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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

アメリカ南北戦争概略その40(最終回)

リー将軍の降伏は、南部諸州同盟の最後の足掻きも終わったことを意味しておりました。
ここに至って、残存の南軍各部隊も抵抗は無意味だと悟ったのです。
リーの降伏が情報として伝わるにつれ、南軍の各部隊は銃を置くようになりました。
ジョゼフ・ジョンストンの南軍部隊も、4月14日、追撃してきていたシャーマン将軍の北軍に対し、休戦を持ちかけました。

まさにこの時、歴史は痛烈な皮肉を合衆国に送ります。

リー将軍の降伏からわずか5日後の4月14日。
婦人や友人をともなってフォード劇場へ観劇に出かけた北部連邦大統領エイブラハム・リンカーンは、22時13分(23時17分説あり)、南部を信奉する俳優ジョン・ウィルクス・ブースの放った銃弾に倒れるのです。

リンカーンは翌朝に死亡。
合衆国憲法の規定に基づき、副大統領アンドルー・ジョンソンが大統領に昇格。
戦後は彼が合衆国をまとめることになりました。

歴史にイフは禁物ですが、もしこの事件が一年前であったら、南北戦争の行方は変わっていたかもしれません。
南北戦争は最後には大統領までも生贄に欲したのでした。

4月24日、デイビス南部諸州同盟大統領の下での最後の閣議がシャーロットで行なわれます。
4月26日、休戦状態だったジョンストンの南軍は、正式に北軍シャーマン隊に降伏。
5月9日には西部方面で粘っていたフォレスト将軍の部隊も降伏しました。
5月10日、ジェファーソン・デイビス南部諸州同盟大統領身柄拘束。
南部諸州同盟は終わりを告げました。

5月26日、南軍の最後の部隊(艦艇はこの後もまだ洋上にあるものあり)が北軍に降伏。
ここに4年の歳月に渡って戦われたアメリカ南北戦争(Civil War)は終わりを告げました。


この戦争の被害は未曾有のものでした。
北軍の戦死者約三十六万人。(戦病死含む)
南軍の戦死者約二十四万人。(同上)
合計約六十万人が命を落としました。

第二次世界大戦時の合衆国軍の戦死者数が約五万五千人ですから、被害の大きさがうかがい知れます。

死者ばかりではなく、国土も荒廃しました。
特にシャーマンの焦土戦術に晒された地域はしばらくの間復興ができないほどでした。
その間に合衆国の開発力は西部へ向けられ、南部は後発の遅れた地域となってしまうのです。

南部諸州は相次いで連邦脱退を撤回。
奴隷制廃止も決定し、1867年のテネシーを筆頭に1870年までに全ての州が連邦へと復帰しました。

しかし、奴隷制が廃止されたとはいえ、南部では黒人に対する差別感は根強く、近年に至るも完全には解消されません。
北部も南部再建よりも西部開発に重点が置かれたことで、南部の黒人差別は重要視されませんでした。

そして、華やかなる西部開拓史時代が到来するにつれ、南部は見捨てられアメリカの暗部とまで考えられるようになるのです。
西部劇の世界の始まりでした。

アメリカ南北戦争概略  終


参考文献
「南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記」 クレイグ・L・シモンズ(友清理士訳) 学研M文庫
「歴史群像1996年8月号 南北戦争特集」 学研
「歴史群像2000年秋・冬号 ハンプトンローズの戦い」 学研
「歴史群像2001年10月号 ゲティスバーグ会戦」 学研
「歴史群像2003年12月号 ニューオーリンズ攻略戦」 学研
「歴史群像2004年8月号 決戦 グラントvsリー」 学研
「歴史群像2005年10月号 アンティータムの戦い」 学研
「歴史群像2006年6月号 ブルラン1861」 学研
「世界の艦船 増刊第49集 アメリカ海軍昔と今(新版)」 海人社
「シミュレーションゲームマガジン タクテクス12号」 ホビージャパン社
「シミュレーションゲームマガジン タクテクス13号」 ホビージャパン社
「ゲームジャーナルVOL59 南北戦争」 同人誌
「コマンドマガジン日本版29集」 国際通信社
「コマンドマガジン日本版59集」 国際通信社

参考サイト(いずれも日本のです)
南北戦争研究室
アメリカ南北戦争
YSGA編集版アメリカ南北戦争日報
Wikipedia 南北戦争他

この場を借りまして、皆様に感謝を捧げます。
ありがとうございました。


足掛け四ヶ月の長きに渡りました「アメリカ南北戦争概略」もこれにて終了となりました。
最後まで拙い文章にお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。

意図していなかったことですが、40回という区切りのいい回数で終わることができ、何か嬉しいものがありますね。
自分なりに南北戦争を最初からまとめてみようと思い立ったのが初めでしたが、どうにか最後までまとめることができました。
もっとも、資料本の簡略な写しであることはまぎれも無い事実ですので、もし、この連載を見て南北戦争に興味を持たれました方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ直接資料本に当たってみてください。

日本ではなじみの無い戦争ですが、戦争の愚かしさ空しさ、さらには人間くささやユーモラスさなど、およそ戦争に関する全てがあると言って過言では無いと思います。
皆様にほんのちょっとでもその雰囲気が伝われば、執筆者としてこれほど嬉しいことはありません。

あらためまして、皆様お付き合いありがとうございました。m(__)m
  1. 2007/06/11(月) 20:42:55|
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アメリカ南北戦争概略その39

1865年3月25日。
南軍の絶望的な攻撃が始まりました。
ジョン・B・ゴードン率いる南軍部隊は、北軍の左翼を弱体化させることと、さらには北軍兵力の左翼への誘引を目的としてピータースバーグの東側にある北軍のステッドマン砦に攻撃を仕掛けます。

ゴードンの指揮の下、勇猛な南軍兵士は物資不足をものともせずに北軍に猛攻を仕掛けます。
夜明けに始まった攻撃は北軍に対して完全な奇襲となり、北軍は大混乱のうちにステッドマン砦を失いました。
しかし、数の優位を北軍が生かせるようになってくると、北軍は立ち直ります。

南軍は幾度となく北軍の反撃を跳ね返しましたが、やはり多勢に無勢。
ついに砦周辺から追い散らされ、攻勢発起点である前哨陣地まで押し戻されました。
さらに北軍は南軍の右翼にも攻撃を仕掛けます。
右翼を守備していたのはA・P・ヒルでしたが、彼の手元からは北軍への攻撃のためにゴードン隊へ兵力が引き抜かれており、通常よりも四個旅団が少ない状態でした。

塹壕に篭もって北軍を迎え撃った南軍A・P・ヒル隊は北軍に多大なる損害を与えます。
しかし、兵力の少なさは如何ともしがたく、ついに塹壕線は突破され、千ほどの捕虜を出して後退しました。
結局南軍の攻撃は押しもどされ、南軍は約三千の兵力を失いました。
南軍の総兵力は約三万まで落ち込みます。

