19世紀後半、南米の強国の一つチリは海軍力増強のために英国に一隻の巡洋艦を発注いたしました。
巡洋艦の艦名は「エスメラルダ」
彼女は船体内のボイラー室や主機室の上部甲板に装甲を張って防護甲板とした防護巡洋艦と呼ばれるものの最初の一隻で、装甲巡洋艦と呼ばれるものが舷側に装甲を張っているのとは違い、舷側には装甲を張らない軽防御の巡洋艦でした。
「エスメラルダ」は特に問題なく建造をされましたが、途中で南米の政治状況の変化もあり、チリではまだ完成していないうちから「エスメラルダ」の売却が検討されます。
ここでチリが売却先として打診したのが、まだ明治に変わって20年も経たない日本でした。
当時日本海軍はこの「エスメラルダ」の購入を考えたものの、同じ防護巡洋艦の「吉野型」を英国に発注したこともあって購入には至りませんでした。
このため「エスメラルダ」はそのままチリ海軍の防護巡洋艦として完成し、チリ海軍の一員となりましたが、明治27年に日本と清国が戦争を開始すると、日本は海軍力の増強を図るため、今度は日本側からチリに購入の打診を行います。
チリはこの申し出を受け入れて「エスメラルダ」を日本に売却。
「エスメラルダ」は日本海軍の防護巡洋艦「和泉」として日本へと回航されました。
この「和泉」という名前は、「エスメラルダ」の「エスメ」と音が似ていることから付けられたともいわれます。

常備排水量は約3000トン。
石炭を焚いて約18ノットの速力を出すことができました。
武装は25センチ砲を二門搭載しておりました。
日本の防護巡洋艦となった「和泉」でしたが、日本に到着したのは日清戦争の終戦直前であり、日清戦争で活躍することはできませんでした。
日清戦争後は三等巡洋艦に類別され、主砲も15センチ砲に交換されるなどの改修を受けます。
そして日露戦争に参加。
日露戦争ではさまざまな任務に使われて活躍しましたが、一番はなんと言っても日本海海戦のときでしょう。
「和泉」はこのとき索敵任務についておりましたが、ロシアのバルチック艦隊を最初に発見した「信濃丸」に続いてバルチック艦隊と接触。
「信濃丸」から触接(敵にくっついて状況を知らせること)を引き継いでバルチック艦隊の動向を逐次司令部に知らせ続けたのです。
これにより日本海軍は日本海海戦で勝利を得ることができました。
まさに「和泉」は陰の功労艦だったのです。
日露戦争後は明治45年に除籍され廃艦。
スクラップとなりました。
これまたある意味数奇な運命の艦だったのではないでしょうか。
チリ海軍の巡洋艦でありながら建造途中にすでに日本とかかわり、完成後はやはり日本に売却となって日本海海戦の殊勲艦となる。
何事もなくチリ海軍の軍艦として終わっていれば、おそらく平穏な一生だったのだと思います。
面白いものですね。
それではまた。
- 2012/05/15(火) 20:58:49|
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第二次世界大戦が始まると、航空機のエンジンとしてジェットエンジンが注目されるようになります。
しかし、初期のジェットエンジンは燃費が悪く航続距離が短いことや、搭載した航空機の離着陸距離が長いことが弱点であり、航空母艦に搭載する戦闘機としては誠に都合が悪いものでした。
ですが、いずれ敵の戦闘機にジェット機が登場するであろうことは考えられ、対抗上艦載機のジェット化も考えないわけにはいきません。
そこでアメリカ海軍は、発着艦時や巡航時には今までどおりプロペラで飛び、いざ戦闘になったときにはジェットエンジンに切り替えると言う二種類のエンジンを搭載することを考えます。
そうすれば双方のいいとこ取りができると考えたのでしょう。
米海軍はこの考えに基づいて各社に試案の提出を求めましたが、このとき一番評価が高かったのは今まで軍用機に関しては製造実績のなかった「ライアン」社の案でした。
ライアン社の案は非常に手堅いもので、今までのプロペラ機と違うのは胴体後部にジェットエンジンの噴射口があることと、前輪式降着装置になったことだけとまで言われるほどでした。
米海軍はこの試案に基づきライアン社に試作機の作成を命じます。
