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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

豊家滅亡その43(最終回)

「天王寺・岡山の戦い」は終わりました。
大坂方は残存兵力をまとめ、大坂城へと後退します。

真田幸村が、子の真田大助(さなだ だいすけ:本名は幸昌ゆきまさ)を派遣し、また大野治長も自ら出向いてまで依頼した豊臣秀頼自身の出陣は、ついにかないませんでした。
一説では最後まで淀殿が反対したといいますが、定かではありません。

本来家康の本陣を迂回奇襲するはずだった明石全登の部隊も、戦いの混乱に飲み込まれていつしか行方がわからなくなりました。

三度までも家康を追い詰めた真田幸村も、安居天神にて討たれました。
ですが、彼の勇猛な戦いぶりは、後々まで人々に語り継がれ、生存説まで語られるようになります。
島津家に伝わる「薩藩旧記」においても、「真田日本一の兵(つわもの)」と激賞され、細川忠興も幸村が討たれたのは疲労困憊の上にあちこち手傷を受けていたからなので、討ち取った側も手柄にはならないと書き残しました。

大野治房、毛利勝永らによって大坂方が残存戦力を大坂城に撤収したのは、慶長20年(1615年)5月7日午後4時ごろといわれます。
そして、このときようやく豊臣秀頼が城門まで現れその雄姿を味方に見せますが、時はすでに遅すぎました。
これが戦端を開いた直後の午後1時ごろであれば大坂方の士気は高まったでしょう。
場合によっては豊臣家に弓引くことへの後ろめたさから、徳川勢の戦意も衰えたかもしれません。
そうなれば相乗効果で家康もどうなったかわからなかったでしょう。
しかし、すべては遅すぎました。

大坂城外には徳川方の軍勢が接近しておりました。
野戦での敗北により、城内でも不穏な空気が流れ、内応者が現れかねない状況でした。
その身の危うさを知り、秀頼は城内へと引き返します。
以後秀頼の姿が見られることはありませんでした。

先を争うように大坂城に迫る徳川勢を食い止めることはもはや不可能でした。
城に逃げ込む大坂方将兵に混じるように徳川方の兵も続き、ついに大坂城内部での戦いが始まります。
一番乗りを果たしたのは、真田勢を蹴散らした松平忠直勢でした。

やがて、内応者が放ったといわれる炎が三の丸より上がります。
このころにいたると、大坂方将士の中にもこれまでと自害するものが出始めます。
また、寝返る者も現れ城に向かって鉄砲を撃ちかけるものなども出始めます。

火はあちこちに燃え広がり、ついに天守にまで達します。
その火は遠く京都からも大坂の空が赤く染まったのが見えたとのことでした。

命からがら幸村から逃れていた家康も、この時点では本陣を茶臼山にまで前進させ、そこで炎上する大坂城を見上げていたといいます。
七十四歳にもなる家康は、これで一安心と思ったのか、喜びを隠そうともしなかったといい、さらにこのあとで千姫救出の報告に目を細めました。

豊臣、徳川両家の結びつきを強めるための政略結婚として秀頼に嫁いだ千姫でしたが、大坂方が最後の望みを託したのがほかならぬ彼女でした。
千姫を無事に帰すことで、彼女から秀頼の助命を家康に嘆願してもらい、豊臣家の存続を最後まで図ろうとしたのです。
そのために炎上する大坂城から大野治長が千姫を連れ出し、徳川勢に引き渡したのでした。

紅蓮の炎を上げて燃え盛る大坂城が陥落したのは、日付も変わろうかという5月7日の深夜でした。
ただ、淀殿と秀頼は、わずかな家臣たちと一緒に焼け残った山里曲輪とも籾倉ともいわれる一角に逃げ延びて無事でした。
最後の最後まで一縷の望みをかけ、千姫の助命嘆願の結果を待ち望んでいたのでしょう。
ですが望みはかないませんでした。

5月8日、朝のうちに家康の下へ焼け落ちた大坂城の検分に当たっていた片桐且元より、秀頼ら三十名ほどが存命中であるとの知らせが入りました。
この時点で生き残っていた主だったものは、秀頼と淀殿のほかに、大野治長、毛利勝永勝家親子、真田大助、そのほか淀殿付きの女性たちだったといわれます。(異説あり)

正午ごろ、家康の命を受けた井伊直孝、安藤重信(あんどう しげのぶ)らがやってきて、秀頼らが篭る倉に向かって切腹を申し渡します。
さらに銃を撃ちかけて切腹を促しました。

ことは終わりました。
豊臣秀頼と生母淀殿は自害。
毛利勝永はその介錯を務めたといわれ、そののちに息子勝家とともに自害。
真田大助、大野治長も同じく自害して果てました。

やがて倉からは火の手が上がり、秀頼たちの遺体を炎が覆い尽くします。
太閤秀吉の築き上げた豊臣家の最後でした。

秀頼の最後を聞き届けた家康は、京への帰途に着きました。
大坂城を廃墟と化さしめ、豊臣家を滅ぼした家康の胸中はいかばかりのものであったでしょうか。
家康は、その日の午後8時ごろには二条城に帰着したと伝えられます。

大坂の町では手柄に預かろうとした雑兵によるニセ首狙いの殺戮や、女性に対する乱暴狼藉が多数行なわれたそうです。
黒田長政が描かせたといわれる「大坂夏の陣図屏風」にも、その様子が描かれております。

こうして大坂の陣は終わりました。
将軍秀忠も翌9日には二条城に帰着。
5月10日には家康が諸大名を引見して労をねぎらい、15日には公家衆や門跡からも勝利の祝賀が行なわれ、16日には家康自ら参内して戦勝報告を行ないました。

一方、逃げ散った大坂方武将に対する追跡も行なわれ、5月15日には長曾我部盛親が捕らえられて斬首。
21日には大野治胤も捕らえられて殺されます。

秀頼の遺児国松も捕らえられ、わずか八歳でありながらも23日に処刑。
娘の方は尼になることを条件に命だけは助けられますが、のちに独身のまま没したため、ついに豊臣秀吉の家系はここに途絶えることになりました。

6月2日、大坂城の焼け跡から、豊臣家の残した金銀が集められて家康の元に届けられました。
その数、大判換算で金が二万八千枚あまり、銀が二万四千枚あまりでした。
各地の寺社仏閣の再建や大坂の両陣で牢人衆に大盤振る舞いをしたあとでも、なおこれだけの金銀が残っていたことに驚きを禁じえません。

7月7日、徳川幕府は「武家諸法度」を布告。
以後徳川家が武門の棟梁であることを明確に誇示します。
そして7月17日には「禁中並びに公家諸法度」が布告され、公家どころか皇室に対してまでも幕府の管理下に置かれることになりました。

こうして家康は幕府の骨格を完成させ、この年(慶長20年)を元和元年と改めます。
応仁の乱(1467年)より始まった長い戦乱の時代がついにここで終わりました。
時代は表向き平穏な江戸時代へと移ります。

翌元和2年(1616年)4月17日。
すべてをなし終えた家康は帰らぬ人となりました。
享年七十五歳。
満足できた一生だったでしょうか。

京都では大坂の陣直後あたりからこんなわらべ歌が流行ったといいます。
「花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退きたり鹿児島へ」
実際鹿児島にも、幸村が山伏に姿を変え木村重成と秀頼を連れて鹿児島に落ち延びてきたという俗説があるといいます。
はかなく散った秀頼と華々しく討ち死にした重成や幸村に対する愛惜の念がそういう思いを庶民に抱かせたのかもしれません。