一方北軍も約四千の兵力を失いましたが、シェナンドー峡谷でアーリーを蹴散らしたシェリダンがグラントと合流したことで損害は埋め合わせされます。
グラントはついに十二万を上回る兵力でピータースバーグとリッチモンドを包囲することになるのでした。

リーがもはや打つ手を失っていると考えたグラントは、シェリダンとウォーレンに南軍右翼を攻撃させます。
南軍は必死に防戦しますが、1865年4月1日、ファイブ・フォークスの戦いにおいてついに南軍右翼の防衛線は崩れました。

翌4月2日。
グラントは全軍に攻撃を命令。
北軍は全線にかけて攻撃に入り、南軍防御陣はついに各所で寸断されます。
さらに北軍の攻撃に対処するため、前線で兵士を指揮していた南軍のA・P・ヒル将軍が戦死。
リーにはもはやなすすべがなくなりました。

その夜、南部諸州同盟大統領ジェファーソン・デイビスはリーより電文を受け取りました。
そこにはリッチモンド及びピータースバーグを放棄する旨が記されていました。
リーは首都の防衛をあきらめたのでした。

デイビス大統領はすぐさまリッチモンドを脱出。
臨時首都としてダンヴィルを指定。
ダンヴィル行きの列車に乗り込みます。

4月2日夜から4月3日にかけ、南軍はリッチモンド及びピータースバーグの防御陣地より粛々と後退を始めました。
リッチモンドの街は南軍兵士が放った火によって紅蓮の炎に包まれます。
この炎によって、まるで第二次世界大戦の無差別爆撃を受けたかのような廃墟となったリッチモンドの写真が、今に伝わっています。

リーはジョゼフ・ジョンストンの残存兵力と合流すべく、西方のリンチバーグという街へ向かいました。
しかし、4月5日、リンチバーグへの道のりの途中に北軍シェリダン隊が先回りしていることを知ります。
進路を変えてやり過ごそうとしましたが、北軍の追撃は急であり、リーは追撃する北軍を一度反撃しないとならなくなります。

4月6日、セーラー川において二万ほどにまで減った南軍は北軍に対して布陣しました。
しかし、武器弾薬が底をつき食料も無い南軍兵士たちは、士気こそ高かったものの、北軍の一撃に耐えることはできませんでした。
エーウェルの軍団はこの時点で約四千ほどにまで減っていましたが、北軍の攻撃を支えきれずついに降伏。
アンダーソン隊も約二千の捕虜を出して崩壊します。
リーは残存の南軍をどうにかまとめ、セーラー川を離れました。

4月9日。
約一万数千の南軍はアポマトックス川近くのアポマトックス・コートハウス(裁判所)という村にたどり着きます。
しかし、ここにもすでに北軍が布陣しており、リーの行く手をふさいでいました。
ジョンストンとの合流を図るリーは、ここを突破するしかありません。
残存南軍は北軍に対して攻撃を仕掛けましたが、北軍が時間とともに増強されていくのを見てリーは絶望感のみが募ります。

もはやこれまでと悟ったリーは、ついに北軍に降伏することを決意。
まだ戦えるという部下に対し、以後連邦政府並びその将兵に対し銃口を向けてはならないと命じ、自身はグラントに対して降伏のための交渉に出向くことにします。

アポマトックス・コートハウスにあるウィルマー・マクリーンの私邸がリーとグラントとの会見場所に選ばれました。
マクリーン本人は自宅ではなく空き家を使って欲しかったそうですが、会見には不適当ということで拒否され、彼の自宅が使われました。

マクリーンは、以前ヴァージニア北部ブルラン川の近くに住んでいましたが、1861年の第一次ブルランの戦い、1862年の第二次ブルランの戦いが自宅すぐそばで起きたので、この静かな村に引っ越してきたのでした。
ここでまた戦争に関わることになるとは思いもしなかったでしょう。

午後一時、礼装用の軍服を着込んだリーがまず到着します。
そして、午後一時半頃、同じように身支度を整えたグラントが現れ、リーが席から立ち上がって出迎えました。
ロバート・エドワード・リーと、ユリシーズ・シンプソン・グラントとの歴史的な会見でした。
二人はがっちりと握手を交わし、すぐに降伏の交渉に入りました。

グラントの出した条件は比較的緩やかと言ってもいいものでした。
南軍兵士の武器の放棄、そして今後軍務に付かないという宣誓をするというものでした。
「馬はどうなりますか?」
リーが条件を記した文書を確認してそう尋ねます。
馬は騎兵、砲兵ともに重要な動物なので、当然保有が認められるはずは無いのです。
しかし、グラントはこう言ったと言われます。
「南部の農民は両軍の戦闘に巻き込まれて疲弊しています。どうかあなたがたの馬を使って彼らの農耕を助けてあげてください」
そしてすぐに南軍兵士たちに食料を振舞うように命じます。
リーは涙を流して感謝しました。

ここにいたり、リー配下の南軍残存部隊は銃を置きました。
南軍主力が降伏した瞬間でした。

その40へ
  1. 2007/06/07(木) 20:49:21|
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アメリカ南北戦争概略その38

ピータースバーグの包囲戦は、まさに第一次世界大戦の前哨戦と言っても過言ではありませんでした。
北軍はその豊富な国力を背景にさまざまの新兵器や新戦術を投入します。

今日にもいろいろな写真が残っていますが、鉄道の線路上に台車を置き、その上に大口径砲を搭載するいわゆる列車砲の走りもこの時に使われています。
補給は鉄道によってまかなわれ、河川には蒸気船が遡行して補給線の一端を担います。
上空には気球が浮かび、塹壕線への砲撃の着弾観測を行ないます。
大きな電池を積んだ馬車を従えた電信機材が前線の様子を瞬時にワシントンに伝え、ワシントンからの指示もすぐに前線に伝わります。
近代戦がすでに始まっていたのでした。

1864年7月、グラントは南軍の防御陣地の一部に対してある作戦に出ました。
炭坑夫などを使い、南軍の塹壕を地下から吹き飛ばすことにしたのです。
この作戦は、南軍の陣地を吹き飛ばすというところまでは成功しました。
なんと、十五メートルのトンネルを掘り、四トンもの火薬を地下に設置した北軍は、南軍の一個連隊を塹壕もろとも吹き飛ばし、防御陣の一角に巨大な穴をうがったのです。

しかし、北軍はその好機を生かすことができませんでした。
北軍はあろうことかその大穴に向かって突撃してしまい、右往左往する羽目になったのです。
衝撃から立ち直るまでに時間がかかったとはいえ、南軍は砲撃や射撃を北軍に集中。
どうにか防御線を立て直すことに成功します。
それどころか、南軍は逆襲にまで転じ、北軍は大損害を受けて後退しました。
北軍の損害は約四千。
一方南軍は千二百ほどでした。

