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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

ノモンハン23(最終回)

長いこと連載してきましたこのノモンハンの記事も、今日で最終回です。
いろいろと至らぬことでご迷惑もお掛けしましたが、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。


戦闘は終了しました。
ノモンハンの戦場は早くも初冬の趣きを見せ始め、寒さがつのって来ておりました。

戦場掃除の名目で逆襲を行なおうとした関東軍でしたが、それは受け入れてもらえませんでした。
関東軍司令官や参謀連中が泣いても喚いても頑として突っぱねられました。

戦闘停止となった9月6日以降、日本軍はノモンハン事件の後始末が始まります。

9月7日。
参謀本部の中島参謀次長、橋本作戦部長がともに予備役編入。
実質的クビの扱いです。
稲田作戦課長が習志野学校付きとして転出。

関東軍からは、植田司令官、磯谷参謀長が予備役編入。
矢野参謀副長が参謀本部付き、寺田高級参謀が千葉戦車学校付きとしてそれぞれ転出、閑職へ回されました。

辻参謀については、予備役編入させるべきであるという声も出ましたが、結局現役として残され第11軍司令部付きに回されます。
服部作戦班長も千葉歩兵学校付きとして転出するにとどまりました。

日本陸軍にとっては作戦の失敗は総司令官に帰するものであり、担当幕僚に多少の越権行為があっても、それは咎められるものではなかったのです。

しかし、現場の中堅指揮官たちには厳しい現実が突きつけられました。

ソ蒙軍の激しい攻撃により、包囲され孤立して麾下の兵士たちを次々と失って、最後には戦死した連隊長は五人。
戦死ではなく自決をしたのが歩兵第64連隊長山県大佐他四人。

そして・・・
自決を強要された人々もおりました。

フイ高地に布陣していた師団捜索隊の井置中佐は、何の支援もなく戦い続け、8月24日にはついに兵員も武器弾薬もなくなったためやむを得ず後退しましたが、これが無断撤退、命令違反として9月16日に自決させられます。

ノロ高地より撤退した第8国境守備隊長長谷部大佐も、同じく無断撤退、命令違反を問われて9月20日に自決。

歩兵第72連隊長酒井大佐は、負傷して戦場を離脱したにもかかわらず、連隊壊滅の責を問われて病院で自決。

そして、師団参謀長となった岡本大佐は、翌昭和15年5月、負傷療養中の入院先の病院において、精神錯乱で入院中のある将校に惨殺されるという目に遭ってます。
おそらくは軍の思惑が働いたのだろうといわれます。

第23師団長小松原中将は11月まで待ったのち関東軍司令部付きに回され、のち予備役編入。
翌年10月にガンで死去。

第6軍司令官荻洲中将も同じく予備役編入。
彼は自分には責任無しとして憤慨したようでしたが、翌15年1月に予備役にまわされました。

昭和14年(1939年)9月16日停戦発効。
翌9月17日、ヨーロッパではソ連軍が独ソ不可侵条約の密約によってポーランドへ侵攻。
まさにこの停戦を待ちかねていたような行動でした。
ドイツ軍によってさんざん打ちのめされたポーランドは、これによってとどめを刺されました。
ポーランドは第二次世界大戦終結まで地図上から姿を消すことになります。

9月18日から21日まで行なわれた戦場での交渉で、双方とも敵陣内に入り込んでの遺体回収などが行なわれることになりました。
作業に当たった兵士たちは、みな一様にこう思ったということです。
ああ・・・みんな・・・死んでしまったなぁ・・・

7月及び8月の第二次ノモンハン事件において、第6軍の資料は以下のようにその損害を記録しています。

出動人員:58925人。
戦死:7720人。
戦傷:8664人。
戦病:2363人。
生死不明:1021人。
合計の損害は19768人。
約33%の損害でした。
ほぼ部隊としての戦闘能力を失ったといっていいでしょう。

戦いの最初から最後まで関わった第23師団だけで言えば、出動人員15975人中、戦死傷他12230人。
実に76%の損害です。
全滅をはるかに超えた損害だったといえるでしょう。

一方ソ蒙軍側の損害も24492人に達し、甚大な損害を受けたことが明らかになっています。
ジューコフは、その回想の中で以下のように日本軍を評しました。
「日本軍の下士官や兵は実に頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的とも言えるほどの頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

日本陸軍は「ノモンハン事件研究委員会」を設置して、ノモンハン事件の研究を行ないました。
しかし、この研究はこの事件が一局所における異常局面とみなされた研究のために、ほとんど意味を成さないものでした。
日本陸軍は何も学ばなかったのです。

辻参謀や服部参謀などは2年もせずに中央に復帰、太平洋戦争の中心的指導層の一翼を担います。
日本は太平洋戦争へと向かうのでした。

ノモンハン 終


参考文献
「ノモンハンの夏」 半藤一利 文春文庫
「満州帝国の誕生」 山川暁 学研M文庫
「関東軍」 島田俊彦 中公新書
「歴史群像1994年2月号 ノモンハン1939」 学研
「満州帝国」 学研歴史群像シリーズ84
「ポーランド電撃戦」 学研第二次大戦欧州戦史シリーズ1

参考サイト
Wikipedia ノモンハン事件 他

この場をお借りして参考とさせていただきました全ての資料の関係者の方々に感謝を捧げます。
誠にありがとうございました。


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  1. 2007/10/26(金) 19:44:20|
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ノモンハン22

ジューコフは麾下の部隊の進撃を停止させました。
すでにソ蒙側が主張する国境戦まで部隊は進出しており、それ以上の進撃は満州国への領土侵犯に他ならなかったからです。
スターリンは、このノモンハンでの戦いが日本との全面戦争までに発展することを望んではいなかったのです。

そう、スターリンは近々ドイツがポーランドに侵攻することがわかっていました。
そして、その時にはポーランドの半分をソ連が手に入れることにドイツとの間で密約が交わされていたのです。
スターリンの目はヨーロッパに向きました。
日本軍をある程度叩けたことで、ソ連の目的は達しました。
後は日本軍さえおとなしくしてくれれば、この戦いは終わりだとスターリンは考えておりました。

昭和14年(1939年)9月1日。
ソ蒙軍は各所で陣地構築に入ります。
日本軍の反撃に備え、国境線(ソ蒙側主張の)を保持するのが目的でした。
塹壕が掘られ、機関銃が据え付けられ、鉄条網が張られました。
長大な陣地線が構築されたのです。

まさにこの日、ドイツ軍はポーランドへの侵攻を開始いたしました。
歴史上、この日をもって第二次世界大戦が勃発した日とされています。
ヨーロッパでも戦争が始まりました。

第6軍は戦線を縮小し、ソ蒙側主張の国境線より兵を引きました。
しかし、関東軍はまだまだ負けたとは思っていませんでした。
8月後半に行なった参謀本部との交渉により、日本本土より第5、第14の二個師団が急遽満州に派遣されることが決まったのです。
これは、満州防衛に戦力不足を申し立てた関東軍の言い分を認めた措置で、参謀本部としては一応の注文としてノモンハンの戦場には投入しないという約束で送られるものでした。