「炬燵して、語れ真田が、冬の陣」 蕪村

豊家滅亡 終


                       ******

参考文献
「決戦 関ヶ原」歴史群像シリーズ戦国セレクション 学研
「大坂の陣」歴史群像シリーズ40 学研
「激闘 大坂の陣」歴史群像シリーズ戦国セレクション 学研
「大いなる謎 関ヶ原合戦」 近衛龍春著 PHP文庫
「大坂の役」 旧参謀本部編 徳間文庫
「大坂の陣 名将列伝」 永岡慶之助著 学研M文庫
「大坂の陣・なるほど人物事典」 加賀康之著 PHP文庫
ほか

参考サイト
「Wikipedia 関ヶ原の戦い」
「Wikipedia 大坂の役」
ほか

この場を借りまして皆様に感謝を捧げます。
本当にありがとうございました。


昨年の11月から延々と11ヶ月にも渡って書き続けてきました「豊家滅亡」もようやく終えることができました。
途中結構間を開けながらでしたので、楽しみになさっていらっしゃった方々には大変ご迷惑をおかけしてしまいましたことをお詫びいたします。

こうして終えてみると、また感慨もひとしおです。
資料本の簡易な写しですが、それなりにはまとめられたかなと思います。
関ヶ原から大坂の陣までの流れを、多少なりとも理解するのに役立ってくれればそれに勝る喜びはありません。

次回は自分の中でいずれ手を付けようと考えていたナポレオン皇帝陛下について書ければなと思っております。
その折にはまたゆるゆるとお付き合いいただければと思います。

長い間お付き合いいただき本当にありがとうございました。
それではまた。
  1. 2008/09/16(火) 19:55:28|
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豊家滅亡その42

道は開きました。
幸村の行く手にはわずかな徳川方の兵力しかありませんでした。
幸村にとって、そして大坂方にとって、千載一遇の好機が訪れたのでした。

徳川勢には松平忠直のような抜け駆けまでするような武将もいた反面、豊臣家がつぶれても遺領はわずかに65万石であることから、領地がもらえるとは思えず徳川家への体面だけを考えて参戦した武将も多く、戦意に乏しい部隊も多いのでした。
そういった部隊は幸村の率いる真田勢や勝永の率いる毛利勢のような死に物狂いの敵勢に当たって損害をこうむることを避けようという気持ちが働き、自然と彼らの前から姿を消してしまったのです。
大軍でありながらも徳川勢にはまともに戦える部隊は少ないのでした。

緋縅(ひおどし)の鎧に鹿の前立を打った白熊毛付きの兜をかぶった幸村は、その軍勢を一直線に家康の本陣に向けて突き進めます。
その真田勢に再度立ち向かった部隊がありました。
松平忠直勢でした。

この大坂夏の陣において奮戦激闘し勲功第一と言われながらも、その後の論功行賞での不満などから後年狂乱に走る松平忠直ですが、実はこの前日にあることが起きておりました。
「若江・八尾の戦い」において、忠直は家康よりの勝手に戦闘を仕掛けてはならないと言う命令を律儀に守ったばかりに、藤堂勢や井伊勢の危機を見過ごしたとして叱責されていたのです。
そのため、今日の戦いにおいては忠直は抜け駆けしてでも戦功を上げて見せると意気込んでおりました。
だからこそ、裏切りのデマや真田勢の突進に浮き足立った手勢をまとめ、この局面に再度真田勢に対して攻撃を仕掛けることができたのでした。

一度は突破したはずの松平忠直勢に再度攻撃を受けるとは、幸村にとっても予想外だったかもしれません。
しかし、なんと言っても松平勢は数が豊富でした。
一万三千を越える兵力は、一部が突破されたとしても、両翼から押し包むように攻撃することが可能です。
さらには真田勢の前面に回りこむことも可能だったのでしょう。
真田勢は家康にあと少しのところで再度囲みを突破せねばなりませんでした。

真田勢も負けてはおりません。
再度突破あるのみと、遮二無二家康本陣に向かって突撃します。
死に物狂いとなった兵に怖いものはありません。
味方の屍も敵の屍も越えてくる真田勢に、ついにまたしても松平勢は突破を許してしまいます。

あわてたのは家康でした。
真田勢の接近に、取るものも取りあえず一目散に脱出します。
直属の兵たちも同様に逃げ出し始め、あの武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」でしか倒されたことのないという馬印が倒れ、右往左往すると言うあわてぶりでした。

しかし、松平忠直勢も奮戦します。
突破した真田勢をまたしてもさえぎるように押し包み、家康との間に割り込みます。
それをさらに幸村の部隊が突破し、あわてた家康がまた逃げると言う戦いを三度繰り返すことになりました。

さすがの家康も、この真田勢の突撃には肝を冷やしたらしく死を覚悟して、討ち死によりは切腹すると言ったと伝えられます。
伝承の一つでは、このとき家康は討ち取られたと言うものまであり、大阪堺市のお寺には家康の墓があるといいます。

三度の突撃を果たした幸村ですが、ついに目指す家康の首を上げることはできませんでした。
突撃のたびに兵力は失われ、、残った兵も疲労困憊し、幸村本人も疲れ果てておりました。
四度目の突撃はもはや行うことができませんでした。

突撃によって味方は散り散りとなってしまったゆえか、幸村は一人安居天神にて休息を取っていたといいます。
ここへ松平忠直勢の一人西尾久作(にしお きゅうさく)なる人物が現れ、幸村に対して槍を突き出しました。
幸村はもはや抵抗すらせず、その首を討たれたといいます。
大坂の陣における名将真田左衛門佐信繁(幸村)の最後でした。

一方岡山口方面では、天王寺方面での銃声が合図となり戦いが始まりました。
将軍秀忠は先鋒の前田勢に進撃を命じ、前田勢とその正面に陣取っていた大野治房勢とがぶつかります。
戦いは一進一退でしたが、天王寺口方面で真田勢や毛利勢により前線が崩れたことを知った将軍秀忠は、藤堂高虎勢や井伊直孝勢を天王寺口の応援に派遣。
それにより手薄になってしまったためか、前田勢が大野治房勢に突破を許すことになりました。

さらにこちらも土井利勝勢らが相次いで壊乱し、秀忠の本陣もがら空きに近い状態となってしまいます。
この状況に将軍秀忠は、自らが槍を手に乱戦に駆け込もうとしましたが、本多正信らがそれを制止。
総大将はたとえ逃げてもいいから命大事という面で、秀忠は家康には及ばないということを露呈してしまいました。

幸いなことに、こちらも黒田長政や加藤義明の軍勢が駆けつけて大野勢を受け止めます。
大野治房勢は急を聞いて駆け戻ってきた井伊直孝勢に腹背を攻撃されてついに壊乱。
治房は残った兵力を取りまとめて大坂城に向かいました。
岡山口でも大坂方の突撃は撃退されたのです。

天王寺口のもう一方の雄毛利勝永はどうしていたか。
真田勢にわずかに遅れるようにして家康本陣に突入した毛利勢でしたが、すでに危機を察した家康は慌てふためいて脱出したあとでした。

