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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

実はパンチ力は一番

作りもしないのに、またしてもアマゾンでポチってしまったタミヤの1/48ミリタリーミニチュアの「ドイツ6輪トラックKfz.69 3.7センチ対戦車砲牽引型」が到着しましたー。
うーむ、そのうち作りたいとは思うのだけど・・・(^_^;)

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こちらが箱絵。
1/48シリーズの特徴である黒枠の箱絵で、かっこいいですね。
ドイツ軍は大砲の牽引には主にハーフトラックを使っていたので、砲の牽引に特化した砲牽引型トラックというのは珍しいかも。
しかも特徴ある外見のクルップ6輪トラックですからね。

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箱を開けるとこんな感じ。
やはり1/48なだけに細かーい。

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組み立て説明書は昔と違って四か国語表記。
世界のタミヤですねぇ。

Kfz69_20170420211507348.jpg
完成するとこんな感じらしいです。
私にはここまでは全く無理。(笑)

それにしても、これでタミヤの1/48ミリタリーミニチュアシリーズも四つ目。
以前の三つに比べて、実は装甲貫通力だけでいえば、この3.7センチ対戦車砲が一番強力なんですよねー。
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まあ、装甲が全くないのと機動力も牽引式なので乏しいですけどね。
やっぱり5センチ砲型三号戦車が出てほしいですねぇ。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2017/04/20(木) 21:20:53|
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タイヤが八つもあるよ

先日アマゾンでポチりましたタミヤ1/48ミリタリーミニチュアシリーズの「ドイツ八輪重装甲車Sd.kfz.232」が届きましたー。
ヽ(´▽`)ノワァイ

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箱絵はやはりかっこいいですねぇ。
1/48シリーズの特徴である黒地もイラストを引き締めてます。

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箱を開けたところ。
1/35に比べて、やはり一回り小さいです。
まあ、当然か。(笑)

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買ったはいいけど、たぶんこのまま作らないで終わるんでしょうねぇ。
箱を見て、箱を開けて中身を見てニヤニヤして終わりそう。
以前買ったドイツ軍サイドカーも二号戦車もいまだ作らずに放置状態ですからねぇ。
でも、なんかあるだけでうれしいんですよねー。
次はタイガー戦車あたりかなぁ。
初期の短砲身5センチ砲三号戦車あたりが出ると、バルバロッサ初期の独軍が楽しめるんでしょうけどねぇ。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2017/02/10(金) 21:07:10|
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梨→わかば

先日学研の「歴史群像」誌を見ていたら、面白い経歴の艦があったんだなぁというのがありました。

「艦これ」では旧日本海軍の艦艇が結構メジャーになっておりますが、まだ登場していない艦艇も幾種類かありまして、その中に戦争後半に量産されました駆逐艦「松」型があります。
後期艦は小改正が施されたため「橘」型と呼ばれることもありますが、その後期型の中の一隻に「梨」がありました。

駆逐艦「梨」は、終戦の年の1945年(昭和20年)1月に竣工し、その後「回天」搭載のための改装を受けるなどしておりましたが、終戦ひと月前の7月28日、米海軍機の攻撃を受けて瀬戸内海の伊予灘で沈没。
終戦に伴い除籍となりました。

戦後、廃鉄材として利用するために10年ぶりに海底から引き上げられました「梨」でしたが、調査してみると思った以上に状態がよかったことがわかり、修理すれば再利用が可能ではないかとのことから、再度国が買い上げて修理を行い、当時できたばかりの海上自衛隊の戦闘艦として再就役することに。
その際、艦名を「梨」から「わかば」へと変更いたしました。
これは「梨」をそのままひらがなの「なし」にすると、「有る無し」の「無し」と誤認識される可能性を避けるためだったと言います。
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海上自衛隊の護衛艦となった「わかば」は、旧日本海軍の戦闘艦艇がそのまま海上自衛隊でも戦闘艦艇となった唯一の例となったそうで、もちろん同型艦はありません。
そのため艦隊行動などの面で難があり、兵装実験艦的な扱いだったとのこと。
1971年まで在籍し、今度こそスクラップになったそうです。

