「帝都奇譚」の最終回です。
それではどうぞ。
32、
いそいそと買い物籠を下げ、魚屋の店先から離れる美月。
店先にいる和服の中年女性たちとは明らかに一線を画する黒い西洋メイド服を身につけた美月は、通りを行く人たちの目を惹き付ける。
今ではもう慣れてしまったこの衣装だが、以前はかなり恥ずかしく感じたものだ。
だが、文明開化から50年も経っているというのに、いまだに和服でもないだろうと今では思う。
それに、スカートひらひらとはいえ、慣れると結構動きやすい。
なので、美月はこのメイド服が気に入っていた。
「早く戻らなくちゃ・・・」
藤で作られた買い物籠は、黒いメイド服とは取り合わせが妙といえば妙だったが、美月が持つとなんだか似合う。
「今日はお嬢様のお好きなお煮付け。きっと喜んでくれるだろうな。中山さんの味付けは絶品だし・・・」
調理人の腕前を思い、夕食の買い物を終え、屋敷に向かう美月だった。
「上坂さんですね?」
いきなり呼び止められる美月。
振り返ると、すらりとした長身の女性が立っている。
黒の躰に吸い付くようなワンピースに身を包み、長い黒髪を後ろで束ねてまとめている。
薄く笑みを浮かべた口元には紅を乗せ、目には黒い日よけのメガネをかけていた。
「あなたは?」
美月は少し警戒し、相手の素性を確認する。
「失礼。私は鷹司の摩耶子お嬢様にお仕えするもので、破妖月子と申します」
そう言って黒メガネを取る女性。
その目が一瞬赤く輝いたかと思うと、美月はなんだか気分が落ち着いて、彼女に従おうと思った。
「うふふ・・・摩耶子様がお待ちかねなの。一緒に来てくださるわね?」
笑みを浮かべて美月を手招きする月子。
美月は招かれるままに月子に付き従った。
カーテンで日差しを閉ざされた暗い部屋。
奥の椅子には一人の女性が腰掛けている。
美月はよくわからないままにこの部屋に連れてこられていた。
ここは鷹司家。
立派な内装は、鷹司家の華族としての家柄を示しているかのようだ。
「白妙家のメイドを連れてまいりました」
スッと一礼する月子。
椅子に座る女性に敬意を払っていることがうかがえる。
「ご苦労様」
静かで優しげな声。
椅子に座る女性が髪の毛をそっと手でかきあげる。
いまだ珍しい女学生用のセーラー服に身を包み、黒いタイツで足を覆っている。
「日差しの中を歩いてきて喉が渇いているのではなくて? いいわよ。その娘で喉を潤しなさい」
薄闇の中で笑みを浮かべるセーラー服の少女。
美月にはその少女が誰だかよくわかっていた。
彼女の主人たる桜お嬢様のご学友。
鷹司家の摩耶子お嬢様に他ならない。
だが、なぜ自分はこんなところにいるのだろう・・・
どうしてここに来てしまったのだろう・・・
美月にはその答えが出てこなかった。
「ありがとうございます。摩耶子様」
そう言って、美月の体を抱きしめる月子。
そっとキスをするように、月子の唇が美月の唇に重ねられる。
その姿に摩耶子は満足感を味わった。
あの日、意識を失った月子はもはや退魔師としての力を発揮することはできなかった。
摩耶子はおとりとなった小夜に月子を屋敷まで運ばせ、そこで月子のエキスを存分に吸い取った。
退魔師である月子のエキスは美味であり、摩耶子の力を増幅させるのには充分だった。
そして摩耶子は、月子に自分の血を飲ませ、“新たな世界に生きる者”へと変えてやったのだ。
「うふふふ・・・美味しいかしら? 月子さん」
「ああ・・・はい、美味しいです。摩耶子様」
ぐったりとなった美月から口を離し、うっとりとした表情で月子は答える。
もはや彼女に退魔師としての意識はない。
あるのは“新たな世界に生きる者”として、摩耶子に従い獲物のエキスをすすることのみ。
美月の美味しいエキスを吸い取り、月子はとても満足だった。
「その娘にはあなたの血をあげなさい。私から桜さんへのプレゼント。彼女に私からの招待状を差し上げなくてはね。うふふふ・・・」
桜のエキスを吸い、彼女もまた“新たな世界に生きる者”へと変えてやる。
小夜と久には学園のめぼしい少女たちを襲わせる。
程なくしてこの帝都は摩耶子の支配下になるだろう。
邪魔者は・・・
「ねえ、月子さん。あなたが情報交換をなさった憲兵隊の方。なんと言いましたかしら」
「入生田曹長ですか? 彼ならすでに私が・・・」
ぺろりと舌なめずりをする月子。
抱えていた美月を床に寝せ、自らの腕を切って血をたらす。
「そう・・・後は宮内省の退魔師連中かしらね」
口元にたらされた血を無意識のうちに舐める美月を見ながら、摩耶子は再び笑みを浮かべた。
「そちらもご心配なく。私のほうで始末いたします。すでにかつて一緒に修行した神薙零(かんなぎ れい)を呼び出して私の血を与えてやりましたので」
笑みを浮かべて傷口を舐める月子。
その傷がみるみるふさがり、切った痕さえわからなくなる。
「そう、そっちは任せるわ。うふふふ・・・さあ、お立ちなさい」
摩耶子は自ら席を立ち、美月のところへ歩み寄る。
目を開けて、ゆっくりと立ち上がる美月。
その目は赤く輝き、摩耶子を崇拝するかのように見つめてくる。
「さあ、お行きなさい。そして今晩にも桜さんをお連れするの。いいわね」
「はい・・・摩耶子様」
自らの主人が桜ではなくなったことを宣言するかのように美月はそう答える。
部屋を出て行く美月の後姿を見やり、今晩桜がここへ来ることを思うと心が浮き立つのを抑えられない摩耶子だった。
END
2006年の3月5日に第一回が旧ブログで掲載されて以来、約3年もの歳月をかけてしまった「帝都奇譚」ですが、ここで一応の区切りとさせていただきます。
内容についてはもういうまでもなくグダグダになってしまいました。
使えた設定使えなかった設定さまざまです。
選択肢を提示して、多かったリクエストに沿って書くという構想も上手に消化することができませんでした。
途中でこのまま未完で沈めてしまおうと思ったことも何度もありました。
ですが、やはり書き始めた以上は、何らかの形でけりをつけようと思い、こうして最後まで書き上げることができました。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
本当に皆様に感謝感謝でございます。
力及ばずいいできではなかったことは平にご容赦のほどを。
この経験を糧に力量のさらなる向上を目指します。
どうかこれからも応援のほどをよろしくお願いいたします。
長い間「帝都奇譚」にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
それでは次作でまたお会いいたしましょう。
- 2009/03/13(金) 21:16:32|
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「帝都奇譚」の31回目です。
それではどうぞ。
31、
来た!