勝永はなおも家康の行方を探しましたが、徳川勢が四方より殺到し始めたのでやむなく応戦、ついに撤退を余儀なくされました。
なおこの戦いにおいて、勝永の息子毛利勝家(もうり かついえ)は見事に初陣を飾り、首級一を上げたといわれます。

勝永の撤退戦もまた見事な采配といわれ、徳川方の大軍を相手に秩序だって後退。
大坂城に逃げ込むことに成功しました。
しかし、天王寺口の戦いもまた、大坂方の攻撃は撃退されたのでした。

慶長20年(1615年)5月7日午後3時ごろ、大勢は決しました。
「天王寺・岡山の戦い」はこうして幕を閉じたのです。

その43へ
  1. 2008/09/14(日) 20:12:50|
  2. 豊家滅亡
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豊家滅亡その41

「道明寺・誉田の戦い」と「若江・八尾の戦い」の二ヶ所での大坂方の敗退は、ついに大坂方をいまや防御拠点としては役立たずとなってしまった大坂城で徳川勢を迎え撃たざるを得なくさせてしまいました。

裸城の大坂城に篭ることができない以上、どうしても戦いは野戦にならざるを得ません。
大坂方の真田幸村、毛利勝永らは大坂城南側の平野部、今の大阪市阿倍野区から平野区にかけて部隊を布陣させ、徳川勢を待ち受けました。

慶長20年(1615年)5月7日。
戦国時代の最後の一日が始まります。

明け方、茶臼山に大野治長が現れ、真田幸村、毛利勝永と最後の軍議を開きます。
そこで決まった基本方針は以下のとおりでした。

1)、徳川勢を四天王寺の狭隘な丘陵地に誘い込み、誘引されてきた部隊を各個撃破する。
2)、部隊が誘引され本陣が手薄になったと見た時点で、一部部隊を家康本陣に迂回突入させ、一挙に家康本人を討ち取る。
3)、味方の士気を大いに高めるために秀頼公に御出陣いただく。

この軍議にのっとり、真田幸村ら三千五百は天王寺口の茶臼山に、さらにその前方には渡辺糺(わたなべ  ただす)らの二千が布陣。
赤備えといわれた赤い具足や旗指物に身を固めた軍勢が陣取るさまは、茶臼山を赤く染めたことでしょう。
この茶臼山の東西にも兵を配置し、四天王寺南門前には毛利勝永勢六千五百が布陣しました。
さらに岡山口には大野治房勢四千六百が布陣し、全軍の後詰として大野治長や七手組勢約一万五千ほどが四天王寺北東に布陣。
家康の本陣をつく別働隊として明石全登率いる三百が木津川堤防沿いに配置され、大坂方の布陣は完了します。

一方の徳川勢は、前日の「道明寺・誉田の戦い」や「若江・八尾の戦い」による一部部隊のおびただしい損害は出したものの、全体としてはほぼ無傷ともいえる状況で大坂城南側に兵力を展開しました。

こちらも早朝には家康と将軍秀忠が軍議を開いており、決戦正面となるであろう天王寺口は家康本隊が、助攻となる岡山口には将軍秀忠の部隊が布陣することが決まっておりました。
このとき将軍秀忠は、幾度となく天王寺口に配して欲しいと訴えましたが、最終決戦である今回の戦いを息子に任せる気にならなかったのでしょう。
家康は頑として聞き入れなかったといいます。

その天王寺口の先鋒は本多忠朝(ほんだ ただとも)ら五千五百。
この本多忠朝は、大坂冬の陣にも参加しておりましたが、そのときに陣の配置換えを申し出て家康の不興を買い、その雪辱を晴らそうとまさに討ち死に覚悟でこの戦いに臨んでおりました。

第二陣は榊原康勝(さかきばら やすかつ)ら五千四百。
第三陣には酒井家次(さかい いえつぐ)ら五千三百。
そしてその後ろには家康本隊一万五千が布陣しました。

岡山口の先鋒は前田利常ら二万が布陣。
二番手に井伊直孝ら七千五百。
そしてその後方に将軍秀忠の本陣二万三千が置かれました。
こうして両軍の布陣は整ったのです。

戦いの口火を切ったのは正面からにらみ合うこととなった毛利勝永勢と本多忠朝勢でした。
この日5月7日の正午ごろ、毛利勝永麾下の鉄砲隊が敵を誘引するという作戦を無視して射撃を開始。
この射撃に本多勢も射撃で応戦したため、たちまちのうちに天王寺口では両軍の戦闘が開始されてしまいます。

この射撃戦で作戦の破綻することを恐れた真田幸村は、すぐさま伝令を出して毛利勢に射撃中止を勧告します。
毛利勝永自身も部下の射撃を必死に止めようとしましたが、もはや戦場での様相は止まることなく射撃中止はかえって損害を招くのみと判断。
ここにいたり勝永は、当初の作戦案を早くも放棄して、混乱に乗じ徳川勢深く切り込んで家康の首を上げるという作戦に切り替えました。
当初の作戦案に固執することなく臨機応変に采配を振るう勝永は、やはりひとかどの武将といってよかったのでしょう。
秀頼から拝領した陣羽織を鎧の上から羽織り、銀の輪貫の前立の兜をかぶった勝永は、ひときわ目立つ存在だったらしく、徳川勢からもあれこそ毛利勝永ぞと衆目を集めたといいます。

射撃戦から一転して突撃を開始した毛利勢にすぐさま呼応したのは、やはり名将の誉れ高い真田幸村でした。
彼もまた当初の作戦案が瓦解した以上は、混乱に乗じて家康の首を討つことこそが勝機につながるとして、部隊を徳川勢に突入させたのです。
真田の六文銭の旗印を背負った赤い部隊が茶臼山を降りました。

冬の陣での汚名をそそぐべく奮戦した本多忠朝勢でしたが、勢いはこの時点では大坂方にありました。
毛利勝永勢による突撃は、本多勢に大損害を与えて行き、本多勢はほぼ壊滅状態に追い込まれます。
忠朝自身も槍を取って奮戦しますが、激闘叶わずついに二十ヶ所以上の傷を受けて討ち死に。
徳川家の名将本多忠勝の次男はここで命を落としました。

毛利勢の勢いは止まらず、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)、小笠原忠脩(おがさわら ただなが)親子の軍勢もその突撃に飲み込まれます。
毛利勢の突撃により壊乱状態となった小笠原勢は、秀政が負傷して後退(後刻死亡)、忠脩は討ち死にという大損害を受け、ほぼ戦力を失いました。

本多勢、小笠原勢の壊滅に浮き足立った榊原康勝ら徳川勢諸隊は次々と混乱。
毛利勢の足を止めることができなくなりました。
毛利勝永の前には徳川家康本陣への道が開けるかに見えました。

同じころ、茶臼山を降りた真田幸村勢も徳川勢と激突しておりました。
本来はこの位置にいるはずがない松平忠直勢と攻防を繰り広げていたのです。
松平忠直は抜け駆けをするべく部隊を前に進めてきていたといわれますが、ちょうど真田勢と正面でぶつかる形になったのでした。