試作機はジェットエンジンを搭載しない状態でまず作り上げられ、飛行性能に問題がないことが確かめられてからジェットエンジンが搭載されました。
この試作機は米海軍初のジェットエンジン搭載機という新機材でありながら、ライアン社の手堅い設計のためにほとんど問題らしい問題がなく、1944年末にはもう実用機の生産を開始してもなんら差し支えがないほどでした。
この時期、太平洋では米軍は日本軍のカミカゼ攻撃に対処しなくてはなりませんでしたが、正規空母はともかく護衛空母に搭載されている艦上戦闘機では対処が難しくなってきておりました。
そのためこの機体は護衛空母に搭載する戦闘機として量産が決定され、ライアンFR-1ファイアボールとして1945年1月から量産が始まります。

当初はこの基本型FR-1を100機、改良型のFR-2を600機生産する予定でしたが、ほどなく太平洋戦争が終結し、さらにはジェット機の急速な発達等もありわずか66機で生産は終了します。
そして一部護衛空母には実際に配備されたものの、1947年には早くも退役となってしまいました。
FR-1はまさにレシプロ(プロペラ)機からジェット機へと移り変わる過渡期の機体だったといえるでしょう。
悪くはない機体だったのですが、戦争に間に合わなかったことがやはり不運だったと思われます。
あと半年ぐらい早ければ、一部機体は実戦に参加できたかもしれませんね。
それではまた。
- 2012/05/10(木) 21:44:57|
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今日はちょっと更新が遅くなってしまいましてすみません。
第一次世界大戦で機関銃の威力の前に大損害を出した騎兵部隊は、1920年代から30年代にかけ、装備を馬から装甲車両へと変革させることを余儀なくされていきました。
フランス陸軍でもそれは例外ではなく、1931年にフランス陸軍騎兵科は騎兵部隊の装備として偵察用機関銃車(AMR)、捜索用機関銃車(AMD)、戦闘用機関銃車(AMC)の三種類の装甲車両を開発し装備することを決定します。
これらはすべて機関銃車という名称ですが、立派な装甲車両であり、AMCにいたっては砲を積んでいるので実質戦車と言ってなんら差し支えありません。
この騎兵科の決定を受け、ルノー社ではAMRの製作を受注。
試作車数種を経て1933年に完成したのが、ルノーAMR33でした。
AMR33は非常に小型の装甲車体に履帯形式の足回りを備え、機関銃一丁を装備した砲塔(銃塔)を搭載した形の車両で、乗員は操縦士と車長のわずか二名でした。

車体と銃塔はリベット形式で作られ、このあとフランス装甲車両で多用された鋳造は用いられておりません。
小型の車体ゆえにエンジンスペースの確保のため、機関銃を備えた銃塔はやや左側に寄せて搭載されておりました。
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AMR33は装甲厚は最大でも13ミリ程度と銃弾を防ぐ程度でしかありませんでしたが、今まではむき出しの生身であった騎兵たちには好評を持って迎え入れられ、速度性能や悪路走破性など評価の高い装甲車両でした。
もちろん装甲の薄さや機銃一丁と言う武装の貧弱さは指摘されるところではありましたが、偵察用車両としてなら問題になることは少ないだろうと見られたのです。
AMR33は118輌が生産され、騎兵部隊の軽機械化師団や自動車化騎兵連隊などに配備されました。
また改良型のAMR35も167輌が生産され、こちらも同様に使われました。
1940年にドイツ軍の侵攻を受けたフランスでしたが、このときにはもうすでにこのAMR33が活躍できるような戦場ではなく、機関銃一丁しか持たない軽装甲車両に生き残るすべはありませんでした。
AMR33は各所でドイツ軍に撃破され、残った車両は鹵獲されて自走迫撃砲の車台に使われたりしたといいます。
ちっちゃくてある意味かわいらしい車両ですが、やはり第二次大戦の戦場には向かなかった車両だったのかもしれませんね。
それではまた。
- 2012/05/08(火) 22:11:54|