グラントは突入の指揮を取ったバーンサイドを即座に解任。
バーク将軍に指揮を引き継がせました。

結局さしたる戦果を得ることも、陣地を突破することも叶わなかった北軍は、再度長期の包囲戦に移ります。

8月。
グラントはウォーレンとハンコックの部隊にピータースバーグ南方のウェルドン鉄道を押さえるために送り出します。
南軍もそれを迎撃し、グローブターヴェン(グローブ酒場)の戦いが発生。(8月18日)
北軍は鉄道の一部を確保したものの、補給線を寸断することはできず、ピータースバーグへの補給路は開かれたままでした。

9月及び10月には、グラントはまたもピータースバーグ南部の南軍に対して攻撃を開始。
ピーブルズ農場の戦いやポプラースプリングス教会の戦い、そしてボイドトン・ブランクロードの戦いなどのいくつかの戦いが行なわれましたが、いずれも南軍が北軍に自軍の損害の倍近くの損害を与えて撃退。

11月に入ると、冬が近くなったために双方とも自然と大規模な行軍も戦闘もなくなり、ある種の自然発生的休戦状態となります。

リンカーンが再選し、戦争がさらに続くことがわかると、リッチモンド及びピータースバーグの南軍にとって、冬はつらく厳しいものとなりました。
鉄道を使い巨大な兵站能力を駆使して、前線の兵士に対しても潤沢に食料物資が届けられる北軍に対し、南軍は兵士も住民もか細くなる一方の補給路に依存して、窮乏生活を余儀なくされていたのです。

食料や物資の徴発に出た南軍部隊が、いくらかの物資や食料を持ち帰ることもありましたが、そのようなものは焼け石に水であり、南軍兵士たちは飢え死にか戦死かを選ばなくてはならないほどの状況になってきていたのでした。

年が明け、1865年。
すでにサヴァンナは陥落し、1月にはフィッシャー砦が陥落。
2月に入ると、コロンビア、チャールストン、ウィルミントンと相次いで陥落した南部諸州同盟は、もはや最後の時を迎えます。

リーはここに至ってピータースバーグを脱出し、ジョンストンの軍勢と合流するという賭けに出ました。
このまま包囲下にいてもいずれは崩壊してしまいます。
それならば、最後に賭けに出るべきだと考えたのでした。

その39へ
  1. 2007/06/03(日) 20:27:21|
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アメリカ南北戦争概略その37

前年の1864年6月、グラントはリー率いる南軍とピータースバーグ近郊でにらみ合いの長期戦に入りました。
二倍以上の兵力を持つとはいえ、塹壕などの防御陣地に篭もる南軍を相手にするには、やはり少ないということをグラントは肌で感じていましたし、何よりリーをこのピータースバーグに追い詰めるにあたって、すでにグラントは七万以上の兵員を損失していました。
そのため、グラントといえども強攻策は取りづらかったのです。

一方リーの側も、大兵力を持って待ち構える北軍相手に攻撃に出ることはできません。
できるだけ兵力の損失を抑えつつ、北軍に出血を強要していかなくてはならないのです。
南軍の塹壕線はリッチモンドからピータースバーグまで伸び、約五十キロもの長さに及びました。
まるで第一次世界大戦が五十年早く始まったようなものだったのです。

リーはグラントの兵力をどうにかして減らさなければなりませんでした。
リッチモンドとピータースバーグを守るには、どこかで攻勢に出て、北軍兵力を引き付けるしかありません。
リーはデュバル・アーリーに託しました。

1862年にあのストーンウォールジャクソンが暴れまわった場所、シェナンドー峡谷。
そこに再び南軍は兵力を送り込みました。
約九千の兵を率いたアーリーは、北軍を翻弄するべくシェナンドー峡谷に入ります。
北軍のハンター少将は、約一万八千の兵力を持っていましたが、アーリーの軍勢を阻止するのに失敗。
ウエストバージニア州へ行ってしまいました。

途中増援を得て一万五千ほどに増えたアーリーの軍勢は、ウィンチェスターという町で二方向に別れます。
一隊はマーティンズバーグへ北上し、もう一隊はハーパーズフェリーへ向かいました。
ハーパーズフェリー近郊には北軍のジーゲル隊がいましたが、約五千と寡兵な上、ジーゲル本人にもあえて立ち向かうという考えがなかったのか、ジーゲル隊は後退します。

ハーパーズフェリーで北軍の物資を奪った南軍は、飢えを満たし、服や靴を手に入れてさらに進みます。
周辺地域から、放火や略奪に遭いたくなければ金を出せとして金品を巻き上げつつ、アーリーは再び軍勢を合流させてフレデリックという町に近づきました。

その頃にはこのアーリーの南軍の行動がワシントンを刺激して、グラントにアーリー討伐の指示が下っていました。
グラントはやむを得ず7月6日に五千の師団を、7月9日にはスミス少将の一個軍団をアーリー討伐のために差し向けます。
リーの思惑は見事に達成されたのでした。

フレデリックを略奪したアーリーの次の目標は、北部連邦の首都ワシントンでした。
わずか一万五千ほどの兵力とはいえ、北軍主力がピータースバーグの包囲についている今、ワシントンは手薄な状態でした。

ハンターもジーゲルもいない今、アーリーの軍勢を阻止しえる位置にいたのは、ルー・ウォレス少将の小さな軍勢だけでした。
総数はわずかに二千。
しかし、後に『ベン・ハー』を書くことになるウォレスは、勇敢にもアーリーに立ち向かいました。

モノカシー川沿岸に布陣したウォレスの下に、タイミングよくグラントの送った一個師団五千が到着し、ウォレスは七千の兵でアーリーを迎え撃ちます。
このモノカシー川の戦いは結果的には北軍の敗北で、約二千の損害を出してしまいます。
しかし、このおかげで、スミスの軍勢がワシントンの防備に付く時間が稼げました。

1864年7月11日、ついにアーリーはワシントン郊外に到達します。
首都を防衛するスティーブンス砦に対して攻撃を仕掛けてみたアーリーは、やはり首都の守りが硬く、彼の軍勢だけでは到底突破は不可能であると理解しました。
しかも、その間にもスミスの軍勢がワシントンに集結し、今にも攻撃に出てこようかという状態でした。

翌12日、スミスの軍勢に夜襲を受けて大幅に後退したアーリーは、撤退を決意します。
シェナンドー峡谷で暴れまくり、北軍を翻弄して一個軍団と一個師団をグラントの下から引き離したのです。
これ以上は無いと言っていいほどの大成功でした。

しかし、アーリーが引き付けた一個軍団ちょっとの戦力程度では、ピータースバーグの包囲網にはほとんど効果がありませんでした。
グラントはまったく動じませんでしたし、シャーマンの進軍にも影響は出ませんでした。