一万三千を越える松平忠直勢に対し、真田勢はわずかに三千五百。
一飲みにされてもおかしくない数の差でしたが、幸村の指揮の下真田勢は一歩も引けを取りません。
そのうちに徳川勢の間にはある不穏な情報が舞い込んで来ました。
浅野長晟の裏切りというものです。

これは事実ではありませんでした。
毛利勝永と真田幸村が流したデマだったのです。
しかし、戦場でのデマは徳川勢に混乱をもたらしました。
松平忠直勢はこのデマのために動揺し、真田勢の突撃を食い止められなくなりました。

たまりかねた忠直は家康本陣に救援を求めます。
家康もやむを得ず本陣より救援を差し向けたといいます。
家康の本陣には一瞬の兵力の空白が生じました。
わずかな供回りしかいなくなったのです。

救援が来ても松平勢は真田勢による攻撃とデマによって混乱のきわみにありました。
ただ数が多いだけの烏合の衆になっていたのです。
この状況を見逃す幸村ではありませんでした。
真田勢は松平勢を突破したのです。

松平勢を抜けた真田勢の前にはわずかな徳川勢しかいませんでした。
そしてその先には家康の本陣がわずかな兵力のままで置かれていました。
まさにこの瞬間、毛利勝永の突撃も真田幸村の突撃も止めるべき部隊はいなかったのです。
道は開きました。

その42へ
  1. 2008/09/11(木) 20:07:37|
  2. 豊家滅亡
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豊家滅亡その40

大和口方面から来襲する徳川勢を邀撃するために、後藤基次や真田幸村らが出発した慶長20年(1615年)5月1日に引き続き、翌5月2日には河内口より来襲するであろう徳川勢に向け、大坂方諸隊が出発しました。
その数およそ一万一千三百。
大和口ほどではないものの、こちらも大坂方野戦軍の大部隊といっていいでしょう。
率いるのはかつての土佐国国主長曾我部盛親と、若武者木村長門守重成でした。

長曾我部盛親は関ヶ原の戦いで三成方についたため所領を没収され、大坂冬の陣では真田勢とともに真田丸の戦いで活躍した武将です。
かつては国主でもあり、大坂方でも重要な人物とみなされておりました。

一方若き木村重成は、大坂の陣の花ともたとえられる清々しい人物として知られ、秀頼の乳兄弟という立場から彼もまた大坂方の重要人物でありました。
伝承では、冬の陣の和議の際に家康の血判が薄いことを見て、再度の血判を押すように家康に詰め寄ったとされ、家康もやむなく再度の血判を押したと言われます。
これはまあ、事実ではないそうですが、まさに木村重成の不正を許さぬ実直振りを示すエピソードとされております。

また、豊臣と徳川との再度の戦が近づくにつれ、重成はだんだんと食が細くなったといわれます。
妻がどうして食欲が無いのかと尋ねると、彼は微笑んでこう言ったといいます。
「討ち死にしたときに、切られた傷口から食べたものがはみ出ては見苦しいではないか」
彼はもう死を覚悟していたのでしょう。

翌日には徳川勢との戦いが予想された5月5日。
重成は入浴して髪を洗い、香を焚き染めて謡を歌ったといわれます。
戦いに臨んで身を清めたのでしょう。

5月6日、日付の変わった午前零時ごろには出発したいと考えていた重成でしたが、やはり寄せ集めの兵力である部隊の出発準備が整わず、出発は午前二時ごろであったと伝えられます。
前日の今福方面への偵察で、徳川勢がくる様子のないことを悟った重成は、いったんは後藤隊や真田隊の向かった道明寺方面へ向かおうと考えました。
しかし、今さらほかの人たちのあとを追っても仕方がないと思いなおし、いっそ家康や将軍秀忠の陣を襲撃するのも悪くないと考えた重成は、部隊を若江方面に向かわせます。

夜間の行軍と道に不慣れなこともあり、行軍は難渋を極めましたが、木村隊はじょじょに若江へと近づきます。
一方長曾我部隊は若江村のとなりの八尾村に近づきつつあり、両隊はちょうど横並びになるような形で徳川勢に近づいていたのでした。

この日徳川勢の先鋒にいたのは藤堂高虎の軍勢でした。
その数はおよそ五千。
この藤堂隊の一部が若江・八尾方面に大坂方が行動しているのを発見。
直ちに藤堂高虎に知らせます。

知らせを受けた高虎は一瞬迷いました。
家康からは諸隊は勝手に戦ってはならぬという命令を受けていたのです。
しかし高虎は、部下から大坂方は家康や秀忠の陣を襲撃するつもりではないだろうかとの進言を受け、攻撃を決断。
配下の各部隊に大坂方への攻撃を命令いたしました。

暗闇の中から藤堂隊の攻撃を受けたのは長曾我部隊の先鋒でした。
長曾我部隊の先鋒は突然の攻撃に本隊へ敵襲を知らせますが、先鋒隊指揮官をはじめ多数を討ち取られてしまいます。
敵襲を知った長曾我部盛親は、部隊を長瀬川の堤防付近に伏せさせ、藤堂隊を待ち受けました。

そのころ木村重成隊は若江村に到着し、部隊を三つに分けて備えておりました。
するとその右翼に徳川勢の先鋒隊が突入してきます。
突入してきたのは長曾我部隊とも戦っている藤堂隊の一部でした。
藤堂隊は右翼が木村隊と、左翼が長曾我部隊と戦うことになったのです。

藤堂隊右翼の突撃は勇壮でしたが無謀でした。
防備を固めた木村隊への攻撃は跳ね返されてしまい、藤堂良勝(とうどう よしかつ)、藤堂良重(とうどうよししげ)という二人の指揮官が討ち死にする羽目に陥ります。

また長曾我部本隊への攻撃も散々な目にあいました。
接近する藤堂隊を引きつけるだけ引きつけたのち、いっせいに槍を構えて突撃してきた長曾我部隊に藤堂隊は被害続出。
こちらも藤堂高刑(とうどう たかのり)、桑名吉成(くわな よしなり)といった指揮官が討ち取られました。
藤堂高虎は必死で援軍を送りますが、援軍が加わるも態勢を立て直すまでにはいたらず、藤堂隊は結局は後退することになります。

藤堂隊右翼を撃退した木村隊でしたが、徳川勢はすぐに新手が到着します。
井伊直孝隊約三千二百の軍勢です。
木村重成はこの新たな敵に備えるべく、部隊を玉串川の西側堤の上に配置。
そこからの銃撃で井伊隊を撃退しようと目論見ました。

井伊隊もこれを察知。
逆に玉串川東堤に陣取り射撃戦を展開して突撃を敢行します。
不意を突かれた形になったのか、木村隊は玉串川西堤を明け渡さざるを得なくなり、そのまま西へと敗走しました。
勢いに乗る井伊隊の先鋒をいったんは打ち破る奮戦をするものの、次第に木村隊は押される形となり、重成自身も槍を振るって戦うものの、ついにその首を討ち取られました。

これによって木村隊は壊乱状態となりほぼ無力化。
長瀬川で陣を張ってにらみ合っていた長曾我部隊も、木村隊の敗走により撤退を余儀なくされました。
このころには戦場に徳川勢諸隊も到着しており、敗走する木村、長曾我部両隊に対して追撃が行なわれます。
この撤退戦で長曾我部隊は少なからぬ損害を受け、こちらもほぼ壊滅状態となったのでした。