いやぁ、こんな艦が海上自衛隊にあったんですねぇ。
まったく存じませんでした。
数奇な運命をたどった軍艦と言うのは何隻もありますが、「梨」→「わかば」もまたそのうちの一隻と言っていいのではないでしょうか。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2016/01/23(土) 20:54:08|
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最後の戦いから200年

今日6月18日は、かのフランス皇帝ナポレオン一世(以下ナポレオン)が最後に戦った「ワーテルローの戦い(1815年6月18日)」のあった日でした。
あれから今日で丸200年です。
フランスではイベントもあったそうですね。

1805年、「アウステルリッツの戦い」でオーストリア・ロシア連合軍を打ち破り、そのピークを迎えたというナポレオンでしたが、英国を中心とした「対仏大同盟」は何度となく再設立され、フランスをじょじょに締め付けます。
1806年の「イエナ・アウエルシュタットの戦い」や1809年の「ワグラムの戦い」などで勝利を収めてきたナポレオンでしたが、1812年の「ロシア侵攻」ではモスクワまで占領するもついにロシアを屈服させることはかなわず、撤退行において多数の兵を失い大敗北を喫しました。

その後はフランスが押される形となり、1813年の「ライプツィヒの戦い」や1914年の「フランス国内の戦い」を経て、ついにナポレオンは皇帝の位を退位。
エルバ島へと追放されてしまいました。

ナポレオンを追い出した連合国でしたが、戦後処理で各国の利害が衝突。
ウィーンで連日会議が行われるも、「会議は踊る、されど会議は進まず」という状況に。
その様子を見たナポレオンは、エルバ島を脱出し、再びフランスに舞い戻ります。
ナポレオンはパリへ向かう道中、あちこちで歓呼の声で迎えられ、ナポレオンのあと国王となったルイ18世は国外への脱出をせざるを得なくなります。
ナポレオンが皇帝に復位すると、連合国はともかく再度ナポレオンを倒すことが急務としてウィーンでの会議を集結させ、第七次対仏大同盟を結成。
ナポレオンもこれに対して兵を集め、再び戦争が始まります。

ナポレオンは同盟各国を各個撃破するべく、ベルギーにいるイギリス・オランダ連合軍を最初の目標にしました。
イギリス・オランダ連合軍は「スペインでの戦い」でフランス軍を翻弄したウェリントン公が指揮官でしたが、彼の指揮下の兵士たちは新兵も多く、また半数がイギリス以外の国の兵であり、ウェリントン公も兵士の質が低いと嘆いたといいます。

1815年6月15日の前哨戦でプロイセン軍を追い払ったナポレオンは、配下のグルーシー元帥に全軍の三分の一の兵三万を与え、プロイセン軍を追撃させます。
ナポレオンは残った兵七万を率いて、イギリス・オランダ連合軍へと向かいました。

1815年6月18日、ワーテルローという名の村の近くで両軍は激突します。
「ワーテルローの戦い」の始まりでした。
この戦いで、質が低いと嘆かれたイギリス・オランダ連合軍でしたが、ウェリントン公の指揮の下でプロイセン軍が合流するまで負けない戦いに徹し、フランス軍の攻撃をしのぎます。
ナポレオンは敵がなかなか崩壊しないことに焦りを募らせますが、最後には何とか勝利できるだろうと思っておりました。
何せイギリス・オランダ連合軍は孤立状態であり、追い払ったプロイセン軍が救援に来るにはどんなに早くても今日中は無理と見ていたのです。

しかし、プロイセン軍は予想外の速さで戦場に到着しました。
グルーシー元帥がプロイセン軍を補足できなかったのです。
イギリス・オランダ連合軍との戦いの最中に横からプロイセン軍に攻撃されたフランス軍はひとたまりもありませんでした。

結局フランス軍は崩壊し、ナポレオンは再び皇帝の位を追われセントヘレナ島に追放されました。
ナポレオンはそこで最後を迎えることになります。

ナポレオン最後の戦いとなった「ワーテルローの戦い」
慣用句などでは人生の転機や大失敗などを「(その人にとっての)ワーテルローだったね」などと言ったりもするとか。
ナポレオンにとっては最後の希望を砕かれた戦いだったのかもしれませんね。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2015/06/18(木) 21:38:08|
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6月5日は?

