慶長5年(1600年)10月15日。
大坂城において徳川家康により「関ヶ原の戦い」における論功行賞が行われました。
東北や九州ではいまだ関ヶ原の戦いの余震とも言うべき戦いが行われておりましたが、この論功行賞により五十六の大名が加増を受け、その加増を受けた大名のほとんどが豊臣系大名でした。
主な加増を受けた大名を列記しますと、池田輝政が15万石から姫路52万石へ、黒田長政が18万石から福岡52万石、加藤清正19万石は熊本54万石、福島正則20万石が広島49万石、細川忠興18万石が小倉39万石、小早川秀秋35万石が岡山51万石へと加増を受けています。
徳川勢として大幅な加増を受けたのは、松平忠吉10万石が清洲52万石、結城秀康(ゆうき ひでやす:結城家に養子に入った家康次男)10万石が福井67万石ぐらいであり、他はさしたる加増を受けておりません。
加増された分の領地の約八割が豊臣系大名であり、徳川秀忠が関ヶ原の戦場に間に合わなかったこともあって、戦場で活躍した豊臣系大名に豊臣家の名代として家康は厚い恩賞を与えなくてはならないのでした。
一方、改易及び減封された大名家も多数に上り、慶長7年(1602年)に減封された佐竹家まで含めると、約600万石が改易及び減封されたのです。
主なだけでも以下の通り。
石田三成19万石、小西行長20万石、宇喜多秀家57万石、大谷吉継5万石などが改易され、改易された大名家は八十八家、約400万石に及びました。
さらに毛利輝元が120万石から36万石、上杉景勝が同じく120万石から30万石へと減封され、他にも佐竹、秋田などから計200万石あまりが減らされます。
こうして論功行賞を終えた家康でしたが、先ほども述べたとおり、豊臣家の名代として豊臣系大名に手厚い恩賞を与えなくてはなりませんでした。
できることであれば豊臣家の勢力を削りたい家康にとっては、必ずしも望む結果ではありませんでしたが、それでも家康は豊臣系大名と豊臣家を分離するために、豊臣系大名を加増にかこつけて遠地へと遠ざけることに成功します。
そして、東海から美濃近江近傍を徳川家臣団に領有させ、江戸から京・大坂までの障害をなくしました。
豊臣家は知らず知らずのうちに裸にされつつありました。
次に家康は、大坂堺の商業港を配下の者に治めさせ、但馬の生野銀山も配下の者に任せます。
今まで豊臣家が抑えていた貿易と銀山収入を奪い取り、豊臣家を経済的にも圧迫するのです。
毛利家から奪い取った石見銀山と合わせ、徳川家の経済力は飛躍的にアップしたのでした。
慶長6年(1601年)9月。
「関ヶ原の戦い」から一年後、家康の次の一手が前田家に向けられます。
豊臣家の一大忠臣であり五大老の実力者であった前田利家死後、家康暗殺の嫌疑をかけられたりした前田家でしたが、なおその100万石の実力は侮れません。
家康はその前田家を取り込む策に出たのです。
前田家当主前田利長の弟であり、子の無い利長の養子として前田家次期当主となるはずの前田利光(まえだ としみつ:のちの前田家当主前田利常)に徳川秀忠の次女珠姫が嫁いだのです。
徳川家ににらまれていた前田家にとっても、この婚儀は渡りに船でした。
徳川家と姻戚関係になることで、前田家の将来の安定を手に入れることができるのです。
前田家は家中上げて珠姫を金沢に迎えました。
時に前田利光7歳、珠姫3歳でした。
以後も家康は豊臣系有力大名との婚姻を進めます。
同慶長6年に中村一氏の嫡男一忠に姪を養女にしたうえで嫁がせ、翌慶長7年には浅野長政の三男長重(あさの ながしげ)にやはり血縁の娘を養女にしたうえで嫁がせます。
そして、慶長8年(1603年)。
豊臣家にとっては、本来驚天動地の出来事であるはずのことが起こります。
徳川家康が、朝廷から征夷大将軍に任命されたのでした。
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- 2008/02/19(火) 19:13:57|
- 豊家滅亡
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遅ればせながらメモリアルおめでとうございます。
関ケ原は互いの総大将にとって計算外が起き続けた戦で、そう考えれば徳川についた元・豊臣大名が加増になったのも仕方ない…になるのかな?
後日談だけど、遠方に飛ばされた外様大名は参勤交代によって財政にかなりの負担を強いられたのはかなり有名な話。
- 2008/02/20(水) 01:20:54 |
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- 静寂 #8U7KPG92
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>>静寂様
そうなんですよね。
遠方の大名の参勤交代は財力削減のためですからねぇ。
遠方に追いやられた大名は加増されてもうれしく無いですよね。
- 2008/02/20(水) 22:09:33 |
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- 舞方雅人 #-
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