震えていた脚がいきなり反応する。
訓練の賜物だ。
摩耶子の突き出す鋭い爪をぎりぎりのところでかわしきる。
「つっ」
頬に走る一筋の傷。
やはり躰が付いていかないのだ。
かわしたように見えてかわしきれていなかった。
月子の背後に降り立った摩耶子が、その様子を見て笑みを浮かべる。
「うふふ・・・もう限界なんじゃないですか? あの男と戦った後で私とこうして戦うなんて無茶ですよ。おとなしくしてください」
月子はすばやく振り返り摩耶子と向き合う。
頬の傷から血がにじんでいるが、彼女も笑みを浮かべていた。
再び飛び掛る摩耶子。
その突き出された腕に向かってリボンを放る。
リボンの先端が摩耶子の右腕に巻きつき、月子は摩耶子の勢いをそのままに弧を描くようにして地面に叩きつける。
「ぐうっ」
背中から叩きつけられた摩耶子が小さくうめき声を上げ、一瞬月子に複雑な思いが交差した。
その一瞬が摩耶子を立ち直らせ、彼女はすばやくリボンを解いて飛び退る。
破魔札を使うチャンスを逸したのだ。
月子はおのれの甘さを感じずにはいられない。
摩耶子の目が怒りに輝いている。
赤く染まった瞳は、人間のものではない。
直視しないようにしながらも、月子は今さらながらに背筋が凍る。
昨日まで普通の、ごく普通の少女だったのに・・・
今は完全なる魔物と化してしまっているのだ。
これこそが吸血鬼の恐るべきところ。
一つの街が滅びるのなどたやすいもの。
欧州では昔から恐れられてきた魔物なのだ。
月子はあらためてリボンを構えなおした。
ふと摩耶子の目が月子から外れる。
屋敷と外を隔てる塀に向けられたのだ。
月子はその意図をとっさに悟る。
摩耶子は屋敷の外に出るつもりだ。
それはさせるわけには行かない。
だが遅かった。
跳躍する摩耶子。
人間には不可能な距離を跳び、塀の上に着地する。
すぐさま月子も塀に向かって駆け出し、リボンを塀に投げつけて密着させ、それを引き寄せるようにして塀の上に飛び上がる。
塀の上に上がってきた月子ににやっと笑いかけると、摩耶子は塀を飛び降りる。
「くっ! 待ちなさい! あなたの相手は私でしょ!」
くわえていた破魔札を手に取り、摩耶子の気を引こうとする月子。
さっきまで逃げ出す気配など無かったのに、いきなり逃げ出すとはどういうつもりなのか?
月子の言葉もむなしく、摩耶子は角を曲がっていく。
「待ちなさい!」
月子も塀を飛び降りて後を追う。
「キャーッ!」
しまった・・・
月子は臍をかむ。
摩耶子の狙いはこれだったのか?
通行人を襲って血を奪い、力を増す。
月子との戦いのための力を得るつもりなのだろう。
「そう簡単には!」
月子は急いで角を曲がった。
そこでは一人の少女が今しも摩耶子に襲われるところだった。
「てぇーい!」
月子は破魔札の一枚を放り投げる。
牽制になればいいのだ。
狙い通り摩耶子は投げられた破魔札を避けるために少女から離れる。
そして民家の屋根にジャンプした。
「大丈夫?」
少女のもとに駆け寄る月子。
見ると摩耶子と同じ学校のセーラー服を着ている。
こんな時間にどうしてこんなところにいたのかわからないが、とにかく今はこの場から逃げてもらわなくては・・・
「は、はい、大丈夫です」
少女が返事をする。
見たところ無事なようだ。
あのちょっとした時間では血を吸ったりまでできなかったのだろう。
「すぐにここから逃げて。ここは危険よ」
そういいながらも月子は摩耶子が飛び上がった民家の屋根に目を移す。
摩耶子を逃がすわけには行かない。
ここで逃げられては・・・
「そうですね。危険ですよね」
いきなり右腕に走る痛み。
急速に奪われていく体温。
しまった・・・
月子は必死で少女を振りほどく。
だが、すでに月子は立っていることができなかった。
連戦による疲労が警戒心を奪ったのか、月子は少女に対する警戒を緩めていた。
これほどあからさまな罠だったのに、気が付くことができなかった。
同じセーラー服を着ているのだ。
すでに少女は摩耶子の影響下にあると考えてもよかったはずなのに・・・
急速にかすんでいく視界の中で月子は悔やんでも悔やみきれないうかつさを呪った。
- 2009/03/06(金) 21:09:40|
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五ヶ月ぶりの「帝都奇譚」です。
なかなか進まなくてすみません。
もう少しお付き合いくださいませ。
30、
「うふふ・・・そんなものを私に向けるなんて、ひどい人ですのね。私はただあなたの血が飲みたいだけなのに・・・」
摩耶子の赤い目に負けないほどの赤い唇が笑みを浮かべる。
「ごめんこうむりますわ。私の血の一滴すらも、あなたには差し上げませんことよ」
和バサミを胸のところで構え、歯を食いしばる月子。
最後の最後で仕事を果たせなかった後悔が胸を痛くする。
だが、目の前の少女はすでに魔に取り付かれてしまったのだ。
浄化することこそ彼女の役割だ。
「そうですか・・・私には血を下さらないんですのね・・・」
一瞬うつむき、悲しそうな表情を浮かべる摩耶子。
だが・・・
「ならば、力ずくであなたの血をいただくわ」
摩耶子は牙をむき出して飛び掛ってくる。
和バサミを突き出して摩耶子の爪を受け流す。
鋭く尖った爪はもはや人のものではない。
何とか一撃はしのいだものの、そう何度もは難しいだろう。
じりじりと後退する月子。
おかげで破魔札の入った上着から遠ざかってしまう。
間に摩耶子が入り込んでいるのだ。
上着の中の破魔札を摩耶子はわかっているのかもしれない。
ぺろりと舌なめずりをする摩耶子。
真っ赤な唇にピンク色の舌がゆっくりと蠢く。
躰のあちこちから血をにじませた月子はとても美しく美味しそう。
恐れることはないのに・・・
血を飲ませてくれるだけでいいのに・・・
摩耶子はそう思う。
それがかつての自分には想像もできない思いだということすら、今の摩耶子にはわからないことだった。
長期戦は不利。
そう思った月子は一気に勝負に出る。
摩耶子はまだ変化したて。
力を使いこなすまでには至ってない。
そう判断した月子は、和バサミを構えて飛び掛る。
無論これはフェイントであり、とっさにカバーするであろう摩耶子との体勢を入れ替えるためのもの。
何とかその隙に上着の中の破魔札を手に入れなくては・・・
月子の目は人間離れした跳躍で攻撃を避ける摩耶子から、椅子の背もたれにかかっている上着に注がれた。