1942年6月5日は日本海軍とアメリカ海軍が戦った「ミッドウェー海戦」の日、というのは最近は「艦これ」のブームなどでわりと知られてきたことだと思います。

それじゃほかには何かないかなと思ったら、なんと1967年の6月5日はイスラエルとアラブ諸国が戦った「第三次中東戦争」が開戦となった日でした。

「中東戦争」とは、第二次大戦後に中東のエルサレムを中心としたパレスチナ地域にユダヤ人が「イスラエル」という国を建国したことから始まった戦争で、現在までに「中東戦争」と呼ばれるものは第一次から第四次までの四回行われています。

もともとは第一次世界大戦後にオスマン帝国の支配下から英国の委任統治領となったパレスチナは、ユダヤ人が各地から移住してきたことで現地に住むパレスチナのアラブ人とじょじょに険悪な関係になっておりました。
英国はアラブ人にもユダヤ人にもいい顔をした二枚舌外交を行っておりましたが、第二次大戦のナチスによるホロコーストを逃れたユダヤ人が大量に流入してきたことで、ユダヤ人とアラブ人との衝突は避けられないものになってしまいます。

英国は事態がもはや手に負えないと判断し、委任統治を放棄してできたばかりの国連に問題を丸投げ。
国連は米ソの主導の下でパレスチナをユダヤとアラブで分割するという国連決議を行いますが、肥沃な土地のほとんどがユダヤ人、荒れた土地にアラブ人という分割案だったためにアラブが反発。
そんな中でユダヤ人は1948年に「イスラエル」を建国。
アラブ側は即座に新国家イスラエルに宣戦を布告し、「第一次中東戦争」が始まりました。

「第一次中東戦争」はイスラエル側有利のうちに停戦となり、イスラエルはとりあえずの独立を確保します。
しかし、中東に平和がやってきたわけではなく、イスラエルは常に周囲を敵国に囲まれている状態でした。

「第一次中東戦争」から19年後、再びイスラエルと周辺国の情勢は悪化。
これには米ソの思惑もありましたが、イスラエルは国家存続のためには座して敵の攻撃を受けるのではなく先制攻撃が必要と判断。
1967年の6月5日にエジプト、シリア、ヨルダンなどの周辺国に対して先制攻撃を仕掛けたのです。
「第三次中東戦争」が始まったのでした。
(「第二次中東戦争」はスエズ運河に絡んで1956年に発生してました)

戦争は先制攻撃を仕掛けたイスラエルが圧倒的に有利で、わずか6日間で戦闘は終結。
停戦時にはイスラエルは戦争前の4倍以上もの土地を占領しておりました。

一敗地にまみれたアラブ諸国でしたが、このままやられているつもりはなく、水面下で力を蓄えます。
やがてそれは「第四次中東戦争」へと向かうのでした。

中東は今現在も平和とは程遠い状況ですね。
日本も石油の大半を中東からの輸入に頼ってますから、この地域が安定してくれるといいのですが。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2015/06/05(金) 21:27:09|
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ユーちゃんの姉妹ですが・・・(2)

「U-505」は艦長こそ失いましたが、艦そのものは健在でした。
そこでドイツ海軍は艦長自殺などの不幸続きだった「U-505」を何とか厄払いしようと言うことで、ランゲ予備大尉(中尉とも)を潜水艦隊司令のデーニッツ提督自らが送り込みます。

ランゲ艦長の指揮の下、新たな気持ちで航海に出た「U-505」は、味方艦の乗員救出などに携わったのち、再び大西洋へと赴きました。

その頃、ようやく大西洋での対Uボート戦に余裕を持ち始めていた米海軍は、船団輸送に護衛艦をつけるだけではなく、護衛空母を中心とした対潜機動部隊を編成し、逆にUボートを狩るハンターキラー作戦を展開するようになっておりました。

カサブランカ級護衛空母「ガダルカナル」を中心とした対潜機動部隊もその一つで、「ガダルカナル」艦長のギャラリー大佐の指揮の下、Uボートの捜索を行なっておりました。
ギャラリー大佐の下には暗号解読でもたらされた情報から、カーボベルデ周辺の海域でUボートが活動しているということを知っており、今回はその近辺でUボート狩りを行なうと同時にある計画を実行しようと考えておりました。
その計画とは、無傷でUボートを鹵獲することだったのです。