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第一次世界大戦で英国と並び戦車先進国となったフランスでしたが、第一次大戦後は装甲戦闘車両を歩兵科に属する歩兵支援用車両と、騎兵科に属する捜索・偵察用車両の二本立てで運用することが基本と考えられておりました。
1930年代に入り、フランス軍騎兵科では速度の速い捜索用の新型装輪装甲車を装備しようと言う計画が持ち上がります。
「捜索」とはどこにいるかわからない敵軍を捜し求めることであり、すでに居場所がわかっている敵軍の情況を探る「偵察」とは異なります。
この計画に対しパナール車が名乗りを上げ、軍の要求である装甲厚8ミリ程度で最高速度70キロ、武装に20ミリクラスの砲を装備した装甲車を作り上げました。
試作車は1933年の10月に完成し、翌1934年初旬に軍の試験を受けました。
その結果重量がやや過大である等の問題はあるものの、機動性は良好で内部空間が広いことが評価されました。
この装甲車はパナール社内で「P178」と言う番号が振られ、正式名称よりもこの名前の方が有名になってしまいますが、正式には「AMD35」という形式番号が与えられ、正式採用となりました。
AMDとはフランス語の「捜索用機関銃車両」の頭文字を取ったものです。
完成したAMD35は軍の要求よりも厚めの最大装甲厚20ミリの箱型の車体を持ち、四輪駆動で前後に運転席がある形でした。
これは敵を発見したらすぐに味方にそのことを知らせに戻らなくてはならず、Uターンをしなくても全速で後進できるようになっているためです。
また武装はフランス軍の車両としては珍しく、砲塔内に二人入れる大型の砲塔を搭載しておりました。
これはほかのフランス軍装甲戦闘車両がほぼ全部一人用の小型砲塔を搭載していることを考えますと、きわめて異例なことでした。
AMD35はこの二人用砲塔に25ミリ砲と7.5ミリ機銃を装備し、同格の装甲車同士の戦闘でも有利に戦えるように考えられておりました。

AMD35は1937年に最初の部隊配備が始まりましたが、そこで判明した不具合を修正し、量産が行われました。
第二次世界大戦が始まった1939年時点では218両、ドイツ軍のフランス侵攻が始まった1940年5月までに500両ほどが生産されたAMD35は、フランスがドイツに占領されてしまったことで生産が止まってしまいます。
ですがAMD35は占領軍であるドイツ軍にとっても貴重な装甲車として認識され、ドイツ軍でも鹵獲使用が行われました。
中にははるばると東部戦線にまで持っていかれ使われたAMD35もあったのです。
1945年、ノルマンディー上陸以後の戦いでフランスが解放されると、フランス軍はこの優秀な装甲車をパナール社に再度生産するように命じました。
パナール社ではこれに応えて砲塔を新型にして47ミリ砲を搭載したB型の生産を開始。
こちらは400両以上が作られ、戦後もまだ保持していた各地の植民地での警備などに使用されました。
AMD35は第二次大戦が始まる前に作られた装甲車にもかかわらず、戦後再び生産が行われた珍しい装甲車でした。
それだけ使い勝手がよかったと言えるのかもしれません。
シリアに供与されたAMD35が退役したのは1964年だったと言いますので、30年にわたって使われた息の長い装甲車だったんですね。
それではまた。
- 2012/04/17(火) 21:00:00|
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100年前の今日、1912年4月14日午後11時40分ごろ、波一つない穏やかな大西洋上で一隻の豪華客船が氷山と衝突してしまいました。
豪華客船の名は「タイタニック」
今日は有名な「タイタニック」が氷山に衝突して沈没してしまった日です。
(正確には沈没は日付の変わった4月15日午前2時20分ごろ)
あの日からなんと一世紀という時間が流れたんですね。

「タイタニック」の沈没は、多くの点で謎が残るとされてきました。
また、乗員乗客の半数が亡くなられたことによる悲劇性からも多くの書物に取り上げられ、映画等の映像化も何度となく行われました。