ガシャンと窓の割れる音がする。
後で弁済する必要があるだろうが、今は致し方ない。
狭い室内で対峙するのはあまりにも不利。
とりあえず再度外にでて、そこで摩耶子を迎え撃つ。
そのために月子は上着を手に入れ、そのまま窓を突き破って外に飛び出したのだ。
はたして体力の低下した自分にどこまでできるかわからないが、魔に堕ちた摩耶子をほうっておくわけには行かないのだ。
ほうっておけば摩耶子はまた新たにしもべを増やすだろう。
そうなってしまっては遅すぎる。
夜着に身を包んだ摩耶子がゆっくりと現れる。
「うふふ・・・だめですよ月子さん。窓ガラスを割っちゃうなんて。他の人たちが起きてきたらどうするんですか?」
「そのときはそのとき。あなたに心配していただかなくても大丈夫よ」
手にした上着から破魔札を取り出す月子。
和バサミを捨て、再び髪を留めていたリボンを解く。
ふう・・・
改めて深呼吸をする月子。
破魔札とリボンを手にした今、ようやく態勢は整った。
これでやっと戦える。
摩耶子の表情が引き締まる。
先ほどまでの月子とはうって変わった凛々しさに、ただならぬ相手になったと悟ったのだ。
「さすが退魔師ですね。先ほどとは違いますわ」
「ええ、これでも魔を相手にするのは慣れてますから」
「残念ですわ。あなたとこうして戦わなくてはならないなんて・・・おとなしくエキスを差し出してはくださいませんの?」
摩耶子の言葉に月子は首を振る。
「それはできないわ。魔に堕ちたあなたを元に戻すことはもうできない。でも、あなたを滅することはできる。残念だけど、あなたをほうっておくわけにはいかないわ」
破魔札を口にくわえ、両手でリボンをぴんと張る。
再びリボンに輝きが灯った。
「くっ・・・」
額から汗が流れる。
脚が震える。
消耗しきった月子にとって、リボンに力を込めるのは、さらに消耗を増すことだ。
立っているのさえ苦しくなる。
一撃。
おそらく一撃しか許されない。
一撃で摩耶子を浄化するしかない。
じっとりと汗をかく手のひら。
月子は気力でリボンを握り締めていた。
「うふふ・・・震えているんじゃないですか?」
摩耶子の口元に笑みが浮かぶ。
もう彼女にとっては月子は獲物に過ぎない。
弱った獲物を前にして、摩耶子は優位に立っていると感じているのだ。
口に破魔札をくわえたまま、何も言わずに摩耶子をにらみつける月子。
その額に汗が浮かぶ。
まさかヴォルコフとの戦いの後に、連続でこのようなことになるとは思いもしなかった。
だけど逃げるわけには行かない。
「うふふ・・・それじゃ行きますね」
摩耶子の姿勢が低くなり、バネがはじけるように飛び出した。
- 2009/03/05(木) 21:40:58|
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130万ヒット記念SS第二弾として、「帝都奇譚」の29回目をお送りします。
うだうだと続いてしまっているこの作品ですが、もう少しお付き合いくださいませ。
29、
「終わったのですね?」
勝手口から屋敷に入った月子は、いきなり声をかけられたことに驚いた。
「摩耶子さん・・・起きていらっしゃったのですか?」
月子の前には、夜着を羽織った摩耶子が立っていたのだ。
心配そうな表情を浮かべている摩耶子に、月子は優しく笑顔を向ける。
「はい。すべて終わりました。あなたを狙う魔物はもうおりません。多少の後始末は残るでしょうが、帝都は元通りの平和な日々に戻るでしょう」
憲兵隊の入生田さんにも教えてあげなければね・・・
ふとそんなことも思う月子。
「よかった・・・月子さんが無事で本当によかった・・・」
ホッと胸をなでおろす摩耶子。
「摩耶子さんこそこんな時間にどうしたのです?」
「あ、私はどうしても寝付けなくて。布団の中で眼をつぶっていたら悲鳴のようなものが聞こえて・・・」
ふう・・・
月子がため息をつく。
どうにかして音を遮断するような結界を用意しないとダメだわね。
「そうでしたか。お騒がせしてしまいました。もう大丈夫ですから、ごゆっくりお休みくださいませ。明日に差し支えますよ」
「まだ休むことはできません」
「えっ?」
月子は驚いた。
いきなり摩耶子が強い口調で言い放ったのだ。
驚くには充分なことだった。
「月子さん自分がどういう状態かわかってますか? 傷だらけです。手当てしないとダメですわ」
「えっ? あ、ああ・・・いいんですよ、これぐらい平気ですから。自分で手当てぐらいできます」
「ダメです。私のためにこんな怪我を負ったのですから、手当てぐらいはさせてください。さあ、こっちへ」
月子の腕を取って居間に向かう摩耶子。
なんとなくその必死さが月子には面白く感じてしまう。
苦笑しつつも月子は摩耶子に連れて行かれるままになるのだった。
「ああ・・・ひどい・・・」
躰にぴったりした月子の洋服を脱がせると、あちこちに傷ついた箇所がある。
いくつかはすっぱりと切り裂かれ、いくつかは肉が抉り取られたようにもなっていた。
ほかにも治癒してはいるもののいくつかの傷跡があり、月子がただならぬ戦いの場に身をおいていることがしのばれる。
「摩耶子さん、もういいの。気分が悪くなったら困るわ。あとは私がやるから薬箱だけ置いておいてくださいな」
摩耶子が持ってきた薬箱から、脱脂綿と消毒液を取り出す月子。
つい摩耶子の好意に甘えてしまったが、傷口を見せるなどということはするべきではなかった。
うかつなことをしてしまったと月子は悔やむ。
鷹司のお嬢様に見せるべきものではなかったのだ。
「摩耶子さん?」
脱脂綿に消毒液を含ませ、傷口に当てようとした月子は、ふと雰囲気の異様さに気が付いた。
摩耶子が無言になってしまったのは、てっきり傷口を見て気分が悪くなったものと思っていたのだ。
だが、月子が顔を上げたとき、摩耶子はじっと彼女の傷口を見つめていたのだ。
「摩耶子さん?」
「飲み・・・たい・・・」
「えっ?」
月子はぞっとした。
まさか・・・
そんな・・・
反射的に飛び退ろうとする月子。
だが、間に合わなかった。
普段の月子ならかわせたはずのことだったが、ヴォルコフとの戦いでの消耗が激しい今の月子は動きが鈍っていたのだ。
「あぐっ!」
月子の左腕に激痛が走る。
摩耶子の腕がすばやく月子の左腕を掴み、噛み付いてきたのだ。
「ま、摩耶子さん・・・ど、どうして・・・」
どうして気が付かなかったのか?