満州全域でのソ連軍の攻撃におびえていた関東軍ですが、この二個師団の派遣により、国境守備における予備兵力を作ることができます。
ならば、確かにこの第5及び第14師団はノモンハンには使わないが、すでに満州駐屯である第2、第4、第7師団の三個師団をノモンハンに投入して、第23師団の敵討ちを取ろうと意気込んだのです。

一個師団を撃滅されておめおめと引き下がれるか!
関東軍参謀たちはそう言ってはばかりませんでした。
その撃滅されたのがどうしてなのかなど彼らの頭にはありません。
ヨーロッパでの戦争勃発で、ソ連の目はヨーロッパに向いた。
ならば今なら日ソの全面戦争はありえない。
だとしたら、ノモンハンの戦場に全力を投入できるではないか。
彼らはそう考え、9月2日には関東軍司令官の訓示でソ蒙軍撃滅を呼びかけます。

しかし、彼らの行動は直前で待ったをかけられました。
9月3日。
関東軍宛に参謀本部よりの電文が入ります。
そこには、事件の終結をはかり、関東軍司令官は攻勢作戦を中止すべしとあったのです。
これは大命(天皇陛下による命令)でした。

関東軍司令部は激昂しました。
本土からの二個師団は約束どおり使わない。
だから手持ちの三個師団は使ってもよいというのが参謀本部の考えではなかったのか?
そんな勝手なことを言い放ちます。

そこで彼らは考えました。
確かに参謀本部の命令は天皇陛下による大命である。
しかし、天皇陛下といえども間違いはあるし、命令の行間を読むことも大御心に沿うには必要であろう。
そう、またしても勝手な考えを抱くのです。

彼らは大命に基づき攻勢作戦は中止することにしました。
しかし、ノモンハンの戦場には、撃ち捨てられた友軍兵士の死体や、遺棄されて見捨てられた兵器があります。
それらは全て大事な陛下の赤子であり陛下より賜った兵器です。
そう言った大事なものを戦場に晒しておくのは忍びない、全て回収しなくてはならないので、ソ蒙軍陣地に小規模攻撃をかけて敵が混乱しているうちに回収するという名目を立てました。
つまり、戦場掃除にかこつけた攻勢作戦を取ろうというのです。

ですが、今度こそ参謀本部はこれを頑としてはねつけました。
全ての行動を禁じ、「大命」を繰り返して関東軍の行動を阻止します。

9月4日から5日にかけて、何度も関東軍司令部と参謀本部との間に侃々諤々の電文のやり取りや人員のやり取りなどがありましたが、結局関東軍の死体回収の名目での戦闘は行われることがありませんでした。
わずかに戦場南方のハンダガヤ付近では依然戦闘が続き、日本軍が確保したまま停戦を向かえることになります。

9月9日、モスクワで日本の大使東郷茂徳(とうごう しげのり)と、ソ連外務人民委員(外務大臣)ヴァチェスラフ・モロトフとの間で停戦及び国境線確定交渉が始まりました。
交渉は予想通り双方の思惑が絡む難しいものでしたが、ひとまず国境線確定を暫定的なものとして、正式な確定は後日回しにすることで、9月15日深夜に交渉がまとまります。

9月16日午前7時。
双方に一切の敵対行動の中止が命じられました。
ノモンハン事件は終わったのです。

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  1. 2007/10/22(月) 19:56:05|
  2. ノモンハン事件
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ノモンハン21

第6軍司令官荻洲中将はソ蒙軍への反撃を命じました。
各陣地からなけなしの兵力を抽出し、南側のソ蒙軍に対して攻撃を仕掛けたのです。

8月23日。
第6軍は関東軍司令部に対して電文を打ちました。
「敵はわが陣地全体に攻撃を仕掛けてきているため、その重点がなく迫力がありません。砲撃も激しいものではあるが今日の夕方には峠を越えました。各方面とも陣地は堅守しているのでご安心いただきたい。明日24日には予定通り敵に一撃を見舞ってやります。敵の後方撹乱もたいしたことはなく、砲撃でやや兵力を損なわれましたが、兵の士気は旺盛で問題ありません」
現状を知っての電文だったのでしょうか?

8月24日。
日本軍は確かに攻撃を開始しました。
しかし、攻勢に出るための準備すらない攻撃に何ができるのか。
兵を運んでくれるトラックが無いために攻勢発起点にすら向かえない部隊があったのです。
しかも各所の陣地からは兵力をむしりとられるように持って行かれてしまいました。
日本軍は攻撃することも守ることすらもできなくなってしまったのです。

日本軍の攻撃を受け止めたのはソ連軍第57狙撃兵師団でした。
確かに第57師団は日本軍の攻撃により多くの損害を出しますが、砲兵の支援も戦車の援護も無い歩兵だけの突撃はただただ日本軍兵士の命を失わせるばかりでした。
夕刻ごろにはソ連軍も立ち直り、戦車を中心として日本軍に反撃を開始。
日本軍の攻撃はわずか半日で頓挫したのでした。

21日にはすでに孤立していたフイ高地の井置中佐の部隊は弾も水も食料もなく4日間も戦っていました。
高地周辺の塹壕陣地ではソ連兵と日本兵が銃剣や手榴弾で白兵戦を行い、動くものが何も無いという状況まで戦っておりました。
無線も通じず、援軍の来る希望も無い。
井置中佐はついに部下たちを集めてフイ高地からの脱出を決断します。
24日夜、刀折れ矢尽きた状況の井置中佐率いる部隊はフイ高地を撤収。
味方陣地に向かって“前進”します。
759名中脱出できたのは269名でした。

8月25日から以後は日本軍はただただソ蒙軍の蹂躙に任せるだけとなりました。
攻撃のために兵力を抽出されたため、各所で陣地が撃ち破られ始めたのです。
26日には前線より後背にあるはずの重砲陣地にまでソ蒙軍が接近。
穆稜(ムーリン)重砲兵連隊の前面を守っていた歩兵部隊は須見大佐の部隊でしたが、すでに攻撃のために移動させられており、重砲兵部隊の前面はがら空きでした。
部隊長染谷中佐は最後の日時を絶筆に記入後観測所で自決。
砲兵たちは歩兵となってソ蒙軍に突入して行きました。
野戦重砲兵第一連隊も梅田少佐が自決し、砲兵たちはやはり歩兵となって突入して行きました。

ノロ高地付近でも長谷部大佐率いる守備隊が奮戦していたものの、すでに兵力の七割を失っておりました。
軍事上では三割の兵力を失えば、その部隊は“全滅”と言われます。
部隊としての戦力を失うからです。
長谷部部隊は“全滅”を二度やってもお釣りがくるほどの兵力を失っているのです。
長谷部大佐も後退を決断しなくてはなりませんでした。

26日夜、長谷部大佐は部隊を後退。
北東約4キロの749高地へ撤収しましたが、翌27日には749高地も撤収せざるを得なくなりました。
日本軍の両翼フイ高地とノロ高地は失われたのでした。

