三年連続更新記念SS大会新作中編の五回目です。
それではどうぞ。
5、
「おはよう」
テーブルについて新聞を読み始める健太。
望美はすでに起きて朝食の支度をしてくれている。
熱いコーヒーで目を覚まし、新聞に目を通すのが朝の日課だ。
「おはよう健太さん・・・」
なんとなく望美の声は元気が無い。
疲れが取れないのか表情もうつむき加減でよく見えない。
「大丈夫かい?」
「えっ? な、何が?」
健太がいたわるように声をかけると、望美はびっくりしたように振り返る。
「いや・・・まだ疲れが取れないのかなと思って・・・」
「あ、え、ええ。出張なんて初めてだったから疲れが抜けないの」
ぎこちない笑みを浮かべる望美。
素敵な笑顔だが、多少のかげりを帯びていた。
「そうか。無理はしないようにね」
「ええ、大丈夫」
そう言うと、望美はすぐにキッチンにもどって行く。
健太もそれ以上のことは言わずに、朝の支度に没頭した。
内心の動揺を気づかれなかったかとどきどきする。
健太に声をかけられたとき、真っ先に思ったのは越久村との夜のことだったのだ。
健太を裏切って別の男に抱かれたという事実が、望美の心を苛んでいく。
だが、もう二度としてはいけないと思いつつも、これから会社に行くことを考えると、望美の心臓は高鳴った。
そのことがまた望美の胸中を複雑にし、健太の顔をまともに見られなくしていたのだ。
健太が朝食を食べ終え、身支度を整えて出勤していったとき、望美は心の底から安堵する自分に気がついた。
健太が出かけてしまうと、望美の心は羽ばたき始める。
いそいそと下着を脱ぎ、黒の淫靡さを漂わせる下着に取り替える。
化粧台に向き合ってメイクをし始めると、いつしか健太のことは望美の心から消えていく。
越久村に会える。
越久村と仕事ができる。
そう思っただけで、望美は胸がきゅんとなる。
もう過ちはしてはいけないという思いが、もう一度抱かれたいという思いに塗りつぶされていく。
「部長・・・」
赤く塗られたつややかでなまめかしい唇が、思わず越久村を呼んでいた。
仕事にはあまり似つかわしくない胸元の開いたスーツに身を包むと、望美は越久村の待つ待ち合わせの場所へと向かっていった。
「おはようございます」
にこやかな笑顔で助手席に乗り込む望美。
車内に充満するタバコの煙がなんとなく心地よい。
待ち合わせ場所の近くの自動販売機で買ってきたタバコを、望美は早速取り出した。
それを見た越久村が笑みを浮かべてライターを渡してくる。
「ありがとうございます、部長」
自分でもバッグからライターを取り出そうとしていた望美は、越久村の心遣いに感謝する。
タバコに火をつけた望美は、深々と煙を吸い込み、タバコの味を堪能する。
「ふう・・・美味しい。夕べは吸えなかったから美味しいわ」
脚を組み、タバコをくゆらす望美の姿は美しい。
越久村もその姿には思わず目を奪われそうになる。
「ふふ。やはり塩原君の前では吸えないか? かわいそうに」
「あの人タバコが嫌いなんです。こんなに美味しいのに。ふう・・・」
そういう自分も先日まではタバコが嫌いだったのだ。
今から考えるとバカみたいな話だと思う。
何事も知らないで嫌うのはよくないことだわね。
「塩原君はまじめだからな。タバコを吸うのは不良とでも思っているんじゃないか?」
「うふふふ・・・そうかも」
他愛も無い会話だが、越久村との会話は楽しかった。
望美の心の中に健太の占める割合がどんどん小さくなっていっているのを、望美は気づくことすらなかったのだった。
月曜日ということで、越久村の仕事も忙しい。
望美にとっても細かな仕事が多くなる。
いつしか望美は仕事中にもタバコを吸っていた。
タバコを吸うと頭がすっきりして、仕事がはかどるような気がするのだ。
一本二本と吸っていき、無くなると買ってくる。
越久村の机に置かれた灰皿も、望美の机に置かれた灰皿も、みるみるうちに吸殻がたまっていた。
それでも忙しいとはいえ、段取りのよい越久村のこと夜の七時には仕事は終わる。
「塩原君は今日も遅いのだろう? 食事にいこう」
明日の段取りを整えていた望美に越久村が声をかける。
「えっ? その・・・」
一瞬のためらいを見せる望美。
やはり健太のことが気になるのだ。
「どうした? 何か気になることでもあるのかな」
「・・・部長、お誘いいただいてありがとうございます。本当にうれしいです。でも・・・私は人妻です。塩原健太の妻なんです。これ以上ご好意に甘えるわけには・・・」
うつむいている望美。
「望美は何か誤解しているんじゃないか? これは上司と部下がコミニュケーションを図っているに過ぎないんだよ。心配はいらない。存分に甘えてもらってかまわないんだ」
「えっ?」
望美は思わず顔を上げる。
上司と部下のコミニュケーションに過ぎない?