いったいいつの間に彼女は魔に犯されてしまっていたのか。
左腕から急速に熱が奪われていくのを感じ、月子は必死で振りほどく。
摩耶子の爪が食い込むのもかまわずに、蹴飛ばすようにして突き飛ばし、どうにか距離をとる。
「ま、摩耶子さん・・・あなた・・・すでに・・・」
唇を噛む月子。
立ち上がった摩耶子の目は真っ赤に輝き、冷たい笑みを浮かべている。
「月子さん、私・・・喉が渇くの。あなたの血が飲みたいの。いいでしょ?」
目がかすむ。
任務を果たせなかった悔しさが、摩耶子を魔に貶めてしまったふがいなさが押し寄せる。
一瞬にして結構な量の血を奪われたのか、躰に震えが走る。
寒い・・・
月子は気力を振り絞り、脱いで椅子にかけた洋服に目を留める。
あの中にはまだ破魔札がある。
それを手に入れねば・・・
「ごめんなさい」
摩耶子が首を振る。
「私・・・どうしようもないの。喉が渇いてどうしようもないの・・・」
「そう・・・残念ね。残り少なくなっちゃったみたいだけど・・・あげるわけには行かないわ」
じりじりと椅子の方へと歩を進める月子。
その目は摩耶子からはずされることはない。
だが、だからといって赤い瞳を見るわけにも行かない。
魔力を持つ赤い瞳は見たものを魅入ってしまう。
ひざががくがくと震えながらも、月子は破魔札を取りに行くのだった。
「もう・・・だめですよ、月子さん。おとなしく血を飲ませてください。それだけでいいんですから」
何か吹っ切れたような表情を浮かべる摩耶子。
もはや彼女の中では獲物から血を吸うのは当たり前に思われるようになっていたのだ。
今ならばわかる。
小夜の血を吸ったのも私。
小夜は今頃また誰かの血を・・・
うふふ・・・
なんだか素敵だわぁ・・・
夜がこんなに気持ちがいいものだったなんて・・・
月子さんにも教えてあげなくちゃね・・・
躰が軽い。
今にもどこかに飛んでいってしまえそう。
すごい。
気持ちいい。
まるで生まれ変わったみたいだわ。
ああ・・・最高・・・
摩耶子がいきなりジャンプする。
月子目がけて飛び掛ってきたのだ。
間一髪で転がるようにかわす月子。
先ほどからうかつすぎることに、手元には武器になるようなものは何もない。
傷口の手当てのために服も脱いでしまい、今は下着だけなのだ。
まだ珍しい洋装の下着姿の月子。
白い肌にとてもよくマッチしている。
だが、今は身に着けているものがこれだけという心もとない状態に、月子は臍をかんでいた。
躰が重い。
まるで鉛か鉄でも飲み込んでいるかのよう。
苦しい。
ヴォルコフとの戦いで受けた消耗が回復できない。
このままではいけない。
何とかしなくては。
とは思うものの、今はどうしようもない。
とっさに転がってよけたものの、すでに摩耶子の動きは人間を越え始めている。
摩耶子さん・・・
暗澹たる思いの月子。
もはや元に戻すことは叶わない。
消滅させて魂を救ってやるしかない。
それができるのはここには自分しかいないのだ。
しっかりしなさい月子。
あなたは退魔師じゃない。
自分を叱咤して立ち上がる。
摩耶子が飛び掛ってきたときにひっくり返された薬箱。
そこから転がりでた和バサミ(握りバサミ)を手に取る。
今はこれが唯一の武器。
月子は和バサミを構えて摩耶子と対峙した。
- 2008/10/01(水) 20:48:08|
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三年連続更新記念SS大会初日は「帝都奇譚」です。
どうにもこんな記念日更新ばかりになってしまい申し訳ありません。
今回は一つの終わりを迎えます。
楽しんでいただければ幸いです。
28、
状況は最悪だ。
首筋に食い込んだ牙からは赤い血と命がともに吸い取られていく。
「う・・・あ・・・」
力が抜ける。
リボンを手にした腕がだらんと垂れ下がる。
その瞬間、ヴォルコフの牙が緩んだのを月子は見逃さない。
この瞬間を待ったのだ。
振り切るつもりなら振り切ることはできたはず。
だが、決め手を欠く状況では振り切ったとしても最初に戻るだけ。
すでに鎖分銅は無く、リボンもいつまで持つかわからない。
と、なれば、懐に踏み込んで一撃を見舞うしかないのだ。
しかもヴォルコフのような相手に対して懐に踏み込むとなるとただではすまない。
正面からでは踏み込むことすらできないはず。
肉を切らせるしかなかったのだ。
月子の腕が下がった瞬間、ヴォルコフは勝ちを確信した。
これでこの女は我が物となり、日本の退魔師連中に楔を打ち込むこともできるだろう。
仲間だった退魔師をいたぶる魔女となるがいい。
ヴォルコフの口元に笑みが浮かぶ。
そのとき、激痛が彼の左足を貫いた。
「何?」
思わずヴォルコフは自分の左足に目を落とす。
彼の左太ももには、月子の握った棒手裏剣が突き立っていた。
「くっ、この女ぁ!」
怒りがヴォルコフの躰を駆け抜ける。
血を吸ってしもべになど考えたのがまずかったのか。
捕らえたときに息の根を止めなかったことが悔やまれる。
「ぬおおっ」
突き飛ばすように月子を放り出すヴォルコフ。
そして左太ももの棒手裏剣を抜こうと手を伸ばす。
そのとき彼の目に映ったのは、棒手裏剣に巻かれていた破魔札だった。
「うおおおおおっ」
左太ももの棒手裏剣を握り締めた瞬間に、ヴォルコフの全身は燃え上がる。
さながら火のついたたいまつのように全身を炎が覆う。
「ぐわぁっ! ば、バカなっ! これしきの炎でっ」
全身を焼き始める炎にうろたえるヴォルコフ。
確かに炎は彼らのようなものにもダメージを与えてくるが、一瞬にして全身を覆いつくすようなことはありえない。
「うふふ・・・私からの贈り物ですわ。病原菌は焼き尽くすのが一番ですから」
青い顔で肩で息をしながらも、月子が笑みを浮かべている。
退魔の炎は魔を浄化するまで焼き尽くすのだ。
おそらくこれでヴォルコフは・・・
月子はもう一体のしもべに眼をやった。
さほどの脅威にはならないだろうが、不意を突かれてはかなわない。
「ぬ、ぬおおお・・・消えん! 火が消えん! バカな・・・そんなバカな・・・」
全身を火に焼かれながらのたうち回るヴォルコフ。
鷹司家の庭の池に飛び込んでも炎はまったく消えはしない。
浄化の炎はその程度では消えないのだ。
灯はその姿をただ眺めているだけだった。
主人が炎に焼かれていく。
その恐怖だけが彼女を捕らえている。
逃げ出したいほどの恐怖でありながら、彼女は逃げ出すことができなかった。
なぜなら、ヴォルコフに命じられていないからである。
しもべである彼女は命じられることをしなくてはならない。
その命令がこない。
動くことができないのだ。
灯は主人を今まさに滅ぼしつつある女退魔師を、黙って見ているしかなかった。
燃え盛る炎。
その中で苦しんでいた男はもう動かなくなっていた。
断末魔の悲鳴とともに崩れ落ち、あとはもう燃え尽きるまで燃えるだけのこと。
終わったのだ。
ここのところ帝都を騒がしていた化け物が、ようやく今その終焉を迎える。
ヴォルコフの死により、帝都は元の賑わいを取り戻すだろう。
無論残滓を片付けなくてはならない。
まずはあそこのしもべ。
思うように動かない躰を必死に動かし、月子はリボンを握り締めた。
月明かりが日本庭園を照らしている。
静まり返ったそこは、先ほどまでの死闘が嘘のような平穏さだ。
黒々と焦げ付いた三つの死体。
物言わぬむくろと化したそれらが、先ほどまで帝都を脅かしていた魔物とは思いもつかないだろう。
とりあえずは終わったのだ。
月子はふうと息を吐く。
手にしたリボンで、再び髪を結わえ付ける。
あちこち切り裂かれ、ずたずたになってしまった服からは白い肌が覗き、そのところどころから血がにじんでいる。
あらためてそのことに気がついた月子は、思わず苦笑してしまう。
よくも生き残ったもの・・・
ロシアを恐怖に陥れた強大な魔物を相手に、生き残れるなどとは思いもしなかった。
死ぬことなどは怖くなかったが、鷹司のお嬢様がヴォルコフに穢されるのだけは避けたい。
その思いが力を与えてくれたような気がする。
月子は背後に広がる鷹司の屋敷を振り返り、静けさの中に無事であることにあらためて胸をなでおろした。
印を組んで呪文を唱える。
黒焦げになった死体がぐずぐずと崩れ去り、風が塵となった破片を吹き飛ばす。
これでいい。
ヴォルコフは滅びたのだ。
月子は消耗しきった躰を引きずるようにして、鷹司の屋敷に戻るのだった。
- 2008/07/16(水) 19:58:03|
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五月最初のSSは「帝都奇譚」です。
今回もちょっとだけで申し訳ありません。
次回あたりで月子とヴォルコフの戦いにもけりがつくと思います。
ではどうぞ。
27、
奇妙なものを使う・・・
ヴォルコフの第一印象はそれだった。
先ほどまで使用していた分銅鎖といい、よほど長いものが使い慣れているのか?
