。

ロシア皇帝アレクサンドル二世にとって、この戦争は父ニコライ一世が始めたものであり、ロシア軍の損害を考えても一刻も早く終わらせたい戦争でした。
しかし、クリミア半島の要衝セバストポリを落とされ、負けっぱなしでこの戦争を終えることは、ロシア皇帝として許されるものではありませんでした。
そのため、「クリミア戦争」はまだ終わることができなかったのです。

セバストポリを落とされたロシア軍は、別方面での勝利を持って体面を保つことを考えます。
11月28日、オスマン・トルコ領の黒海沿岸の小都市カルスがロシア軍の攻撃により陥落。
開戦以来あまりいいところのなかったロシア軍は、久しぶりの勝利に沸きかえりました。

ですが、セバストポリ陥落が欧州各国に与えた影響は大きく、12月に入ると中立を保持していたオーストリアがロシアに対して最後通牒を発します。
さらには北方のスウェーデンも戦争に介入する気配を見せてきました。

最初はロシア対オスマン・トルコで始まった「クリミア戦争」は、途中から英仏が参戦し、さらにはサルディニア・ピエモンテが参戦、ついにはオーストリアが参戦一歩手前となり、スウェーデンも機をうかがうという一対六の戦争に発展しかねない状況になりました。
カルスを落としたことで一応の体面を保ったアレクサンドル二世は、ここで講和のテーブルに着くことを了承し、翌1856年1月にオーストリアの要求を受け入れ、2月にはフランスのパリで和平会談が開催されることになりました。

1856年2月25日。
パリで「パリ和平会談」が開催されます。
2月29日には参戦各国が停戦に合意。
戦闘が停止されました。

1856年3月30日。
「パリ条約」が締結され、「クリミア戦争」は正式に終戦となりました。
1853年にロシアとオスマン・トルコが戦争を始めてから三年にわたった「クリミア戦争」はようやく終わったのです。

ですが、「パリ条約」の内容は、ロシアにとっては非常にきびしいものでした。
連合軍によって占領されたセバストポリは返還されましたが、ロシア側もまた占領したカルスをオスマン・トルコへ返還することになりました。
さらにはボスポラス及びダーダネルス両海峡はどこの国の軍艦も通行してはならないと定められ、黒海に関しても中立の海としてロシア、オスマン・トルコ双方が艦隊の配備と軍港の保持を禁じられてしまいます。
これは英仏にとっては痛くも痒くもない取り決めでしたが、ロシアに関しては黒海を失ったに等しいものでした。

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  1. 2009/05/08(金) 21:23:09|
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クリミア戦争(18)

1855年7月、セバストポリのマラホフの塔で守備隊を指揮していた、ナヒモフ海軍提督が連合軍の射撃により戦死。
守備隊の士気を大いに殺いでしまいます。
包囲下のセバストポリでは、じょじょに絶望感が広がり始めておりました。

「クリミア戦争」に参戦している列強とは言うものの、英仏とロシアの差は大きなものでした。
補給に苦しんでいるとはいえ、バラクラヴァの港から塹壕のある前線まで簡易鉄道を敷いて運用する英軍に対し、ロシア軍は国内の移動もままならず、徒歩と馬車に頼る行軍と補給線は、それだけで大きな損害を与えておりました。

ロシア軍の兵士はほとんどが農奴であり、その軍務は二十五年間にも及ぶものでした。
その上地主や貴族は、農奴の中でも働きのよくないものを懲罰的に軍務に就かせるということが多く、兵士の質は低いものだったのです。
また、街道の整備もほとんどなされておらず、ロシア各地から集められた兵士がクリミア半島まで移動するのは大変な困難を伴うものでした。
そのためにロシア軍はクリミア半島に戦力を集めていく最中に、なんと約三十万人もの兵士が疲労、飢え、寒さ、病気などによって死亡したといいます。
まさに想像を絶する数でした。

その膨大な犠牲の上に、ロシア軍はクリミア半島に約二十万人の兵力を集めます。
クリミア半島のロシア軍司令官ゴルチャコフ公は、この兵力を持って再度連合軍の包囲を崩そうと試みます。

1855年8月16日未明。
垂れ込める霧の中から、リプランジ将軍率いるロシア軍約七万が、セバストポリより東に向かってのびているツェルナヤ河沿いのフランス及びサルディニア軍の陣地に強襲を仕掛けました。
不意を突かれた形になったフランス軍とサルディニア軍は浮き足立ち、一時は大混乱に陥ります。

ロシア軍の攻撃は一時は成功するかと思われましたが、フランス軍とサルディニア軍の反撃が始まり、突出したロシア軍は四方から銃砲撃を受ける形になってしまいました。
ロシア軍はこの連合軍の逆撃に耐えることはできず、損害が続出。
ついに攻撃を断念して撤収せざるを得ませんでした。

この「ツェルナヤ河の戦い」は、ロシア軍の最後の大規模反撃でしたが、連合軍約三千の死傷者に対し、ロシア軍は約一万二千もの死傷者を出す大損害を受けてしまいました。
この攻撃失敗により、ロシア軍内にはますますあきらめムードが広がったといいます。

8月19日。
800門を超える連合軍の大砲がセバストポリに向けて砲撃を開始します。
海上は英国海軍を中核とする連合軍海軍が制圧し、陸上もほぼ包囲されてしまっているセバストポリには、もはや物資が到着することもなく砲弾も食料も底をつき始めておりました。
そのため、ロシア軍は大砲を撃ち返したくてももう撃てなくなってきておりました。

三日間に及ぶ砲撃はロシア軍の兵約五千人を戦死させ、多くの負傷者を生み出しました。
ロシア軍も散発的な反撃を行ないましたが、もはや連合軍に大きな被害を与えることはできませんでした。