さらには沈んだ「タイタニック」を引き上げるという小説や映画まで作られました。
一番有名なのはレオナルド・ディカプリオ主演の映画でしょうか。
空前の大ヒットとなりました。
4月という時期ですが、北海道のオホーツク海にまだまだ流氷がありますように、大西洋北部の航路に氷山が流れ込んでくるのはそう珍しいことではなかったそうです。
ですが、つい先ごろの発表では、この1912年という年は地球と月、そして太陽の並びによって地球の潮汐力が最大だった年に当たるそうで、例年より多数の氷山が航路上に流出し存在していた可能性が高いという話でした。
これはベテランであったスミス船長にとっても予想外のことであり、そのために氷山の危険性を例年通りに見積もってしまったことが衝突の原因の一つではないかということでした。
「タイタニック」の悲劇以後、船舶の安全性は見直され、乗員乗客全員が乗れるだけの救命ボートの数を備えるようになりました。
また、船舶に対する無線機の設置も大きく普及したといいます。
痛ましい事故ではありましたが、そのことを繰り返さないようにしようとする努力は行われたのです。
船舶の事故が完全になくなったわけではありません。
最近も豪華客船が座礁して30人の方が亡くなるという事故が起きました。
事故を完全に防ぐということはできないかもしれません。
それでも、事故を減らす努力を怠ってはならないでしょう。
100年前の今日の夜、冷たい北大西洋に放り出され命を失った「タイタニック」の犠牲者の方々に改めて哀悼の意を表したいと思います。
今日はこれにて。
それではまた。
- 2012/04/14(土) 21:05:00|
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第二次世界大戦中期の1943年、米国グラマン社は次期艦上戦闘機についてどうするかを模索しておりました。
このとき、グラマン社の主任テストパイロットであるボブ・ホールは英国でドイツ軍の戦闘機であるフォッケウルフFw190を見て、大出力のエンジンを小型軽量の機体に載せて高加速力や旋回時にも速度を落とさないで済む持続力を得ることが重要だと感じました。
ホールのこの意見はグラマン社で採用され、次期艦上戦闘機は小型軽量の機体に大出力エンジンを搭載した戦闘機を開発しようということになります。
これは当時生産が開始されていた主力戦闘機F6Fが、その大きさから小型の護衛空母で運用するには不適当であったことから、護衛空母でも運用可能な戦闘機が求められていたこととも一致いたしました。
グラマン社の計画は米海軍当局にも好意的に受け取られ、早速1943年11月にXF8F-1のナンバーで開発が命じられました。
エンジンにはP&W R2800という2100馬力のエンジンが選ばれ、機体は小型軽量ということから全長8.38メートル、最大幅10.82メートルに抑えられました。
これはF6Fのエンジンが2000馬力だったことに加え、全長が10.22メートル、最大幅で13.06メートルだったことに比べると、パワーが増大し機体は一回り小型化していることがよくわかります。
試作機は1944年8月に初飛行し、試験では予想通りの高性能が発揮されました。
このとき、鹵獲した日本の零戦52型とも模擬空戦を行い、零戦を圧倒したばかりか、当時の米陸軍航空隊の主力戦闘機P-47やP-51などをも圧倒し、陸海軍で最優秀の戦闘機とまで言われるほどでした。
試作機の初飛行から6ヵ月後には量産機が工場から出荷され、正式にF8Fというナンバーが与えられました。
愛称は「ベアキャット」とされ、グラマン社の伝統的なキャットシリーズの一員となったのです。
1945年半ばには最初のF8F運用部隊が日本との戦争に投入されるべく日本近海に進出いたしました。
しかし、残念ながら日本の降伏により、F8Fは第二次世界大戦での実戦は行われませんでした。
プロペラ戦闘機としてはとても優秀な戦闘力を持ったF8Fでしたが、時代はすぐにジェットの時代になってしまいました。