それにしても重さも長さもまるで違うものを二種類使うとは・・・
退魔師というがこの女、忍者ではないのか?
呪符をを刻んだこのリボン。
普段使うことはめったにない。
どちらかというと最後の隠し武器といってもいいものであり、これを出すということ自体が容易ならない相手であることを物語っている。
もちろん月子はそれを充分に承知しており、できるなら出したくなかったなどとは思わない。
ヴォルコフの力量から言っても、いずれは出さざるを得なかったであろうし、早いか遅いかの違いだろう。
もっともその前に決着がついたのであれば、それに越したことはなかったのだが。
リボンを手にした月子を前に、一歩を踏み出せないヴォルコフ。
たかが人間にこれほど手間取るとは誰が考えたであろう。
だが、それもここまで。
鋭い爪をかざし、ヴォルコフは月子に向かって飛び掛った。
来た!
月子の躰に緊張が走る。
魔物のくせに伯爵などと名乗るからには相当にプライドも高いだろう。
後ろから飛び掛るなどということは考えないとは思ったが、こうも正面から飛び掛ってこられると、月子は一瞬苦笑が口元に浮かぶのを止められなかった。
鋭い爪での斬撃。
それに続く牙の一撃は、これまで数多くの西洋のハンターを倒して来たに違いない。
でも・・・
私はそう簡単にはやられない。
月子はすっと身を沈め、ヴォルコフの繰り出してくる爪の斬撃に備える。
唸りを上げて襲い来るヴォルコフの爪の一撃。
月子はそれを紙一重でかわしつつ、左手でリボンを扱いヴォルコフの繰り出された右手に絡ませる。
そのまま躰を回転させるようにして、左手のリボンで大きくヴォルコフの右手を振り回す。
そしてヴォルコフに背を向けるような形になると、右ひじを顔面に叩きつけた。
ガキッという感触が走り、月子に手ごたえを感じさせる。
まさに一撃が決まったといってよかった。
「えっ?」
だが、それもつかの間、月子はヴォルコフに背を向けてしまったことを悔いる羽目になる。
ヴォルコフはリボンに絡みつかれた右手が月子の前側に回りこんでいるのをいいことに、顔面への肘鉄をものともせず、月子を両腕で抱きかかえる形に持ってきたのだ。
「し、しまった」
月子は臍をかむ。
正面から来ることで相手の動きを理解した気になっていたのだ。
顔面への一撃は通常であれば相手の戦意を喪失させるのに充分すぎるもの。
だが、相手は通常ではなかったのだ。
窮地に陥ったのは自分の方だった。
「あぐぅ・・・」
首筋に激痛が走る。
ヴォルコフの牙が食い込んだのだ。
通常言われる吸血鬼とは違い、ヴォルコフは“新たな世界に生きる者”であり、牙を突きたてて血を飲むことはめったにない。
通常は相手とキスをかわし、その舌で相手の喉の奥からエキスを吸い取るのが普通である。
だが、今回ヴォルコフはあえて牙を突きたてた。
これはさんざん翻弄してくれた女退魔師に対する怒りの現れであり、痛みを与えることで罰を与えているといえるのだった。
「ククク・・・お前の血を残らず吸い取ってしもべにしてくれる。そのあとでさんざんいたぶってやるとしよう」
すでに動きが止まった女退魔師。
あとは血を吸い尽くしてしもべにするだけ。
てこずらせてくれたものの、これはこれでいい手駒になるに違いない。
ヴォルコフの口元に笑みが浮かぶ。
紅葉を失った代償としては釣りが来るというものだ。
先ほどの顔面への一撃は赦してやるとしよう。
そう思い、ヴォルコフは月子の血をたっぷりと口の中に吸い込んだ。
月子の口元になぜか笑みが浮かんだのも知らず。
- 2008/05/02(金) 20:01:41|
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「魔のかけら」に本当に多くの拍手をいただきましてありがとうございました。
拍手の数が50を超えるなんてほんとにうれしいです。
ありがとうございました。
さて、1000日連続更新記念SS第四弾・・・といっていいのかなぁ。
SS連続更新六日目は「帝都奇譚」の26回目です。
うー・・・明日も何とかSS投下したいよー。
がんばらねば。
それではどうぞ。
26、
ヴォルコフが動き、月子が対応する。
この構図を幾度か繰り返し、ヴォルコフは確実に月子の体力を奪っていく。
重い分銅鎖は威力は大きいものの、何度も繰り返し投じるには不向きな武器でもあり、月子の息が徐々に上がってくるのが見て取れた。
もとより月子も長引かせるつもりはない。
幾度となくヴォルコフの急所を狙って分銅鎖や棒手裏剣を打ち込んでいるのだが、そのことごとくをかわされているのだ。
理由の一つはヴォルコフの能力そのものの高さ。
そしてそれ以外の理由として、二人のしもべたちの存在があった。
紅葉も灯もダメージを負ってはいるものの、ある瞬間にはおとりとして、またある瞬間には盾としてヴォルコフをサポートしてくる。
三対一ではいくら月子といえども苦戦はまぬがれない。
むしろ、“新たな世界に生きる者”を三体も相手にして引けを取らない月子の戦闘能力の高さこそ特筆すべきものだった。
「ハア・・・ハア・・・」
何度目かの攻撃が失敗に終わり、月子は屋敷の屋根に降り立った。
パキッと音を立てて瓦が割れ、着地の衝撃を月子が消せなくなっていることを物語る。
「おやおや、足元がふらついたかね? だいぶお疲れのようだが」
ヴォルコフが正面に立ってにやりと笑う。
赤く輝く眼が獲物を前に細められる。
「くすっ・・・ご心配には及びませんわ。ようやく躰がほぐれてきたところですから」
じゃらっと音が鳴り、分銅鎖が月子の手に巻き取られる。
「強がりはよせ。もう立っているのもやっとだろう。早く我にひざまずいて許しを請うがいい。すばらしい世界に導いてやるぞ」
一歩二歩と前に出るヴォルコフ。
月子の背後左右からは、二人のしもべもじりじりと迫る。
月子の額に一筋の汗が光った。
