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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

冬戦争(5)

カレリア地峡部での攻撃も、中央部での攻撃も頓挫したソ連軍は色を失いました。
スターリンは、なぜわが軍は負けているのかと将軍たちを怒鳴りまくり、粛清によって優秀な指揮官を殺してしまったことをあらためて思い知りました。
そこでスターリンは、いったん攻撃の手を緩め、再攻勢に向けて戦力の立て直しを図ります。
総司令官にはティモシェンコ将軍を任命し、今までの総司令官メレツコフをはじめ何人もの将官が降格されたり解任されました。
ティモシェンコはスターリンの命に従い、フィンランド軍を撃破するために兵力の増強を開始します。
また装備も見直され、訓練も行なうことで歩兵と戦車の共同攻撃を可能にしたり、マンネルハイムライン突破用に完成したばかりのKV-Ⅱ型重戦車の投入も決定されました。

こうして約一ヶ月かけてティモシェンコはマンネルハイムライン突破のための準備を整えます。
スターリンにとって、じりじりと待ち焦がれるような一ヶ月でした。

ポーランドと同様にあっという間に決着がつくと思われていたフィンランドとソ連の戦争は、開始からほぼ二月が経過しようとしておりました。
ポーランドの救援に失敗した英仏は、フィンランドに対しても同情は寄せましたが、救援には消極的でした。
救援しようにも、そのころには終わっていると思われていたのです。
ところがフィンランドは粘っておりました。
このことで英国の態度がにわかに変わってきたのです。

英国はフィンランド救援の名目で北欧に兵力を派遣し、スウェーデンの鉄鉱石など北欧の資源地帯の確保をもくろみ始めました。
そうなるとドイツも黙ってはおりません。
北欧で新たな戦端が開かれる可能性が出てきたのです。
そうなると大国間の全面戦争になることが確実であり、そのことを危惧したスターリンは、一刻も早くこの戦争を終わらせなくてはなりませんでした。
スターリンは一日も早いマンネルハイムラインへの攻撃を切望していたのです。

1940年2月1日の空爆から始まったソ連軍のマンネルハイムラインへの攻撃は、その後の五日間にもわたる攻勢準備砲撃と威力偵察でフィンランド軍の防御体制を確認し、2月11日に本格的な攻撃が始まりました。
カレリア地峡部に集結したソ連軍は約60万。
大砲は約4000門。
戦闘用装甲車両は約2000両という膨大な兵力で、しかもティモシェンコは消耗をいといませんでした。
ソ連軍の兵力が尽きる前に、フィンランド軍のほうがずっと早く兵力が尽きるであろうことを見越しての消耗戦の選択だったのです。

ソ連軍が消耗戦に出てきたことで、フィンランド軍は苦境に陥りました。
予備兵力のほとんどないフィンランド軍は、失った兵力を補充することができないのです。
一方ソ連軍は、損害を受けた師団を後退させ、常に無傷の師団を投入し続けることで、兵力の優位さを発揮することができました。
また戦車と歩兵も共同し、フィンランド軍に付け入る隙を与えません。
マンネルハイムラインが突破されるのは時間の問題となりました。

ことここにいたり、フィンランド軍司令官マンネルハイムはついにマンネルハイムラインの放棄を決断します。
マンネルハイムラインで戦っているフィンランド軍は、すでに兵力が半分から三分の一にまで減っていました。
高校生が銃を取り、コックも事務員も戦いました。
しかし、兵力はもはや尽きていたのです。

フィンランド軍はついにマンネルハイムラインを放棄、2月27日にはヴィープリ市前面の最終防衛戦まで後退を余儀なくされてしまいます。
政府はマンネルハイムに状況を確認し意見を求めました。
マンネルハイムはまだ戦えるうちに和平を結ぶべきだと言ったといいます。

3月8日、フィンランドとソ連の間で停戦交渉が始まりました。
ソ連側の出した条件は、戦前よりもさらに厳しいものでしたが、フィンランドという国自体がなくなるものではなく、フィンランドとしては受け入れるしかありませんでした。