バルシャガル高地でも山県大佐の歩兵部隊と伊勢大佐の砲兵隊が頑張っておりましたが、28日夜、ついにこの二人も現在地を撤収して後退すると決断。
しかし、翌29日。
両部隊ともソ蒙軍に発見され、ついに散り散りになってしまい残った兵たちが最後の突撃を敢行。
山県大佐、伊勢大佐はともに自決という結果になってしまいました。

ここに至って第6軍はようやく各部隊をノモンハンに集結させるように命令を下します。
ようやく撤収命令が下ったのです。

日本軍の最後の部隊が撤収したのは8月31日でした。
山県隊、伊勢隊を救おうと、小松原師団長自らが部隊を率いて向かったのですが、ソ蒙軍に囲まれて孤立。
どうにか脱出したのが31日朝でした。

ソ蒙軍は追撃をしませんでした。
ジューコフはソ蒙側主張の国境線まで進出した後は部隊を停止させたのです。
日本軍はその線より東部に退いて再集結を計りました。

地獄の8月は終わりを告げました。

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  1. 2007/10/17(水) 21:24:19|
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ノモンハン20

現地上部組織である第6軍の創設と前後して、参謀本部は関東軍司令部に対し、今までさんざん拒否してきたモンゴル領内のタムスク航空基地への越境爆撃を許可しました。

これはうがった見方をすれば、第6軍創設で関東軍に手を引かせる以上、その面子を立てて、かねてより申し出のあった爆撃をやらせてやろうと言う配慮があったのではないかと思え、事実関東軍司令部側には、いまさら何を言っているのだという空気が流れたこともあったようです。

実際、ノモンハン戦場上空での航空撃滅戦でへとへとになっていた関東軍航空部隊には、タムスク爆撃をしたくてもできない状況であり、それでも許可が出た以上はタムスク爆撃を行なおうという意思のもと、機材をやりくりしてのタムスク爆撃が8月21日に実行という手はずになっておりました。

8月中旬。
ノモンハンの戦場の外で情勢が動きます。
独ソ不可侵条約調印のための下準備が整ったのです。
スターリンとヒトラーが手を結んだことで、ソ連は西の脅威を一時的にも考えずにすむようになりました。
まさに全力を東に向けることができるようになったのです。
スターリンはGOサインを出しました。

ソ蒙軍司令官ジューコフが攻撃命令を下したのは、昭和14年(1939年)8月20日午前5時45分だったと言われます。
まず、大編隊の航空機による空襲から始まり、続いて2時間にもわたる無数の火砲からの砲撃、そして戦車と歩兵による強襲とまさに教科書どおりの攻撃でした。

8月20日は日曜日でした。
ソ蒙軍の攻撃があることをまったく察知できていなかった日本軍は、司令部である第6軍の将官から、各部隊の士官に至るまで、その多くが休日を楽しむために戦場を離れて後方のハイラルなどへ向かっておりました。
ジューコフはそこまで考えていたのです。

ソ蒙軍は両翼から包み込むように左右74キロにわたって広く広がっておりました。
日本軍陣地の正面幅が約30キロと言いますから、相当な広範囲にわたって部隊を展開していたことになります。
ソ連軍の圧倒的な攻撃に、日本軍の各陣地は甚大な損害を出しました。
しかし、高級将校の不在もソ蒙軍の空襲も砲撃も直接攻撃さえも、日本軍陣地を壊滅させるには至りませんでした。
頑強な日本兵は、すぐさま各陣地で応戦を開始、ソ蒙軍にも大きな損害を与えて行くのです。
各陣地はソ蒙軍の攻撃を必死に跳ね返しておりました。

しかし、差し渡し30キロの防御ラインというのはいかにも広すぎました。
日本軍は一個師団強の兵力でこの長大な陣地線を守っていたのです。
本来一個師団で守れる正面幅は約10キロ。
その三倍の長さを守ろうというのですから、各陣地の間にはふさぎきれない隙間がいくつもできることになります。
各陣地は確かに頑強で粘り強く、ソ蒙軍の攻撃を跳ね返して行きますが、その間をすり抜けられてはどうしようもなく、各陣地はソ蒙軍が後ろにまで回ってしまうのをなすすべなく見ているしかありませんでした。

陣地の後ろに回られるということは、陣地が包囲されてしまうということです。
陣地は本来は正面の敵と戦いながら、後ろからは補充の兵員や武器弾薬食料が滞りなく届けられなくてはなりません。
後ろにまで回られてはその補給物資も補充要員も届かなくなるのです。
包囲というのは、敵の物資増援を断ち、その部隊の継戦能力を奪うことなのです。
継戦能力を失った部隊はあっという間に武器弾薬が尽き、降伏するほかなくなるのです。

日本軍の陣地も各地で包囲され孤立する事態になりました。
北のフイ高地では井置中佐の部隊が包囲され、南のノロ高地付近でも大隊ごとの各部隊が孤立戦闘を続けている状態でした。
中央でも各部隊があちこちで包囲され孤立しています。
何とか連絡をつけ、孤立状態から救わねばなりませんでした。

ことここに至っても、関東軍司令部は現状判断に希望的観測が混じるのを避けることができませんでした。
ソ蒙軍が大挙攻撃してきても、補給途絶に苦しんだ挙句の自殺的強襲ではないかと考えていたふしがあるのです。
関東軍司令部はジューコフの欺瞞電文により、ソ蒙軍も補給に苦しんでいると思い込んでいました。
また自分たちの常識からもそうでなくてはおかしいと思い込んでいました。
ですから、この猛攻撃は一過性のものであり、各陣地も攻勢中止の後強化されているはずだから大丈夫と思い込もうとしたのです。
そのため、このソ蒙軍の攻撃はかえってこちらにとってありがたいことであり、逆激をもって一気にソ蒙軍を追い返せると喜んだぐらいでした。
それよりもノモンハン以外の場所でソ連軍が攻めてくるかもしれないという恐怖が、彼らを支配していたのでした。

しかし、翌8月21日には、日本軍の各陣地は絶望的状況に追い込まれていることがはっきりしてました。
そんな中、同盟国というよりもまさにそのために戦っているはずの満州国軍の一部が、指導の名の元に派遣されている日本軍将校を射殺。
部隊約200名がそっくり逃亡してしまうという事件まで起きました。
それほどまでに状況は悪化していたと言えるのでしょう。

22日、関東軍航空部隊は、以前からの計画通りにタムスクへの再度の空襲を行ないます。
攻撃は成功し、日本側10数機の損失でソ連軍機約100機近くを撃破したと言います。
事実だとすると大戦果でありますが、事実誤認だったのかソ連軍の航空戦力の充実が上回っていたのか、ノモンハン上空のソ連軍機の跳梁は変わりませんでした。

日本兵は果敢に戦いました。
しかし、以前とは違って戦車や装甲車が単独で日本軍陣地へ迫ることはなく、必ずソ蒙軍の歩兵が付随していたため、以前は効果を発揮した歩兵による火炎瓶や爆薬を使っての肉薄攻撃ができなくなってしまいました。
文献では、これはソ連軍戦車がガソリンエンジン車ではなくディーゼルエンジン車に変えたため、火炎瓶による攻撃が効かなくなったと書かれたものも多いのですが、どうやら歩兵のバックアップが付いたために肉薄攻撃ができなくなったというのが大きいようです。
ですが、そのような中でも兵士たちは懸命に部署を守り、陣地を守って斃れて行きました。
まさに死闘だったのです。