航空機の登場以後、潜水艦にとっての最大の脅威は航空機でした。
当時の潜水艦が商船を攻撃しようとするぐらいの深度では、上空の航空機からはほぼ丸見えでした。
そのため、航空機はUボートのいる位置をすぐに察知し、攻撃を加えることも味方艦を誘導することもたやすいことだったのです。

それでも第二次大戦前半は、英国本土や他の航空基地から離れた大西洋の中央付近では航空機の航続距離が足りずに飛んでくることのできない海域があり、そこではUボートが航空機の心配をすることなく商船攻撃を行えました。
しかし、アメリカが参戦すると、その巨大な工業力は商船護衛のための護衛空母を多数送り出してきており、船団には護衛空母の艦載機が空からUボートを警戒するようになりました。
つまり大西洋の真ん中であっても、護衛空母がいればUボートは航空攻撃を受けるようになってしまったのです。

そのため、Uボート乗員の間では士気の低下が激しくなり、航空攻撃に限らず攻撃を受けたUボートは、船体の損傷がまだそれほどひどくないにもかかわらず、浮上して乗員が脱出したあと自沈すると言う事例が多くなってきておりました。
ギャラリー大佐はその事例に鑑み、自沈する前にUボートを鹵獲してしまおうと考えたのです。

とは言うものの、Uボートの捜索は思うように行かず、燃料も乏しくなってきたため今回は空振りかと港に戻ることをギャラリー大佐は決断しました。
このとき、ほんのちょっとの偶然さえあれば、「U-505」は彼らと出合うことはなかったかも知れません。
しかし、運命のいたずらか、1944年6月4日、護衛空母「ガダルカナル」機動部隊は、Uボートと思われるものと接触したのです。

ギャラリー大佐は直ちに上空にいた直援機をその場に向かわせ、さらに艦載機を発進させます。
「ガダルカナル」の護衛に当たっていた護衛駆逐艦も向かわせ、そのUボートを捕獲するよう指示を出しました。

「ガダルカナル」の艦載機と護衛駆逐艦は連携して「U-505」を攻撃します。
F4F戦闘機が「U-505」の潜航している海面に銃撃を行い、その水柱で護衛駆逐艦に位置を知らせると、護衛駆逐艦がすかさず爆雷やヘッジホッグなどの対潜兵器を投下します。
「U-505」もランゲ艦長の指揮の下、果敢に魚雷で反撃しますが、空海からの攻撃にはいかんともしがたく、やがて爆雷によるダメージを受け、後部魚雷発射管室から浸水が始まってしまいました。

ランゲ艦長はもはやこれまでと決断。
浮上して総員脱出後、「U-505」を自沈させることを決定します。
その命令に従い「U-505」は浮上。
ランゲ艦長はクルーの安全を確認するために一番最初に艦外へ出ますが、そこに護衛駆逐艦からの射撃を受けて負傷してしまいます。
クルーは負傷した艦長をともに連れ出して海へと飛び込み、「U-505」はここに放棄されました。

このチャンスを逃すなとばかりに、ギャラリー大佐からの命令を受けていた護衛駆逐艦「ピルスベリー」は鹵獲要員を乗せたボートを発進。
ボートはまだ自沈が完全に行なわれる前だった「U-505」に到着し、米軍の鹵獲要員が艦内へと入りました。

その後「ガダルカナル」からも要員が到着し、何とか「U-505」の自沈を食い止めることに成功します。
こうして米英戦争以来二度目の海上での戦闘中に鹵獲した敵軍艦として「U-505」はバミューダ諸島のポートロイヤルへと曳航されました。
ランゲ艦長以下の「U-505」乗組員は一人を除いて全員が救助され、米軍の捕虜として扱われました。(一人は戦死)

鹵獲された「U-505」は徹底的に調査され、中でもエニグマ暗号機やその暗号表、海域の座標など多くの情報が米軍の知るところとなりました。
米軍は「U-505」の鹵獲を秘匿し、沈んだことにするため、捕虜となった乗組員たちのことも国際赤十字を通しての相手国への通告等行ないませんでした。
ギャラリー大佐率いる「ガダルカナル」機動部隊に対する勲章の授与なども、公表されたのは戦後になってからだったといいます。