武運拙く討ち取られてしまった木村重成でしたが、彼の首は後日確認のために家康及び将軍秀忠の前に出されました。
確認しようと家康が重成の首に近づいたところ、首からはいい香りが漂いました。
彼が香を焚き染めて最後が見苦しくないようにしたことを知った家康は、この若武者の死に涙したといわれます。

こうして「八尾・若江の戦い」は終わりました。
大坂方は「道明寺・誉田の戦い」に続き、木村重成を失うという痛手を受けました。
しかし、重成と長曾我部盛親の奮戦によって大損害を受けた藤堂隊と井伊隊は、翌日に迫った大坂城決戦で承るはずの名誉ある先鋒を辞退しなくてはならないほどのものでした。
そのことが多少は慰めであったかもしれません。

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  1. 2008/09/07(日) 19:33:16|
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豊家滅亡その39

後藤又兵衛基次が「道明寺の戦い」で壮烈な討ち死にをした慶長20年(1615年)5月6日正午頃、ようやく後藤隊と足並みをそろえて道明寺村に進出するはずだった薄田兼相や明石全登らの諸隊が到着します。

これら部隊がここまで遅れた理由については、諸説あって定かではありません。
濃霧のために道を誤ったとも、もともと後藤隊のみが突出し、他の部隊はあとから順次駆けつける手はずだったともいわれます。
理由はどうあれ、大坂方は後藤隊の救援には間に合わなかったという事実だけがあるのみでした。

薄田、明石らの大坂勢は敗残の後藤隊の残兵を収容し、勢いに乗じる徳川勢を迎え撃ちました。
もともと後藤隊と合わせて六千ほどの大坂方でしたので、後藤隊無き今はおよそ三千ほどの兵力に過ぎません。
二万を越える徳川勢は大坂方を飲み込む勢いで攻めかかります。

冬の陣における「博労淵砦の戦い」(その30参照)での失態から、橙武者(見てくれはいいが食べられない役立たず)との汚名を受けてしまった薄田兼相は、その汚名をそそぐべく猛烈なる奮戦をみせました。
徳川勢の大軍を相手に一歩も引かずに戦い続けたのです。
しかし、やはり多勢に無勢はどうしようもありません。
後藤基次に続き、薄田兼相もこの戦いで討ち死にします。
残りの部隊は誉田(こんだ)村方面への退却を余儀なくされました。

ここにいたり、大坂方は残りの諸隊がようやく到着。
真田幸村や毛利勝永の率いる約一万二千の兵力が戦場に来着します。
まさに戦力の逐次投入の見本のようなまずさではありましたが、さすがに真田幸村らはただではやられません。
兵力も一万を超える兵力を持っているので、徳川勢としても勢いに任せて飲み込むわけにもいきませんでした。

徳川方の伊達政宗隊は、戦場に到着したのが真田隊だとわかると、部隊を二つに分けて左右に開き、鉄砲を撃ちかけて攻撃します。
伊達隊の鉄砲装備率は相当に高く、一説では兵力の七割が鉄砲を持っていたといわれます。

それに対し真田隊も鉄砲で応戦。
双方の銃撃戦が激しく行なわれましたが、伊達隊がやがて混乱を見せたところで真田隊は突撃を開始。
激しい白兵戦が行なわれたのち、伊達隊はついに後退して道明寺村付近にまで追いやられました。
またしても真田幸村の名は轟いたのです。

幸村はその後部隊を取りまとめて毛利隊と合流。
誉田村に陣を張って徳川勢ににらみを利かせます。
幸村は毛利勝永と語らい、徳川勢との決戦を企図しましたが、そこへ大坂城から撤退せよとの命令が到着しました。
この日行なわれていたもう一方の戦い、「八尾・若江の戦い」の大坂方の敗走により、戦力を大坂城に集中する必要ができたのです。
大坂方は兵を引くよりほかありませんでした。

大坂方は幸村の真田隊がしんがりを引き受け、大坂城へと後退します。
徳川勢にとっては追撃のチャンスではありましたが、追撃を行なう部隊はありませんでした。
早朝から戦っている諸隊の兵は疲れており、とても追撃できる状況ではなかったといわれます。
「道明寺の戦い」と、それに続く「誉田の戦い」はこうして終わりを告げました。
大坂方にとっては、後藤基次と薄田兼相という二人の前線指揮官を失ったことが大きな痛手となった戦いでした。

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  1. 2008/09/04(木) 19:59:14|
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豊家滅亡その38

大坂冬の陣のときと同様に、大坂方の将兵の士気は旺盛でした。
しかし、防御拠点としての役を果たせなくなった大坂城では篭城戦はできません。
かと言って、野戦での決戦も彼我の兵力差が開きすぎて勝機には乏しすぎます。

そこで初戦での勝利における士気高揚と、あわよくば各個撃破をともくろんだ紀州口での浅野勢との戦い(「樫井の戦い」)も敗北に終わり、大坂方としては取れる作戦が限られてきます。

そこで大坂方でも名のある武将である後藤基次が打ち出したのが、徳川勢が河内平野に進出してきたところを邀撃(ようげき)するという作戦でした。
徳川勢の先鋒に対し戦力を集中。
これを撃破することで徳川勢本隊に混乱を生じさせ、それによって時間を稼ぎあとは臨機応変にというものでした。
後のことを考えてないあたり作戦としては不十分ではあるのですが、取りえる作戦としてはこれしかないというのも事実であり、この作戦は大坂方諸将の賛同を得ることになります。

慶長20年(1615年)5月1日、先の作戦に従って徳川勢を迎え撃つべく、大坂城から後藤基次隊、毛利勝永隊、真田幸村隊などが出発します。
総勢は約一万八千ほど。
ですが、後藤基次といい毛利勝永、真田幸村といい大坂方の名だたる武将がほぼ参加しており、大坂方野戦軍の主力の全力出撃といってもよかったでしょう。
大坂方はこの邀撃作戦に賭けていたものと思われます。

一方徳川勢は、紀州口での両軍のにらみ合いが続く中、いよいよ家康本隊が動き始めます。
5月3日の出陣は雨で中止になったものの、翌々日5月5日、家康は二条城を出発。
一説によれば、このとき家康はこう言ったとされます。
「今度の合戦は手間はかからん。総軍の小荷駄(補給物資)も無用。それぞれ一人当たり三日分の腰弁当で出発させよ」
「自分は米五升と干し鯛一枚、乾飯(ほしいい)と味噌、ほかに鰹節と香の物があればよい」
とは言え、実際に補給物資を持たずに軍勢を進めたとは思えませんので、これはまさに短期決戦で大坂方を粉砕するという意気込みの現れでしょう。
実際徳川勢の士気も高く短期決戦での勝算は充分にあり、家康も鎧兜をつけるまでもないと軽装で出発したのでした。

同日、後藤基次、毛利勝永、真田幸村らは宿営時に軍議を開き、翌日早朝に道明寺・国分村付近に進出して隘路を進んでくるであろう徳川勢を迎え撃つことを話し合いました。

翌夜半、部隊を粛々と進めた後藤基次は道明寺に到着します。
しかし、一緒に徳川勢を迎え撃つはずだった薄田兼相や明石全登らの部隊はまだ到着せず、さらに悪いことに国分村付近にはすでに徳川勢前衛隊が到着していたのです。