各所で陣地が孤立しソ蒙軍が浸透してくる中、22日になって日本軍は気が狂ったとしか思えない命令を発します。
第6軍司令部が危機に陥っている第23師団に対して、「主力をもってホルステン河南方の敵を捕捉撃滅する準備をすべし。攻撃開始は24日払暁を予定」という命令を発したのです。
各所で寸断され、孤立した各部隊が死に物狂いで戦っている時に、どこをどうしたら攻撃に転じることができるのか。
命令を受領した歩兵第26連隊連隊長の須見大佐は愕然として、第6軍の命令を鸚鵡返しにするしかない小松原師団長にこう言ったと伝えられます。
「私の部隊は師団命令により各所にバラバラに配備されましてとても攻撃に転じることはできません。陣地を守るだけで精一杯であり、私と部隊はそこで最後を迎えるつもりです。軍旗の処置も決めております」
事態はもうそこまで悪化していたのでした。

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  1. 2007/10/14(日) 20:33:00|
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ノモンハン19

参考文献にさせていただいています半藤一利様の「ノモンハンの夏」には、現地ノモンハンの戦場の様子が細かに描写されております。

それを見ると、現地では大きな蚊が飛び回り、露出している皮膚を見るとたちまち群がってきて血を吸うといいます。
排便の時など、ヨモギをいぶしておかないと、お尻がまっくろになるほどたかられるそうです。

砂漠のような乾燥地帯ですので、昼間と夜間の気温の差が大きく、昼は真夏の太陽が炎暑をもたらし、夜は冷気が0度近くにまで気温を下げるといいます。

加えて現地の日本軍は、短期決戦を考えていましたので、充分な後方支援を受けられていません。
弾薬はもとより食料なども充分とはいえない有様でした。
何より給水の手立てを講じていなかったため、兵士たちは水の不足に悩まされたといいます。

水、食料、弾薬、炎暑、冷気、さらには蚊。
日本軍兵士の苦労は察するに余りあります。

そんな中で日本軍は7月を終えました。

関東軍司令部はソ満国境全線でのソ連軍の攻撃を予想し、攻勢を中止。
陣地での防御持久に切り替えて、冬越しをしてでもこの場に残る考えでした。

7月の日本軍の攻勢中、現地ソ蒙軍司令官ジューコフは、最終的な反撃に備えて部隊の増援と武器弾薬の集積を行なっておりました。
その手配が整うのは8月中旬。
ジューコフは8月中旬から一大攻勢をかける腹積もりでした。

ですが、ただ漫然と物資の集積に当たっていたわけではありません。
局所的な反撃が時々行なわれ、そのたびに双方に損害も出ます。

8月1日、2日。
ソ連軍の攻撃が行なわれ、日本軍の各陣地が圧迫されますが、日本軍は兵士たちの応戦で何とか食い止めます。
ソ連側もある程度の被害が出たことで攻撃を中止。
戦いは小康状態に移りました。

この一時的小康状態を利用し、関東軍は第23師団などの損耗兵力をやや補充します。
そして、ここに関東軍司令部の独走を食い止めるべき手段として、参謀本部は現地に第6軍という中間司令部を設置します。

これは表向きは、現地が第23師団だけではなく砲兵団や工兵隊など多岐に渡る部隊が派遣されているため、その指揮を関東軍司令部の直接指導の下、第23師団長小松原中将が行なうのでは不都合も多かろうということで、一段上級の司令部を設置して、指揮系統をすっきりさせようというものでした。

しかし、内実はそうではなく、無論指揮系統の整理は重要ですが、それ以上に現地部隊と関東軍司令部とを切り離すのが目的でした。
第6軍司令部を設置して関東軍の影響力を弱め、参謀本部主導でノモンハンの戦いを導こうとしたのです。

8月4日。
司令官荻洲立兵(おぎす りゅうへい)中将以下第6軍設置。
ただし、現地着任は先のことで、8月12日にようやくハイラルに到着しています。

関東軍司令部はこの第6軍設置を冷ややかに見ていたようで、大変なところをご苦労さん、後は任せましたよといった感じであったようです。
もはやノモンハンよりも満州全土で起こるかもしれないソ連との戦いに目が向いていたのかも知れません。

ジューコフは細心の注意を払って日本軍に部隊の増強と集結を知られないように図りました。
絶えず砲撃をして戦車や歩兵たちの移動する音をごまかし、おおっぴらに防御陣地構築の振りをして見せたり、戦車を走り回らせてその音に日本軍兵士を慣れさせ、移動をいつものことだと思わせたり、とにかく考えられることは全て行なっていました。

日本軍に対する欺瞞無線も発し続けました。
補給困難で攻勢は不可能、援軍を請うといったような無線を大いに発し、日本軍の傍受班がそれを受信するよう仕向けていたのです。
関東軍司令部ではそれ見たことかと思ったでしょう。
自分たちでさえ補給困難なのだ。
鉄道からあれだけ離れているソ蒙軍が補給困難なのは当然ではないか。
これはこのまま持久すれば、遠からずソ蒙軍は引き上げるに違いない。
そう思ったかもしれません。

関東軍はこの欺瞞行動にまんまとしてやられました。
油断が油断を呼び、実際の戦場上空を飛んで偵察するべき航空機も、8月12日から19日の間、つまり、ジューコフが必死になって攻撃位置に部隊を展開していたまさにその時、「悪天候のため捜索しえず」と、偵察行動をしていなかったのです。

こうしてソ蒙軍は、日本軍に対する攻撃準備を整えました。
一説によれば、その兵力は約5万7千。
狙撃兵(歩兵のこと)3個師団、戦車2個旅団、機甲(装甲車が主)3個旅団、機関銃1個旅団、火砲542門、航空機515機を用意したといいます。

まさに大兵力でした。
ソ蒙軍は全てにおいて敵に倍する兵力を整えたのです。
敵より多数の兵力を整える。
戦闘においてのもっとも基本的な条件をジューコフは満たしたのでした。

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ノモンハン18

ノモンハン7の記事中で「重光葵」のふり仮名で「しげみつ あおい」としてしまいました。
正しくは「しげみつ まもる」でございます。
お詫びして訂正させていただきます。
申し訳ありませんでした。


「我過てり」
7月26日付の小松原中将の日誌の冒頭です。

7月23日から行なわれた日本軍の砲兵団によるソ連軍火砲撃滅攻撃は、無残な失敗に終わりました。
高台に位置するソ連軍砲兵陣地に対して、日本軍の砲火は効果的な威力を発揮することができませんでした。
そのため、ソ連軍の砲撃はほとんど衰えることがなかったのです。