鹵獲された「U-505」は分析されたのち、標的艦として沈められる予定でした。
しかし、ギャラリー大佐とその兄等の働きかけで、シカゴの博物館が引き取ることとなり、破壊されることをまぬがれました。
現在では屋外展示から屋内展示に切り替えられ、アメリカの国定歴史建造物として大事に保管されているといいます。
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「Uボート史上最悪の損傷を受けても帰還した名誉の艦」から、一転して「戦闘中に艦長が自殺を図った艦」という不名誉を受け、さらには「戦闘中に鹵獲されてしまった不運の艦」となった「U-505」でしたが、ⅨC型潜水艦として唯一今でも現存する艦として生きながらえているというとても数奇な運命の潜水艦だと思います。
はたして「U-505」は幸運だったのでしょうか、不運だったのでしょうか。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2015/02/25(水) 20:32:42|
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ユーちゃんの姉妹ですが・・・(1)

「艦これ」で話題になりましたユーちゃんこと「U-511」は、ドイツ海軍のⅨC型と言う型のUボートです。

Ⅸ型は各型合計で280隻以上も作られた量産型潜水艦ですが、ドイツ海軍の基準では大型の部類の潜水艦であり、より小型で700隻以上も建造されたⅦ型に比較すれば建造に手間がかかると見られていた潜水艦でした。

「U-511」には何隻もの姉妹艦がいたわけですが、そのうちの一隻、「U-505」と言う潜水艦は、日本に来て「呂号500」となった「U-511」に負けず劣らずの数奇な運命をたどった艦でした。

「U-505」潜水艦は1941年5月に進水し、8月には就役しました。
排水量は水上では1120トン、水中では1230トン。
魚雷発射管を艦首側に4本、艦尾側に2本の計6本装備し、浮上して敵商船を攻撃するための10センチ単装砲1門と対空戦闘用の対空機関砲を装備しておりました。
最初の艦長はローヴェ大尉で、「U-505」は彼の指揮の下、3回の航海を行い何隻かの商船を撃沈する戦果を上げました。

1942年9月、ローヴェ大尉が病気のため艦長職を離れ、二代目艦長ツェッへ大尉が「U-505」の指揮を取ることになります。

ツェッへ大尉の指揮下、4度目の航海に出た「U-505」でしたが、このとき浮上航行中に英空軍のハドソン爆撃機の攻撃を受けます。
超低空で攻撃してきたハドソン爆撃機は、四発の爆雷を投下しましたが、そのうちの一発が「U-505」の船体を直撃。
その爆発はなんと上空ぎりぎりのところを飛んでいたハドソン爆撃機にすらダメージを与え、ハドソン爆撃機はそのまま海面に激突するように墜落してしまいます。
「U-505」の方もただでは済まず、セイル(潜水艦の上部構造物のこと)後部の対空機関砲は吹き飛び、船体の耐圧殻(潜水艦の船体の中で水圧に耐える部分)にも穴が開き、内部に浸水する状況でした。

この状況に艦長のツェッへ大尉は一度は総員退艦を命じるほどでしたが、部下の機関員たちが応急修理は可能と進言したため撤回。
努力の甲斐があって何とか応急修理に成功した「U-505」は、占領下フランスのロリアンUボート基地に帰還することができました。

「U-505」の帰還はドイツ海軍でも賞賛され、「U-505」は「もっとも甚大な損傷を受けながら帰還したUボート」という名誉の称号を与えられました。

しかし、「U-505」の幸運は長くは続きませんでした。

その後は出撃するたびにどこかが故障したり作動しなくなるなどで、早々に基地に戻らなくてはならないことばかりでした。
これは占領下のロリアン基地では基地で働くフランス人たちがサボタージュや破壊工作などを行なって、「U-505」の出撃を妨害したためもありましたが、仲間のUボート乗りたちからは何もできずにすぐに帰ってくる「U-505」とツェッへ艦長を「常に無事に帰還する艦長」などと揶揄することもあったと言います。

それでも「U-505」は10回目の航海に出発いたします。
今度は故障もなく、久々に獲物に巡り会えるかと期待は高まりましたが、アゾレス諸島沖で英軍駆逐艦に発見され、執拗な追跡を受けることになってしまいました。