9月5日。
連合軍の最後の総攻撃が開始されました。
フランス軍総司令官ペリシエ将軍は、前回の総攻撃失敗に懲り、なおも大砲の到着を待とうと考えておりましたが、会議は総攻撃決行に決まったのです。

またしても三日間に及ぶ砲撃が繰り返され、9月8日の正午には歩兵の突撃が開始されました。
もはやマラホフの塔までは25メートルを残すまでになった攻撃用坑道を始め、各堡塁に接近する攻撃用坑道も残り50メートルほどにまでなっており、満を持した約五万七千の連合軍兵士が突撃命令に坑道を飛び出していったのです。

この突撃に対するロシア軍の反撃はなおも激しく、連合軍兵士はばたばたと撃ち倒されてしまいます。
それでも、英軍、仏軍、サルディニア軍の兵士は倒れた味方を乗り越えて堡塁に攻めかかりました。
マラホフの塔にはフランス軍が攻めかかり、マクマオン将軍指揮の約三万三千がロシア軍の猛烈な射撃をかいくぐって突入します。
血で血を洗う激戦が行なわれ、七千三百もの死傷者を出しながらも、ついにフランス軍はマラホフの塔を攻め落とすことに成功しました。

これに引き続き、サルディニア軍も小凸角堡を占領。
英軍の大凸角堡への攻撃は約二千の損害を出して撃退されたものの、マラホフの塔の占領はほぼセバストポリの命運を決するものでした。

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  1. 2009/05/02(土) 21:34:45|
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クリミア戦争(17)

1855年6月。
セバストポリの戦場にサルディニア・ピエモンテ軍が到着します。
これにより連合軍は再び十七万の兵力を取り戻すことができ、第三回目の総攻撃を行なうことになりました。

しかし、セバストポリに対する包囲が不完全だったこともあり、ちまちまちまちまとロシア軍は兵力をセバストポリに送り続けておりました。
そのためこの時点でのセバストポリのロシア軍はなんと九万にも達しており、充分すぎるほどの防御兵力を持っていたのです。

6月6日。
連合軍の五百を超える大砲がいっせいに火を吹き、第三回総攻撃が始まります。
連合軍の狙いは外郭防御陣のマムロン堡塁とマラホフの塔と呼ばれる砲を備えた塔でした。
主力となったのはフランス軍で、彼らは砲撃によるショックで一時的な戦闘不能になる瞬間を突いてロシア軍に迫ります。

マムロン堡塁はフランス軍の急襲を受け、抵抗もむなしく奪取されます。
ロシア兵たちは算を乱して後方へと退避して行きました。
仏軍総司令官ペリシエ将軍にとって、まさに自分の作戦がうまくいった喜びの瞬間だったことでしょう。

ですが、ことはそれだけでは終わりませんでした。
マムロン堡塁を奪取したのちは、いったんそこで停止せよとの命令が出ていたにもかかわらず、マムロン堡塁を落とした喜びと興奮からか、フランス軍はそのままマラホフの塔へ向かってしまったのです。

その行動はすぐにロシア軍からの猛烈な射撃という結果に跳ね返りました。
マラホフの塔へ向かったフランス軍は、次々と撃ち倒され、死屍累々と言うありさまと化してしまいます。
生き残った兵士は恐怖に駆られ、無秩序な潰走となりました。
そして、せっかく奪ったマムロン堡塁に逃げ込み、そこにいた兵たちをも恐慌に巻き込んでしまいます。

ロシア軍はこの機を逃しませんでした。
反撃に出ると混乱したフランス軍を蹴散らして、マムロン堡塁を取り返します。
ところが今度はフランスのボスケ将軍率いる部隊がマムロン堡塁を攻撃。
一進一退となりました。

結局損害の多さに耐えられなくなったロシア軍が兵を引き、マムロン堡塁はフランス軍の手に落ちます。
ですが、フランス軍もこれ以上の攻撃はできませんでした。

6月17日。
英仏両軍は、協議の末に再度総攻撃をかけることにいたしました。
前回のマムロン堡塁への攻撃により、ロシア軍もかなりの痛手を受けたはずであり、ここは一気に攻めかかるべきであるというペリシエ将軍の意見が通ったのです。
おそらくこの時点では英軍の総司令官ラグラン卿は、会議にも出席できていなかったかも知れません。
ラグラン卿は連合軍を悩ませ続けたコレラに罹り、かなりの重態となっていたのでした。

早朝、手違いから一部のフランス軍の突出が始まり、ペリシエ将軍はやむを得ず全軍に総攻撃を命じます。
今度の目標はマラホフの塔と、大凸角堡の二ヶ所であり、英仏両軍の兵士は塹壕から飛び出しました。
しかし、ペリシエ将軍が期待したロシア軍の痛手はさほどのものではなく、ロシア軍は万全の準備でこの攻撃を待ち構えておりました。
偵察などの報告で、この攻撃自体を察知していたともいわれます。

この日の戦いは戦闘と呼べるものではなく、ただ殺戮であったとされています。
早朝から始まった総攻撃は、朝の8時には失敗に終わっておりました。
英軍も仏軍も目標を奪取することなどできず、ただ死傷者だけが横たわっておりました。
フランス軍はマイラン将軍、ブリュネ将軍と二人の将軍を戦死させてしまい、ペリシエ将軍はただ唖然と結果を受け入れるのみでした。

6月6日と17日の総攻撃で、連合軍とロシア軍は双方約一万ほどの損害だったといわれます。
ロシア側もマムロン堡塁とティモチェフ将軍を失いましたが、セバストポリそのものはまだ持ちこたえておりました。

6月28日。
ついに英軍総司令官ラグラン卿がコレラで命を落とします。
戦死者の数倍にも上る病死者を出している「クリミア戦争」は、また一人高級司令官を病気で死に至らしめました。

ロシア皇帝ニコライ一世、仏軍総司令官サン=タルノー元帥、英軍総司令官ラグラン卿が亡くなり、もはや呪われた戦争と言ってもよいようなありさまでしたが、多少の救いは、ナイチンゲールの働きにより、スクタリの野戦病院での死亡率が、この頃から改善し始めたということでした。