次の戦争である朝鮮戦争はすでにジェット機の戦争であり、プロペラ機であるF8Fの出番はなくなってしまっておりました。
それでもプロペラ機の一部は対地攻撃機として使用されたりしましたが、残念なことにF8Fは空戦性能を高めるための小型軽量化があだとなってしまい、地上攻撃機として使用するには不向きな機体となってしまっておりました。
結局同じプロペラ艦上戦闘機であるF4U「コルセア」は地上攻撃機として生き延びたものの、F8Fは生き延びることができませんでした。
米軍機としてはわずか1266機の生産に終わったF8Fは、1950年代いっぱいで姿を消すことになるのです。

艦上戦闘機として同時代の戦闘機の中で最優秀といわれたほどの戦闘機でしたが、それはあくまでも“プロペラ戦闘機”としてのことでした。
時代がジェット機に移り変わっていく中で、過渡期に生まれてしまったことがF8Fの不幸だったといえるでしょう。
ただ、民間に払い下げられた機体の中には、その高性能ぶりからエアレース用に使われたり、運動性能のよさからアクロバット用に使われたりした機体もあり、そのうちの一部は現在でも元気に空を飛んでいるといいます。
平和な空をいまも飛び続けている機体があることが、F8Fにとって慰めになっているのかもしれませんね。
それではまた。
- 2012/04/05(木) 21:00:00|
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1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が始まりました。
このドイツのポーランド侵攻にまるで同調するかのように、ソ連は1939年11月にフィンランドに対して戦争を仕掛けます。
フィンランドではこの戦争を「冬戦争」と呼びましたが、当時のフィンランドは自国で兵器生産を行えるほどの工業力がなく、戦車も航空機も大砲もほとんどが諸外国からの輸入品でした。
しかも、それらはいずれも圧倒的な数を誇るソ連軍に対しごくわずかしかなく、フィンランド軍はほとんど重火器のないままソ連軍と戦わざるをえませんでした。
しかし、幸いなことにソ連軍はこの当時スターリンによる大粛清後の再建時期であり、まだまだ上級士官が少なく稚拙な戦い方しかできませんでした。
そのため大量に投入された戦車も数多くがフィンランド軍の攻撃により放棄され、そのままフィンランド軍によって鹵獲されてしまうものがいくつもありました。
ソ連軍はこの「冬戦争」にはT-34のような新型戦車はほとんど投入しなかったため、その大多数はBT-5やBT-7、T-26のような旧式戦車でしたが、鹵獲されたこれらの戦車はすぐにフィンランド軍の戦車として再利用され、フィンランド軍の強化に一役も二役も買うことになったのです。
「冬戦争」が1940年に集結したあとも、ソ連との間には緊張関係が続き、やむなくドイツに接近したフィンランドは、1941年6月の独ソ戦開始により再びソ連と戦争状態に陥ります。
これは「継続戦争」と呼ばれ、1944年まで行われることになりますが、この継続戦争中の1942年、フィンランド軍は歩兵支援用の榴弾砲を装備した突撃砲(自走砲)の開発に着手しました。
開発に着手とは言っても、やはりフィンランドには自力開発を行うだけの工業力がありません。
そこでこれまでに入手した鹵獲戦車をベースに、そこに榴弾砲を搭載しようということになりました。
ベースとして選ばれたのは、「冬戦争」ならびに「継続戦争」の序盤で大量に鹵獲されていたソ連戦車BT-7でした。
BT-7は1939年の時点でもう主力としては物足りない性能となっておりましたので、1942年の時点では攻撃力防御力ともに第一線の戦車としては使用しづらい旧式戦車でした。
そのため新型自走砲の車台として使用するにはちょうどいい戦車だったのです。
戦車が鹵獲品であれば、搭載する砲も供与品でした。
英国製のオードナンスQF4.5インチ榴弾砲が搭載砲として選ばれたのです。
この砲は口径114.3ミリの榴弾砲で、第一次世界大戦で英軍が多用した大砲でした。
英国はこの旧式大砲を24門「冬戦争」時に供与しており、フィンランドはさらにスペインから30門を購入して使用していたのです。