1940年3月13日午前11時。
停戦が成立し、すべての戦闘が停止しました。
「冬戦争」は終わったのです。

「冬戦争」によって、フィンランドは国土の約一割近くがソ連に奪われる形になりました。
第二の都市であったヴィープリもソ連領となり、ヴィープリは今でもヴィボルグとしてロシア領となっています。
約42万人が住みなれた土地を追われ、フィンランドの別の土地へ移ることになりました。
約2万5千人もが戦死したこの戦争で、戦争をするよりも失った国土が大きかったことにフィンランド人は衝撃を受けました。
フィンランド人は領土回復の機会を狙って、以後ナチスドイツと接近することになります。
そして1941年6月の、ドイツのソ連侵攻に歩調を合わせ、フィンランドとソ連は再び戦争状態に入ることになりました。
いわゆる「継続戦争」の始まりでした。

一方、戦争目的を達成したソ連ではありましたが、損害は大きなものでした。
この「冬戦争」での死者数に関しては、ソ連崩壊後に明らかになったそうで、それによると約8万5千人が戦死または戦病死したというものでした。
また負傷者にいたっては約25万人といわれ、小国相手の戦争としては未曾有の大損害を出したといっていいでしょう。

ソ連はこの戦争での自軍の問題点を洗い出し、教訓として改善に取り組みました。
そしてその結果、ソ連軍は大幅に戦闘力をアップすることになるのです。

のちにヒトラーは、この「冬戦争」でのソ連軍の弱体ぶりに目をつけて、ソ連侵攻を決断したといわれます。
ですが、そのときにはすでにソ連軍は「冬戦争」当時のソ連軍ではありませんでした。
そしてモスクワ前面において、今度はドイツ軍がソ連軍に翻弄されることになるのでした。

参考文献
「ポーランド電撃戦」(第二次大戦欧州戦史シリーズ1) 学研
「歴史群像2005年12月号」 学研

参考サイト
Wikipedia「冬戦争」

五回にわたりました冬戦争もこれで終了です。
SU-152の記事に絡んで書き始めましたが、北欧の小国対ユーラシアの大国が互角以上の勝負をしたというのはすごいですよね。

もともとロシアと仲がよくなかったフィンランドは、日露戦争の日本のがんばりにすごく感銘を受けたとかで、トーゴー(東郷)ビールなんてのもあったとか。
意外なつながりがあったんですよね。

それではまた。
  1. 2008/10/28(火) 20:33:38|
  2. 冬戦争
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冬戦争(4)

カレリア地峡方面での苦境とは別に、フィンランド国境北方から攻撃するソ連軍第14軍や、東方から攻撃する第9軍は、比較的楽にフィンランド領内へと侵攻しました。
兵力の大半をカレリア地峡部に集中させたフィンランド軍にとって、この方面に回せる兵力はわずかしかなく、そのため国境周辺で防御戦闘を行うことができなかったからです。

しかし、フィンランド国内深く進攻していくうちに、ソ連軍は後戻りのできない地獄へと引きずりこまれつつあることに気がつきませんでした。
数に劣るフィンランド軍は、ゲリラ活動によってソ連軍に対抗し始めたのです。

フィンランド軍は撤退するときに、ありとあらゆる木造の建物を破壊して燃やしてしまいました。
12月に入ったばかりだというのに、この冬は寒さがきびしく、北極圏に近いフィンランドでは、最低気温がマイナス40度になることも多かったといいます。
そんな中で、満足な寒冷地装備をしていないソ連兵は、寒さをしのぐ建物を得ることができませんでした。

やむを得ずソ連軍が野営して焚き火で暖を取っていると、その明かりを目印にしてフィンランド兵が襲撃を仕掛けるのです。
フィンランド兵は満足に軍服さえ支給されてはおりませんでした。
しかし、彼らは雪の中で目立たぬような白い防寒着をまとい、少人数ですばやく襲撃し立ち去ります。
この攻撃で、ソ連軍はじわじわと兵力を削られて行きました。

やがて、ソ連軍にとってはフィンランドの国土に広がる森林が、何か不気味な化け物のように思えてきたのではないでしょうか。
森の中からいつの間にか白い服のフィンランド兵が現れ、ソ連兵を殺しては森に消え、あとを追えば森の中で逆に待ち伏せされて殺される。
いつしかソ連軍は、森を恐れ、道路から離れることを嫌うようになります。
補給も道路によるしかないため、道路に沿って細長い行軍隊形で移動するようになるのです。

そうなると、今度はフィンランド軍がまた戦術を変えてきました。
訓練されたスキー部隊兵により先頭集団と最後尾集団を撃破して、ソ連軍を道路に封じ込めてしまうのです。
そして細長い道路に沿ったソ連軍部隊を、今度はその中間などを攻撃していくつかの小集団に分離するよう仕向け、最後は補給が途絶し寒さに耐えられず自滅するようにするのです。
これが「モッティ戦術」と呼ばれるもので、この戦術にはまった多くのソ連軍兵士が、戦わずに飢えと寒さで死んでいきました。