この後グラントはフィリップ・シェリダン少将に命じ、アーリーを完全に駆逐することにします。
9月19日、約四万八千もの軍勢を率いたシェリダンは、アーリーの軍勢とウィンチェスター近郊のオピーコン川で激突。
このオピーコン川の戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)でアーリーは約四千の損害を受けて後退。
勝った北軍も約五千の損害でしたが、アーリーを駆逐することに成功しました。

アーリーの率いる南軍はその後も粘り強く北軍を相手にし続けましたが、冬を迎え、食料の蓄えの無い南軍はついに崩壊。
翌1865年3月3日。
ウェインズボロの戦いでシェリダンの攻撃にわずか千二百にまで減っていたアーリーの率いる南軍は壊滅します。
シェナンドー峡谷での南軍の行動も終わりました。

その38へ


PS
ガンダムSSもこちらのブログに移設中です。
FC2ブログの一日の最大投下記事数の関係で、今日中には無理ですが、明日あたりには全て移設できると思いますので、よければまたごらん下さいませ。
  1. 2007/05/28(月) 20:56:31|
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アメリカ南北戦争概略その36

フッド追撃を麾下のジョージ・H・トマスとジョン・M・スコフィールドに任せ、その二人がフッドと対峙していた頃、シャーマンはアトランタでこれからの行動について思案していました。

彼は南部諸州同盟の息の根を止めるため、南部の後背地域へ侵攻し、海へ突き抜けて南部をさらに分断するつもりでした。
今までは、軍事的失敗を嫌うワシントンの政治的理由から、そういった行動にでることを戒められてきたシャーマンでしたが、アトランタ陥落と、それにともなう大統領選挙でのリンカーンの再選によって政治的危険度が低下したことで、シャーマンは行動をある程度自由にすることができるようになりました。

1864年11月15日。
シャーマンは麾下の軍勢六万二千を二隊に再編成し、一隊をヘンリー・W・スローカム少将、もう一隊をオリバー・O・ハワード少将にゆだね、アトランタを出発します。
有名な「海への進軍」の開始でした。

シャーマンは以前も述べたとおり、戦争を支えるものを全て破壊するという考えであり、さらにフッド指揮下の南軍の跳梁で補給線が脅かされてもよいように、麾下の軍勢に対しては「現地調達は自由である」という命令を出していました。
この命令により、北軍兵士たちはまだ手付かずであった南部諸州同盟の後背地区の全てのものを「現地調達」する自由を得たのです。

すでに南軍の主な兵力は根こそぎフッドの軍勢に合流していたため、シャーマン率いる北軍の前には(住民がいないという意味ではなく、抵抗する軍勢がいないという意味での)無人の野が広がっておりました。
そのため各部隊は広範囲に散開し、手当たり次第に食料、財産、時には婦女子も「現地調達」していったのです。
文字通りそれは略奪の嵐でした。
シャーマンの進撃路にあたったジョージア州の人々は、今でもシャーマンを嫌っていますし、第二次大戦中陸軍在籍の戦車兵の中には、M4戦車(俗にシャーマン戦車と呼ばれている)に搭乗することを拒否する南部出身兵もいたと言います。

11月22日、ジョージア州の民兵が北軍の後衛を襲撃します。
それは郷土愛に満ちた少年と老人の集団で、戦意は高かったものの、素人の集団でした。
三度の突撃のあと、彼らは追い払われましたが、かなりの損害を出したのはいうまでもありません。
そして、この小さな戦いが、シャーマンの北軍にとって大西洋岸の都市サヴァンナに至るまでに起こった唯一の戦闘だったのです。

12月2日。
北軍はサヴァンナに到達。
サヴァンナにはハーディー率いる南軍兵士一万五千ほどが悲壮な決意で防御していました。
このまま戦ったのでは損害も多いと考えたのと、大西洋岸を掌握する北部連邦海軍との連絡線を確保するために、シャーマンはまずサヴァンナ近郊にある海岸の砦マカリスター砦を攻略します。

攻略そのものはさしたる反撃も受けず成功し、これによってシャーマンは再度サヴァンナに向かって、今度こそはハーディー率いる南軍と対決するつもりでした。
しかし、マカリスター砦の陥落により、海側をも北軍海軍によって封鎖されることになったサヴァンナは、立て篭もっても補給を切られて自滅するだけと悟ったハーディーはサヴァンナを放棄。
12月21日、シャーマンはサヴァンナに入城しました。

年末の12月23日からは、南部に残った貿易港の一つウィルミントン港の防衛を担うフィッシャー砦に対する攻撃も始まります。
海軍のポーター提督と陸軍のバトラー将軍の共同作戦でしたが、バトラー将軍のあまりの手際の悪さに怒ったポーターがワシントンに事態を報告。
再選によって司令官人事に気を使わなくてもよいリンカーンは、即座にバトラーを解任してアルフレッド・テリー准将に後事を託します。
テリー准将とポーター提督の陸海共同攻撃は翌年1865年1月13日から15日にかけて行なわれ、一千三百の損害をこうむったものの、砦自体は陥落。
これによってウィルミントン港も北軍の封鎖が完成し、か細い一本の糸であった南軍の海外からの補給も断たれることになりました。
(ウィルミントン自体は1865年2月22日陥落)

南部諸州同盟議会は最後の一縷の望みをかけてある決断を下します。
1865年1月16日、南軍全軍の総司令官にロバート・E・リーを任命することが議決されます。
(任命自体は2月3日)
何も手を打つことのできないデイビス大統領に対するあてつけですらありました。

サヴァンナを出発したシャーマンは、次の目標を港町チャールストンとサウスカロライナ州の州都コロンビアに決定します。
サヴァンナへ向かったときと同じように、全軍を二隊に分けてそれぞれチャールストンとコロンビアに向け、もしも南軍が各個撃破に出てきたとしても、すぐに連携できるようにしたうえでの進撃でした。

南軍はナッシュビルで壊滅したフッド軍勢の残余などをかき集め、それをP・G・T・ボーリガールに預けましたが、サヴァンナより撤退したハーディーの軍勢を加えても、その数は二万に届かないぐらいでした。

1月15日にチャールストン港沖合いで北軍軍艦バタプスコが蝕雷して沈没するようなことがあったものの、シャーマンの進軍はとどまることを知らず、天候などの悪条件をものともせずに2月17日、コロンビアを陥落させます。
ボーリガールはシャーマンの進軍に翻弄され、コロンビアを放棄せざるを得なかったようでした。
コロンビアは事故とも放火とも言われる火災に見舞われ、全市が灰燼に帰してしまいます。
これもまた、戦争の災禍でした。

コロンビアとチャールストンの陥落によって、南部諸州同盟の命運は尽きました。
後はどう収拾をつけるかだけとなりました。

その37へ
  1. 2007/05/23(水) 20:33:21|
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アメリカ南北戦争概略その35