英国パーマストン内閣の秘密調査がスクタリの野戦病院に入り、その実態が本国に伝わったことで、ナイチンゲールに対する有形無形の支援が実を結び始めていたのです。
それでも、激務を続けていたナイチンゲールは一度病に倒れ、休養を取らざるを得なくなっておりました。
とはいえ、野戦病院の状況は、日に日によくなっていっていたことは間違いありませんでした。

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  1. 2009/04/30(木) 21:32:03|
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クリミア戦争(16)

豚インフルエンザの危険度がフェーズ4に引き揚げられたとのことで、感染地域からの日本への入国が空港で四ヶ所、港で三ヶ所に限定されるとのことですね。

ゴールデンウィークを前にして、海外旅行にも影響が大きいのではないでしょうか。

さて、なんだかんだと続いております「クリミア戦争」ですが、16回目になります。
もう少しの間お付き合いくださいませ。


サルディニア・ピエモンテ王国の参戦は、ロシアにとっては驚愕の出来事でした。
この「クリミア戦争」に何の直接的利害関係を持たないはずのサルディニアが参戦してくることなど、通常では考えられないことだったからです。

ますます苦境に立つことになったロシアの皇帝として、ニコライ一世の苦悩は深まりました。
セバストポリそのものは何とか持ちこたえておりましたが、戦況は芳しくなく、打開の手立てもありませんでした。

2月に行なわれたフランス軍によるセバストポリ攻撃も、ロシア軍の抵抗により失敗に終わります。
ですが、ニコライ一世の心痛は限界に達しました。

1855年3月2日。
ロシア帝国皇帝ニコライ一世が崩御します。
一般的に死因は心痛によりインフルエンザをこじらしたためと言われますが、毒を仰いでの自殺だったという説も伝わっております。
「クリミア戦争」はついに当事国の皇帝すら死に至らしめたのでした。

ニコライ一世の崩御により、ロシア皇帝は息子のアレクサンドルが継ぐことになりました。
アレクサンドル二世として即位したアレクサンドルは、すぐに「クリミア戦争」の終結を図り、各国にその旨を打診いたします。

3月15日。
ニコライ一世の崩御から二週間足らずで各国の担当がウィーンにて会議を開きます。
議題はもちろん「クリミア戦争」の終結に向けてのものでした。
しかし、これは結局物別れに終わり、4月26日を持って閉幕します。

ウィーン会議に期待を寄せつつも、アレクサンドル二世は前線のロシア軍のてこ入れを行ないました。
総司令としての能力に疑問のあったメンシコフ公をここに来てようやく解任し、新たにゴルチャコフ公がクリミアのロシア軍の総司令官として着任します。
ゴルチャコフ公は強硬派として知られ、セバストポリを断固死守する考えでした。

一方連合軍側でもこの頃政権の交代が行なわれておりました。
戦争の激化による戦死傷者の増大や指揮官の無能力、戦費の増大による国民負担の増大、ナイチンゲールの伝えてくる戦場医療のふがいなさは、英国のアバディーン内閣への支持を失わせるには充分でした。
結局アバディーン内閣は総辞職をするしかなく、パーマストン内務大臣を中心としたパーマストン内閣が後を継ぐことになります。

パーマストン内閣はこれを機に英軍の軍政改革を行ないます。
国王直轄の歩兵と騎兵、議会直轄の砲兵や工兵、そしてこれらの装備に関する権限を持つ財務相や、植民地軍を管轄する植民地相などの入り乱れた軍政を解きほぐしてひとまとめにし、軍政を一元的に統括する陸軍大臣と陸軍省を設置したのです。
これにより、英軍は効率的な軍の運用が可能となったのでした。

ウィーン会議の最中にも、戦争は継続しておりました。
春になり増援も着々と到着していた英仏オスマン・トルコ連合軍は、その数約十七万にまで増大しておりました。

英国での内閣交代はフランスの皇帝ナポレオン三世にとっても他人事ではありません。
フランス国内でも「クリミア戦争」に対する厭戦気分は増大し、財政も逼迫し、国民の不満は鬱積していたのです。
そのためナポレオン三世は是が非でもセバストポリを攻略し、「クリミア戦争」をフランスが勝利に導いたという状況を作りたいと考えておりました。

ナポレオン三世はセバストポリのトートレーベン工兵中佐が要塞強化に当たっていることを知り、フランス工兵の重鎮ニール将軍を派遣して要塞攻略に当たらせます。
パーマストン内閣の英軍の態勢が整う前にフランス主導でセバストポリを陥落させようとの考えからでした。

1855年4月9日。
英仏オスマン・トルコ連合軍によるセバストポリ総攻撃が行なわれます。
双方合わせて九百門に及ぶ大砲が火を吹き、壮絶な撃ち合いが繰り広げられました。

連合軍は、砲撃により要塞の防御陣の一角を崩して、そこから歩兵が突入するという作戦でしたが、トートレーベン中佐の指揮の下で老若男女の市民が必死で補修する城壁は崩すことができず、かえって突入を図る歩兵の損害ばかりが増えるという第一回目と同じ状況の繰り返しでした。

結局総攻撃は22日まで行なわれましたが、セバストポリを陥落せしめることは叶わず、双方合わせて一万人ほどの死傷者を出すだけに終わりました。

ちなみに、ロシアの文豪トルストイはこの時セバストポリ要塞内で若き砲兵少尉として軍務についており、自身の経験やセバストポリ要塞内の様子などを短編小説に書いております。
この小説は皇帝アレクサンドル二世の目にも止まり、直ちにフランス語訳を作るように命じたほか、作者であるトルストイを危険地域外に移すように命じたといわれます。

