1930年3月31日、一隻の巡洋艦がアメリカニュージャージー州の造船所で起工されました。
前級の「ノーサンプトン級」巡洋艦の改良型となる「ポートランド級」巡洋艦の一隻である本艦は、「インディアナポリス」と命名され、1932年11月15日に竣工します。
もともとは軽巡洋艦として起工された「ポートランド級」は、米海軍初の排水量1万トンを超えた巡洋艦として重巡洋艦に艦種が変更され、「インディアナポリス」も重巡洋艦として完成します。
全長は185.9メートル、全幅は20.1メートル、基準排水量で10250トン、満載では13000トンを超える大型の巡洋艦でした。
日本海軍で言えば改装前の「妙高型」重巡に匹敵する大きさでしょう。
「ポートランド級」は魚雷兵装を最初からまったく装備しておらず、純粋に砲撃力に特化した巡洋艦でした。
主砲には20センチを三連装三基九門装備し、副砲と高角砲を兼ねた12.7センチ両用砲を八基八門装備。
他にも対空機銃等を多数備えておりました。

(就役直後のインディアナポリス)
完成した「インディアナポリス」は、完熟訓練ののち1933年に時の合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト大統領を送迎する任務につきました。
このとき大統領が乗艦したのはわずか一日ほどだったようですが、「インディアナポリス」は大統領を乗せた栄誉ある巡洋艦となったのです。
この後も「インディアナポリス」は同年に海軍長官を乗せ、また1936年には再びルーズベルト大統領を艦上にお迎えするなど、VIPを乗せる巡洋艦として時々使われました。
1941年12月に日本との戦争が始まると、「インディアナポリス」は空母「レキシントン」の第11任務部隊に所属して日本軍と戦います。
ですが、1942年序盤でオーバーホールのために本国帰還となり、空母「レキシントン」が沈んだ「珊瑚海海戦」には参加しませんでした。
オーバーホールが終わったあとは、主に北太平洋で行動し、日本軍のアッツ島やキスカ島の拠点に対する砲撃や、日本船団への攻撃、味方上陸部隊の護衛などに従事します。
そして1943年11月には、レイモンド・スプルーアンス提督率いる第五艦隊の旗艦として使われることになりました。
スプルーアンス提督はもともとは大きさに余裕のある戦艦を旗艦にしたかったといいますが、適当な戦艦がこの時点ではなく、旗艦設備の整っていた「インディアナポリス」が選ばれたといいます。
「インディアナポリス」はもともと巡洋艦隊の旗艦としても使えるようになっていたので、その能力が見込まれたのでした。
とはいえ、もともとは一巡洋艦でしかない「インディアナポリス」に、大勢の幕僚を引き連れてはいけません。
一部の幕僚を陸上に残すよう進言を受けたスプルーアンス提督は、逆に配下の幕僚団を縮小し、スリム化して「インディアナポリス」に乗り込みました。
以来、「インディアナポリス」は司令官坐乗の指揮艦として対日反攻作戦に従事します。
1944年の一時期旗艦を返上しますが、その後またスプルーアンス提督が戻ってくると旗艦を務めるなどをして、その砲撃力をおおいに日本軍に対して見せ付けました。
1944年末から1945年にかけ、再びオーバーホールを行った「インディアナポリス」は、その後も硫黄島への砲撃などを行い、沖縄戦にも参加。
ここで日本軍の特攻機の体当たりを受け、艦尾を損傷してしまいます。
「インディアナポリス」は損傷修理のために米本土に戻り修理を受けました。
そしてそこである秘密任務を受けることになります。
それはテニアン島から日本に向かって発進するB-29に搭載する「原子爆弾」をテニアン島へ運ぶというものでした。
(正確には原爆の部品等)
1945年7月16日にサンフランシスコを出発した修理を終えたばかりの「インディアナポリス」は、途中真珠湾に立ち寄り、7月26日にはテニアン島に到着します。
ここで原爆部品を下ろした「インディアナポリス」は、そのままグァム島に派遣され、さらにフィリピンのレイテ島に向かうように指示されました。
1945年7月30日0時15分。
レイテ島に向かう「インディアナポリス」の右舷に魚雷が三本命中。
これは日本軍の潜水艦「伊-58」の発射した魚雷六本のうちの三本が命中したものでした。
「インディアナポリス」は弾火薬庫の誘爆も起こし約十二分後に沈没。
しかし、ここからが「インディアナポリス」の悲劇の始まりでもありました。
沈没直後、海上にはまだ生存者が900名ほど残っていたといいます。
しかし、アメリカ海軍内での連絡の不徹底などから、「インディアナポリス」の沈没はすぐには知られませんでした。
「インディアナポリス」は沈む前に救難信号を発したものの、その救難信号は日本軍の謀略と思われ、救助に向かった船を引き返させたという話まであります。
結局救助が本格化したのは、沈没から三日もたった8月2日の哨戒機からの報告以後でした。
救助されたのは316名。
約600名が救助されることなく海に飲み込まれてしまいました。
「インディアナポリス」の艦長マクベイ大佐は救助後軍法会議にかけられ、艦を危険に晒す行動を取ったとして有罪になりました。
本人も自責の念に駆られて自殺してしまいますが、のちに、当時の状況では過失とはいえないということで無罪となり、名誉回復がなされました。
大統領を乗せ、艦隊司令官を乗せ、最後は原爆まで載せた「インディアナポリス」
その最後は残念ながら悲惨なものとなってしまったのでした。
それではまた。
- 2011/06/24(金) 21:18:53|
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まさにアメリカ海軍の栄光と悲惨を一身に背負った艦になってしまいましたね。「インディアナポリス」の話はスピルバーグ監督の出世作である「ジョーズ」の中でも語られていてサメの恐怖が印象づけられてます。
- 2011/06/24(金) 22:44:18 |
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- 富士男 #-
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>>富士男様
生存者が多数サメに襲われたというのは事実らしいですね。
「ジョーズ」内でも語られていたんですか。
存じませんでした。
- 2011/06/25(土) 21:15:14 |
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- 舞方雅人 #-
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