本来なら国分村を占拠し、向かってくる徳川勢を撃破するはずでしたが、それはもはや叶いません。
作戦の破綻を知った後藤基次はおそらく大坂方の勝機は失われたと考えたのでしょう。
いつもなら撤退し再起を期すことをなんらためらわなかったはずの名将が、ここで単独攻撃を仕掛けます。
「空しく牢人として朽ち果てるところを召しだしてくださった秀頼様には、諸将に先んじて討ち死にすることこそが何よりのご奉公」
基次はそう言ったと伝えられます。

午前四時、「道明寺の戦い」は後藤隊の突撃から幕を開けました。
徳川勢は前衛部隊とは言えその数およそ二万。
対する後藤基次勢は二千八百。
およそ戦いになる数ではありません。
しかし、後藤隊は石川を渡って小松山という丘を占拠します。
高地を占拠して足場を固めたのち、後藤勢は一気に駆け下りて突撃。
突撃を受けたのは徳川勢前衛隊の松倉重政(まつくら しげまさ)、奥田忠次(おくだ ただつぐ)勢で、この二隊は早々に壊乱。
奥田忠次は討ち死にという損害を受けました。

奥田隊と松倉隊をかろうじて救ったのは水野勝成(みずの かつなり)と堀直寄(ほり なおより)隊の来援でした。
両隊の到着により徳川勢は態勢を立て直し、今度は後藤隊を追い詰めます。
もとより十倍に及ぶ兵力を持つ徳川勢は、小松山を完全に包囲。
周囲から射撃を加えて後藤隊の戦力をそぎにかかります。
伊達政宗や松平忠明らの部隊もこれに参加。
後藤隊はじわじわと戦力を削られていきました。

基次は配下を取りまとめて数度にわたって徳川勢の攻撃を退けますが、多勢に無勢の戦力差はいかんともしがたく、最後の突撃を敢行します。
正面の敵は打ち崩すものの、側面を突かれた後藤隊は混乱。
基次自身も銃弾を受けてしまいます。
もはやこれまでと基次は配下のものに介錯を命じ、配下のものが涙ながらに基次の首をはねました。
すでに時刻は正午近く。
約八時間にもわたる激戦を戦い抜いたのです。
まさに後藤又兵衛基次の面目躍如たる戦いでした。

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  1. 2008/09/02(火) 20:31:17|
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豊家滅亡その37

堺の町を徹底的に焼き尽くした大坂方は、その軍勢を持って岸和田城に迫りました。
しかし、岸和田城は防備を固めてしまったために大坂方は目標を変更、和歌山城より大坂を目指してくる浅野長晟の軍勢を襲撃することにします。

浅野長晟は父が豊臣秀吉政権時代に五奉行を勤めていた浅野長政であり、その浅野長政は浅野長勝(あさのながかつ)の養子で、同じ長勝の養女にいたのがおね(ねね:のちの秀吉の正室北政所・高台院)であったというつながりから、豊臣秀吉の一番近い縁戚の一人とされ重用されました。

そのため大坂方としては、豊臣家に尽くすのが当然として冬の陣のときにも使者を送って味方するように誘いをかけましたが、家康の娘を娶っていた浅野長晟は当然これを拒否。
今回の戦にも徳川方としてその居城和歌山城から軍勢を進発させてきたのでした。

大坂方としては、五奉行を勤めたこともある家柄でありながら豊臣家に弓を引く浅野家に対し、その懲罰という意味に加え、紀州方面の安全を確保するためにも初戦で敵を制して味方の士気を高めるためにも、浅野勢を叩いておくことは意味があると考えられたのでしょう。

一方の浅野長晟は、大坂方の仕掛けた紀州での地侍の一揆を警戒し軍勢の出陣を手控えておりましたが、京都所司代板倉勝重より出陣の催促があったために腰を上げざるを得ず、約五千の軍勢を率いて大坂に向かいつつあるところでした。

堺の町の焼き討ちのあった慶長20年(1615年)4月28日夜半。
和泉国佐野(現在の泉佐野市)に到着した浅野勢は、物見の報告から大坂方が近づいてきていることを察知します。
しかし、大坂方の軍勢を約二万の大軍勢と誤認したことから、このままぶつかっても勝機は低いと考えました。
そこで防御に適した場所に後退し、そこで大坂方を迎え撃つという策をとることにします。

浅野勢が選んだのは樫井という地でした。
浅野勢主隊は早々に樫井を目指し、亀田高綱(かめだ たかつな)隊がしんがりとなって大坂方を防ぎつつ後退するという形を取って、浅野勢は動き始めます。

大坂方は岡部則綱(おかべ のりつな)が先鋒となり佐野に接近しますが、すでに浅野勢は引き上げたあとでした。
勇む岡部はそのまま追撃しようとしましたが、大坂方の戦巧者の一人である塙団右衛門直之(ばん だんえもんなおゆき)が制止します。
かつては加藤義明配下の鉄砲大将として関ヶ原の戦いにも参加した塙団右衛門は、その直情径行な荒武者振りから大将の器にあらずとして加藤義明にたしなめられたために加藤家を飛び出しておりましたが、歴戦の武士である彼は、夜間の行動の危険さを感じて岡部則綱を止めたのでしょう。

もともと対浅野勢での大坂方の先鋒を命じられていたのは塙団右衛門であり、彼は自らが偵察のために先行します。
しかし、岡部はこれを良しとせず、軍勢を率いて前進を開始。
抜け駆けされたと感じた塙団右衛門は、これもまた軍勢を率いて前進を開始します。
お互いの意地の張り合いのような前進は、やがて競走のごとくなっていき、早駆け状態で亀田勢への突進となりました。

これに対し亀田高綱は冷静に対処。
大坂方が駆けて来るのを充分にひきつけた上でいっせいに射撃を開始させ、敵の前衛が倒れてひるんだ隙に後退して陣を張りなおし、再び向かってくる大坂勢に銃を撃ちかけるという見事な後退戦を演じます。

大坂方に痛撃を与え続けてきた亀田勢でしたが、樫井の村に近づいたあたりでついに大坂方に追いつかれ、乱戦に巻き込まれます。
こうなると大坂方の塙団右衛門としては望むところなのですが、樫井の村には先に後退していた浅野勢主隊が陣取っており、彼らが今度は亀田勢の救援に動きます。

4月29日の朝方から始まった戦いは、双方激しい斬り合いでの白兵戦となり死傷者が続出。
大坂方は乱戦の中で岡部則綱は撤退し、塙団右衛門はなんと討ち死にします。
他にも淡輪重政(たんのわ しげまさ)などの有力武将も討ち死にし、大坂方は無視できぬ損害を受けることになりました。

浅野勢もいったん紀伊山口まで後退。
再度陣を敷きなおします。

大坂方の指揮を取っていた大野治房は、樫井で戦いが始まったと聞いてすぐに軍勢を率いて駆けつけましたが、そこで彼が知ったのは塙団右衛門の討ち死にと岡部の敗走、浅野勢の後退でした。

結局大坂方は軍勢を取りまとめて大坂城へ後退。
こうして「樫井の戦い」は終わりを告げ、初戦で浅野勢を撃破して意気上がるはずだった大坂方は、逆に初戦で敗北を喫する羽目になったのでした。