5月にも小規模ではあるものの激戦が幾度かありましたが、セバストポリは頑強に持ちこたえました。
この膠着状況に業を煮やしたナポレオン三世は、フランス軍の司令官をカンロベール将軍からエマブール・ジャン・ジャック・ペリシエ将軍に交代させます。
とはいえ、状況がそう簡単に変わるものではありませんでした。

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  1. 2009/04/28(火) 21:18:28|
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クリミア戦争(15)

「インケルマンの戦い」は、1854年の戦いの締めくくりともいえる戦いでした。
11月に入ったことで、さすがの黒海沿岸地域も冬が到来しつつあったのです。

冬を前にして両軍は自然と冬営の準備に入りました。
戦場で冬を越す準備に入ったのです。
1853年にロシアとオスマン・トルコの間で始まった「クリミア戦争」は、まる一年経っても終わる気配がなく、三年目に突入することが確実になったのでした。

11月14日。
冬の到来に備えて補給物資を満載した連合軍の輸送艦隊が、黒海で猛烈な嵐に遭遇し多数が失われるという事件が起きます。
これにより、前線の連合軍は物資不足が深刻化し、寒さと飢え、そしてそれに伴う疫病に見舞われることになりました。

スクタリの野戦病院でも軍需物資や医薬品が届かなくなり、結局ナイチンゲールが持参した資金で物資を購入して間に合わせるという事態に陥ります。
もはや野戦病院はナイチンゲールがいなくては何もできなくなりつつありました。

12月には増大する負傷兵のために病棟の補修を持参した資金で行い、さらには病院側の外国人雇用者との間の問題を調停したり、死者の家族に手紙を送ったりとまさに寝る間もないほどの活動をナイチンゲールは行ないます。
そしてこの野戦病院の実情を本国の戦時大臣ハーバードに伝え、やがてそこからマスメディアによって彼女の活動が英国民の知るところとなると、英国民はこぞって寄付金を出すなど彼女の活動を支援し始めます。
その額は何百万ポンドにも達したと言われ、高度な教育と訓練を受けた看護婦の養成にも力が向けられるようになりました。

ナイチンゲールの活動は、まだ病院での死亡率を低下させるまでにはいたりませんでしたが、多くの傷病兵が彼女の存在に癒され、勇気付けられたのは言うまでもありません。
ただ、病院での死亡率が低下するにはもう少しの時間が必要でした。

一方、セバストポリのロシア軍と向かい合う英軍前線でも、寒さに震える将兵のために司令官ラグラン卿が、天幕用の布を使った冬用のコートのようなものを作らせました。
そのコートは着やすいように工夫が凝らされ、楽に着られるような袖口となっておりました。
これが今に伝わる「ラグラン袖」の始まりでした。
「カーディガン」といい、「ラグラン袖」といい、クリミア戦争発祥の衣類が現在まで継承されているんですね。

年内の間は連合軍もロシア軍も自然休戦的な状況となり、目立った作戦行動は行なわれませんでした。
少数の部隊が敵軍の連絡線や小部隊への奇襲攻撃を行なうぐらいだったのです。

明けて1855年。
日本では安政元年となり、いよいよ幕末の動乱期に入ることになります。

年明けそうそう、ロシア軍はバラクラヴァやエフパトリアの連合軍に対して小攻撃を行い、冬営中の連合軍を脅かしました。
ロシア皇帝ニコライ一世にしてみれば、何とかクリミア半島の連合軍を撃破して、この戦争の終結を図りたいところだったのでしょう。
ところが、そんなニコライ一世の思惑を無残に打ち砕くようなことが起こります。

1855年1月26日。
イタリア半島の西側に浮かぶサルディニア島とイタリアのピエモンテ地方を領有するサルディニア・ピエモンテ王国が、英仏オスマン・トルコ連合軍に参戦。
ロシアに対して宣戦を布告し、ロシアを驚愕させました。

サルディニア・ピエモンテ王国は、当時まだ小国分立状態だったイタリア半島において優勢な勢力を持ってはおりましたが、ハプスブルグ家のオーストリアがイタリアに対して影響力を保持しているため、なかなかイタリアを統一することができないでおりました。
そこで、本来何の関係もないはずのこの「クリミア戦争」に参加することで、英仏の歓心を買い、将来のイタリア統一の援助を引き出そうとしたのです。

このサルディニアの参戦により、「クリミア戦争」は英仏オスマン・トルコ&サルディニアの四ヶ国連合軍対ロシア軍というロシア軍にとっては厳しいものとなりました。
サルディニア軍一万七千がクリミア半島に向かったことで、連合軍は戦力的にも非常に助かる状況になり、のちにサルディニアはイタリア統一に対して英仏が支援するという見返りを受けることになるのでした。

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  1. 2009/04/25(土) 21:17:57|
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クリミア戦争(14)

「バラクラヴァの戦い」は終わりました。
英仏オスマン・トルコの連合軍も、ロシアもまたしても決定的な勝利を得ることはできませんでした。

1854年11月3日、ナイチンゲールら看護婦一行が、クリミア半島とは黒海を挟んで対岸側にあるコンスタンチノープルの東にあるスクタリという場所に到着します。
ここの小高い崖の上のオスマン・トルコ軍の兵舎が、英軍に割り当てられた野戦病院として使われておりました。
つまり、わざわざ英軍は戦場から遠く離れた黒海対岸に、傷病兵を運んでいたのです。

スクタリの野戦病院に到着したナイチンゲールら一行は、あまりの状況の悪さに愕然としたと言います。
そこには飲料水も食料も医薬品も乏しく、傷病兵のベッドやトイレも不十分で、不衛生で老朽化した場所でした。
傷病兵たちは粗末なわらの寝床を床に敷き、その上に放置されるがままになっていて、コレラや赤痢のような病気も蔓延していたのです。