戦場での南北両軍の戦いとは別に、シャーマンはアトランタそのものに対しても砲撃を命じていました。
軍隊を維持し、物資や人的資源を供給する都市は、戦争遂行上破壊しなくてはならない軍事目標と考えられるようになったのです。
これは戦争というものが、前線と後方との区別がつかなくなってきた事例の一つでした。
これまでの戦争は軍隊そのものが標的でしたが、軍隊を構成するものを支える全てのもの、人的物的資源やそれを運ぶ道路や鉄道、生産する工場や食料そのものとそれらを支える経済活動自体、といったものが標的となったのです。

戦争を勝利に導くためには、そういった戦争を行なうために使われる全てのものを破壊する。
それもやむを得ないことだと考えられるようになったのです。

8月中旬から9月1日のフッドのアトランタ放棄まで、ほぼ毎日アトランタ市外には北軍の砲弾が降りそそぎました。
小説「風とともに去りぬ」では文章で、後に映画化された際には映像でそのときのアトランタの様子が描かれています。
アトランタ市民の損害もかなりの数に上ったと思われます。
アトランタはほぼ都市としての機能を喪失したのでした。

アトランタを放棄せざるを得なかったフッドでしたが、まだまだ闘志は衰えていませんでした。
すでに三万五千に減ってしまった麾下の軍勢でしたが、正面切っての決戦でなければ、まだまだ勝機はあると考えたのです。

フッドは今度は自分がシャーマンの後背に回り込み、補給線を脅かすことでシャーマンの進軍を停止させようとしました。
アトランタ陥落後の状況視察に出向いたデイビス大統領もこれを承認。
フッドは麾下の軍勢を率いて北上を開始します。

フッドは鉄道を破壊し、電信線を切断しながらドルトンまで進みました。
北軍のシャーマンはフッドが後方で蠢動するのを良しとせず、当然のこと軍勢を率いてフッドを追いました。
フッドは小競り合いを少ししただけで西に逃れ、シャーマンをさらにひきつけるべく動きますが、シャーマンはフッドの目的が自軍をひきつけることにあると看破したため、トマスとスコフィールドに後を任せてアトランタに戻ります。

シャーマンを吊り上げることに失敗したフッドは、乾坤一擲の大作戦を立案しました。
テネシー州を縦断し、ケンタッキー州まで進出、リーと連絡をつなぎ北軍を撃破するというものです。
当然これは補給も何もかもを無視した無謀なものでしたが、フッドはやる気満々でした。

フッドはこの作戦を誰にも知らせずに実行し始め、アラバマ州に軍勢を進めました。
しかし、テネシー川渡河に手間取っているうちに北軍のスコフィールドとトマスの軍勢がテネシー州でフッドの軍勢を迎え撃つ準備を整えてしまいます。

折りしも1864年11月。
この月に行われた大統領選挙の結果は、アトランタ陥落など軍事上南部を追い詰めていることが評価され、リンカーンが再選します。
対抗したのはあのジョージ・B・マクレラン。
彼が大統領になることを南部の人々は期待しましたが、そうはなりませんでした。

リンカーンの再選は、南部諸州同盟の最後の希望を断ち切ったようなものでした。
南部諸州同盟にとって、戦争に勝つ見込みどころか、負けない見込みすらも失われつつあったのです。

11月26日、フッドはテネシー州のコロンビアまで到達しましたが、そこにはすでにスコフィールド麾下の北軍が陣取っていました。
フッドが強固な防御陣地への攻撃を避け、迂回する動きを見せたため、スコフィールドは後退して陣地を変更しようと考えます。
その動きを封じるべくフッドは、スプリングヒルという地点でスコフィールドの軍勢を捕捉しようとしましたが、フッド自身の不注意と意思疎通の不徹底から北軍を捕捉することはできずに取り逃がしてしまいます。
フッドは怒り、失敗を部下のせいにして当り散らしますが後の祭り。

興奮冷めやらぬフッドは、11月30日にはフランクリンという町の前面に新たに築かれたスコフィールドの北軍の防御陣地に無謀にも突撃を命じます。
下級指揮官たちは揃って反対しましたが、部下を無能なバカどもと思っているフッドは聞き入れません。
二万八千のスコフィールドに対し、フッドの軍勢は二万二千。
最初から戦力が少ない上に、防御しやすい陣地に篭もる相手に向かって突撃するのですから、勝敗は見えていました。
午後から始まって暗くなるまで続いた戦闘は、南軍が六千の損害を出して終わります。
(北軍側の損害は約三分の一と言われます)
南軍の損害は兵力もそうでしたが、特に将官級の戦死者が相次ぎました。
師団長旅団長などが十二人も失われたのです。
南軍にとっては埋め合わせることの不可能な損害でした。

フランクリンを守りきったスコフィールドは、かねてからの打ち合わせどおりに軍勢をナッシュビルへ向かわせます。
ナッシュビルで待機しているトマス将軍の軍勢と合流し、そこでフッドを迎え撃つつもりでした。

フランクリンでの敗北に衝撃を受けたフッドでしたが、北軍を放置するつもりはありませんでした。
彼は残った兵力をかき集め、約二万四千の兵力でナッシュビルへ向かいます。
彼にはある考えがありました。
合流した北軍は圧倒的な兵力になるため、きっと南軍に対して攻撃に出るに違いない。
今度はこちらが防御陣地で迎え撃ち、北軍に大量の損害を与えてやろうというものだったのです。

はたして12月2日、年の瀬も押し迫ったこの日、ナッシュビル近郊に布陣したフッド麾下の南軍兵士たちの前には、トマス以下五万四千にまで膨れ上がった北軍兵士たちが立て篭もる陣地が広がっておりました。

フッドは麾下の各軍団に塹壕を掘らせ、柵をめぐらせて防御陣地をこしらえます。
南北両軍はナッシュビルでにらみ合いになりました。
約二週間のにらみ合いのあと、攻撃を仕掛けたのは北軍でした。
二週間もだらだらと攻撃をしないトマスに痺れを切らしたワシントンの動き(解任案が出ていた)を察知したのか、トマスが猛然とフッドの陣地への攻撃を命じたのです。

12月15日、みぞれまじりの悪天候の中、北軍兵士約四万三千が攻撃に参加。
両翼からの半包囲攻撃を仕掛けます。
フッドが考えていた通り、北軍側からの攻撃となりましたが、北軍側は兵力が豊富でした。
南軍の両翼は善戦し、北軍兵士をたじろがせはしましたが、徐々に圧迫され後退を余儀なくされます。
フッドは陣を捨てるしかありませんでした。

翌16日も三キロ後退したフッドを北軍が襲います。
簡易ながらも防壁をこしらえた南軍陣地に対して、北軍はやはり圧倒的な兵力でこれを圧迫。
左右両面からの半包囲体勢を取られ、両翼が支えきれなくなった南軍はついに崩壊しました。