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  1. 2008/08/27(水) 20:43:25|
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豊家滅亡その36

使者が大坂への帰途に着くと、すぐに駿府と江戸との間で密接な連絡が交わされ始めます。
戦に向けての打ち合わせでしょう。

月が明けた4月1日には、大坂近辺の諸大名に大坂から脱出する牢人の捕縛が命じられ、信州松本城主小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)が伏見城警備につくように命じられます。
そして家康本人は、慶長20年(1615年)4月4日、九男で尾張の徳川義直(とくがわ よしなお)の婚儀出席と称し、家臣団を引き連れて尾張へ向かいました。

翌日4月5日、駿府に程近い田中という場所で大野治長の使者が家康に面会します。
使者の口上は、なにとぞ秀頼と淀殿の国替えについては思いとどまってほしいというものでした。
この期に及んでの使者の口上に、家康はただ一言「もはやどうにもならん」という意味の言葉を伝えたとのことでした。

4月6日から7日にかけ、家康からの出陣準備と鳥羽・伏見への集結を命じる書状が諸大名に発せられます。
ついに大坂夏の陣の始まりでした。

4月9日、大坂城内では大野治長が刺客に襲われるという事件が起きました。
幸い治長は軽く負傷した程度でしたが、このことは大坂城内に相互の疑心暗鬼を育てるに充分だったといいます。
刺客を差し向けたのは家康とも言われますが定かではありません。
しかし、戦を前にして一枚岩とならなくてはならないはずの大坂城内は、とてもそのような状態にはなりえなくなりました。

4月10日、家康は尾張に到着。
同日江戸より将軍徳川秀忠が出発。

4月12日、家康は尾張において徳川義直の婚儀を滞りなく済ませます。
同日、大坂方は再度の開戦やむなしとの判断から、牢人衆に対して金銀を振る舞い戦準備に当たらせます。
もはや戦は誰の目にも明らかでした。

4月18日、家康は尾張から京都二条城に入ります。
このころ徳川秀忠は、藤堂高虎を通じて、開戦はなにとぞ自分の到着まで待って欲しいとの伝言を家康に届けています。
関ヶ原の遅参が身に沁みていたことを思わせます。

22、23日ごろには京都に到着すると伝えていた秀忠は、道中を急いだのか21日には京都二条城に入りました。
そして家康と秀忠による大坂攻めの軍議が開かれたのでした。

4月24日、家康は二条城に大坂の使者を呼びつけ、あらためて国替えと牢人衆の解雇を命じます。
いわば形を整えるための最後通牒であり、宣戦布告に等しいものでした。
当然大坂方にその条件を受け入れることはできず、正式に豊臣家は幕府と戦争状態に入ります。

幕府軍(徳川勢)はおよそ十五万の軍勢が25日ごろには京都に到着しており、家康は28日からの軍事行動を命じようとしたのに対して、秀忠が未着軍勢があることからその到着を待って攻撃開始としようとしたという話があります。
老いを感じていた家康が焦っていたことを示すものとも言われますが、おそらく間違いのないところでしょう。

先に動いたのは大坂方でした。
戦略的要地である大和郡山城攻略に動いたのです。

大和郡山城は、京都から大坂へ向かう大和口の拠点でした。
徳川勢を大坂に入れないようにするには、どうしても抑えておく必要があります。
そのため、大坂方は元大和郡山城主筒井順慶(つつい じゅんけい)の旧臣を中心に大野治房の手勢を加えた約二千の軍勢で大和郡山城に攻め込みました。

大和郡山城を守っていたのは、筒井正次(つつい まさつぐ)でした。
彼は筒井順慶の次子であり、大坂方は彼を取り込もうとして誘いをかけたのですが、家康に恩義のある彼は大坂方にはつきませんでした。

しかし、攻めてくるのは父の旧臣たちであり、しかも数も多いということで、筒井正次は大和郡山城を退去。
ここに大和郡山城は陥落します。

勢いに乗った大坂方は周辺を焼き討ちしたあと奈良に進出しようとしましたが、徳川勢が奈良に進出してきたとの風聞に奈良進出を断念。
結局大和郡山城を落としたことでよしとしたのでした。

4月28日には、徳川勢の兵站拠点堺の町が焼き討ちされます。

もともと大坂と距離的に近い堺の町は、大坂方と親交が厚い場所でした。
商業都市堺は前年の大坂冬の陣に対しても、大坂方に援助をする商人が大勢おりました。

しかし、11月に徳川勢に占領されると、今度は徳川勢の兵站拠点としての活動を開始します。
商業都市堺としてはやむを得ないことであったとはいえ、大坂方にとっては堺の裏切り行為に見えました。
しかも今井宗薫のような豪商が反大坂方として積極的に徳川に援助したりしたので、なおさら堺に対する憎しみが募ったとも言われます。

大野治胤(おおの はるたね)が率いた軍勢は、堺の町を徹底的に焼き尽くしました。
東洋のベニスとまでたたえられた商業都市堺は焼け野原となり、大坂の陣終結後もついにもとの威容を取り戻すことはできませんでした。

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  1. 2008/08/25(月) 20:29:11|
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豊家滅亡その35

二の丸三の丸を破壊され、ほぼすべての堀を埋め立てられてしまった大坂城は、もはや軍事防御拠点としての能力をほぼ失いました。
その姿は「浅ましくも見苦しい」とさえ書き残されるほどでした。

しかし、このことによって大坂方はしばしの平穏を受け取ることができました。
確かにまだまだ問題は山積みではありましたが、徳川方との戦争は終わったのです。
あとはいかにして豊臣家を守り存続させるかでした。

大坂城の堀埋め立てが行なわれている最中に年が明け、慶長20年(1615年)1月1日を迎えます。
そのとき、徳川家康は大坂ではなく京都におりました。
大坂の陣(冬の陣)終結を朝廷に報告していたのです。

しかし、家康の狙いは別のところにありました。
京都二条城で新年を迎えることで、大坂の豊臣家が新年祝賀の使者を派遣せざるを得ない状況を作り出そうとしていたのです。
二条城の家康に大坂の豊臣家から使者が向かうということは、天下の主が今や徳川家であるということを見せ付ける効果があります。
いまさらという面がなきにしもではありますが、それでもこの豊臣家の使者を徳川家が迎えるというのは、政治的パフォーマンスとして意味のあることだったでしょう。

果たして大坂方からは秀頼の使者が派遣され、元日に家康に秀頼からの祝賀を伝えます。
大坂方はついに徳川方の下位に置かれたことが明白となりました。

秀頼からの使者を迎えた家康は、用は済んだとばかりに1月3日には駿府に向けて京都を出発します。
しかし、この旅はとてつもなくゆっくりと歩みが進められました。

家康は途中で国友村に寄り大砲多数を発注したのち、またゆっくりと駿府に向かいます。
なんと1月末にもまだ駿府に到着しないというゆっくりとしたもので、おそらく大坂城の破壊と埋め立ての報告を待っていたものと思われます。
そして、その工事の最中に何かあれば、すぐに大坂に引き返す腹積もりだったのでしょう。

2月8日、家康は駿府手前の中津というところで大坂城破壊と埋め立てを終えた徳川秀忠と合流します。
そこで工事の状況などを確認したのち、2月14日になってようやく駿府に帰着しました。
同日には秀忠は江戸にまで到着していました。