躰が熱い・・・
喉が渇く・・・
それに何かが駆け回る気配・・・
寝苦しさにうっすらと目を覚ます摩耶子。
夜着のまま布団を跳ね除け、上半身を起こす。
障子を開けて外を見る。
なんだか無性に夜の空を見たくなったのだ。
夜空には月が輝いている。
白くて大きな月。
それは摩耶子に安らぎをもたらしてくれた。
喉が渇く・・・
・・・を飲まなきゃ・・・
・・・を飲みにいかなくちゃ・・・
何を飲むのだろう。
何を飲みに行かなくてはならないのだろう。
ふと湧き起こった衝動に背筋がぞくっとする。
首を振る摩耶子。
このところ体調が優れない。
きっと寝が浅いせい。
喉の渇きをこらえて摩耶子は布団にもぐりこむ。
その頭上で何が行われているのかを知らぬまま・・・
「ハア・・・ハア・・・」
月子の前でどさっとひざから崩れ落ちるしもべの一人。
「ぎゃぁぁぁぁぁ・・・」
すぐに貼り付けた札が彼女の躰を炎で包み込む。
「むう・・・まだそのような力を・・・」
ヴォルコフは歯噛みした。
あまりにも目の前の女が予想以上だったのだ。
左右のしもべに命じ、取り押さえたところで精気を吸い取る。
その考えはあっけなく吹き飛んだ。
ヴォルコフが一瞬動きを止めた瞬間を逃さず、一体のしもべを屠ることに全力をかけてきたのだ。
牽制の棒手裏剣も分銅鎖も使わず、もう一体のしもべには目もくれずに一体だけをつぶす。
まさに各個撃破の見本だ。
すっぱりと切り裂かれた洋服の下からは白い肌が覗き、一筋の傷から血が流れている。
しもべの爪に切り裂かれた傷だが深手ではない。
紅葉を失った代償としては、あまりにも軽すぎる傷だった。
赤い目が怒りに燃える。
戯れに作ったしもべだが、こうも簡単に失うのは面白いことではない。
この女をしもべに加え、思い切り嬲ってやれば少しは気も晴れるだろう。
ヴォルコフはこぶしを握り締め、月子に一歩近づいた。
しもべの一体は倒した。
元は人間だったものだがやむをえない。
破魔札の炎によって浄化され、開放された魂は安らぎを得ているはず。
そう思わなければやっていられるものではない。
月子は分銅鎖を巻き取り、ヴォルコフの動きに集中する。
もう一体のしもべはさほど気にしない。
二体でのコンビネーションにすら難のあったしもべごとき、ヴォルコフさえ倒せばどうとでもなる。
跳躍したヴォルコフのマントが翻り月を隠す。
月明かりが明るければ明るいほど一瞬の闇は人間の目をくらませる。
繰り出された手刀を寸でのところでかわした月子は、そのまま後ろに跳躍して距離をとる。
すかさず棒手裏剣を牽制に繰り出すと、分銅鎖を叩き込む。
ずしんという手ごたえが鎖を通じて伝わり、ヴォルコフの胴に分銅がめり込んだことを知らせてきた。
「くっ」
一瞬の喜びはすぐに失われ、ぐんと引き込まれる力の強さに月子は驚愕する。
なんてこと。
ヴォルコフは叩き込まれた分銅の衝撃をものともせずに、それを掴み取って引っ張っているのだ。
「ちっ」
月子は舌打ちすると分銅鎖をあきらめる。
強力な武器だが、こうなると力勝負になってしまう。
月子はあらためて距離をとり、長い髪をまとめていた髪留めのリボンをはずし、右手に巻きつけた。
じゃらっという音がして地面に落ちる分銅鎖。
普通の人間であればあの一瞬で勝負はついていた。
掴み取った鎖を引っ張り、相手を懐に引き入れる。
手を離すのが一瞬遅れただけで、相手はこの手に掴み取られていたはずなのだ。
それをこうも簡単に逃れられるとはな・・・
ヴォルコフは苦笑した。
ここまで本気を試される相手というのは初めてだ。
この女・・・
ただでは済まさん。
巻きつけたリボンに気を込める。
白い布切れだったリボンがぼうっと輝き、表面に文様が浮かび上がる。
棒手裏剣、短剣、分銅鎖、そしてこの呪符リボン。
これらが月子の武器なのだ。
月子はリボンの両端を両手で持ち、ぴしんと張り鳴らした。
- 2008/04/15(火) 20:03:33|
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1000日連続更新達成記念SS第一弾は「帝都奇譚」です。
いよいよヴォルコフと月子の戦いが始まります。
楽しんでいただければ幸いです。
25、
カチャリ・・・
飲み干したコーヒーカップをソーサーに置く。
口元が引き締まる。
「来た・・・ようですね」
ゆっくりと玄関に向かう月子。
全身に緊張感がみなぎっている。
夜は奴らの時間。
本来なら昼間の動きの鈍い時に相手をできれば一番なのだけど・・・
やむをえない。
摩耶子さんを渡すわけにはいかない。
彼女はヴォルコフには渡さない。
日本庭園。
鷹司家の庭。
月明かりがあたりを照らしている。
立っている三人の影。
やわらかいラインからは、そのいずれもが女性であることがわかる。
「なるほど・・・今日はご本人ではなくしもべに私の相手をさせようというわけですか?」
動きやすい洋靴を履いた足が一歩前に出る。
どこの誰かは知らないが、目の前にいる二人の女性はすでに人ではない。
赤い目を輝かせ、鋭い爪と牙を月子のほうへ向けてくる。
「可哀想に・・・」
月子は手裏剣を取り出す。
退魔用の特殊手裏剣だ。
普通の武器では魔物を傷つけることは叶わない。
だが、退魔師の力を与えられた武器は魔物をもものともしないのだ。
「それでは・・・お相手いたしましょうか」
月子がそうつぶやいた瞬間、三人の躰がはじけるように動き出した。
「ハッ!」
月子が手裏剣を撒き散らす。
もとより命中を期待したものではなく、それを相手が避けることによって動きを直線化させるのが狙いだ。
二人のしもべたちは、左右から月子を囲むつもりでいる。
変ね・・・
月子は手裏剣をかいくぐる二人の動きを分析する。
一体の動きが鈍い。
もう一体がかなりのすばやさを見せているのに、その一体は自分のすばやさに戸惑っているかのよう。
変化したて?