このような状況に、現場の医者たちはさぞかしナイチンゲールら一行の到着を喜んだかというと、現実はまったくの正反対でした。
医者たちは彼女たち看護婦の到着を迷惑としか考えていなかったのです。
現場を知らない貴婦人がただ来ただけで何ができるものか。
本国の役人にどう取り入ったのかは知らないが、自分たちの職務に干渉するのだけはやめてほしい。
そんな思いで彼女たちを見ていたのでした。

当然病院側は彼女らには何もさせようとはしませんでした。
一室を与えただけで、何の指示も出しません。
何もしてほしくないと言う意思表示だったといわれます。

ナイチンゲールは、本国を出てくるときに自費と支援者からの援助金を持って出てきておりました。
また、シドニー・ハーバート戦時大臣は彼女の友人であり、彼女を援護するべく多大な権限を彼女に付与して、現地での活動をしやすくさせてくれておりました。
そのため彼女は、まず活動資金から自分たちの家具などをそろえ、自分たち用の食料品などもそろえました。

最初のうち、病院側との無用の衝突を避けるために、ナイチンゲールたちは自分たちの分の食料しか自炊しませんでした。
しかし、「バラクラヴァの戦い」ののち、大勢の傷病兵が担ぎ込まれるに従い、ただでさえ手が回らない野戦病院内では、傷病兵への食事さえ満足に配給できない有様となります。

見るに見かねた看護婦たちが、自分たちの資金で都合した食料を配給するようになると、病院側は認可を受けていない行為だと文句をつけました。
ですが、数日のうちに傷病兵への食糧配給は、ナイチンゲールらの手を借りなくてはどうにもならなくなりました。
病院側もしぶしぶ、ナイチンゲールに助力を求めます。
とりあえずは一歩前進というところでした。

1854年11月5日。
クリミア半島では「インケルマンの戦い」が起こります。

各方面でロシアに対抗する各国軍と対峙していなくてはならないロシア軍でしたが、それでもほそぼそとクリミア半島へ兵力を送り込んでおりました。
11月に入りメンシコフ公の手元には約一万の増援が届き、総兵力は約八万二千と連合軍を上回るものとなったのです。
メンシコフ公はここでもう一度連合軍への攻撃を行なうことに決めました。

ロシア軍は、11月5日未明、セバストポリ北東に位置する英軍陣地へと奇襲をかけました。
三軍に分かれて攻撃してきたロシア軍に、英軍は大苦戦を強いられます。
陣地を守っていたのは英軍第二師団でしたが、師団長エバンスの警告にも関わらず防備を固めようとさせなかったラグラン卿のために、まともに奇襲を食らってしまったのです。

それでも初戦の混乱から立ち直り、粘り強く陣地を固守する英軍に、ロシア軍は攻めあぐね始めました。
何度となく攻撃をかけられるものの、そのつど英軍はどうにか陣地を守り抜き、ロシア軍を跳ね返します。
転機が訪れたのは、ここでもやはり仏軍の到着でした。
わずか三百にまで撃ち減らされ、あわや壊滅かと思われた英軍第二師団の救援に、カンロベール将軍が差し向けた仏軍約六千が到着したのです。

仏軍の到着に、ロシア軍は対抗することができませんでした。
その日の午後にいたり、ついにロシア軍は戦場を後退。
英軍陣地はかろうじて陥落をまぬがれました。

わずか半日の戦いでしたが、ここでも両軍は大きな損害を出しました。
英仏連合軍は約四千二百の死傷者を出し、ロシア軍も約八千八百と言う死傷者を出しました。
苛烈な戦いは、両軍に血のいけにえを求め続けます。
そして、この連合軍の負傷した兵士たちは、またしてもスクタリの野戦病院へと送られるのでした。

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  1. 2009/04/23(木) 21:11:58|
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クリミア戦争(13)

第93ハイランド連隊の「シン・レッド・ライン:緋色の薄い戦線」とルカン卿の英軍重騎兵の突撃の前に、ロシア軍の騎兵突撃は跳ね返されてしまいました。
しかし、英軍軽騎兵は追撃戦を行なうことはせず、ロシア軍は戦場に居座り続けたままでした。

英軍司令官ラグラン卿は、ここで一気に戦況を好転させたいと思ったことでしょう。
しかし、彼が戦場に投入するべく命じた第一師団と第四師団は、まだ戦場に到着しておりませんでした。
ラグラン卿はじりじりと焦りを感じておりました。

焦る理由は大砲でした。
ロシア軍に占領された各英軍の堡塁には、設置した重砲がそのまま残されていたのです。
ぐずぐずしていると、ロシア軍に大砲を持ち去られかねません。
大砲は軍の貴重な財産です。
それを奪われると言うことは、味方の攻撃力が減るばかりか、敵の攻撃力を増やしてしまうことにもなるのです。
のんびりしている時間はありませんでした。

事実、ロシア軍は占領した堡塁から大砲を移動させ始めようとしているようでした。
歩兵二個師団はいっこうに到着の気配がありません。
ついにラグラン卿は大砲を奪おうとしているロシア軍の妨害を騎兵に命じます。

ロシア軍騎兵を撃退して、再集結していたルカン卿の重騎兵とカーディガン卿の軽騎兵にラグラン卿からの伝令が届きます。
伝令から伝えられた命令は、直ちに大砲を奪おうとしているロシア軍を攻撃しろと言うものでした。
ところがここで齟齬が生じます。
ラグラン卿は丘の上の司令部から状況を見ていたため、攻撃を仕掛けるのは元の第四堡塁へと考えておりました。
第四堡塁は、現在の重騎兵や軽騎兵の位置からそれほど遠くはありません。

しかし、そこは丘の上でした。
一段低いところにいるルカン卿やカーディガン卿にはその場所が見えてませんでした。
そこで当然伝令にどこの敵を攻撃するのか確認します。
伝令は答えました。
「閣下、あそこです」
ルカン卿もカーディガン卿も息を飲みました。