まるで日本の日露戦争前に起こった陸軍の八甲田山集団遭難事件を髣髴とさせるような光景があちこちで現出し、ソ連軍は雪に飲み込まれて消えていきました。
一説によると、この戦争におけるソ連軍の死者の八割から九割が凍死だといいます。
こうして死んだソ連兵の武器は、フィンランド軍の新たな戦力となりました。

フィンランド軍にとっては危機であり、またソ連軍にとっても悲惨だったのが、フィンランド中央部にあるスオムスサルミ村の攻防戦でした。
この付近はフィンランドの北と南を結ぶ交通の通り道であり、ここを抑えられるとフィンランドにとっては非常に苦しくなるのです。
フィンランド軍司令官のマンネルハイムはすぐに予備兵力をかき集め、スオムスサルミ村の守備を命じました。
守備隊の指揮官に任じられたのはシーラスボ大佐でした。
シーラスボ大佐は、近隣からかき集めたおよそ一個師団ほどの兵員で、ソ連軍の攻撃に対抗しなければなりません。
おりしもこの村には、ソ連軍第163狙撃兵師団が北側から、第44狙撃兵師団が南側から接近し、守備隊を挟み撃ちにしようとしていたのです。
挟み撃ちにされては、兵力に劣るフィンランド軍は勝ち目がありません。
シーラスボ大佐はなんとここで兵力を二つに分け、わずか二個中隊ほどの小戦力に、ソ連軍第44師団の足止めを命じます。
残った主力で、第163師団を迎え撃つ各個撃破が狙いでした。

ソ連軍第163師団も、道路に沿って細長く進撃しておりました。
その隊列目がけ、フィンランド軍は「モッティ戦術」を試みます。
「モッティ戦術」はここでも威力を発揮して、スキー部隊の神出鬼没の行動に翻弄されたソ連軍第163師団は、瞬く間に混乱と少数での孤立化に追い込まれていきます。
支援に当たっていた戦車も、森から現れては森に消えるフィンランド兵にはなすすべがなく、いくつもの少数に分割させられた第163師団は、もはや師団としての戦力は無くなったも同様でした。
戦車は燃料がなくなり、兵士も馬も食料がなくなり、そして飢えと寒さで死んでいったのです。
残った戦車とトラック、そして大砲は、フィンランド軍の手に落ちました。

第163師団と同様の運命が、足止めされていた第44師団にも襲いかかりました。
年が明けた1940年1月5日から始まった第44師団に対する攻撃は、またしても「モッティ戦術」の勝利に終わり、ウクライナから派遣された優秀な兵員で構成されていたはずの部隊は、まさに雪の中に溶け込むように消えていったのです。
スオムスサルミ村は救われたのでした。
  1. 2008/10/27(月) 20:36:51|
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冬戦争(3)

1939年12月6日、ソ連軍はマンネルハイムラインへの攻撃を開始しました。
砲兵による潤沢な砲撃に始まり、まず戦車が前進。
そして歩兵が追随します。
ソ連軍にとっては、マンネルハイムラインなどいかほどのこともない。
そう思わせるような攻撃でした。

しかし、ソ連軍の攻撃は、じょじょに勢いを失います。
国土防衛の熱い思いを抱いたフィンランド兵の旺盛な士気は、少々のソ連の攻撃ではびくともせず、逆にソ連軍に甚大な損害を与え始めていたのです。

彼らの主要な武器は戦車でも対戦車砲でも重機関銃でもありません。
もちろん数少ない対戦車砲や重機関銃も充分に威力を発揮しましたが、それ以上に彼らフィンランド軍が多用したのは「モロトフのカクテル」と通称される火炎瓶でした。

これはガソリンなどの発火する液体をガラスビンにつめ、火をつけて投げつけるもので、特に奇をてらったものではなく前線でも簡単に作れるものですが、フィンランドはこの火炎瓶をなんと国営醸造所で大量に生産し、約五万本も作られたそうです。
「モロトフのカクテル」という通称は、ソ連軍がこの戦争でフィンランドに焼夷弾を投下していることを諸外国に非難されたとき、ときのソ連外相モロトフが、あれは焼夷弾ではなくパンを投下しているんだと嘯いたことから、焼夷弾のことを「モロトフのパンかご」と呼ぶようになり、そこから転じて、ソ連外相モロトフに捧げる特別製のカクテルという意味で付けられたといいますが、真偽のほどは不明です。
ですが、この冬戦争以降、火炎瓶といえば「モロトフのカクテル」と呼ばれるほど、この名称は普及していくことになりました。