南軍の損害そのものは約五千ほどということでしたが、フッドはもう立ち直れませんでした。
残存兵力一万八千ほどとなった南軍は、雪の降りしきる中ミシシッピ州トゥーペルまで後退。
そこで年明けを迎えることになります。

西部方面での南軍の組織的抵抗はほぼ終了しました。

その36へ
  1. 2007/05/19(土) 19:27:02|
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アメリカ南北戦争概略その34

アトランタ前面での戦いは攻撃側の南軍によっては不本意な結果になりました。
しかし、フッドはまだまだ意気を失ったわけではありませんでした。
どのみち北軍を追い払わなければ、アトランタは遅かれ早かれ陥落の憂き目を見てしまうでしょう。

フッドは、アトランタ東面に軍を進めてきた北軍マクファーソン隊に狙いをつけました。
アトランタを囲む防御陣でマクファーソンを引き付け、その間に迂回行動した別働隊が背後に回って攻撃。
前後からの挟撃によってマクファーソン隊を壊滅に追い込むという作戦でした。

1864年7月21日、フッドの命により、ウィリアム・ハーディーは麾下の軍勢を引き連れてアトランタ南方より迂回行動の途につきます。
この行動はアトランタ市民にとっては、南軍の撤退と見え、そのためにパニックに陥った市民が避難をしようとして混乱。
ハーディー隊もその混乱に巻き込まれ、行軍を著しく妨害されるという一幕も起こりました。

迂回行動はその後も迅速さとは程遠く、結局22日の夜明けという攻撃開始時刻を大幅に上回りました。
正午近く、ようやくハーディーは麾下の部隊に攻撃を命じます。
南軍はバート、ウォーカー、クリーバーン、メーニーの各師団が横隊に展開し、北軍マクファーソン隊にぶつかりました。

北軍マクファーソン隊は、ちょうどその頃側面防備の陣地構築を終えたところでした。
もしかしたら南軍は側面に迂回攻撃をしてくるかもしれないと思っていたのでしょう。
そのためにまたしても南軍の攻撃は側面に対する奇襲ではなく、ある程度防備の整った陣地に対する強襲となってしまったのです。
南軍はあっという間に師団長の一人ウォーカーを失い、北軍も指揮を取っていたマクファーソンその人を失います。

フッドはハーディー隊の攻撃が始まったのに呼応し、アトランタからもチーザムの部隊を攻撃に参加させます。
午後3時ごろ、チーザムの軍勢はアトランタ東面の塹壕陣地より躍り出し、北軍マクファーソン隊に向かいました。
側面と正面からの強襲を受け、さらには司令官マクファーソン自身も失った北軍マクファーソン隊でしたが、戦場に到着したシャーマンの指揮と、防御陣地での防御戦ということもあり、南軍の攻撃を跳ね返します。
結局南軍はまたしても北軍以上の損害を受けて、アトランタに後退せざるを得なくなりました。

一方北軍のシャーマンも、十万の兵力を擁するとは言いながらもアトランタの周囲の南軍の塹壕陣地に強襲をかけることは、自軍戦力をすり減らすだけであると認識していました。
そのためシャーマンは古来から拠点攻略に有効な手段、敵の補給を断っての包囲戦を行なうことにします。

シャーマンはそのためにマクファーソンより指揮を引き継いだハワードの軍勢と、トマスの軍勢にアトランタ南方の鉄道線路を遮断するよう命じます。
鉄道線こそアトランタの生命線なのです。
まずは先鋒としてハワードの軍勢が移動を開始、それを知ったフッドは対応を迫られました。

フッドは配下のサミュエル・D・リーに軍勢を率いて北軍より先に街道を押さえるよう命じます。
アトランタより西方に伸びるリック・ステレット街道にはエズラ教会という教会があり、その近くの街道辻を押さえることで北軍の動きを封じることができると目論んだのです。
S・D・リーは命令を受領すると、麾下の軍勢を率いて進発しました。

ところが、エズラ教会に着いてみると、そこにはすでに北軍ハワードの一隊が街道沿いに陣地を築いてしまっておりました。
命令に忠実なリーは、この北軍を追い払い街道辻を占拠することこそ任務と思い、北軍陣地へ攻撃を仕掛けます。
南軍の攻撃は苛烈であり、また戦況を憂慮した同僚のスチュワートが援軍を率いて到着しもしましたが、やはり塹壕に篭もる北軍兵士を追い出すことはできませんでした。
結局五千の損害と負傷したスチュワートというものしか得ることの無かった南軍は、アトランタに帰還。
この一連の攻撃によりアトランタのフッドの手元には三万五千の兵士しか残らなくなってしまいました。

シャーマンはその後もアトランタ南方の鉄道線を遮断するべくハワードの軍勢をさらに南下させ、ジョーンズボロという鉄道の中継点まで近づきます。
ジョーンズボロの陥落はすなわちアトランタの陥落である以上、フッドは全力で防衛しなくてはなりません。
フッドは先日の戦闘で損害を受けたS・D・リーの軍勢を再編し、さらにハーディーの軍勢も一緒にジョーンズボロに送り出しました。

1964年8月31日。
先手を取ったのは南軍でした。
先任のハーディーがS・D・リーの軍勢も指揮下に置き、北軍ハワードの軍勢に攻撃を仕掛けたのです。
北軍は進軍途上を襲撃され、少なからぬ損害を出しましたが、後退するまでには至りませんでした。
それでも北軍の進撃は停止し、ハワードは別ルートを進軍してくるトマスの軍勢の到着を待つことにします。

翌9月1日、戦場の様相は一変します。
北軍にはトマス率いる軍勢がハワード隊と合流。
圧倒的な兵力を揃えたのに対し、南軍はあろうことかフッドの指示によりS・D・リー隊がアトランタへ戻るよう引き抜かれます。
アトランタそのものの危機を感じたのかもしれませんが、残されたハーディーの軍勢だけではジョーンズボロを守りきることは不可能でした。
北軍の攻撃の前にハーディーはついにジョーンズボロを放棄。
アトランタの運命は決まりました。

9月1日の夜、フッドはアトランタを放棄。
翌2日、シャーマン率いる北軍はついにアトランタに入城しました。
アトランタ攻防戦の終了でした。

その35へ
  1. 2007/05/14(月) 20:52:16|
  2. アメリカ南北戦争概略
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アメリカ南北戦争概略その33

ジョンストンとの一連の戦いの後、シャーマンは自軍をいったんアクワースという町に後退させました。
休養と再編成、さらに物資補給のためでした。

南軍の司令官ジョンストンは、シャーマンの後退が再編成と更なる進軍のための準備であることは当然わかっていましたので、少しでも地保を確保するためにシャーマンの北軍に向かって前進します。
そして、アクワースの南に連なる丘陵地帯に陣を敷きました。