伝令の指し示したのは第四堡塁ではありませんでした。
なんと、戦線後方二キロもの位置にあるロシア軍の大砲陣地だったのです。
しかも、そこへ突撃するためには、狭い谷あいの道を行くしかなく、その間に両側の丘に陣取るロシア軍からの攻撃を受け続けなければなりません。
伝令は誤った攻撃場所を伝えてしまったのでした。

まさに自殺行為と思われる(誤った場所への)突撃命令でしたが、軍務に忠実なルカン卿もカーディガン卿もこの命令を粛々と受け入れます。
軽騎兵を先頭に、英軍騎兵は突撃を開始。
のちに詩人のアルフレッド・テニスンが「死地に乗りいる六百騎」と謳いあげた、英軍史上もっとも勇壮でもっとも悲劇的な騎兵突撃が始まりました。

英軍騎兵はわずか五百メートルほど進んだところで、ロシア軍からの猛烈な射撃を受け始めました。
その凄まじさは、訓練を受けた馬さえも恐慌を起こして制御不能になるほどでした。
ばたばたと倒れていく部下たちを見て、ルカン卿はすぐさま重騎兵の突撃を中止します。
しかし、ルカン卿の義理の弟でありながら日ごろから不仲だったカーディガン卿は、ルカン卿へのあてつけもあったのか軽騎兵をそのまま突撃させ続けました。

千メートル、千五百メートルと軽騎兵は進みます。
その間にもどんどんと損害は増え続けました。
驚いたのは司令部で見ていたラグラン卿と、仏軍のボスケ将軍でした。
ボスケ将軍はすぐさま自軍のアフリカ騎兵をノースバレーのロシア軍へと向かわせます。
せめて北側の丘からの射撃を減らしてやろうとしたのでした。

ついに英軍軽騎兵は二千メートルを走りきりました。
ロシア軍の大砲陣地は英軍軽騎兵に切り込まれます。
ロシア軍砲兵は大混乱に陥りました。

ロシア軍の大砲陣地を混乱に陥れたものの、英軍軽騎兵の奮戦もここまででした。
ロシア軍は砲兵の救援に槍騎兵を差し向けます。
射撃で大きな損害を受けていた英軍軽騎兵に、この槍騎兵の攻撃を耐える力はありませんでした。

英軍軽騎兵はもと来た道を後退するしかありませんでした。
ちょうどその頃、ようやく英軍歩兵二個師団が戦場に到着。
ロシア軍が深追いを避けたために、英軍軽騎兵はどうにか味方のところまで後退することができました。

英軍軽騎兵は約半数の兵と馬を失いました。
戦力としてはもはや全滅に等しい損害でした。
あまりのことに意気消沈するラグラン卿に、仏軍のボスケ将軍はこういったといいます。
「非常に勇敢な行為だが、これは戦争とはいえないね」

英軍は待ちに待っていた歩兵二個師団が戦場に到着いたしました。
しかし、ラグラン卿はもはや戦闘継続の意思を失っておりました。
騎兵の損失がよほど堪えたのでしょう。
彼は戦線を整理し新たなる防御態勢をとることで、ロシア軍と距離をとろうとしました。

一方のロシア軍リプランジ将軍も、自軍の騎兵突撃を跳ね返されたばかりではなく、十字砲火の中を突撃してくる驚くべきほどの英軍の戦意の高さ(たぶんに誤解から来るものではありましたが)に、これ以上の戦闘はするべきではないと考え始めておりました。
いくつかの堡塁を奪取したことと、英軍騎兵に大損害を与えたことで、満足すべき結果だと考えたのです。

結局戦闘は自然消滅的に行なわれなくなり、「バラクラヴァの戦い」はこうして幕を閉じました。
「アルマ河の戦い」に続き、またしても両軍ともに決定的な戦果をあげることができませんでした。

そして、この戦いは、長い間戦場の支配的兵科だった騎兵というものが、もはや過去の存在となってしまったことを告げる戦いでもありました。
小銃と大砲の前には、いかなる勇敢な騎兵突撃も結果を出すことは難しくなってしまったのです。
この後、「アメリカ南北戦争」を経て「第一次世界大戦」にいたり、ついに騎兵は戦場の主役を降ろされることになりました。

ちなみに、この時英軍軽騎兵の指揮を取ったカーディガン卿は、負傷した兵士が暖を取れるようにと、前を開けてボタンで止める着やすいセーターを作らせました。
これが現在に伝わる前ボタンセーター「カーディガン」の由来です。

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  1. 2009/04/20(月) 20:59:56|
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クリミア戦争(12)

セバストポリ要塞に対する最初の攻撃は、わずか四時間で中止の憂き目を見ることとなりました。
英仏オスマン・トルコの連合軍は、あらためて要塞攻略を一から練り直す必要に迫られます。
結局、力押しではなく正攻法での攻撃をするしかないとの結論に達し、以後要塞攻略は塹壕のような坑道を地面に掘りながら接近すると言う時間のかかる攻撃法を取ることになりました。

連合軍が攻撃の手を一時的に緩め、正攻法へと転換していると言う状況は、要塞から主力を引き連れて脱出し、バクシサレーへと後退したメンシコフ公にもわかっておりました。
彼は今こそが連合軍を叩く好機と考えます。
折りから皇帝より約一万の増援を得ることができていた彼は、すぐさま出撃を命じました。
目標はバラクラヴァ。

カミーシュ港から補給を得ている仏軍とは違い、バラクラヴァ港から補給を得ている英軍は、その前線までの補給線を一本の道路に託しておりました。
補給線の東側、つまりロシア軍と面することになる側には、一応の陣地を築いて防備を図っておりましたが、兵力のほとんどをセバストポリ攻略に振り向けるため、その防御陣地にはわずかな兵力しか配備しておりませんでした。

メンシコフ公はここに目をつけたのです。
補給線を寸断すれば、前線の兵力は食料も弾薬も届かずに撤収するしかありません。
そうなればセバストポリの包囲は崩れ、連合軍の作戦が大幅に狂うことになるのです。