「モロトフのカクテル」は手で投げつける兵器ですから、当然敵に接近しなくてはなりません。
撃たれるかもしれない中で、敵に接近し投げつけるのは相当な勇気が必要だったことでしょう。
しかし、祖国防衛の思いに燃えるフィンランド軍の兵士たちは、この「モロトフのカクテル」をソ連軍戦車に次々と投げつけて行きました。

ちょうどこの年の夏、ノモンハンの戦場で日本軍の火炎瓶攻撃にソ連は数多くの戦車を失っておりました。
そのため、ジューコフは戦車を燃えやすいガソリンエンジンから燃えづらいディーゼルエンジン装備車両に交換して、何とか日本軍の火炎瓶攻撃に対処しました。
ですが、その戦訓はここフィンランドでは生かされておらず、ソ連軍はまたしても火炎瓶攻撃に多量の戦車を失うことになるのです。
フィンランド軍第5師団などは、六日間の戦闘で、52両ものソ連軍戦車を撃破したのでした。

また、ソ連軍の攻撃のやり方にも問題がありました。
砲撃のあとでまず戦車を突進させ、歩兵を随伴させなかったのです。
外を見づらい戦車は死角が多く、敵歩兵の接近に気がつかないことが多いため、本来なら戦車の死角を歩兵が一緒についていってカバーするのです。
しかし、今回は歩兵が一緒についてきていないので、フィンランド軍の兵士は勇気さえあれば戦車に近づくことが可能でした。
しかもフィンランド軍兵士は皆その勇気を持っておりました。

投げつけられた火炎瓶は戦車の装甲で割れ、中の液体に着火します。
火のついた液体は、うまく行けば戦車のエンジンカバーの隙間や空気取り入れ口などからエンジンルームに流れ込み、エンジンを発火させるのです。
ガソリンエンジンは特に発火しやすく、この方面の戦車はほとんどがガソリンエンジン装備車両だったため、ソ連軍は戦闘終結までに200両を超える戦車を失うことになりました。

また、猜疑心の強かったスターリンによる赤軍将校の大粛清が、ソ連軍の能力を低下させておりました。
有能な将校はほとんどが粛清され、無能で毒にも薬にもならない人物しか残っていなかったため、ソ連軍はただ数に任せた突撃を繰り返すしか能のない有様でした。
そのため数が少ないフィンランド軍でも、的確な防御が行なえればソ連軍の突破を許さずにすんだのです。

カレリア地峡マンネルハイムラインに対するソ連軍の攻撃は、こうして先細りになり、12月末には手詰まり状態となりました。
ソ連は別方面での戦果に期待しなくてはならなくなったのです。
  1. 2008/10/26(日) 20:49:26|
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冬戦争(2)

1939年11月30日午前6時50分。
ソ連とフィンランドの南北約1200キロの長さの国境線の各所で、ソ連軍の侵攻が始まります。
戦争を防止できなかった責任を取って、フィンランドの内閣は総辞職。
後を継いだリュティ新首相は、辞意を漏らしていたマンネルハイムをフィンランド軍の総司令官に任命いたします。
能力のあるマンネルハイムに、何とかソ連軍の侵攻を食い止めてほしいという思いでした。

総司令官に任命されてしまったマンネルハイムでしたが、フィンランド軍の実情はお寒いものでした。
総兵力は約30万人。
これは予備役兵のほかに民兵までも含めた数であり、装備も貧弱でした。
銃は統一されておらず、いわば狩猟用の銃をそのまま使っていたような有様であり、弾薬の供給面などに不利をもたらします。
また対戦車砲や対空砲もほとんどなく、戦車や航空機も数十両、数十機という数しかありませんでした。

対するソ連軍の兵力は兵員数だけでも50万を越え、一説では60万近かったといいます。
装甲車両は約1500両に上り、航空機も1000機を超える数が投入される予定でした。
いわば圧倒的な兵力を持ってフィンランドに侵攻したのです。

