「グァスの嵐」第十一回目です。
この提督は書いていて楽しいですねー。
こんなクソ野郎は滅多にいないと思います。
どんな先が待っているのか楽しみです。
11、
「マスターーー!」
ミューは力の限り叫ぶ。
音声伝達以外のコミニュケーション手段を持たない人間とは言葉で意思疎通をするしか無い。
だが、音声でのコミニュケーションはきわめて限定的だ。
外界のさまざまな音がすぐに音声をかき消してしまう。
ミューの叫び声も風の流れに飲み込まれてしまうようだ。
「マスターーー!」
足元には何も無い。
ミューの躰は前後にくくりつけられた木片によって宙に浮いているのだ。
海に放り出されたとき、わずかながらの可能性にかけて人は木片にしがみつく。
運がよければ通り掛かった船に助け出されるかもしれない。
しかし・・・
大半の場合はじょじょに沈んでいって密雲に飲み込まれるか、朽ちるまで漂い続けるかの二つに一つだ。
船乗りはたまに嵐で難破したまま漂い続ける幽霊船に出会うことがある。
もちろん長いこと海に浮いていれば、フナクイムシやバクテリアによって船も遺体も朽ちて行く。
朽ちる前に発見されたりしたものは幽霊船と呼ばれるわけだ。
ミューはおそらくそう簡単に朽ちることは無いだろう。
だが、彼女を浮かせている木片が朽ち、彼女の躰を密雲の中に飲み込ませてしまうだろう。
「マスターーー!」
ミューからどんどん遠ざかって行く蒸気船。
プロペラはもう回ってはいない。
ボイラーの修理はミューがいなくてはできないはずなのに・・・
マスター・・・どうして・・・
「艦長! 目標から人が落ちました!」
「なんだと!」
思わず船首へ走り出すシファリオンの艦長。
「どこだ!」
見張り員のところへ駆け寄り、前方を注視する。
船から落ちるということは死ぬということに等しいのだ。
普段帆桁の上で機敏に動いている船員たちだって場合によっては命綱を付ける。
空と海の区別の無い空間なのだ。
落ちたらまず助からない。
「あそこです!」
見張り員が指差した場所が空中であることにホッとする艦長。
浮いている。
躰に木がくくりつけられているのだ。
それが浮き輪のように躰を浮かべているようだった。
「よかった・・・救助に向かうぞ、船を向けろ」
「その必要は無い、艦長」
背後から掛けられた声に艦長は振り返った。
「提督・・・」
「聞こえなかったのか、艦長? 必要ないと言ったのだ」
自航船の方をまっすぐ見ている提督は艦長の方を向きもしない。
「提督、お言葉ですがあれをご覧下さい! あそこにはなすすべもなく海に浮いている人がいるんですぞ! しかも、よく見れば幼い少女のようではないですか? それでも救助は不要だと・・・」
左舷前方に浮かんでいる少女を指差す艦長。
士官たちもすでに救助するべく縄梯子や毛布を用意し始めている。
「君はわからんのか? それこそが奴の時間稼ぎの手段ではないか! 少女だと? 人形だったらどうするのかね? くだらんことはやめて全速で自航船を追うんだ!」
人形?
そのようなものをわざわざ積んでいる船があるものか。
「提督・・・お願いです。救助活動の許可を下さい。私にも娘がおります。提督にだって可愛いお孫さんがいらっしゃるじゃないですか。お孫さんが海に落ちたら何をさておいても救助なさるでしょう?」
必死に訴える艦長。
一刻を争うのだ。
今この瞬間にもくくりつけた木片が外れてしまうかもしれないでは無いか。
「艦長。君はワシの可愛いジュディッタとあそこに浮いている汚い小娘と一緒にするつもりかね! そんなことは神が許さんよ!」
提督が艦長をにらみつける。
艦長は唖然とした。
提督にとってはあそこで溺れている少女の命などは取るに足りないものなのだ。
「提督!」
「救助をするなとは言っておらん。自航船を拿捕したらあらためて戻って来ればよい。それに後続艦か民間船が救助してくれることは間違いない」
「一刻を争うんですぞ!」
「自航船の追跡も一刻を争うのだ! わからんのか!」
腰の剣に手を伸ばす提督。
これ以上は無駄だ・・・
艦長は決意した。
「艦を少女に向けろ! 救助する!」
「艦長!」
提督の怒鳴り声に艦長は首を振った。
「もはやあなたには付き合いきれません。私は船乗りです。海で溺れているものを放っておくことはできません」
「副長、艦長はお疲れだ。自室で休んでもらいたまえ!」
背後に控える副長に提督は振り向いた。
「かしこまりました。提督」
副長がうなずき、屈強な二人の船員が前に出る。
「バカな・・・副長・・・君は・・・」
衝撃を受ける艦長。
このようなときに提督に取り入るつもりか?