関東軍司令部はこの砲兵団による攻撃に大いに期待しておりました。
そのため、わざわざ歩兵の夜襲を中止させてまで、砲兵の布陣を待ったのです。
日本軍の再攻撃は砲兵の攻撃とともに始まりました。
歩兵たちは味方の砲兵がソ連軍火砲を撃滅してくれるものと信じて、勇んで陣を飛び出して行きましたが、彼らの前にはソ連軍火砲の砲弾が降りそそいだのです。

さらに間の悪いことに、日本軍が夜襲を中止した14日以降、ソ連軍はひたすら物資の蓄積と防御陣地の強化、それに援軍の配置などを行なっておりました。
日本軍の歩兵はその強化された防御陣地への突撃をしなくてはならなくなったのです。
「我過てり。なぜ砲兵の攻撃など当てにしたのか。あのまま歩兵による攻撃を続けていれば・・・」
小松原中将の日誌は切々と真情を訴えました。

砲兵による攻撃が上手く行かない状況で、強化された敵陣への攻撃が上手く行くはずはありません。
しかし、小松原中将はこの際砲兵を当てにせず歩兵だけで敵陣を突破して見せるという意気込みを見せておりました。
得意とする夜襲に持ち込めば、まだ勝機はあると見たのです。

そんな小松原中将の下に、26日関東軍司令部は新たな命令を送りました。
「当面の敵撃滅を待たずに速やかに築城を実施すべし」
つまり、攻勢を中止して防御陣地を作り守りに徹しろというのである。
さらに後方に下げられていた安岡少将の戦車第3第4連隊はついに駐屯地への撤収が命じられました。
日本軍の攻撃は全て徒労に終わったのでした。

ノモンハンで日本軍兵士が必死に戦っていた頃、関東軍司令部と東京の参謀本部では相も変らぬ仲たがいを繰り広げておりました。
参謀本部が、ノモンハンの戦闘をいかに終息させるかに付き討議したいので、関東軍参謀長は東京へ来られたしと言う電報を送ると、関東軍司令部ではこの忙しい時に東京へ来いとは何事か、参謀総長こそこっちへ来いと息巻きます。
さすがに関東軍の磯谷参謀長がそれはまずいということで東京へ出向きますが、参謀本部とはすでに意見が相容れず、参謀本部の少しぐらい国境がずれても構わないという意見に対して、死んでいった英霊にどう申し開きをするのか、絶対にその意見は受け入れられないと突っぱねます。

結局、参謀本部が提示した「ノモンハン事件処理要綱」は、単なる参謀本部“案”とまで貶められ、その場で磯谷参謀長によって“案”と書き加えられる始末でした。
関東軍は参謀本部は統御することができませんでした。

しかし、関東軍司令部としても参謀本部の横槍を退けたと安心してはいられない状況でした。
ノモンハン以外でのソ連軍の活動が情報として入ってきつつあったのです。
8月にはソ満国境全線で大攻勢が仕掛けられるかもしれない。
そうなったら満州防衛のためにノモンハンだけに関わっているわけには行きません。
また、北海道の稚内よりも北にある地域ですから、冬の到来は予想以上に早く9月には氷点下まで下がります。
冬に備えて越冬の準備をしなくてはなりません。
関東軍は戦場で冬越ししても粘るつもりでした。
そのため、攻勢を中止して防御陣地築城を命じたのです。

日本軍は733高地(バル西高地)から742高地(ノロ高地)までのラインを防御ラインとしました。
北側の721高地(フイ高地)も防御陣に組み込まれましたが、その近辺ではまだ戦闘が続いておりました。
そして、この全てがハルハ河西岸のソ連軍火砲の射程内だったため、陣地構築は非常な困難をともないました。

7月1日から26日まで、つまり、日本軍の攻勢開始から終結までの損害は約五千人。
参加兵力の三分の一を失いました。

そして8月を迎えます。

その19へ


現在「海」祭り開催中です。
会場はリンク先から行けますので、どうぞ足を運んで下さいませ。
今日からは一般の方々のご参加も受付中です。
ぜひぜひ皆様の作品をお寄せ下さいませ。
お待ちしております。

それではまた。
  1. 2007/10/01(月) 20:04:44|
  2. ノモンハン事件
  3. | トラックバック:0
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ノモンハン17

日本軍の夜襲は、確かに効果を上げつつありました。
歩兵の数で劣るソ蒙軍は、日本軍の勇猛な歩兵夜襲の前にたじたじとなる場面も多かったのです。

しかし、西岸のソ連軍火砲が連日日本軍を痛撃してきます。
日本軍としてはただ撃たれっぱなしで、対処のしようがありませんでした。

関東軍司令部も、ようやくそのことに目を向け始めました。
重砲支援の下で戦うソ蒙軍に対し、日本軍は重砲がまったく無い状態で戦っているのです。
これでは攻勢が上手く行くはずが無いのは当たり前でした。

そこで関東軍司令部以下は、このノモンハンの戦場に重砲部隊を展開することを決めます。
我が重砲でもって、ハルハ河西岸のソ連軍重砲陣地を徹底的に砲撃し、もって歩兵の進撃を容易にしようというのです。
7月6日にはすでに関東軍砲兵司令官内山栄太郎少将が戦場に着任。
砲兵団長として満州各地よりかき集められることになる重砲の指揮をとることになります。

そして、現地で指揮を取っている第23師団長小松原中将は我が目を疑う命令を受け取ります。
「夜襲を中止し、占領地から撤収して夜襲開始前の陣地に後退すること」

小松原中将は憤慨します。
歩兵がせっかく命を賭して奪った敵陣地を明け渡せなどという命令に従えるはずがありません。
部下の小林兵団長も前線の各部隊長もそんな命令は聞きたくないに違いないのです。

小松原中将は重砲支援には感謝するが、砲兵は着陣次第歩兵援護に当たってもらい、夜襲攻撃は続けるべきとの意見を出しました。
しかし、関東軍司令部と内山少将はこれに反対します。

「せっかく重砲隊が布陣しても、歩兵の攻撃に恐れをなしたソ連軍砲兵が後退して新たな陣地に布陣してしまっては砲弾が届かなくなる。ここは一つ敵重砲を叩き潰すまでは歩兵の攻撃は控えられたい」
これが関東軍司令部と内山少将の結論でした。
関東軍司令部の命令とあれば従わないわけには行きません。
小松原中将は涙を飲んで各部隊に後退命令を出しました。

歩兵部隊の中でも山県大佐の第64連隊は、あと少しでハルハ河とホルステン河の分岐点、通称川又にかかるソ蒙軍の橋に手が届く位置にまで進出していたところでした。
武器弾薬も乏しくなってきて、戦死傷者も多く出してはいましたが、ソ連軍の戦車を数十両、ソ蒙軍の兵士も数多く倒し、兵士たちの士気はまさに最高潮といったところでした。
山県大佐にしてみれば、ここで砲兵支援を受けて突撃すれば、川又を抑えることができ、ソ蒙軍の退路を断つことができると思えるものだったのです。
そのような状況でしたから、後退命令はまさに冷水を浴びせかけるものでした。