フィンランド軍の戦力を正確に把握していたソ連側は、この戦争はわずか四日ほどで片がつくと豪語する者もおり、大多数の者も10日から二週間で終わるものと考えておりました。
そのため、部隊には満足な冬季装備を支給せず、弾薬糧食も10日からせいぜい20日分しか用意されませんでした。
しかし、戦いは数だけではないという事実が、この後のソ連に重くのしかかってくることになるのです。

ソ連軍の主攻撃はカレリア地峡を進む第7軍でした。
第7軍には七個狙撃兵師団(通常の歩兵師団のこと。いわゆるライフルマンが狙撃兵と訳されたことによるみたい)と戦車約1000両が配備され、そのほかにも後衛に多数の兵員を擁していて、それらがラドガ湖とフィンランド湾にはさまれた幅約60キロほどのカレリア地峡に殺到したのです。

そのほかにも、ソ連軍は北から第14軍、第9軍、第8軍の並びで攻撃を開始しており、防衛の主力をカレリア地峡部においていたフィンランド軍にとって、ソ連軍の攻勢を受け止めることは不可能でした。
ソ連軍第9軍及び第14軍方面には、フィンランド軍はわずかばかりの兵力しか置けなかったのです。
まさにソ連軍の予想通り、さしたる抵抗も無く突破できるかに見えました。

カレリア地峡部の防衛に当たっていたのは、フィンランド軍第2軍団と第3軍団からなるカレリア軍でした。
彼らはフィンランド軍の中では一番兵力を回されていたとはいえ、それでもソ連第7軍に対してははるかに劣勢でありました。
そこでカレリア軍の指揮を取るエステルマン中将は、前線での防御をやめ、独立以来仲が悪かったソ連に対する防衛ラインとして建設が進められてきた、マンネルハイムラインと呼ばれる防衛ラインで戦うことにします。
マンネルハイムラインは1920年以来建設が続けられてきた防御ラインでしたが、それでもこの時点では未完成な部分や、逆に古くなって時代に合わなくなってきた部分などが混ざり合っており、決して一級の防衛ラインと呼べるものではありませんでした。
しかし、このマンネルハイムラインを超えられてしまうと、いわばフィンランドの心臓部とも言うべき地域が広がっており、フィンランドとしてはなんとしてもここを突破されるわけにはいきませんでした。

国境線での防衛をあきらめていたフィンランド軍のおかげで、ソ連軍第7軍は順調に侵攻を進めることができました。
侵攻五日目にはマンネルハイムラインよりもソ連側の部分は、すべてソ連占領下におかれてしまうほどでした。
ソ連軍兵士は戦争の先行きを楽観し、またフィンランドを資本主義から“開放”するという名目を信じて、いずれフィンランド内の共産主義者がともに戦ってくれると考えておりました。

ソ連はまさにその件に関してはすぐに手を打っておりました。
開戦当日に占領した国境の町テリヨキに、亡命してきていたフィンランドの共産主義者クーシネンを連れてきて、そこで傀儡共産主義政権を樹立させ、フィンランド内の共産主義者たちを取り込もうとしたのです。

しかし、このクーシネンの共産主義政権はフィンランド内の共産主義者にすら不評でした。
フィンランドからソ連へ移住した人々の多くが、スターリンの粛清にあっていたためといわれ、逆にソ連に対する敵意すら向けられていたのだといいます。
結局この傀儡政権は、戦争にはほとんど寄与することがありませんでした。

マンネルハイムラインに達したソ連軍は、いよいよこの防御ラインに対する攻撃を開始します。
今までさほど強い抵抗を受けずに来たソ連第7軍は、このマンネルハイムラインもそれほど苦労することなく突破できるものとふんでおりました。
第一次世界大戦のような防衛ラインにいかほどのことがあろうか。
大多数のソ連軍将兵はそう思っていたかもしれません。
しかし、それは大いなる誤りでした。
  1. 2008/10/25(土) 20:43:50|
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冬戦争(1)

1917年、第一次世界大戦のさなか、ロシア帝国はロシア革命によって崩壊しました。
その混乱の中、スウェーデンよりロシア帝国に併合されていたフィンランドは、長い間の悲願であった独立を達成し、新生ソビエト連邦にも独立を認めさせることに成功します。

しかし、独立は一筋縄ではいかず、国内の労働者階級は独立よりもソ連への併合を求めて内戦が勃発。
この内戦に政府はカール・グスタフ・マンネルハイムを指揮官として政府軍を編成。
最初は優勢だった労働者階級側でしたが、マンネルハイムの卓抜した指揮能力とスウェーデン及びドイツからの義勇兵の力もあって政府側が逆転に成功します。
ところが今度は政府側が王党派と共和国派に分かれ、王党派がドイツの支援の下でフィンランド王国を樹立。
しかし、第一次世界大戦で今度はドイツ帝国が崩壊し、フィンランド王国もあえなく崩壊。
戦後のヴェルサイユ体制の下、フィンランドは共和国として成立します。