もしかしたらそうなのかもしれない。
なるほど・・・
月子はまるで宙に浮いているかのように、庭木や屋根を跳び伝う。
そしてすばやく追いすがる一体に棒手裏剣を打ち込んだ。
「ハグッ!」
左肩をえぐられる一体のしもべ。
月子は知る由もなかったが、それはヴォルコフによって紅葉と名付けられたしもべだった。
「くっ!」
紅葉は思わず左肩を押さえてしまう。
ヴォルコフ様の新たなるしもべ灯の動きの鈍さを逆手に取り、おとりにしようとしていたのに、退魔師は逆に彼女を狙ってきた。
これではおとりの意味がないどころか、灯にはこの隙をつくこともできはしない。
しかも肩口につけられた傷は回復してくれないではないか。
「おのれ!」
再度仕掛けなおさなくてはならない。
今度はおとりなどという考えをなくし、二人で時間差攻撃をかけるのだ。
あんな女退魔師ごときに・・・
心臓を狙ったのだが左肩への一撃で動きは止まった。
意図してそうなのかはわからないが、おとり役は牽制だけで動きが止まる。
二対一と不利には違いないが、しもべごときに遅れは取らない。
それに・・・
どこかにヴォルコフがいるはず。
彼女たちはどうせ二人ともがおとりなのだろうから・・・
屋根の上に降り立つ月子。
彼女を挟むように二人のしもべも屋根に立つ。
屋敷の中では天井裏をネズミが這っているとでも思っているかもしれない。
そう思うとこんな時なのに笑みがこぼれる。
やれやれ・・・
命のやり取りをしているというのにね。
左右から同時に仕掛けるしもべたち。
月子は一瞬左右を見ると、今度は右手側の灯に対して手裏剣を見舞う。
そしてジャンプすると同時に上空から分銅鎖の分銅を紅葉に対して打ちつけた。
人間とは思えない月子の動きに二人のしもべは翻弄される。
一瞬のうちに灯は右足の甲に手裏剣を受け、紅葉は分銅で額を打ち据えられる。
「ぐがぁっ」
「ぎゃっ」
二人の悲鳴が夜空に響き、寝静まった町を一瞬ざわつかせた。
「さすがにやってくれるではないか」
月明かりを背にして黒服の男が姿を現す。
「ようやく姿を現しましたね、魔物さん」
「ニコライ・ペトローヴィッチ・ヴォルコフだ。覚えが悪い雌犬にはしつけが必要だな」
「ごめんこうむりますわ。こちらこそ、あなたのような魔物は退治して差し上げます」
月子とヴォルコフの視線がぶつかる。
二人の間に緊張が走った。
先に動いたのはヴォルコフだった。
欧州人の巨体とは思えぬほどの跳躍で、月子との距離を一気に縮める。
月子は一瞬後ろに下がるように見せかけ、そのまま前へと躰を倒す。
右手に巻きつけた分銅鎖を伸ばし、ヴォルコフの足下を掬いにいく。
着地の瞬間を狙われたヴォルコフだが、逆にタイミングをずらすと、分銅をかわして月子の懐に滑り込む。
月子は左手に握った棒手裏剣を牽制に投げつけ、後ろに下がって距離をとった。
「ヌウ・・・なかなかやる。わが手駒にふさわしい」
「くすっ・・・私は仕える相手は自分で選びますので」
月子は笑みを浮かべながら分銅鎖を握りなおした。
- 2008/04/10(木) 20:00:32|
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今日は4月1日でしたので、エイプリルフールネタでもと思ったのですが、たいした面白いネタが思い浮かびませんでした。
それにそんなものよりも、少しでもSSを書いたほうがいいやと思いまして、「帝都奇譚」を少しばかりですがお送りいたします。
お楽しみいただければ幸いです。
24、
まだ信じられない・・・
昨日まで笑いあっていたというのに・・・
昨日まで会話を交わしていたというのに・・・
昨日まで・・・
知らず知らず涙が浮かぶ。
「ん・・・くっ・・・」
布団をかぶり、声を殺して泣く。
人間というのはなんてはかないのだろう。
昨日まで笑いあっていた友人が今日はもういない。
なんてことだろう・・・
姉川久はただ泣くしかできなかった。
『せ・・・ぱい・・・』
えっ?
『あ・・・がわ・・・ぱい・・・』
まさか・・・
そんなまさか・・・
『どう・・・たんですか・・・がわ・・・ぱい』
ぞっとする久。
思わず布団を跳ね除ける。
バカな・・・
そんなバカな・・・
『あけて・・・ませんか・・・あねがわ・・・ぱい』
死んだはず・・・
あなたは死んだはずなのよ・・・
久は耳を押さえて首を振る。
そんなはずない・・・
小夜ちゃんが生きているはずがない・・・
でも・・・
でも・・・
『先輩・・・姉川先輩・・・』
窓の外から声がする。
間違いない。
あの娘の声だわ・・・
生きていたんだ・・・
死んでなかったんだ・・・
死んでいなかったんだわ。
久はゆっくりと起き上がる。
そしてゆっくりと障子を開ける。
窓の外にたたずむ小夜。
月明かりに照らされたせいか、目が赤い。
『こんばんは、姉川先輩』
ああ・・・小夜・・・
小夜の赤い目を見た途端、久は何がなんだかわからなくなる。
『窓を開けてください姉川先輩。一緒に夜を楽しみませんか?』
小夜の言葉にゆっくりとうなずく久。
そして、久は無言で窓を開けるのだった。
「おや、月子さん、まだ起きていたのかね?」
鷹司家の現当主鷹司昭光が、廊下にたたずむ女性の姿を目に止める。
背中で束ねた長い黒髪が月明かりに照らされる姿は、なんとも言えず美しい。
「これは昭光様。今晩は何やら胸騒ぎがいたしまして・・・」
コーヒーカップを片手に窓の外を覗いていた月子がにこやかに振り返る。
「胸騒ぎ? それはまた穏やかじゃないな。特に君のような退魔師からそういう言葉を聞くとはね」
多少表情を曇らせて鷹司の現当主は月子を見る。
長い洋装のロングスカートは躰に張り付くように月子のボディラインを覗かせ、昭光はドキッとした。
「ご心配には及びません。昭光様にも鷹司家のどなた様にも決して悪いことの起きぬよう、私がここにいるのですから」
昭光は気を落ち着かせるようにうなずいた。
「頼みましたよ月子さん。私は先に休ませてもらおう」
「お休みなさいませ、昭光様」
一礼をする月子の脇を昭光は通り過ぎた。
再び月子は窓の外を見上げる。
「今晩あたり・・・来るかしらね・・・」
「ああ・・・なんて美味しいの・・・」
獲物ののど笛を噛みちぎり、飛び散る真っ赤な血しぶきを口で受け止める。
どくどくと流れ込む血を思う存分飲み干していく。
「うふふふふ・・・美味しいですか? 姉川先輩」
セーラー服に身を包んだ真木野小夜が口元に妖しい笑みを浮かべている。
先ほどたっぷりと姉川久の血を飲み干し、代わりに自分の血を垂らしてやったのだ。