休養と再編を終えたシャーマンは、ジョンストンの南軍と決着をつけるべく、南軍陣地の弱点を探りにかかります。
折りしも1864年6月14日、南軍陣地の中央部パイン山において南軍首脳陣により陣地の状況視察が行なわれておりました。
それを知ったシャーマンはすぐさま砲兵隊に射撃を命じました。
砲弾がパイン山に降りそそぎ、南軍のポーク中将が戦死します。
南軍はまたしても大事な指揮官を失いました。

南軍はポーク将軍を失ったあと、丘陵地帯を放棄して後退します。
結局ケネソー山まで後退したあと、ここで北軍を迎え撃つことにしたのでした。

ケネソー山の防御陣地は強固なものでした。
しかし、シャーマンは今までとは違い、この強固な陣地を正面攻撃で突破するつもりでした。
6月の雨が周辺をぬかるみにしており、迂回行動が難しかったのです。

6月27日、シャーマンは五千五百の兵に陽動攻撃を行なわせ、斜面を登らせます。
激しい銃撃が頂上付近の南軍陣地から浴びせられ、北軍の攻撃は阻まれました。
シャーマンは南軍が陽動攻撃に引き付けられたと見るや、南側で攻撃を開始します。
勇躍突撃する北軍兵士八千。
しかし、ここでも陣地攻撃は損害ばかり多く、得るものは少ないということを実証したに過ぎませんでした。
南軍は秩序だった射撃を北軍兵士に浴びせかけ、北軍は三千の損害を出して追い払われました。
南軍はポーク将軍に対する北軍の砲撃を謀殺同然と感じ、憎しみを抱いていたのです。

シャーマンは陣地攻撃をあきらめ、再び迂回することにしました。
7月に入り、道路事情が改善したのを受け、シャーマンは北軍を南下させます。
ジョンストンはまたしても何度かの陣地変更の後、シャーマンの正面に陣を敷きましたが、そこはもはやジョージア州アトランタの目前でした。

南部諸州同盟大統領ジェファーソン・デイビスは度重なるジョンストンの陣地変更とそれにともなう後退により、これ以上土地を失うのは耐え難いと考えていました。
すでに北軍は大都市アトランタまで来たのです。
アトランタが陥落するような事態はなんとしても防がねばなりませんでした。

7月17日、デイビスはついにジョンストンを解任。
ジョン・ベル・フッド将軍を司令官に任じます。
どうもデイビスは、フッドといいブラッグといいあまりいい指揮官ではない人物に惚れ込むことが多いようで、周囲の評価の良くないフッドを指揮官にしたのは、結果的に誤りだったといわれても仕方ないかもしれません。

ともかくデイビスの信任厚いフッドが指揮官となった時、北軍はアトランタの北を流れるピーチツリー川まで前衛が達していた頃でした。
ピーチツリー川を北軍が越えた時点で反撃をする。
ジョンストンが考えていたこの作戦をフッドは採用します。

フッドは配下の軍団長ハーディー、チーザム、スチュアート(騎兵指揮官のJEB・スチュアートとは別人)に攻撃作戦を指示し、7月20日の午後一時をもって戦闘開始と定めました。
しかし、シャーマンの別働隊の存在を気にしたフッドは、せっかく攻撃配置についていた軍団をずらした挙句、再配置完了の午後4時まで攻撃をできなくしてしまいました。
その時にはピーチツリー川を渡った北軍前衛のフッカーとニュートン隊は防御のための陣を築き、南軍の攻撃を待ち構えていたのです。

南軍の攻撃は激しいものでしたが、やはり防御側が有利であることは疑いありませんでした。
北軍は陣地を支えきり、ピーチツリー川に追い落とされることを防ぎました。
北軍の損害は二千。
南軍は約四千の損害を出して攻撃は頓挫します。

アトランタの運命は風前の灯でした。

その34へ
  1. 2007/05/11(金) 20:41:27|
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アメリカ南北戦争概略その32

グラントがリーとにらみ合いに転じた頃、ジョージア州北部ではグラントの信任厚いW・T・シャーマンが、西部方面の北軍を指揮下に置き、南部諸州同盟へ圧力をかけ始めておりました。

シャーマンの麾下にはトマス率いるカンバーランド軍六万、マクファーソン率いるテネシー軍三万、スコフィールド率いるオハイオ軍一万四千の合計十万に及ぶ兵力があり、西部方面の南軍を大いに凌駕しておりました。

一方シャーマンと対峙する南軍は司令官ジョゼフ・ジョンストン以下、ハーディーとフッドの歩兵計四万とホイーラーの騎兵約一万の約五万という兵力でした。
しかし、彼らには地の利と防御側であるという利点があり、ジョンストンはその点を充分に生かしてシャーマンと戦うつもりでした。

無論、南部諸州同盟大統領ジェファーソン・デイビスはジョンストンに対して攻勢をかけるように指示していましたが、ジョンストンは何やかやと自軍の不備を言い立てて、結局動こうとはしませんでした。
その彼は、ロッキー・フェース・リッジという丘に兵を布陣して、シャーマンの北軍を待ち受けます。

シャーマンは麾下の三つの軍勢のうち、トマスとスコフィールドにロッキー・フェース・リッジを威嚇させ、マクファーソンの軍を大きく迂回させて、南軍の補給拠点レサカの町を襲撃するという作戦を立てました。
レサカが危うくなれば、ジョンストンもロッキー・フェース・リッジを放棄せざるを得ず、丘の頂上に攻め寄せるという攻撃をしなくてもすむのです。

シャーマンの作戦はジョンストンを窮地に陥れるはずでした。
トマスの示威行動にロッキー・フェース・リッジの南軍は釘付けになり、レサカはマクファーソンにその無防備の正面を晒す羽目になるはずだったのです。

しかし、マクファーソンがレサカの町に到着した時、レサカの町には南軍の歩兵部隊が防備を固めているのを目にします。
そこにいたのはキャンティー准将率いる四千ほどの南軍歩兵だったのですが、南軍兵士がレサカの防備にいるとは思わなかったマクファーソンは、ロッキー・フェース・リッジでの北軍の作戦が破綻したと考えたのか、軍勢を率いて後退してしまいました。

レサカの危険を理解したジョンストンは、慌てて全軍をレサカに集結させます。
しかも、レサカにはキャンティー准将の歩兵部隊だけではなく、レオニダス・ポーク中将の約一万ほどの軍勢がやって来ていたのです。
軍人をやめ、聖職者となって主教の地位まで登りつめたポークでしたが、その後南北戦争勃発にともなって再び軍人となり、中将にまでなったのです。
その彼がミシシッピ軍全軍を引き連れて来ていたのでした。

約六万の軍勢となったレサカの南軍に対し、シャーマンは結局約十万の兵力をもって1864年5月13日に攻撃を開始しました。
しかし、5月15日までの数次にわたる攻撃は、結局両軍に決定的な状況をもたらすには至りませんでした。
双方とも投入した兵力のわりに約四千ほどの損害を出しただけに終わり、戦場では膠着が続きました。