旧式な戦車に旧式な大砲というある意味廃品利用的な新型自走砲は、1942年9月には第一号車が完成し、部隊に送られて試験が行われました。
車体はBT-7の車体がそのまま使用され、45ミリ砲を搭載していた砲塔が撤去されて新たに巨大な箱型砲塔が組まれ、その中に114.3ミリ榴弾砲が装備されるという形状でした。

新型自走砲は突撃砲大隊に配属され、「BT-42」という形式名を与えられ、わずか18輌ですが量産されました。
しかし、上記で述べたように廃品利用の車両でしかなく、性能は満足できるものではありませんでした。
そのため1943年にはドイツから三号突撃砲が供給され、突撃砲大隊の主力はBT-42から三号突撃砲へと変わります。
BT-42は独立戦車中隊に配属されましたが、1944年になるとドイツも敗勢となりフィンランドもまたソ連軍の攻勢にさらされるようになります。
このため独立戦車中隊もヴィープリという都市の防衛戦に投入され、実戦に参加することになりました。
ですが、本来歩兵支援用の榴弾砲を装備したBT-42は不幸なことに対戦車戦闘に駆り出されてしまい、ソ連軍の戦車と撃ち合って多くの損害を出すことになってしまいます。
生産された18輌のBT-42のうち約半数の8輌がこの戦いで失われました。
BT-42は残念ながらあまり活躍できませんでした。
しかし、本来の使用法である歩兵支援に使われていたら、そこそこの働きはできたのではないかと思います。
そうなれば、使い勝手の悪くなっていた旧式兵器の再利用としてはそれなりの評価を得ていたのではないでしょうか。
その点がちょっと残念な気がします。
それではまた。
- 2012/03/28(水) 21:05:00|
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第一次世界大戦時、英国は海上から水上機ではなく陸上機を発着艦させるべく航空母艦を生み出しました。
当時はまだ航空母艦がどのようなものであるべきかというのがわかっていなかったため、試行錯誤の繰り返しでしたが、それでも「アーガス」や「フューリアス」といった空母を建造するうちに、じょじょに空母の形状というものが決まってきました。
そんな中、第一次大戦の末期、英国海軍はより本格的な空母の建造を行うことにいたします。
この時点ではまだ第一次世界大戦は続行中であったため、手っ取り早く建造するためか南米チリ向けに建造されていた戦艦「アルミランテ・コクレーン」を建造途中で買収し、その船体を使って航空母艦にしてしまおうと考えました。
1918年2月、「アルミランテ・コクレーン」は新たに英国海軍の航空母艦となるべく建造が再開されます。
しかし、程なく第一次世界大戦が終結してしまったため、軍事力増強の必要が無くなった英国は軍事費の削減等を行ったために建造工事は遅々として進みませんでした。
工事をこれ以上続けるかどうかは英国海軍も悩み、一時は建造中止も考えられましたが、航空母艦用の新装備の開発研究を行うという名目で建造は続けられました。
1920年4月には、まだ未完成状態でしたが英国海軍の軍艦として就役し、その航空機運用能力の確認が行われます。
この試験に合格したこの新型空母は、以後の工事続行を認められ、1924年2月にようやく完成します。
戦艦としての建造からは実に10年の月日が経っておりました。
完成した空母は「イーグル」と名付けられ、英国海軍の空母戦力の一翼をになうことになりました。
「イーグル」は航空母艦としてのデザインにすぐれており、以後の英国空母どころか日米の空母にも影響を与えるほどでした。
今でも飛行甲板の右側に艦橋を置くというデザインは受け継がれております。

「イーグル」は残念なことに搭載機数が20機程度と少ないのが弱点でした。
しかし、空母としての完成度はとても高かったらしく、評判は上々でした。
1930年代に入ると旧式化が目立ってきましたが、数少ない英国空母の一隻として保持され続けたのです。

第二次世界大戦が始まると、「イーグル」はまさに東奔西走して活躍しました。