メンシコフ公は、約二万五千の兵力をリプランジ将軍に預け、バラクラヴァへ向かわせます。
この時、バラクラヴァから前線へと延びる補給路沿いには、キャンベル将軍指揮下の第93ハイランド連隊とバラクラヴァの港そのものを守る海兵部隊、それと丘の上を守る騎兵部隊、そしてオスマン・トルコ軍歩兵が千百ほど布陣しているだけでした。

1854年10月25日。
英軍にとってのちのちまで語り継がれることになる「バラクラヴァの戦い」が発生します。
戦いはまず、補給路を守るためにいくつか築かれていた砲台(堡塁)に対するロシア軍の攻撃から始まりました。

ロシア軍が攻撃をかけた一帯には、渓谷の中を通る土手道(コーズウェイ)と呼ばれる通り(補給路とは別)を挟んで、北にノースバレー、南にはサウスバレーとカンロベールの丘があり、このカンロベールの丘から土手道に沿って東から西へ堡塁が連なっておりました。

早朝五時、ロシア軍はまず一番東の堡塁からドニエプル連隊に支援されたウクライナとアゾフの両連隊が襲い掛かりました。
堡塁守備についていた英軍砲兵とオスマン・トルコ兵は必死の防戦に努めましたが、やはり衆寡敵せず最初の堡塁はロシア軍の前に陥落します。
さらに第二第三の堡塁も陥落し、第四の堡塁までもが午前七時までにロシア軍に奪われました。

その間、第93ハイランド連隊をはじめとする連合軍は、兵力が少ないために堡塁救出に向かうこともできず、味方の苦戦と堡塁の陥落をただ歯噛みしながら眺めているしかありませんでした。
一方戦場の西側にある高地には、英軍総司令官のラグラン卿が仏軍のボスケ将軍とともに陣取り、司令部を設置しておりましたが、そこからもロシア軍の攻撃で各堡塁が陥落するのは見ることができました。
ラグラン卿はこの事態に、急遽第一師団と第四師団を包囲部隊から引き抜いて差し向けることにしましたが、両師団とも要塞へ接近するための坑道掘りに従事していたため疲労が激しく、すぐには救援に向かうことができない状況でした。

第四までの堡塁を陥落させたロシア軍は、頃やよしと見てリュジョフ将軍麾下の騎兵部隊三千を、第93ハイランド連隊の陣地へと突撃させます。
第93ハイランド連隊の兵力はわずか五百五十ほど。
ロシア軍騎兵の突撃の前には抵抗むなしく蹴散らされてしまうと思われました。

しかし、キャンベル将軍指揮する第93ハイランド連隊の兵士たちは、対騎兵用の方陣を組むことも無く横に広がる横隊を組んで銃を構えます。
薄く横に広がった隊形は、騎兵突撃に対するには不向きの隊形ではありましたが、彼らは臆することなく接近してくる馬上のロシア兵に狙いを定めました。
次の瞬間、約130メートルの距離でいっせいに射撃が開始され、ロシア軍騎兵は折り重なるようにして次々と撃ち倒されて行きます。
ロシア軍騎兵は、彼らを回りこもうと側面に向かいますが、第93ハイランド連隊の兵士たちは横隊の姿勢のままぐるっと回転し、さらに射撃を浴びせました。

この数度の射撃により、ロシア軍騎兵は混乱。
第93ハイランド連隊はかろうじて防御ラインに踏みとどまります。
この彼らの活躍は、着ている軍服の色から「Thin Red Line(シン・レッド・ライン):緋色の薄い戦線」と呼ばれ、英軍戦史に長く語り継がれることとなりました。
(のちに、太平洋戦争の映画にこの言葉が題名として使われることになります)

ロシア軍騎兵の混乱に、英軍司令官のラグラン卿が、今度は英軍騎兵に出撃を命じます。
ルカン卿の重騎兵連隊は、病気の兵の続出でわずか六百ほどにまで減少しておりましたが、それでも勇敢にロシア軍騎兵に立ち向かいます。
さらにカーディガン卿率いる軽騎兵連隊には土手道への進出が命じられ、七百ほどの軽騎兵を率いて出撃しました。

混乱したとはいえ、ロシア軍騎兵はまだ多くの兵力を持っておりました。
それに対してルカン卿の重騎兵はわずか六百に過ぎません。
ですが、英軍重騎兵はロシア軍騎兵に勇猛果敢に突撃し、そのあまりの攻撃振りにロシア軍騎兵は退却を余儀なくされてしまいます。

この時、土手道に進出していたカーディガン卿の英軍軽騎兵連隊が追撃していれば、この後の悲劇はまぬがれえたかもしれません。
ですが、カーディガン卿は土手道確保という任務を忠実に実行しようとするあまり、退却するロシア軍騎兵をただ黙ってみているだけでした。

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  1. 2009/04/19(日) 20:55:00|
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クリミア戦争(11)

「アルマ河の戦い」で一応の勝利を収めた英仏オスマン・トルコ連合軍ではありましたが、自軍の損害もまた大きく、加えて補給の悪化による病兵の増加にまたしても悩まされておりました。
以前、バルカン半島側で行軍したときにも蔓延したコレラが、ここでも猛威を振るっていたのです。

本国から遠く離れている英仏の遠征軍は、海上からの補給に頼るほかありませんでしたが、強力な英海軍が黒海の制海権を確保しているとはいえ、補給船が港についてそこから物資を前線まで運ぶには、さまざまな障害があったのです。

そのような理由もあり、さらには騎兵単独での追撃は危険だと判断した一応の総司令官サン=タルノー元帥の指示もあって、連合軍はロシア軍の追撃を行ないませんでした。
メンシコフ公率いるロシア軍は、辛くも崩壊をまぬがれたのでした。