「ここは会社だ。上司と部下がコミニュケーションを図って何が悪いのかな?」
越久村の笑顔に望美の心は揺れていく。
健太のことを考えていたのがスーッと消えていくのだ。
そうだわ・・・
私は部長の秘書役だもの。
一緒に食事をしたりすることは何もおかしいことではないじゃない。
むしろお互いの仕事上必要なことではないだろうか。
そんなことも気がつかないなんて・・・
望美は自分の浅はかさに恥じ入ってしまう。
それと同時に、そのことを気づかせてくれた越久村にあらためて心酔する。
健太にはとても感じられない魅力に、望美は心を奪われていたのだ。
これは上司と部下のコミニュケーション。
望美の心が軽くなる。
「そうだろう、望美?」
もはや望美にためらいはない。
「はい、部長。喜んでご一緒いたします」
二人は連れ立って夜の街に向かっていった。
週明け月曜ということもあり、企画開発部はてんてこ舞いの忙しさだった。
健太は夕食を食べる暇もなく、買ってきておいたパンをかじりながら業務をこなしていき、ようやく会社を出たのは夜の十二時近かった。
「ふう・・・」
ため息をつき帰路につく健太。
ここからは電車で40分ほどかかる。
それでも都心に近いところに家があるおかげで、通勤に一時間も二時間もかからないのは助かるが。
健太が家に帰ってくると、部屋の窓に灯りがついているのが見える。
望美が起きているのか?
愛する妻が起きて待っていてくれたことに、健太はすごくうれしくなる。
先ほどまでのしかかっていた疲労感も軽くなったくらいだ。
健太は足取りも軽く、マンションの入り口をくぐるのだった。
「ただいまぁ」
そう声を出し、リビングに入ってくる健太。
「あ、お帰りなさい」
バスタオルで髪を拭きながら健太を迎える望美。
シャワーでも浴びていたみたいだが、その顔はほんのりと赤い。
「起きていたのかい? もう一時だよ。先に寝ててもよかったのに」
望美が起きていてくれたのがうれしいくせに、健太はついついそう言ってしまう。
望美が寝不足で体調でも崩したらと思うと、起きて待っている必要はないと思うのだ。
「ええ、先に寝かせてもらうわね。私もさっき帰ってきたものだから」
「えっ? さっき?」
健太は驚いた。
どういうことだ?
こんな遅くまで仕事だったのか?
「あ・・・え~とね、越久村部長にお付き合いして取引先の人を交えて飲んできたの。接待みたいなものなのよ。いやになっちゃうよね」
望美がふいと目をそらす。
「お食事はしたの? 何か食べる?」
「あ、いや、いい」
健太はネクタイをはずしながら申し出を断る。
酒を飲んできたという望美。
顔が赤いのはそのせいか・・・
それにしても・・・
セクハラ部長ともあだ名される越久村部長と、どこか知らないが取引先のオヤジたちに囲まれてお酒を飲む望美。
その光景を想像しただけで胸が苦しくなる。
雑務を処理するだけのはずだったのに・・・
そんな接待のようなことも業務に入るなら断ればよかった。
望美に言おう。
もうやめてと言おう。
「望美・・・」
「それじゃおやすみなさい」
健太が何か言おうとしたのもつかの間、望美はその声を聞きとめることも無く部屋に行ってしまう。
あ・・・
まあ、いいか・・・
明日言えば・・・
健太は何かがおかしくなっているような気がしながらも、どこがおかしいのかわからなかった。
「ふう・・・」
ベッドに横になった望美は、自分があっさりと嘘を言ってしまったことに驚いた。
越久村との付き合いは上司と部下のコミニュケーションだと越久村に言われてから、望美はすごく心が軽くなったのを感じていた。
帰りに越久村と二人で食事をし、お勧めの店でカクテルを飲んだのもすごく楽しくて、時間が経つのを忘れるほどだった。
そう・・・
彼の言うとおりこれは上司と部下のコミニュケーションの一種に過ぎないのだ。
ただ、健太によけいな心配をさせたくないための方便なのだ。
二人きりで食事をしたといえば、いくら健太でも気にするだろう。
もしかしたら彼のところに何か言ってくるかもしれないし、仕事をやめろって言われるかも・・・
望美はぞっとした。
仕事をやめるなんて考えられもしない。