1941年には対空火器の増強なども行われ、老朽艦ながら船団護衛等に欠かせない空母でした。
しかし、1942年8月、マルタ島への輸送船団の護衛として任務中にドイツ潜水艦の魚雷攻撃を受け、発射された魚雷四本中三本が命中するというダメージを受けました。
元は戦艦の船体だったとはいえ、魚雷を三本も食らってはひとたまりもありません。
「イーグル」は横転して沈没。
命中からわずか8分の出来事だったそうです。
「イーグル」の名はのちに戦後就役した新型空母へと引き継がれました。
英国海軍にとってはそれだけ殊勲のあった航空母艦だったということなのかもしれませんね。
それではまた。
- 2012/03/23(金) 21:05:00|
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昭和12年(1937年)、日本陸軍は戦車とともに行動しつつ、その火力でもって戦車を支援する自走砲の開発に着手しました。
具体的にいえば敵の対戦車砲陣地に対する攻撃を行う自走砲と言うことです。
基本的に日本陸軍の戦車は九七式中戦車までは歩兵支援用の戦車であり、その主任務は歩兵の前進を阻む敵の機関銃陣地を攻撃すると言うものでした。
いわば装甲に覆われた移動歩兵砲であり、そのために榴弾火力の高い57ミリ砲を搭載しておりました。
それに対して当然敵は対戦車砲を繰り出してくることが考えられます。
対戦車砲は戦車に対してはやはり強敵の一つです。
歩兵のカバーをするべき戦車が対戦車砲にやられてしまったのでは目も当てられません。
そこで敵の対戦車砲を破壊もしくは制圧するための火砲を積んだ自走砲が必要と考えられました。
この考えに基づいて開発が始まった自走砲でしたが、昭和14年になると敵の対戦車砲ばかりではなくある程度の対戦車能力も必要とされ、開発は最初からやり直しとなりました。
個人的にはこれは途中から対戦車兵器と化していったドイツの三号突撃砲の流れを感じさせます。
この自走砲の主砲として選ばれたのは連隊砲として普及していた四一式山砲でした。
山砲とは山岳地のような険しい地形でも運用可能な軽量小型の火砲のことです。
四一式山砲は軽量小型とはいえ、75ミリの口径を持っておりましたので、榴弾火力は充分なものがありました。
また、徹甲弾も用意されておりましたので、ある程度の対戦車能力も発揮することができました。
そこでこの四一式山砲を改良し、生産が始まっていた九七式中戦車の車体に乗せることで自走砲とする形で開発が進みます。
四一式山砲は砲尾の部分などが改良され、九九式戦車砲として完成しましたが、砲弾自体は四一式山砲のものが共通して使うことができました。
この間に太平洋戦争が始まってしまったことから、この自走砲の開発は優先順位が低くされてしまい、試作車が完成したのは昭和17年(1942年)に入ってからでした。
このとき、九九式戦車砲は四一式山砲の砲弾を使ったために初速が遅く、また装甲貫徹力も低いと言う意見が出されました。
これに対し初速を増した改良砲弾を製造することも考えられましたが、結局この自走砲のためだけに新型砲弾を作るのは効率的ではないとされ、砲弾は四一式山砲の砲弾をそのまま流用することに決まります。
ただし、ドイツからもたらされた成型炸薬弾(いわゆるHEAT弾)を使用することでかなりの装甲貫徹力を発揮することができたため、対戦車能力は高めることができました。
昭和18年(1943年)、生産中の一式中戦車の車体に九九式戦車砲を密閉式の砲塔形式で搭載した新型自走砲が完成し、「二式砲戦車」と名付けられました。
自走砲ではなく砲戦車と呼ばれるのは、砲兵科ではなく機甲科に属するためあくまで戦車の一種とみなされたからです。

しかし、二式砲戦車はここまでの期間が長すぎました。
支援するべき戦車はすでに八九式や九七式中戦車ではなく、同じ口径の75ミリ砲を積んだ三式中戦車が完成するところでした。
しかも、三式中戦車は二式砲戦車の砲よりも長砲身の75ミリ砲でした。
つまり支援するべき戦車よりも弱い砲を積んだ自走砲になってしまっていたのです。
ただ、幸いなことに上で述べましたような成型炸薬弾を撃つことができたため、かろうじて対戦車兵器として使用することが可能でした。