このフィンランドの内戦で労働者側にソ連がついたこともあって、ソ連とフィンランドの関係は良好とはいえないものとなりました。
第一次世界大戦後から第二次世界大戦勃発までの間、両国関係は決していいものではなかったのです。

第二次世界大戦までまだ二年ある1937年。
ソ連はフィンランドに秘密会談を申し入れました。
会談の議題は、勢力を伸ばしてきたドイツに対するフィンランドの対応に関するものでした。

フィンランドとソ連との国境付近には、かつてロシア帝国の首都であったペテルブルク、ソ連時代はレニングラードという大都市がありました。
このレニングラードとフィンランド国境は32キロの距離しかなく、当時の大砲でも射程内に収めることが可能なほどでした。
ソ連はフィンランドがドイツ側につくことを恐れていたのです。

ソ連としてはフィンランドと軍事同盟を結び、軍隊を駐屯させて半ば属国のようにできれば申し分なく、事実そのような軍事同盟を申し入れました。
もちろんフィンランド政府はソ連が油断ならない相手である以上、ひさしを貸して母屋を取られるという事態を避けるためにも軍事同盟は拒否します。
フィンランドは中立を保ち、いかなる国もフィンランドを他国侵略のための基地となすことは許さない。
これがフィンランドの公式見解でした。

軍事同盟でのフィンランド支配は無理だと悟ったソ連は、今度はフィンランドに対して国境線の変更を申し入れます。
わが国第二の都市レニングラードに対し、フィンランドの国境は近すぎる。
国境線をフィンランドの奥地に設定するため、現在の国境のあるカレリア地峡部と、ムルマンスク近くのルイバチー半島をわが国に割譲しなさい。
こういうとんでもない要求を突きつけたのでした。

もちろんこれではフィンランドも受け入れるわけにはいかないでしょう。
そこでソ連は表面上はフィンランド側に有利に見える妥協案を持ち出します。
カレリア地峡部とルイバチー半島周辺の約2700平方キロメートルをわがソ連が割譲していただく代わりに、フィンランドに二倍以上の約5500平方キロメートルを譲渡しようではありませんか。
これはわが国の友好の証であります。
というものでした。

確かに文面だけだとフィンランドが得をするように思えます。
しかし、ソ連が提示した5500平方キロメートルは森と湖の人跡未踏の未開拓地であり、割譲しなければならない2700平方キロメートルは、フィンランドの中でも開けた土地なのです。
フィンランド政府はこの申し入れを拒絶しました。

このフィンランド側の拒絶に対し、ソ連外相モロトフは、もはやわれわれ文官では対処できませんな、次は軍人の出番でしょうと言ったといいます。
1939年11月、スターリンの下にフィンランド軍の戦闘能力に関する調査報告がなされ、11月16日にはフィンランド国境に位置する第7、第8、第9、第14軍に対する作戦命令書が作成されました。

一方フィンランド政府の強硬政策に不満を抱いていたのはスターリンだけではありませんでした。
フィンランド人であるマンネルハイム自身が、あまりの政府の強攻策にソ連の侵攻を呼び込みかねないとして不満を持っていたのです。
もはやことここにいたっては、ある程度の妥協をするのは仕方がないのではないかというのがマンネルハイムの考えでした。
そのためマンネルハイムは、国防議長であった職を辞したいと申し出ますが、時すでに遅く、ソ連軍の攻勢が始まってしまうのです。

1939年11月26日。
カレリア地峡のソ・フィン国境線において、国境守備のソ連軍将兵13人が死傷する砲撃事件があったと発表されました。
ソ連はこの砲撃はフィンランド軍によるものとして抗議。
一気に緊張が高まります。
この事件は、ソ連崩壊後に公開された資料によって、ソ連軍の自作自演であることが明らかになっていますが、ソ連はこの事件を契機に戦争に突き進むべく国交を断絶。
ついに11月30日、23個師団約50万名の将兵をもってソ連はフィンランドに侵攻を開始。
いわゆる「冬戦争」の始まりでした。
  1. 2008/10/24(金) 20:48:26|
  2. 冬戦争
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Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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