山県大佐も上司の小林兵団長も関東軍司令部の命令に憤慨し、泣く泣く部隊を後退させます。
後知恵ではありますが、この後退は高くつきました。

7月14日。
日本軍各部隊は夜襲前の陣地線に後退。
戦場に一瞬の静寂が訪れます。

関東軍司令部は各地から重砲をかき集めまわります。
日本本土からも重砲が送られ、野戦重砲兵第1連隊の15センチ榴弾砲16門、独立野戦重砲兵第7連隊の10センチ加濃砲(加濃砲とはCANNON:カノン・キャノンに対する当て字で直射を主とする大砲のこと。対戦車砲もCANNONの一種)16門がノモンハンの戦場に到着します。
これに関東軍独自の穆稜(ムーリン)重砲兵連隊の15センチ加濃砲6門と、野砲兵第13連隊と独立野砲兵第1連隊が加わり、合計重砲38門軽砲44門が集結しました。
弾薬は2万8千発を用意して、まさに圧倒的火力でソ連軍重砲を撃滅しようとしたのです。

砲兵団の布陣は7月22日までかかりました。
そして、翌23日、満を持した関東軍の一大砲撃が始まったのです。

関東軍は自信満々でした。
2万8千発もの砲弾を用意し、各砲の基準数の五倍の砲弾を割り当てていたのです。
ソ連軍の重砲陣地は粉々になるはずでした。

しかし、近代戦においては2万8千発の砲弾など微々たる物でした。
日露戦争当時を基準に考えられていた各砲の基準砲弾数など、近代戦には無意味だったのです。

7月23日、24日の両日。
日本軍砲兵団は準備した2万8千発の大部分を消費しておりました。
しかし、ソ連軍の砲兵火力は一向に衰える気配を見せませんでした。

理由は単純でした。
日本軍の火砲の半数以上が、ソ連軍火砲陣地まで射程が足りなく届かなかったのです。
届く重砲は半数以下の38門。
それらは確かに必死でソ連軍火砲陣地“と思われる地域”に砲弾を送り込みました。

ですが、ソ連軍の火砲陣地はハルハ河西岸の台地上にありました。
いくら東岸の高い位置に観測所を設けても、日本軍砲兵は敵火砲陣地を視認することはできなかったのです。
視認できないものに砲弾を当てるのはまぐれ当たりを期待するしかできません。
確かにいくらかのまぐれ当たりはあったでしょうが、全体の砲火力を減殺するには無理がありすぎました。

関東軍は観測気球も使ってみますが、上空の制空権がこの頃からソ連軍側に傾き始めておりました。
関東軍の航空部隊も連日出撃してはおりましたが、パイロットの補充も交代要員もいない状況では、疲労が蓄積してやがて落とされてしまいます。
ソ連軍は初期の頃からいたパイロットを教官として、新たに送ったパイロットを訓練し前線に投入します。
ソ連と日本の後方支援能力の差がここでも顕著に現れ始めていたのでした。

そのため観測気球は満足な観測ができずに使用不能に追い込まれます。
砲兵団によるソ連軍砲兵力の撃滅は絵空事に終わりました。

その18へ


現在「海」祭り開催中です。
会場はリンク先から行けますので、どうぞ足を運んで下さいませ。
metchy様、林田相丘様の作品も掲載となりましたので、お楽しみに。

それではまた。
  1. 2007/09/24(月) 20:42:32|
  2. ノモンハン事件
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  4. | コメント:0

ノモンハン16

ハルハ河西岸に渡った部隊は、わずか半日で進退窮まってしまいました。
弾薬も食料もわずかしか持たず、水すら飲むことができない状況ではそれも無理ありません。
たった一本の訓練用の橋に全てを託すような行き当たりばったりの杜撰な計画がこの状況を生み出したのです。

前線に来ていた関東軍の辻参謀たちや、第23師団長小松原中将も遅まきながらそのことに気がついたようでした。
朝には勇躍出陣して行った部隊を、夕方には撤収させることにしたのです。
ハルハ河西岸での攻撃を中止し、東岸での攻撃に師団の全力を挙げる。
作戦はこのように変更されました。

7月3日午後4時。
西岸攻撃隊指揮官の小林少将は転進(進行方向を変えること。撤退では格好が悪いので、後ろに向かって前進するというごまかしを日本軍はよく行ないました)命令を受けました。
せっかく渡河をして西岸に進出したというのに、なすところ無く撤退というのはつらいものではありましたが、ソ蒙軍の戦車を相当数撃破したものの、弾薬が底をついた状況では仕方ありませんでした。

明けて7月4日午前0時。
ハルハ河西岸の日本軍部隊の撤収が始まります。
関東軍上層部が、敵は弱兵で戦意も低く、シベリア鉄道から離れているために大部隊は展開できないから、第23師団が行けば逃げるだろうという甘い見通しで始めた作戦だったため、わずかな食料と弾薬しか持たされずに西岸に放り込まれた兵士たちは、ついに撤収の憂き目を見ることになったのでした。

第71連隊と第72連隊が粛々と後退を始め、一番奥まで前進していた須見大佐の第26連隊がしんがりとなりました。
ソ蒙軍は日本軍の撤収行動に対し、幾度となく波状攻撃を仕掛けます。
そのたびに日本兵は断固たる反撃をして、ソ蒙軍に痛撃を与え組織だって撤退して行きました。

たった一本の橋も高射砲部隊が必死にソ連軍機の攻撃から守ります。
このおかげで、西岸攻撃隊は西岸に取り残されることなく、どうにか撤収することができました。
ソ蒙軍の執拗な攻撃を跳ね除け、最後の須見部隊が撤収したのは翌5日の朝でした。

日本軍のハルハ河西岸での攻勢はここに終結しました。
これ以後日本軍はハルハ河西岸に渡ることはありませんでした。

西岸から命からがら戻った兵たちも、安堵している間はありませんでした。
第23師団はこれ以後ハルハ河東岸での戦いに全力を挙げるのです。
各部隊には攻撃配置に着くよう命令が下りました。

戦場付近はわずかながら高低がありました。
西岸側が全体的に高く、東岸は西岸から見ると見下ろせる低地となっていました。
そのため、西岸に布陣したソ蒙軍の砲は日本軍を楽に砲撃できましたが、日本軍の方からはソ蒙軍の砲兵陣地が見えないという有様でした。

そのために、各部隊が移動を始めるとすぐにその周囲には砲弾が降りそそぎました。
各部隊は移動すらままならず、夜間に移動するしかありませんでした。

7月6日。
玉田大佐率いる戦車第4連隊を中心とする部隊に対し、ソ蒙軍の局所的反撃が行なわれました。
第4戦車連隊は周辺の部隊と協力して、よくこれを撃退したものの、11両の戦車が撃破されてしまいます。
すでに大きな損害を受けていた戦車第3連隊と合わせると、これで日本軍の戦車戦力はほぼ半減というものでした。

7月7日。
どうにかハルハ河東岸のソ蒙軍陣地に対する攻撃発起地点に布陣を終えた第23師団は、もはやこれしかないという日本軍のお家芸、夜襲による白兵戦を仕掛けることにします。

