昭和18年(1943年)2月1日から7日まで行われた「ケ号作戦」により、日本軍は半年に渡って攻防戦を繰り広げたガダルカナル島から撤収いたしました。
日本軍にとって「ガダルカナルの戦い」は錯誤と誤算のかたまりでしたが、戦争がこれで終わったわけではありません。
日本軍は今後も米軍を中心とした連合軍の攻撃に備えなくてはなりませんでした。
ここにいたり大本営陸海軍部は、今後もニューギニア方面では積極攻勢を取ることで主導権を取り戻すことを考え、陸軍の第八方面軍から第41師団主力をニューギニア島のウェアクへ、第51師団主力を同じくニューギニア島のラエへ輸送する等の「第八十一号作戦」の実施を決定します。
「第八十一号作戦」はすぐに実行に移され、陸軍第41師団の主力部隊を乗せた輸送船団がパラオから2月20日から26日まで四回にわたってニューギニア島ウェアクへと送り込まれます。
これによってウェアクには陸軍兵士約1万3000名のほか、物資約2600トンが無事に到着いたしました。
この輸送の成功は陸海軍を喜ばせましたが、実のところこのウェアクへの輸送は「第八十一号作戦」のうちでももっとも危険度の少ないものでした。
逆にこれから行わなくてはならない第51師団主力をラバウルからニューギニア島ラエへ送り込む輸送作戦は、連合国側支配領域に近いため最も危険で成功率も低いと考えられておりました。
特に輸送船団の護衛に当たる海軍の第三水雷戦隊の参謀である半田仁貴知少佐は、航路途中で連合国軍の航空攻撃を受けるのは必至であり、速力の遅い輸送船団では成功は覚束ず、全滅する危険性も高いと上部組織である第八艦隊の参謀神重徳大佐に意見具申をいたしましたが、神大佐からは命令だから全滅覚悟でやってもらいたいと言われ、やむなく出撃せざるを得ませんでした。
2月28日、陸軍の兵士と物資を満載した輸送船七隻と海軍の輸送艦「野島」が、護衛の駆逐艦八隻とともにラバウルを出航いたします。
輸送されるのは第51師団の主力約6900名と各種物資2500トン、それに海軍設営隊の人員約400名でした。
一方この輸送作戦の情報は米軍側にはほぼ正確に伝わっており、米軍は輸送部隊の阻止を試みる予定でおりました。
そのための攻撃準備はまさにこの出撃と同時の3月1日に終わっておりました。
昭和18年(1943年)3月2日。
前日のうちに輸送船団を発見していた米軍は、午前八時にB-17爆撃機10機でもって第一波の攻撃を仕掛けます。
このとき船団上空には海軍の護衛機がついておりましたが、B-17はそれらを果敢にかいくぐり、水平爆撃で爆弾を投下します。
この爆撃で早くも輸送船一隻が沈没し、乗っていた陸軍兵士1500人の多くが海に投げ出されました。
B-17の攻撃終了後、駆逐艦「雪風」と「朝雲」が生存者を救助。
何とか900人ほどを助け上げて、そのまま彼らを乗せた「雪風」と「朝雲」は先にラエへと向かいます。
救助した900人を送り届け、その後船団護衛に引き返すつもりでした。
B-17の攻撃は午後になっても行われ、今度は海軍の輸送艦「野島」が損傷いたします。
ですが、この日はこれだけの損害で終わり、日没後に先行した「雪風」と「朝雲」がラエに到着。
救助した900名をラエに下ろします。
結果的には、ラエに到着したのはこの900人だけでした。
3月3日。
連合軍の本格的攻撃が輸送船団を襲います。
この日は海軍の護衛戦闘機も24機ほど上空におりましたが、彼らの手ではとても防ぐことのできない攻撃でした。
午前7時50分、ボーフォート10機が来襲。
これは護衛の零戦に追い払われますが、その後続々と連合軍機が襲い来ます。
ボーファイター13機による船団への機銃掃射に始まり、B-17の水平爆撃、B-25中型爆撃機の水平爆撃と順次行われ、さらに別のB-25の編隊が低空から侵入。
彼らは「反跳爆撃(スキップ・ボミング)」を行うために低空より侵攻してきたのでした。
石を上から水に落としてもその場にボチャンと沈むだけですが、ある程度の速度をつけて水平に近い形で投げてやると、石は水面に当たって跳ね返り、何度かそれを繰り返して飛んでいくことをご存知の方も多いでしょう。
「反跳爆撃」とはその方法を爆弾に応用したもので、爆弾を目標船の手前で投下し、一度水面に跳ね返らせて目標船の横腹に叩きつけるというものです。
その効果は絶大でした。
B-25に続いてA-20や更なるB-25の編隊の「反跳爆撃」の前に「野島」を含む輸送船七隻すべてが爆弾を受け、護衛の駆逐艦も三隻が被弾するという大損害でした。
被弾した七隻の輸送船のうち二隻は早々に沈没。
駆逐艦も旗艦「白雪」が沈没。
残りはよろめくようにしながら生存者の救助を行う状況でした。
午後、更なる連合軍の攻撃が行われます。
B-17、B-25、A-20といった爆撃機の水平爆撃と「反跳爆撃」が繰り返され、結局残った輸送船もすべて沈没。
駆逐艦も「朝潮」「荒潮」「時津風」が沈められました。
連合軍は海面に浮いていた生存者にも容赦なく銃撃を加え、銃弾がなくなった機は一度補給に戻ってからまた銃撃に来たといいます。
多くの生存者がこの銃撃で命を失いました。
日本軍は最終的に輸送船八隻をすべて失いました。
陸軍兵士も約半数の3000名を失い、物資2500トンはすべて海の底に沈みました。
護衛の駆逐艦も半分の四隻を失いました。
まさに半田少佐の危惧したとおり全滅してしまったのです。
この戦闘はニューギニア島とニューブリテン島の間にあるダンピール海峡と呼ばれる場所に近かったことから、「ダンピールの悲劇」と呼ばれました。
しかし、本当の悲劇は敵味方の力量差を正確に把握せず、ずさんな輸送計画で船団を向かわせたことだったのではないでしょうか。
それではまた。
- 2011/06/28(火) 21:21:59|
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軍隊では有り勝ちな最悪の官僚主義ですね。外国でも一度決まった作戦は不利が明らかになったとしても強行されることが結構ありますが、第二次大戦中の日本軍には余りにもこのようなことが多過ぎます。官僚主義と精神主義は、結局、末端に責任を押し付けているだけなんですよね・・・。
- 2011/06/28(火) 22:15:19 |
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- 富士男 #-
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>>富士男様
どこの組織でもそうですが、決まったことは実行しないとならないし、実行するからには最後までってことになるんだとは思いますが、どこかでストップをかけられる体制であったならと思ってしまいますよねぇ。
- 2011/06/29(水) 18:49:45 |
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- 舞方雅人 #-
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