越久村と過ごす時間は、それほど望美には大事な時間となっていたのだ。
そう・・・健太なんかといる時間よりも・・・
「望美、ちょっといいかな」
翌朝、健太は望美に夕べの考えを切り出した。
「どうしたの、健太さん?」
朝の忙しい状況の中だが、望美は健太の話に耳を傾ける。
「うん、仕事のことなんだけど・・・接待やらタバコやらで望美も大変そうだなって思うんだ。だから、望美が大変ならやめていいんだよ」
なんとなく正面切ってやめろとは言いづらい。
でも、こう言えば、望美はきっと仕事をやめてくれるだろうという思いが健太にはあったのだ。
「大変なんかじゃないわよ。やめるつもりなんて無いわ」
「えっ?」
健太の顔に驚きが浮かぶ。
「こちらからやりますって言って契約してもらったのにやめられるはずないでしょ? それに結構仕事は面白いのよ。越久村部長にだってずいぶん頼りにしてもらっているんだから」
なんとなく気分を損ねたような望美の口調に健太は戸惑う。
美味しそうなトーストが出されたが、健太は食欲がなくなっていくのを感じていた。
「そ、そうか? でもずいぶん帰りも遅いようだし・・・」
「健太さんも遅いしいいじゃない。仕事だから遅くなることもあるわ。仕方ないでしょ」
自分のトーストを食べ始める望美。
その行為が無言でこれ以上の会話を拒否しているかのようだった。
「望美が大変じゃないんならいいんだ。ただちょっと大変かなって思ったから・・・」
「大丈夫。心配しないで」
もくもくと食事を続ける望美。
健太にはそれ以上の言葉は出せなかった。
迎えに来てくれた越久村の車の助手席に乗り込み、脚を組んでタバコに火をつける望美。
タバコの煙が肺に染みとおり、心がとても落ち着いていく。
「ふう・・・やっぱり美味しいわぁ。タバコを吸うと落ち着きますよね」
「ああ、いいものだろ、タバコは」
「ええ。今まで吸わずにきたなんてバカみたい。もっと前から吸っていればよかったわ」
タバコの煙を満足そうに吐き出す望美。
その様子に越久村も思わず目を細める。
「そうそう、聞いてください部長。健太さんたら今朝とんでもないこと言うんですよ」
「ん? どうしたんだい」
「私に会社をやめろって言うんです。冗談じゃないわ。やめるなんてありえない」
思い出して気分が悪くなったのか、吸い終わったタバコを灰皿で押しつぶし、さらに一本火をつける。
「私、今のこの仕事が気に入っているんです。私、部長のお役に多少なりとも立ってませんか?」
「多少どころか、望美は充分に役立っているさ。感謝しているよ」
越久村の手がいつものように太ももに伸びてくることに望美はとてもうれしくなる。
「うれしい・・・部長の手、温かい」
「望美のここはいつもいい手触りだ。ストッキングを穿いた脚は素敵だよ」
「ありがとうございます部長。私の脚、もっともっと触ってください。触られるのってすごく気持ちいい・・・」
健太に対して感じたとげとげしい気持ちが、越久村の手によってほぐされる。
望美の心と躰は越久村によってどんどん変えられてしまうのだった。
「望美、ちょっといいかな?」
「はい、何でしょうか部長」
仕事をしていた望美は吸っていたタバコを消し、越久村のそばに行く。
「今朝の件だが・・・塩原君とすれ違いが多くなってきているんだろう。このままでは望美にも塩原君にもよくない状況になりかねない」
「そうかもしれません。最近健太さんたら私のことを理解してくれてないみたいで・・・」
望美は素直にうなずいた。
「ああ、このところ企画開発も残業続きだからな。そこで考えたんだが・・・」
「はい」
「プロジェクトの一環の業務を塩原君にやってもらおうと思う」
「健太さんにですか?」
望美は驚いた。
特別事業部の新規プロジェクトは社長の肝いりで行われるプロジェクトだ。
実際に取り仕切るのは越久村だが、そこに参加する人間は社内でも優秀な人材に限られる。
健太が選ばれれば望美にとってもうれしいことだった。
「ああ、彼は営業の経験もあるし、企画開発でも一定の成果を収めている。能力としては問題ないだろう」
「ありがとうございます。彼に代わってお礼を言わせていただきます」