「あの娘を救助するんだ! 私に構わず救助を!」
「艦長、こちらへどうぞ」
他の士官たちに向かって叫ぶ艦長の両脇を二人の水兵ががっちりと掴む。
ベルトから剣を取り上げ、そのまま艦長を後部の船室へ連れて行く。
「私に構うな! 救助を・・・」
「ふう・・・艦長・・・残念だよ。副長、追撃を続けたまえ」
連れて行かれる艦長を哀れむように見やり、三角帽を取り頭をかく提督。
「何をしている! 追撃だ!」
副長が周囲を威圧するように怒鳴り、水兵たちは肩をすくめるようにして持ち場に戻る。
「提督、追撃を続けます」
「うむ。どうやら君は副長という立場より上の立場に向いていそうだ。君の事は海軍本部にも伝えておくよ」
「ありがとうございます」
頭を下げる副長。
ギャレーは速度を落とすことなく自航船のあとを追った。
ミューの見ている前でギャレーは通り過ぎて行く。
「マスター・・・」
ミューには何もできない。
彼女の持つ武器ならギャレーを焼き払うこともできるだろう。
だが、彼女の独断で使うことは許されない。
彼女は誰かに命じられて初めて行動を起こすことができるのだ。
「マスター・・・どうか・・・ご命令を・・・」
ミューはつぶやいた。
だが、答えはなかった。
思ったとおりじゃったな・・・
老人は胸をなでおろした。
おそらくはこちらへ向かってくるものとは思っていたが、万一ミューが軍人たちの手に落ちることになっていたら・・・
そのときは蒸気機関と引き換えにミューを解放するつもりだったのだ。
だが、単細胞の軍人たちはミューを無視してこちらに向かってくる。
これで心置きなく死ねるというものじゃな・・・
老人はそう思っていた。
いっぱいに張られた帆がはためいている。
小さなこの船には充分ともいえる推力を与えてくれているのだが、所詮はギャレーの全速にはかなわない。
だが、できるだけ引き離さなければ・・・
ミューが誰かいい人に拾われるように・・・
軍人なんぞの手に落ちないように・・・
ミューの知識はこんなものではすむまい。
おそらくこの世界をまったく変えてしまうに違いない。
この世界の人間が自分で考え、自分で編み出したものが世界を変えるのであれば仕方が無い。
しかし、ただ与えられた知識と技術をもてあそぶのは危険すぎる。
特に軍人には・・・
やれやれ・・・
「こんなものを使っているワシが言っても説得力が無いのう」
老人はすでに動かなくなったボイラーを眺め、ワインのボトルを傾ける。
いまさら気が付くとは情け無い。
「蒸気機関ぐらいはと思っとったが・・・」
ワシが甘かったのう・・・
蒸気機関を広めればその背後のミューの存在に遅かれ早かれ気が付かれてしまう・・・
そのことに思い至らなかったとはのう・・・
やれやれ・・・
取って置きのワインじゃったのに・・・
老人はボトルのラベルを見る。
4215年製。
娘の生まれた年だ。
あれからもう三十六年。
「マリアンジェラ・・・リリアーナ・・・」
妻と娘の名をつぶやく。
もはや手の届かなくなっていた存在だが、もうすぐまた会える。
「止まれー!」
近づいてきたギャレーからの声が聞こえてくる。
残った時間はもうわずかだった。
風を切って走る小さなファヌー。
今日は天気もいいし風も上々だ。
サントリバルまでの航海はきっと順調だろう。
船首では、前方に突き出したマストに広がる帆をゴルドアンが四本の腕で器用に操り、フィオレンティーナはぎらつく陽射しを避けて、狭い船室でうたた寝をしている。
船尾で舵を操りながら、エミリオは風に当たっていい気分で過ごしていた。
このあたりは島々の間も多少は開き、沿岸航海の小型船にとってはつらいところでもある。
油断するわけには行かないが、この天気なら問題は無いだろう。
前方には一筋の雲がたなびき、眼下の灰色の密雲とは好対照を成している。
「航跡雲だな。船が通ったばかりなんだろう」
左舷に一本糸を引いたような雲を見つけ、ゴルドアンが指を指す。
エミリオもそっちを見て、航跡を引いた船が豆粒のように遠くに浮いているのを見つけた。
「あれがそうじゃない? ギャレー船のようだけど」
「そうだな、ギャレー船だ。軍艦かな?」
遠くを指差すエミリオに、ゴルドアンも手をかざしてそれを認めた。
「軍艦がこんな所にいるなんて珍しいね。何かあったのかな?」
「さあな・・・ん?」
「どうかした? ゴル?」
エミリオが振り向く。
「あれは・・・おい、エミリオ! あれは人じゃないか?」
「人?」
ゴルドアンの指差す先をすぐに見る。
航跡雲の近くにぽつんと黒い点が浮いている。
エミリオは青ざめた。
「人だ! 人が落ちたんだ!」
「まだ浮いている! 向かうぞ!」
ゴルドアンがすぐに帆の向きを操作する。
エミリオもすぐさま舵を左に切り、船首を左舷に向けて行く。
ぐーんと躰が右舷に寄せられる感覚がして、ファヌーは船首をめぐらせた。
- 2006/09/06(水) 21:37:27|
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