「U-505」は潜航し、駆逐艦の攻撃に耐えていきますが、先に耐えられなくなったのは艦長でした。
なんとツェッへ大尉は、戦闘時のストレスに耐えかねたのか、皆の目の前で拳銃を取り出し自分の頭を撃ったのです。
ツェッへ大尉はほどなく死亡し、先任士官のマイヤー中尉が指揮を引き継いで何とか駆逐艦をやり過ごし、無事に帰還することができました。
しかし、「U-505」は前代未聞の艦長が潜航中に戦闘時にもかかわらず自殺を試みた潜水艦というとんでもなくありがたくない名称をいただくことになってしまったのでした。

(続く)
  1. 2015/02/24(火) 20:47:50|
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英国製戦車の最高傑作かも?

グランドパワー誌の2月号が到着いたしました。
月刊誌の世界ではもう2月なんですなぁ。

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こちらが表紙。
今号は第二次大戦後半に開発され、戦後に活躍した英国製戦車「センチュリオン戦車シリーズ」です。

「センチュリオン」戦車は英国が第二次大戦後半に開発した攻撃、防御、機動力のバランスの取れた戦車ですが、残念ながら第二次大戦には間に合いませんでした。(数輌が参戦したと言う説もありますが、ほぼ戦力とはならなかったでしょう)
そのため、実質的には戦後第一世代の戦車ということになりますが、朝鮮戦争やベトナム戦争、さらには中東戦争にも参加し、その優秀性は証明された戦車です。
おそらく英国製戦車としては最高傑作と呼んでも差し支えないかもしれません。

今号はその「センチュリオン」の戦場での写真と、イスラエルおよび南アフリカで独自に改良された「センチュリオン」の改修型、さらには装甲回収車などの派生型車輌についての記事が掲載されているようです。

「センチュリオン」もそうなのですが、私は基本的に第二次大戦における戦車はわりと存じておりますが、戦後の戦車はあまり詳しくないので、今号も面白く読めそうです。
英国びいきの私としては、「センチュリオン」は英国戦車の花と言ってもいい戦車だと思いますので、詳しく知ることができてうれしい限り。

また第二特集では三号突撃砲の特殊仕様型の記事が載っており、前線で改修されたりした三突についてわかる限りの解説が載っているようです。
三突はドイツ軍にしてはとても多くの数が製造されているので、現地で好き勝手に改修した車両も実に多く、そのほとんどは不足しがちな防御装甲をできるだけ手持ちの材料で強化しようとしたものといえるようです。

カラーでは陸上自衛隊第2師団の転地演習の様子などが載っておりました。

次号はまたしても戦後型戦車のM26の特集のようです。
次号も楽しみですね。
それではまた。
  1. 2014/12/30(火) 20:44:10|
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速度は遅いが悪路にゃ強い

第二次世界大戦も3年目に入った1941年。
ヒトラー率いるナチスドイツは満を持して6月にソ連侵攻作戦「バルバロッサ」を開始しました。

作戦は比較的順調に進み、ソ連軍は各所でドイツ軍に敗退。
このまま行けばヒトラーの目論みどおりに「ドアひと蹴り」でソ連は崩壊するのではとも思われました。
しかし、ソ連奥地に攻め込んで行くに従い、季節は秋に。
やがて秋の雨がソ連の貧弱な未舗装道路を泥沼へと変えてしまいます。
長靴も取られるような粘り気のある泥濘は、履帯で走る戦車やハーフトラックならまだかろうじて走ることができましたが、車輪で走る普通の乗用車やトラックはとても走ることができないようなものでした。

そうなれば前線に物資を運ぶトラックは立ち往生し、物資が前線には届きません。
物資がなければ戦車も兵も戦えず、ドイツ軍の進撃はストップしてしまったのです。

このことはソ連との戦争を早期に終わらせたかったドイツ軍にとっては大きな問題となりました。
結局ソ連は1941年の冬を生き延び、独ソ戦はさらに続くことになったのです。