日露戦争当時となんら変わらぬ歩兵の肉薄攻撃が昭和になっても繰り返されることになったのですが、相手は日露戦争時のロシア軍ではありません。
ソ蒙軍は各所に縦深陣地を築き、各陣地が機関銃で相互支援ができるように配されています。
そういった、攻めるに難しいソ蒙軍の陣地に対して、日本軍の兵士は勇敢に攻め立てました。

血で血を洗うような近接戦闘が続き、ソ蒙軍もさすがにじりじりと後退を余儀なくされていきます。
日本軍はこの夜襲をもって、ソ蒙軍と互角以上の戦いを繰り広げるのでした。

前線の将兵が死に物狂いで上層部の不手際を取り戻そうと戦っているというのに、関東軍上層部ではまたしてもわけのわからないことが行なわれていました。

満州全土でのこれからのことを考えたとき、このノモンハンでこれ以上戦車を失ってしまうのは問題があると考えた関東軍司令部は、なんとこの激戦の最中に戦車第3連隊及び戦車第4連隊を引き上げる命令を発します。

もちろん、そんな命令は承服できないとして、戦車団の指揮官たる安岡少将は反発しますが、戦場と関東軍司令部がすったもんだした挙句、引き上げ命令こそうやむやになったものの、後方待機状態となり、以後第23師団は戦車の援護を受けられなくなりました。

7月7日から14日まで、日本軍はひとえに歩兵の粘り強い夜襲白兵戦によりじわじわとソ蒙軍を追い詰めて行きました。
ソ蒙軍も戦車と砲は日本軍より多かったものの、歩兵戦力については劣勢だったこともあり、日本軍の夜襲にはかなり手を焼いておりました。
日本軍が夜奪ったソ蒙軍の陣地を、翌日の日中に戦車と砲撃、航空支援によってソ蒙軍が取り戻す。
そんな激しい戦いが連日続きました。

日本軍の大隊長、中隊長の死傷者も続出しましたが、ソ蒙軍も7月11日にはヤコブレフ少将のような高級指揮官が戦死するほどの損害を出しておりました。
戦いは一進一退でした。

その17へ


さてさて「海」祭り開催中です。
会場はリンク先から行けますので、どうぞ足を運んで下さいませー。

それではまた。
  1. 2007/09/17(月) 20:46:10|
  2. ノモンハン事件
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ノモンハン15

明けて昭和14年(1939年)7月2日。
第23師団は、ともかくも訓練用であろうがなかろうが渡河用資材には違いないので、それを使ってハルハ河に橋を架けることにします。
そのための下準備として、ハルハ河東岸攻撃隊も西岸攻撃隊も所定の位置に着くべく移動を開始しました。

東岸攻撃隊の中核となる安岡戦車隊はエンジン音と履帯の軋みを響かせて前進。
第23師団の将兵はまさに意気揚々として攻撃位置に向かいます。

夜7時過ぎ、夜陰にまぎれて渡河を行なうため、西岸攻撃隊は渡河地点に進出します。
豪雨の中、架橋工兵たちが広い平原のため目標を見失い、迷った挙句に到着するというアクシデントはあったものの、日本軍は夜半には渡河の準備にかかりました。

一方、東岸攻撃隊は折からの豪雨に夜襲を敢行。
これは偵察機による報告がソ連軍は撤退中というものであり、すぐに追撃しなくてはならないとされたためといわれます。
たぶんに作為的な偵察報告だったのではないでしょうか。

豪雨と雷の中、戦車を中心とした東岸攻撃隊は、ソ蒙軍の第一線陣地及び第二線陣地までを突破。
奇襲を受けたソ蒙軍は攻撃正面では多大なる損害を出して後退し、第三線陣地まで迫られるほどでした。

しかし、ソ蒙軍が後退中であるというのは誤報であること、さらにはソ蒙軍の陣地が予想以上に手強く、速射砲などによる戦車の損害も侮れないことがわかります。
翌3日の西岸攻撃隊との共同攻撃は厳しいものになると予想されました。

西岸攻撃隊は藤田少佐の一個大隊を架橋援護のために折りたたみのベニヤ舟で対岸に渡します。
対岸では日本軍の渡河に驚いた外蒙騎兵との小競り合いがありましたが、外蒙騎兵は程なく後退。
日本軍は鉄舟で連隊主力を渡河させ、明け方に完成した橋で後続部隊を渡す手はずを整えます。
いよいよ両岸からの一大攻勢の準備が整いつつあるように思われました。

7月3日。
西岸攻撃のための渡河は思うほどはかばかしくありませんでした。

理由は至極単純でした。
橋が一本しか無いからです。
しかも訓練用の簡易な橋であるため、雨で増水したハルハ河の流速に耐えられず、中央がぐんと下流側に押された弓状になっていました。

そのため、日本軍の部隊は徒歩で橋を渡るしかなく、自動車化部隊であった歩兵第26連隊はトラックを降りて渡らねばなりませんでした。
野砲は馬に引かせるわけには行かず、馬を一頭一頭渡した後で人力で運ばなければなりませんでしたし、トラックは積んである物資どころか、燃料タンクの燃料まで抜かなければ渡ることはできなかったのです。

日本軍渡河の情報を得たジューコフは、直ちに反撃を命じました。
橋頭堡を確保され、東岸部隊が切り離されることを恐れたのです。
このため、ソ蒙軍は手近にある兵力を次々と西岸攻撃隊に向けて投入してきました。

すでに渡河を終えた岡本大佐の歩兵第71連隊と酒井大佐の歩兵第72連隊は、ソ蒙軍の砲兵陣地を目指して南下中でした。
その二つの連隊に、ジューコフの指示でかき集められた兵力が突入してきます。
午前中の戦闘は、とにかく日本軍を食い止めようとしたソ蒙軍が、歩兵と戦車の連携を欠いたまま戦車単独で日本軍に攻撃を仕掛けてきました。
歩兵の援護なくしての戦車単独の攻撃はソ連赤軍も戒めるところではありましたが、日本軍を食い止めるためにはやむを得ないと判断したのかもしれません。

ですが、やはりこの攻撃は無謀でした。
確かにソ蒙軍は50両以上の戦車及び装甲車をもって攻撃をしてきたのですが、来襲を知って適切に布陣した日本軍の速射砲と歩兵が反撃。
後の独ソ戦でも装甲の薄さで早々に第一線を退いたBT-5及びT-26などの戦車、BA-6などの装甲車は近距離からの砲撃と、火炎瓶を持った日本兵の肉薄攻撃の前に次々と撃破されました。
ガソリンエンジン搭載のソ連軍車両は、火炎瓶攻撃には意外なほどもろく、戦場には炎上するソ連軍戦車があちこちに骸を晒すことになったのです。

しかし、このソ蒙軍の攻撃により、日本軍は前進を阻まれました。
途切れなく投入される戦車に、各所で陣を敷き対戦車戦闘に忙殺されることになったからです。
確かにソ連軍の損害は大きなものでした。
この日のハルハ河西岸だけで100両以上もの戦車と装甲車を失う羽目になったのです。
ですが、日本軍の前進を止めることには成功したのでした。