そのため、わずか30輌ほどながらも量産され、三式中戦車とともに本土決戦に備えることになったのです。
ですが、ついに本土決戦は起きませんでした。
二式砲戦車は一度も実戦を経験することなく終わったのです。
やはり開発期間が長すぎたのが二式砲戦車の最大の不幸だったのでしょう。
どんなに良い兵器でも間に合わなければ意味がありません。
戦争における兵器開発の難しさがそこにあるような気がします。
それではまた。
- 2012/03/15(木) 21:05:00|
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第二次世界大戦が始まった1939年、英国海軍は航空母艦に搭載する新型艦上戦闘機の開発をホーカー社とブラックバーン社に命じました。
これに基づき二社が試案を提出。
この試案の優良さからブラックバーン社が新型戦闘機の主契約メーカーとなりました。
しかし、ブラックバーン社ではこの新型機の開発が遅々として進まず、試作機が初飛行したのはなんと3年後の1942年になってからでした。
しかもこれだけ時間をかけたにもかかわらず、試作機の飛行性能は凡庸で運動性も良くないものでした。
第二次大戦序盤は英国海軍にはまともな艦上戦闘機が無かったのですが、この時期には空軍の「スピットファイア」をやむを得ず艦載型にした「シー・ファイア」を空母に載せて運用しておりましたが、これが思った以上に良好であったり、またアメリカからF4F艦上戦闘機を輸入するなど艦上戦闘機問題はこの時点でほぼ解決していたことから、ブラックバーン社の新型戦闘機を必要としなくなっておりました。
そのためこの新型戦闘機用にと用意されていた液冷のセイバーエンジンは空軍の新型戦闘機「タイフーン」用に回されることが決まってしまい、ブラックバーン社の新型戦闘機は開発が中止される可能性がでてきてしまいます。
ところが、この新型戦闘機は大きな兵装搭載能力を持っていたため、魚雷を搭載することの可能な雷撃機としてなら使い道があると判断され、設計を多少変更して戦闘機でありながら魚雷を搭載する世にも珍しい「戦闘雷撃機」として完成させることが決まります。
この戦闘雷撃機型の試作機は1943年に初飛行しましたが、これはセイバーエンジンを搭載しておりました。
しかし、前述のとおりセイバーエンジンは「タイフーン」用に決まってしまったため、新たに空冷のセントーラスエンジンを搭載した試作機を作ることになります。
このセントーラスエンジン搭載の試作機は1943年の年末に完成しましたが、ここでもまた操縦性能の問題とか着陸脚の問題等があり、また改良が必要でした。
この改良にもまた時間がかかってしまい、結局すべての問題点を改良したマーク4が完成し初飛行したのは1945年5月のことでした。
この時点で大西洋での敵だったドイツは降伏してしまっており、さらに量産機が部隊配備されたのが1945年9月と太平洋の敵である日本も降伏してしまうと言うなんとも不幸な状況となってしまいます。
「ファイアブランド」と名付けられたこの戦闘雷撃機は、結局第二次大戦には間に合わず、200機ほどが製造されましたが1953年ごろにはもう第一線からははずされてしまいました。

やはりなんと言っても開発に時間がかかりすぎたことが問題ですが、それにしても不幸としか言いようがないような気もします。
戦闘機だが魚雷も搭載できると言うのは当時の英国海軍にすれば確かに魅力だったのかもしれませんが、戦闘機としての能力が足りないとわかった時点ですっぱりと開発中止にしても良かったのかもしれませんね。
とはいえ、英国海軍はこの「ファイアブランド」の後継機として「ワイヴァーン」と言う戦闘雷撃機を開発していることからも、魚雷を搭載できる戦闘機というものにかなり魅了されていたのかもしれません。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2012/03/06(火) 21:05:00|
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