翌1942年。
ドイツ軍は春と秋の泥濘期にトラックに替わる履帯式の輸送・牽引用車輌が必要と言う認識から、シュタイアー社に開発が命じられました。
シュタイアー社には速度はそれほど求めないが低コストで量産性に優れ、泥濘や深雪の中でも問題なく走れる車輌を開発せよとの指示が出され、それに基づいて新型の履帯式車輌が開発されました。
それが「ラウペンシュレッパーオスト(東方用装軌式車輌)」略してRSOでした。
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RSOはエンジンは量産中の軍用大型乗用車のをそのまま流用し、転輪はプレス式の生産が簡単なものが用いられ、片側四つの転輪をまとめて一つのリーフスプリングで支えるなどとても簡易で低コストな機構でまとめられておりました。
最低地上高も高く取られ、少々のことでは腹をこすらないようにもされておりました。

こうして完成したRSOは泥濘期には無類の強みを発揮しました。
乗用車やトラックでは全く走れないような泥道でも、RSOなら難なく走ることができたのです。
大砲の牽引などでもRSOは泥や雪の中を縦横無尽に走ることができました。
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しかし、履帯式を選んだことで、最高速度は低いものにならざるをえませんでした。
RSOは最大でも時速17キロほどしか出すことができず、夏の道ではかえって足手まといなほど低速だったのです。
そのため、戦争後半になって撤退戦闘が多くなると、多くのRSOがその低速ゆえに逃げ切れず撃破されることが多くなったと言います。

ですが、ソ連の悪路ばかりではなく状況のよくない路面での移動には充分な能力を持っていたRSOは前線には欠かせない車輌でした。
ドイツ軍はシュタイアー社だけではなく数社に量産を命じ、終戦までに2万7千輌以上もが生産されたと言います。
ドイツ軍の縁の下の力持ちとして、RSOはその能力を充分に発揮した車輌といえるでしょう。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2014/12/26(金) 20:58:53|
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本国の上空を守ることはかなわなかった

第二次世界大戦前、チェコスロバキアは欧州では工業国として知られておりました。
その工業力は当然軍用の兵器の分野でも力を発揮しており、チェコ製のLTvz.35やLTvz.38という戦車はのちにドイツ軍に35(t)や38(t)戦車として使用されました。

それは航空機の分野でも同様で、チェコスロバキアのアヴィア社は1933年に空軍の主力となる戦闘機の試作機を初飛行させました。
この新型戦闘機は、当時としてはじょじょに旧式の域に入っていた複葉のスタイルをとっており、胴体下部と操縦席上方に胴体から放して設けられた上部翼といういささか古めかしい形状ではありましたが、ソ連のI-15と並び当時最強の複葉戦闘機の一つでした。
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チェコスロバキアはこの新型戦闘機にB.534のナンバーを与え、アヴィアB.534としてチェコスロバキア空軍の主力戦闘機として量産が図られます。
500機以上も量産されたB.534はだんだんきな臭くなっている欧州情勢に対し、祖国の上空を守るために活躍が期待されておりました。
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しかし、情勢はチェコスロバキアにとって予想外の方向へと進みます。
ドイツの有形無形の圧力により、ついにチェコとスロバキアは分離させられ、チェコはドイツに併合され、スロバキアは単独で独立と言うことになりました。
アヴィアB.534もチェコとスロバキアに分けられ、チェコに残ったものはドイツ空軍機へと編入されてしまったのです。
それはLTvz35やLTvz38と同じ運命でした。

その後、ドイツ空軍機となったアヴィアB.534はポーランド戦や独ソ戦初期までは戦闘機としてドイツ軍の上空を守り、それ以後は練習機としてドイツ空軍のために働きました。
一部は夜間戦闘機としても使われ、また空母艦載機としても使用する計画もあったといいます。

本来ならチェコスロバキアの空を守るはずだったB.534戦闘機。
複葉機としては最優秀の部類に属すると言われた機体でしたので、ドイツ軍にとってはそれなりに役に立った機体だったでしょう。
しかし、35(t)戦車や38(t)戦車ほどには有名になれなかったのは、ドイツ空軍にはすでにメッサーシュミットBf109と言う優秀な戦闘機があり、その影に隠れてしまったからかもしれませんね。

今日はこんなところで。
それではまた。
  1. 2014/12/18(木) 21:03:27|
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