一方ハルハ河東岸では、逆に日本軍の戦車隊が痛撃を受けておりました。
西岸攻撃隊と呼応するべく進撃を開始した戦車第3連隊と第4連隊でしたが、東岸に布陣したソ蒙軍の正面からの攻撃となってしまいます。
ハルハ河西岸や東岸の砲兵陣地からの砲撃により、戦車隊とともに進撃してきた歩兵たちは続々と損害を出してしまい、やむなく戦車第3連隊長吉丸大佐は、戦車単独での攻撃に切り替えました。

この戦車単独での攻撃が無謀であるのは、ソ蒙軍の戦車攻撃を見ても明らかです。
吉丸大佐率いる戦車第3連隊は、各所からの対戦車砲の砲撃と、履帯に絡まり動きを止めてしまうピアノ線鉄条網と、東岸に配置されていたソ連軍戦車の集中攻撃を受け次々と破壊されました。
吉丸大佐自身もこの攻撃により戦死してしまいます。
日本軍は突進をあきらめるほかありませんでした。

わずか半日、7月3日の午前中で関東軍司令部の描いた作戦構想は画餅と化しました。
逃げるソ蒙軍を追尾するどころか、逆襲をこらえるのが精一杯になりつつあったのです。
東岸攻撃隊の主力である戦車部隊は、第3戦車連隊がほぼ戦闘力を喪失。
戦車第4連隊はまだ健在でしたが、数の上で圧倒的に不利な状況に追い込まれてしまいました。
加えて歩兵の損害も大きく、これ以上の攻勢をとろうにも取れない状態でした。

西岸攻撃隊も状況は似たり寄ったりでした。
ソ蒙軍の戦車を多数撃破したことで士気は旺盛でしたが、食料弾薬に乏しくなってきた上、ソ蒙軍が攻撃を突入ではなく包囲しての砲撃に切り替えてきたため、各所で歩兵が砲撃で倒されていく事態になったのです。

夏の日差しが照りつける戦場はまさに灼熱地獄でした。
関東軍の将兵を悩ませたのはこのための水不足でした。
水筒の水はとっくに無くなり、補給のあても無い。
彼らは水無しで戦わねばならなかったのです。

ハルハ河にはたった一本の訓練用の橋しかありません。
しかも、それを使って物資を送ろうにも、馬もトラックも使えません。
さらにソ連空軍機がこの橋を目標として攻撃をしてきます。
西岸攻撃隊の命運はこのたった一本の脆弱な橋が握っていたのです。

その16へ


さてさて「海」祭り開催中です。
会場はリンク先から行けますので、どうぞ足を運んで下さいませー。

それではまた。
  1. 2007/09/11(火) 20:43:45|
  2. ノモンハン事件
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ノモンハン14

関東軍は楽観的に過ぎました。

日本軍が戦場に到着しつつある今、またソ蒙軍はハルハ河を超えて撤収するのではないか?
いや、すでに撤収中ではないのか?
そんな憶測すら飛び、偵察機の報告もソ連軍撤収中と伝えてくる始末。
これは事実誤認だったといわれるが、関東軍司令部の第23師団に対しての督戦だったかもしれません。

戦場に到着した第7師団よりの増援である歩兵第26連隊長である須見新一郎(すみ しんいちろう)大佐も、到着早々に第23師団の参謀長より「ご苦労様です。とにかく須見さんは出張ってくれさえすれば、金鵄勲章がもらえるように手はずをつけますよ」と言われたと言います。
戦場全体にソ蒙軍を見下している気配が漂っていたのでした。

第23師団の作戦は以下の通り。
第23師団のうちから歩兵第71連隊及び第72連隊、それに第7師団より派出された第26連隊を中心とした兵力に、師団捜索隊と野砲兵第13連隊が加わったものを小林少将が率いてハルハ河を渡河。
西岸に布陣するソ蒙軍の砲兵陣地を撃滅して、西岸側からハルハ河東岸に布陣したソ蒙軍の退路を断たせます。
一方、戦車第3連隊及び戦車第4連隊を中心に、歩兵第64連隊及び野砲兵第2大隊が支援する東岸攻撃隊が、ハルハ河東岸に布陣する越境ソ蒙軍を攻撃、追い立てられたソ蒙軍を追撃しつつハルハ河とホルステン河の合流点川又に追い込んで、そこで西岸攻撃隊と挟み撃ちにして撃滅するというものでした。

これは、先ごろ関東軍司令部が立てた作戦をそのままなぞったものであり、違うといえば、最初西岸に渡る予定だった第7師団が来なくなったため、西岸に渡河する部隊も第23師団の歩兵部隊ということになったぐらいでした。

第23師団は、本来はハルハ河西岸に対する攻撃には、戦車を中心とした攻撃力の大きい戦車連隊を使うつもりでした。
関東軍もそのつもりでしたし、そのためにわざわざ関東軍の虎の子の安岡(やすおか)中将指揮下の第一戦車団から安岡中将直卒で戦車第3連隊と第4連隊がこの場に駆けつけたのです。

しかし、戦車第3連隊も第4連隊もハルハ河西岸への渡河攻撃部隊には配属されませんでした。
渡河するための橋が問題だったのです。

河に橋を架けたりするのは工兵隊の役割でした。
工兵とは陣地構築をしたり、地雷を埋設や除去したり、橋を架けたり妨害物を爆破したりする重要な兵士たちです。
このノモンハンの戦場にも、連隊長斉藤(さいとう)中佐率いる工兵第23連隊がやってきておりました。
彼らはこのハルハ河を渡河するための橋を架ける任務を言い渡されたのです。

ところが、工兵第23連隊には軍用架橋のための資材がありませんでした。
支那事変に物資を取られていた関東軍には、架橋用資材すら払底していたのです。

そのため、斉藤中佐がどうにか手配できていた訓練用の架橋資材で橋を架けることになりました。
訓練用ですから、重量物を渡せるようなものではありません。
戦車など渡れるはずが無かったのです。

やむを得ず、西岸へは歩兵が渡ることになりました。
戦車は東岸攻撃に回されました。
これは作戦などと呼べるものではありません。
行き当たりばったりの軍事行動でした。

昭和14年(1939年)7月1日。
第23師団は行動を開始します。
長距離の行軍を経てきた兵士たちでしたが、士気は一様に高く、味方の多さと戦車の頼もしさに必勝の思いがみなぎっていました。

夜半からの行軍は日が高くなっても続き、シャクジン湖という湖の付近で最初の会敵がありました。
日本軍の行動開始に対処するべく、ソ蒙軍側も慌てて戦車十数両を中心とする戦力を振り向けてきたのです。
ですが、この戦闘は日本側の速射砲などがソ連側戦車を数両撃破して追い払い、近くにあるフイ高地(721高地)を確保。
初日の戦闘は終わりを告げました。

その15へ
  1. 2007/09/07(金) 19:58:36|
  2. ノモンハン事件
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(まいかた まさと)と読みます。
北海道に住む悪堕ち大好き親父です。
このブログは、私の好きなゲームやマンガなどの趣味や洗脳・改造・悪堕ちなどの自作SSの発表の場となっております。
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