この日から約一ヶ月。
ほんのつかの間ですが平穏な日々が続きます。
もちろん水面下ではいろいろな動きが行なわれていたのでしょう。

慶長20年(1615年)3月15日。
事態は再び動き始めます。

この日、京都所司代板倉勝重(いたくら かつしげ)より一通の書状が駿府の家康の元に届きました。
板倉は京都にあって大坂の動きを監視していたのです。
書状には以下のことが記されておりました。

大坂方にふたたびの謀反の動きあり。
破壊されたやぐらを修復し、堀を掘り直しはじめている模様。
さらに召抱えられた牢人衆は一人も解雇されず、さらに新たな牢人衆が召抱えられつつあり。
牢人衆は大坂の町で略奪放火を行い、大坂の町の治安は乱れている。
大野治長が新規召抱えの牢人に金銀を支給し、軍備を整えつつある。

つまり、大坂方はもう一度やる気であるというのです。

皮肉なことに同日3月15日には、大坂方からの使者が家康に謁見していたという記録があり、その際に話し合われたのがなんと、冬の陣での消耗で経済的に困窮した大坂方に対しての援助を家康に申し入れたというのです。
家康としても、公的には敵対関係が解消されている以上、むげにはできなかったでしょう。

一方で板倉勝重の報告に家康は内心喜んだかもしれません。
これで完全に豊臣家をつぶせると思ったのではないでしょうか。
裸となった大坂城で篭城戦はできません。
今度は野戦で戦うしかないのです。
野戦なら数の多い徳川軍は引けを取りません。
勝てると思ったでしょう。

牢人衆が大坂の町で略奪放火をしているとの噂が駿府にまで届いていると知った大坂方は、あわてて弁明の使者を駿府に派遣します。
3月24日に到着した使者は、噂が根も葉もないものであり、大坂の町は平穏である旨を訴えますが、戦争のきっかけになれば内実はどうでもよかった家康には通じませんでした。

それどころか家康は、大坂方がいまだに牢人衆を多数召抱えていることなどを理由に、豊臣家に対して大坂を出て大和か伊勢への国替えに同意するか、牢人衆を解雇するかのどちらかを選ぶように通告します。

冬の陣終了時の和議のとき、参加した牢人衆に関してはお咎めなしというのが双方で取り交わした条件でした。
ところがこれにも微妙な言葉のあやとも言うべきものがあったと思われます。
大坂方にしてみれば、お咎め無しなのだからそのまま召抱えていてもよいと思っていたのでしょう。
ところが徳川方は、命に関してはお咎め無しで助けるから、早々に大坂城を立ち去りなさいという意味だったのだといわれます。

大坂方にしてみれば、お咎め無しだからそのまま召抱えていたはずなのに、今さらそれが悪いといわれても困ります。
使者はやむなくこの二者択一の条件を大坂に持ち帰るしかありませんでした。
大坂夏の陣が刻一刻と迫っておりました。

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  1. 2008/08/20(水) 19:37:26|
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豊家滅亡その34

和議はなりました。
徳川家と豊臣家は敵対関係を解消したのです。
これによって豊臣家の危機は回避されたはずでした。

しかし、安堵したのもつかの間、和議成立の翌日すなわち慶長19年(1614年)12月23日から、大坂城は城としての意味を失い始めました。

和議の条件として家康から提示されたことの一つに、大坂城二の丸と三の丸を破却し、惣堀を埋め立てることとありました。
今までの慣習では、「お互いにもう平和になったのだから城を取り壊しましたよ。われらは裸になりましたよ」との儀礼的な意味合いで堀の一部を埋め立て、城の一部を取り壊すというのが一般的だったといいます。
つまり、いつでも元に戻すことができるものだったのでしょう。
大坂方も当然その慣習が頭にあったものと思われます。

取り決めでは、二の丸と三の丸の破却を大坂方が、惣堀埋め立てを徳川方が担当することになっていたといいます。
和議もなったことで一段落と感じていた大坂方は、ゆっくりと二の丸三の丸の取り壊し(それも一部分のみ)に取り掛かったものと思われます。
しかし、徳川方はそうではありませんでした。

なんと和議成立より早いうちから松平忠明、本多忠政らに普請奉行を命じ、突貫作業で埋め立てするように命じていたのです。
そのとき家康は三歳の子供でもたやすく登り降りできるように平らに埋め立ててしまえといったそうです。
各国の大名衆にはその石高に応じての人足の人数まで割り当てられ、膨大な数の人足が駆り集められていたのでした。
記録によれば雲霞のごとく集まった人足が昼夜兼行で作業に当たり、周囲の家々を取り壊してまで外堀を埋め立て、わずか数日のうちに大坂城の外堀は平らに埋められてしまったといいます。
城を攻める際に障害となるべき堀がまず失われました。

大坂方は愕然としました。
もとより和議の細目自体も口約束がたぶんにあったといわれ、実際に埋め立てや取り壊しなどが行なわれるのは更なる交渉があってからと考えていた節があるようでした。
そんな甘い考えを吹き飛ばすかのような外堀埋め立てに、大坂方はなすすべもなかったのです。

そして、さらに驚くべき事態が起こります。
外堀を埋め立ててしまった徳川方の人足が、今度は勝手に二の丸三の丸及び内堀の埋め立てに取り掛かってしまったのです。
あわてたのは大坂方でした。
二の丸三の丸は大坂方の担当ですし、内堀を埋めるなどとは条件になかったはずなのです。
大坂方の代表として大野治長と織田有楽斎が急ぎ徳川方の本多正純に面会を求めました。

しかし、本多正純は病気と称して会ってくれません。
なおも和議の条件に違うと詰め寄ったところ、こういう返事が返ってきたといいます。
「お手前方(大坂方)の作業が滞っているようだから、お手伝いをしたまでのこと。みな早く国許に帰りたがっているゆえ、一日でも早く作業が終わったほうがいいでしょう」

大野らはその返事に愕然としながらも、なおも内堀埋め立ては条件にないと詰め寄ります。
埋め立てるのは惣堀(外堀)のはずだと。
返ってきた返事はこうでした。
「惣堀ではなく総堀、つまりすべての堀である。聞き違えたのではないか?」
口約束であるがゆえのしくじりでした。
(ただし、内堀は最初から条件に入っていたといわれ、この件は俗説といわれます)

大坂方が再三の工事差し止めを徳川方に申し入れている間にも、人足たちは作業を続けておりました。
ついには二の丸三の丸、そして内堀までもが破壊され埋め立てられてしまいます。
城攻めの際の防御側の拠点となるべき二の丸三の丸を失い、最後の障害たる内堀までもが失われました。

威容を誇った大坂城は、わずか一ヶ月ほどの間に大きく変容いたしました。
家康が命じたように三歳の子供でもたやすく通れるほど平らになってしまった平地に、天守閣だけが回りに何もない中に立っているのです。
もはや大坂城に防御拠点としての能力は無くなりました。

工事終了の報告を聞いた家康は、おそらく満足の笑みを漏らしたことでしょう。
大坂方にとっては悔やんでも悔やみきれない結果となってしまいました。

その35へ
  1. 2008/08/07(木) 20:42:52|
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舞方雅人

Author:舞方雅人
(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
どうぞ楽しんでいって下さいませ。

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