思ったとおり久は自分と同様に死の縁から蘇り、こうして家族だった者たちを襲っている。
「ええ・・・美味しいわ。こんな美味しいものは飲んだこと無かったわ・・・」
手当たり次第に食いちぎり、血まみれになりながらその血をのどに流し込んでいく姉川久。
父も母も祖母も関係が無い。
今の久にとってそれらはただの獲物。
“新たな世界に生きる者”となった今、彼女にとっては獲物に過ぎなかったのだ。
「うふふふ・・・先輩もこれで私の仲間。他にもいっぱい仲間を作りましょう。そして・・・私たちの女王様をお迎えしなくては・・・」
口元に手を当ててくすくすと笑う小夜。
赤く輝く瞳にはもはや人間らしさはかけらも残っていなかった。
- 2008/04/01(火) 20:18:02|
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今日は帝都奇譚をお送りします。
しばらく重点的に書いていくつもりですので、楽しんでいただければ幸いです。
23、
重苦しい沈黙が室内を支配している。
啜り泣きがあちこちから聞こえてくる。
喪服姿の人々があちこちで沈痛な表情を浮かべている。
「小夜さん・・・」
布団に寝かされ、白い布をかぶされた小夜。
「どうか、顔を拝んであげてください」
父親が白い布をそっとはずす。
「ああ・・・」
姉川久がたたみに額を擦り付けるように泣き崩れた。
「小夜さん・・・」
「真木野さん・・・」
茶道部の友人たちもみな一様に声を詰まらせる。
青ざめた顔の小夜は穏やかな表情で目を閉じていた。
白い着物を着せられ寝かされている小夜は、その眠りが永遠のものになってしまったなど信じられない。
「小夜さん・・・」
摩耶子はそっと手を合わせ、目を閉じて小夜の冥福を祈る。
ほんのちょっとしか知り合えなかったが、彼女のことは妙に心に残っていた。
電灯を背にした小夜の顔。
あれは本当にあったことだったのだろうか・・・
何かぼんやりしている。
一体何が・・・
摩耶子は意を決して立ち上がる。
そっとその場を離れると、玄関から裏庭に向かっていく。
幸い皆通夜の支度で急がしそうで、摩耶子の行動を見咎める者はいなかった。
私は何をやっているのかしら・・・
自分でも不思議に思う。
でも、確かめずにはいられない。
小夜に夕べ会ったのだとしたら・・・
会ったのだとしたら・・・?
小夜の死は私が原因だとでも?
摩耶子は首を振る。
そんなことはありえない。
心の臓の発作だと言っていた。
心の臓の発作が小夜の命を奪ったのだ。
そこに自分は関係ない。
たとえ夕べ小夜に会っていたとしても、その死には関係が無いはずだ・・・
真木野小夜の家。
今日始めて訪れた彼女の家。
なのに・・・
なのになぜ・・・
なぜ見覚えがあるのだろう・・・
摩耶子が歩く先には大きな庭が広がっていた。
真木野家は大きな武家屋敷が元になっている。
庭には池もあり、石灯籠がおいてある。
そのすべてが摩耶子の記憶にぴったりとはまるのだ。
間違いない。
私は夕べここに来たんだ・・・
摩耶子はそう思う。
そして、その思いは、障子窓が開けられた小夜の部屋が見えたときに確信に変わった。
「あれ? 摩耶子さんは?」
久が気が付くと、いつの間にか摩耶子の姿が見えなくなっていた。
「さっき出て行ったようですわ」
「お手洗いにでも行ったのではありませんか?」
茶道部の友人たちが教えてくれる。
「それにしては遅くない?」
「そうですわね。出て行かれてからもうかなり経ちますわね」
久は壁にかけられた時計に目を移す。
すでに時間は夕方の6時過ぎ。
そろそろお坊様がお経を上げに来るはずだ。
久は立ち上がった。
また無理をして気分が悪くなったのかもしれない。
だとしたら大変だ。
とりあえずどこにいるのか探しておこう。
久はそう思ったのだった。
「あ・・・れ・・・?」
目を覚ます摩耶子。
額には濡れた手ぬぐいが置かれ、いつの間にか制服のまま布団に寝かせられていたのだ。
「目が覚めましたか?」
「月子・・・さん?」
隣には心配そうな表情で摩耶子をうかがっている月子がいる。
「ここ・・・は?」
上半身を起こす摩耶子。
庭から見えた小夜の部屋が、あの記憶とぴったり当てはまったことを理解してからの記憶がない。
「ここは鷹司のお屋敷ですよ。あなたは真木野家で気を失われたそうで、姉川様と言うお嬢様がお知らせくださったのです」
月子は摩耶子の額から落ちた手ぬぐいを拾い、洗面器の水に漬ける。
「そうでしたか・・・また姉川さんにご迷惑をおかけしてしまった・・・」
「貧血のようですね。こういったことはしょっちゅうあるのですか?」
手ぬぐいを絞って摩耶子に手渡す月子。
摩耶子はそれを受け取り、額と首筋に浮かんだ汗をぬぐっていく。
「いいえ、この数日です。どうも躰の調子が思わしく無く・・・」
「躰の調子がですか? いけませんですね。勉強に根を詰めすぎなのではありませんか?」
手ぬぐいを摩耶子から受け取り微笑を向ける月子。
仕事とはいえ、こうして知り合った娘さんと仲良くできるのはうれしいもの。
だからこそ、躰のことも気にかけてしまう。
「そんなことは・・・それよりも・・・」
「それよりも?」
脇においておいたりんごの皮をむき始める月子。
「私・・・昨夜・・・おとなしく寝ていたのでしょうか?」
その手が摩耶子の言葉に止まる。
「おとなしく寝ていなかったのではないかと?」
月子の目が鋭くなる。
「わかりません。ただ・・・」
「ただ?」
「真木野さんの家に行ったような・・・」
「今日お通夜のあったお宅ですね?」
摩耶子はこくりとうなずいた。
「真木野さんの家に行って何かをしたのですか?」
「わかりません・・・小夜さんに会ったのだと思います」
「小夜さんというのは亡くなられたお方?」
「はい・・・」
月子は何か考えつつ皮むきを再開する。
「はい、召し上がれ」
皮と芯をきれいに取り除かれたりんごを皿に載せて差し出す。
「ありがとうございます」
摩耶子がりんごを食べ始めたとき、月子はそっと摩耶子の額に手を当てた。
何も感じられない・・・考えすぎか?
でも・・・
「熱は無いようですね。りんごを食べたらおやすみなさい。私は部屋で待機しますので」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんてとんでもないですわ。ゆっくり休んでくださいね」
月子はそう言って部屋を出る。
その表情は硬かった。
- 2008/03/06(木) 19:20:13|
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