最終的には北軍の数の有利さがモノを言います。
シャーマンが派遣した別働隊がレサカの南に回ったことを知ったジョンストンは、連絡補給線を切られることを恐れ、やむを得ずレサカを放棄。
以後、シャーマンの北軍が南軍の拠点を迂回し、南軍がそれにつれて後退するという状況が一般化することになりました。

南軍は後退を続け、ジョージア州キャスヴィルという町まで後退しました。
それに対してシャーマンはやはり軍勢を三つに分けて三方から南下し、南軍に対する分進合撃を企図します。
そこでジョンストンは北軍が分離していることを好機として、フッドの部隊を派遣し、北軍を罠に掛けようと目論みました。
しかしこの罠が閉じる前に、フッドは北軍の別働隊を発見して、包囲を受けないように後退してしまいます。
ジョンストンはがっかりして、フッド、ポークと相談し、アラトゥーナと言う地に陣を敷きます。

しかし、北軍は南軍の防御陣を迂回する方針を貫き、ダラスという村(後にケネディが暗殺されるテキサス州ダラスとは違います)へ向かうことにしました。
ジョンストンも軍勢を率いてダラスへ向かいます。

両軍はダラス近郊のニューホープ教会で激突。
遭遇戦ではありましたが、南軍は一応にわか作りの防壁をこしらえており、北軍の攻撃は跳ね返されました。
シャーマンは南軍の右翼を迂回するべくハワードの部隊を送り出しますが、ハワードの部隊も南軍に捕捉され、「ピケッツ・ミルの戦い」が生起します。

「ニューホープ教会の戦い」「ピケッツ・ミルの戦い」双方とも、にわか作りの防壁でも充分にその目的を達することができるという好例でした。
北軍は南軍に三倍の損害を二つの戦いで出すのです。
北軍は二千四百、南軍はわずかに八百でした。

ジョンストンはこの結果から学んだとは言えなかったかも知れません。
北軍を撃退したジョンストンは、この勢いを駆って北軍に対して攻勢に出たのです。
ダラス郊外での戦いでは、今度は攻撃側の南軍が約千の損害を出し、北軍は四百の損害でそれを撃退したのです。

陣地に対しての攻撃は、それが簡易なものであってもかなりの損害が出ることを、ここ西部戦線でも両軍は思い知りました。

その33へ
  1. 2007/05/08(火) 21:48:31|
  2. アメリカ南北戦争概略
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アメリカ南北戦争概略その31

両翼からの揺さぶりは水泡に帰しました。
グラントは新たなる行動を起こすことにします。

グラントは全軍をリーの軍勢の右翼を回り、後背へと向かわせます。
しかし、リーはその行動を察知し、グラントに容易に側面を迂回させようとはしません。
グラントはノース・アンナ川を渡河し、ハノーヴァーの鉄道分岐点へ向かいますが、リーはすでにハノーヴァーに防御陣を敷いておりました。

ハノーヴァー分岐点での戦闘は、北軍が当初有利に展開しているように見えました。
ハンコックとウォーレンの軍団が南軍両翼に回り込むことができそうに見え、包囲が完成すると思わせるものだったのです。

しかし、これはリーの罠でした。
両翼に回り込んだ北軍は、中央で左右に分断され、それぞれが各個撃破の目標となるのです。

ですが、そうはなりませんでした。
グラント自身が危険性を察知して両翼の展開を止めさせたのと、リー自身の健康が優れなかったためです。
リーは戦況に対応して指揮を取ることも出来なかったようで、北軍は危機を脱しました。

結局グラントはリーの陣地への攻撃を取りやめ、再び南へ向かいます。
リーとグラントは互いに牽制しあいながら、双方ともに南下しました。
数日の間、北軍と南軍は小競り合いを繰り返し、コールドハーバーという町に至ります。

リッチモンドとピーターズバーグよりどうにか増援を受け取ったリーは悩みました。
移動中の北軍に対し、先制攻撃を仕掛けたかったのです。
しかし、彼の命をあやまたずに実行する中堅指揮官がいませんでした。
南軍の人材不足がここにきて致命的になってきていたのです。
結局先制攻撃という構想をリーは放棄せざるを得ませんでした。

両軍は塹壕をこしらえてにらみ合いのまま時を過ごすことになりました。
グラントは結局更なる防御の強化がなされないうちに攻撃を仕掛けることにします。
ポトマック軍の兵士たちは覚悟を決めました。
塹壕陣地への攻撃がかなりの損害をともなうものであることを、彼らはわかっていたのです。

1864年6月3日。
北軍兵士の攻撃が始まります。
兵士たちは勇敢でしたが、残念なことに南軍の銃火の前には無力でした。
十字砲火を受けた北軍はばたばたと兵士が倒されていきます。
この突撃は八分間で終わりました。
わずか八分間の戦闘で、北軍は八千の兵を失ったのです。
これは南北戦争史上最悪の突撃でした。
ゲティスバーグの南軍ピケット隊の突撃よりも悲惨だったのです。
グラントは攻撃を中止するしかありませんでした。

グラントは再度リーと距離をとり、今度はヨークタウン半島に軍勢を差し向けます。
ピータースバーグ攻略です。

グラントはスミス少将の一万八千を先発させ、ピーターズバーグに向かわせます。
ピーターズバーグの南軍はかつてマクレランが行なった「半島作戦」の時に作られた塹壕陣地に拠って抵抗しますが、兵力の少なさはいかんともしがたいものでした。

ピーターズバーグ守備の南軍ボーリガールは増援を要請しはしましたが、増援が来るまでは少ない兵力で持ちこたえなくてはなりません。
しかし、北軍の攻撃に抗しきれず、塹壕はあちこちを北軍に寸断されてしまいます。
さらに北軍にはバーンサイド、ハンコック、ウォーレンの各軍団が到着し、総数は七万五千を越えます。
やむを得ずボーリガールはバトラーの軍勢を囲んでいた兵たちを引き揚げました。
ようやくバトラーは自由になったのです。

6月17日から18日にかけて北軍は南軍の防御線に対して攻撃を仕掛けました。
しかし、足並みが揃わないことおびただしい北軍は一部の防御線を占領したに過ぎませんでした。
南軍は防御線を後退させ、北方より駆けつけたリーとA・P・ヒルがピータースバーグ防衛に参加します。
続く19日から22日にかけて北軍は再度攻撃をかけますが、南軍の防備は固く、A・P・ヒルによって追い散らされてしまいました。
以後両軍は再び陣地線に篭もってのにらみ合いとなります。

結局このにらみ合いは翌年まで続くことになりました。
リーとグラントはがっちりと組み合ったまま、戦局の推移を他の地域にゆだねたのです。
戦いの焦点は西部に移りました。

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  1. 2007/05/05(土) 20:44:46|
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