「なに、望美の頑張りに対する褒美みたいなものだ。ただ、そうなると、塩原君にはちょっとの間こっちを離れてもらわなければならないな」
少し気の毒そうな表情を浮かべる越久村。
「あ・・・それは仕方ないですわ。もし嫌がるようなら健太さんは私が説き伏せます。部長が与えてくださったこんなチャンスを逃すようなら、それこそ罰が当たります」
「彼とてそんな愚か者じゃないだろう。心配ないとは思うが、万一のときは頼むよ。俺としては塩原君は将来的には部門を任せられる男だと思っているのでね」
「ありがとうございます。健太さんもきっと喜びます」
望美が頭を下げたとき、越久村の顔には笑みが浮かんでいた。
「札幌?」
健太は目を丸くする。
課長に呼び出されたから何事かと思えば、いきなりの出向命令なのだ。
「特別事業部からの依頼でね。企画開発からも人を出してくれということなのだ。しかも君を指名だよ」
「ボクをですか?」
「そうだ。二ヶ月ほど行ってくれ」
「二ヶ月ですか・・・」
健太は少し考え込む。
二ヶ月ならウィークリーマンションかビジネスホテル住まいということだろう。
望美と別れて暮らすことに対する不安が頭をよぎったのだ。
一人で大丈夫だといいけど・・・
とはいえ、これはチャンスだ。
特別事業部の業務に参加したとなれば、後々有利になることは間違いない。
断る理由はないのだ。
多少の不安を抱えながらも、健太は受け入れるほかなかった。
「札幌?」
「うん、来月から二ヶ月ほど。企画開発から出向かなくちゃならないんだ」
今日も遅くに帰ってきた健太が、寝ようとしていた望美に切り出した。
越久村との食事を終え、タバコのにおいをシャワーで洗い流し、もう寝るばかりだった望美は健太の言葉に驚いていた。
昼間越久村が言っていた事がもう実行に移されたのだ。
あらためて越久村のすばやい行動力に感心してしまう望美。
それに比べれば健太はまるで子供のようだ。
「すごいじゃない。越久村部長の特別事業部のお声がかりなら出世間違い無しよ。がんばってね」
お祝いとばかりに冷蔵庫から缶ビールを取り出して健太に手渡す。
「ありがとう、望美」
缶ビールを受け取る健太の表情が今ひとつさえないのが望美の気持ちをいらつかせる。
健太さん不満そうだわ・・・
いったい何が不満なのかしら?
せっかく部長が取り計らってくれたのに・・・
「どうかしたの?」
自分もご相伴に預かるべく缶ビールのふたを開ける望美。
一口飲んだが、越久村と飲む酒の味とは雲泥の差があった。
「二ヶ月とはいえ、望美と離れるのは・・・なあ、向こうで一緒に暮らさないか? 短いけどアパートでも借りて」
「えっ?」
望美は耳を疑った。
たった二ヶ月も一人で暮らすことはできないのだろうか?
それほど彼は自立できない男だったのだろうか?
「これがうまく終わったら、ボクも少しは給料が上がると思うんだ。だから越久村部長の雑用なんかやめて一緒に行こうよ。離れたらなんか望美が遠くへ行っちゃいそうでいやなんだよ」
「何を言っているの? そんなことできるわけ無いって言ったじゃない。私はどこへも行ったりしないわ。ここで健太さんの帰りを待っててあげる。たった二ヶ月じゃない。すぐ終わるわ」
何を駄々をこねているのかしらと望美は思う。
私がどこへ行くというのだろう・・・
部長の秘書である私がどこへも行くはずなんてないのに・・・
「・・・・・・そうか・・・」
予想していたことだったが、健太は落胆してしまう。
今の望美は仕事が面白いのだ。
結婚を機に専業主婦になってもらったけど、もともと望美は秘書課の仕事が好きだった。
だから久しぶりの仕事が楽しくて仕方ないんだろう。
そうじゃなきゃ越久村部長のそばで仕事なんてできやしない。
下ネタの冗談やタバコが嫌いな望美が我慢してまで仕事を続けているのは、仕事が面白いのと頼まれた期間中はしっかり仕事を果たすという責任感に違いないのだ。
健太はそう自分で納得する。
缶ビールを飲み終えて部屋に向かう望美の背中を、健太は黙って見送った。
- 2008/07/20(日) 21:13:10|
- 望美
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