メンシコフ公は、ロシア軍の残存兵力を率いてセバストポリに入城します。
しかし、セバストポリの防御準備はまだ完全ではありませんでした。
ロシアにとって見れば、まさかクリミア半島が戦場になるとは思っていなかったという状況であり、そのためセバストポリの要塞群もところどころ工事未了の箇所さえあったといわれます。
そこでロシア軍は、急遽築城の名手として名高いドイツ系少数民族出身のトートレーベン工兵中佐を派遣して、セバストポリ要塞の防御準備を進めさせました。
このあたりは、きっかり50年後の明治37年(1904年)における日露戦争時のロシア軍の旅順要塞とよく似た状況と言えるでしょう。

補給に悩みつつも、英仏オスマン・トルコ連合軍は前進を開始します。
目指すは黒海の要衝セバストポリ。
ここを占領してロシア海軍の勢力を黒海から排除するのが目的でした。

一方セバストポリでも、着々と防御準備が進みます。
セバストポリに駐留するロシア海軍のナヒモフ提督は、強力な連合軍艦隊に海上からセバストポリを砲撃されないように、七隻の艦艇を港湾の入り口に沈めて連合軍の軍艦が入ってこれないようにし、その沈めた艦艇の乗員は陸上兵力として各防御陣地に割り振られました。
さらにセバストポリの住民も、総出でトートレーベン中佐の指揮のもと防御工事に当たります。

もともとセバストポリの防備は、北側に対するものが主でした。
クリミア半島が陸続きなのは北の部分であり、陸上兵力は北から来ると考えられていたからでしょう。
西は港であり、あとは南と東が手薄でしたが、トートレーベン中佐はそちらにも着々と工事を進めておりました。

連合軍がセバストポリに近づいたのは、そんな状況のときでした。
この時、まだセバストポリ要塞は防御準備が未了でした。
ロシア軍司令官メンシコフ公は、このままでは連合軍にただ包囲されると思い、要塞守備に約一万ほどの兵力を残し、残りはセバストポリ東北に位置するバクシサレーという町に後退してしまいます。
防御工事も未了であり兵力も少なくなってしまったセバストポリは、連合軍の前にはさほどの抵抗もできずに陥落するかと思われました。

しかし、セバストポリ要塞の比較的設備の整っていた北側の防御を見て、連合軍は攻撃をためらいます。
英軍仏軍問わず内部での議論が巻き起こり、即時攻撃を主張する者と、包囲してじっくりと攻めるべきだとする者が意見を戦わせました。

結局連合軍は即時攻撃を断念。
ここでもまた早期に戦争を終結させるチャンスを失ったと言われます。

補給線の伸びきっていた連合軍は、補給状況改善のために、セバストポリ近郊に補給源となる港を求めました。
補給を整え、要塞をじっくりと攻撃することにしたのです。
そのために選ばれたのが、バラクラヴァという港町でした。
セバストポリの南に位置する港町で、ここからならセバストポリもすぐ近くなため、補給もしやすくなるはずでした。

一方仏軍はセバストポリ南西に位置するカミーシュという港町に進出します。
ここはバラクラヴァよりもまだセバストポリに近く、補給線もより短くできるのです。
こうして英軍はバラクラヴァに、仏軍はカミーシュにと拠点を定め、セバストポリの南側から包囲することになりました。

こうしてセバストポリに対する攻撃態勢を整えつつあった連合軍でしたが、一つの凶報が走ります。
一応の連合軍総司令官であり、仏軍総司令官だったサン=タルノー元帥が、コレラのために死去したのです。
仏軍の指揮はフランソワ・セルタン・カンロベール将軍が引き継ぐことになりました。

総司令官である以上、一般の兵士とは別個の看護体制が作られていたことでしょう。
しかし、それでもコレラによる死亡をまぬがれることはできませんでした。
サン=タルノー元帥が、半分死人のような状態で戦地に赴いていたとしても、コレラの猛威は推して知るべしでした。
補給がままならず医薬品等にも事欠く連合軍は、まさに戦闘よりも病気のほうが恐ろしかったのです。

ここに一人の女性が歴史に登場することになります。
ロンドンの病院に勤務し病気の人の看護に当たっていた彼女は、クリミア半島で戦場の取材をしている特派員からの新聞記事に、戦場での負傷兵の扱いや病気の兵たちの悲惨さが報道されているのを見て、自ら戦場へ行こうと決心します。

彼女の名はフローレンス・ナイチンゲール。
彼女は、シスター24名、看護婦14名の38名とともに戦地での傷病兵の看護に当たるため、英国を出発します。
のちに「クリミアの天使」「ランプの貴婦人」と呼ばれ、看護婦(看護師)の象徴となる女性の旅立ちでした。

1854年10月17日。
連合軍による最初のセバストポリ攻撃が始まります。
サン=タルノー元帥を欠いたとはいえ、バラクラヴァとカミーシュという前線に近い補給拠点を得た連合軍は、それに伴う多少の補給の改善で士気が上がっておりました。

連合軍は百二十門にも及ぶ大砲と沖合いの海軍艦船からの砲撃をロシア軍に浴びせます。
その光景はすさまじく、連合軍将兵はセバストポリなどすぐに陥落するに違いないと思えるものでした。
しかし、トートレーベン中佐の指揮でできあがりつつあった要塞はこの砲撃を耐え抜きます。
逆に要塞に据え付けられたロシア軍の大砲百三十門が反撃に転じ、接近してきた連合軍将兵をなぎ倒しました。
のちに日露戦争で日本軍が体験することになる要塞攻撃の難しさを、連合軍は感じ取ることになります。

結局四時間ほどの砲撃戦で、連合軍は多くの損害を受けて攻撃中止に追い込まれました。
連合軍はセバストポリ攻略が容易ではないことに気付き始めます。
実際、要塞攻略戦はまだ始まったばかりなのでした。

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  1. 2009/04/17(金) 21:12:53|
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