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舞方雅人の趣味の世界

あるSS書きの日々

クリミア戦争(11)

「アルマ河の戦い」で一応の勝利を収めた英仏オスマン・トルコ連合軍ではありましたが、自軍の損害もまた大きく、加えて補給の悪化による病兵の増加にまたしても悩まされておりました。
以前、バルカン半島側で行軍したときにも蔓延したコレラが、ここでも猛威を振るっていたのです。

本国から遠く離れている英仏の遠征軍は、海上からの補給に頼るほかありませんでしたが、強力な英海軍が黒海の制海権を確保しているとはいえ、補給船が港についてそこから物資を前線まで運ぶには、さまざまな障害があったのです。

そのような理由もあり、さらには騎兵単独での追撃は危険だと判断した一応の総司令官サン=タルノー元帥の指示もあって、連合軍はロシア軍の追撃を行ないませんでした。
メンシコフ公率いるロシア軍は、辛くも崩壊をまぬがれたのでした。

メンシコフ公は、ロシア軍の残存兵力を率いてセバストポリに入城します。
しかし、セバストポリの防御準備はまだ完全ではありませんでした。
ロシアにとって見れば、まさかクリミア半島が戦場になるとは思っていなかったという状況であり、そのためセバストポリの要塞群もところどころ工事未了の箇所さえあったといわれます。
そこでロシア軍は、急遽築城の名手として名高いドイツ系少数民族出身のトートレーベン工兵中佐を派遣して、セバストポリ要塞の防御準備を進めさせました。
このあたりは、きっかり50年後の明治37年(1904年)における日露戦争時のロシア軍の旅順要塞とよく似た状況と言えるでしょう。

補給に悩みつつも、英仏オスマン・トルコ連合軍は前進を開始します。
目指すは黒海の要衝セバストポリ。
ここを占領してロシア海軍の勢力を黒海から排除するのが目的でした。

一方セバストポリでも、着々と防御準備が進みます。
セバストポリに駐留するロシア海軍のナヒモフ提督は、強力な連合軍艦隊に海上からセバストポリを砲撃されないように、七隻の艦艇を港湾の入り口に沈めて連合軍の軍艦が入ってこれないようにし、その沈めた艦艇の乗員は陸上兵力として各防御陣地に割り振られました。
さらにセバストポリの住民も、総出でトートレーベン中佐の指揮のもと防御工事に当たります。

もともとセバストポリの防備は、北側に対するものが主でした。
クリミア半島が陸続きなのは北の部分であり、陸上兵力は北から来ると考えられていたからでしょう。
西は港であり、あとは南と東が手薄でしたが、トートレーベン中佐はそちらにも着々と工事を進めておりました。

連合軍がセバストポリに近づいたのは、そんな状況のときでした。
この時、まだセバストポリ要塞は防御準備が未了でした。
ロシア軍司令官メンシコフ公は、このままでは連合軍にただ包囲されると思い、要塞守備に約一万ほどの兵力を残し、残りはセバストポリ東北に位置するバクシサレーという町に後退してしまいます。
防御工事も未了であり兵力も少なくなってしまったセバストポリは、連合軍の前にはさほどの抵抗もできずに陥落するかと思われました。

しかし、セバストポリ要塞の比較的設備の整っていた北側の防御を見て、連合軍は攻撃をためらいます。
英軍仏軍問わず内部での議論が巻き起こり、即時攻撃を主張する者と、包囲してじっくりと攻めるべきだとする者が意見を戦わせました。

結局連合軍は即時攻撃を断念。
ここでもまた早期に戦争を終結させるチャンスを失ったと言われます。

補給線の伸びきっていた連合軍は、補給状況改善のために、セバストポリ近郊に補給源となる港を求めました。
補給を整え、要塞をじっくりと攻撃することにしたのです。
そのために選ばれたのが、バラクラヴァという港町でした。
セバストポリの南に位置する港町で、ここからならセバストポリもすぐ近くなため、補給もしやすくなるはずでした。

一方仏軍はセバストポリ南西に位置するカミーシュという港町に進出します。
ここはバラクラヴァよりもまだセバストポリに近く、補給線もより短くできるのです。
こうして英軍はバラクラヴァに、仏軍はカミーシュにと拠点を定め、セバストポリの南側から包囲することになりました。

こうしてセバストポリに対する攻撃態勢を整えつつあった連合軍でしたが、一つの凶報が走ります。
一応の連合軍総司令官であり、仏軍総司令官だったサン=タルノー元帥が、コレラのために死去したのです。
仏軍の指揮はフランソワ・セルタン・カンロベール将軍が引き継ぐことになりました。

総司令官である以上、一般の兵士とは別個の看護体制が作られていたことでしょう。
しかし、それでもコレラによる死亡をまぬがれることはできませんでした。
サン=タルノー元帥が、半分死人のような状態で戦地に赴いていたとしても、コレラの猛威は推して知るべしでした。
補給がままならず医薬品等にも事欠く連合軍は、まさに戦闘よりも病気のほうが恐ろしかったのです。

ここに一人の女性が歴史に登場することになります。
ロンドンの病院に勤務し病気の人の看護に当たっていた彼女は、クリミア半島で戦場の取材をしている特派員からの新聞記事に、戦場での負傷兵の扱いや病気の兵たちの悲惨さが報道されているのを見て、自ら戦場へ行こうと決心します。

彼女の名はフローレンス・ナイチンゲール。
彼女は、シスター24名、看護婦14名の38名とともに戦地での傷病兵の看護に当たるため、英国を出発します。
のちに「クリミアの天使」「ランプの貴婦人」と呼ばれ、看護婦(看護師)の象徴となる女性の旅立ちでした。

1854年10月17日。
連合軍による最初のセバストポリ攻撃が始まります。
サン=タルノー元帥を欠いたとはいえ、バラクラヴァとカミーシュという前線に近い補給拠点を得た連合軍は、それに伴う多少の補給の改善で士気が上がっておりました。

連合軍は百二十門にも及ぶ大砲と沖合いの海軍艦船からの砲撃をロシア軍に浴びせます。
その光景はすさまじく、連合軍将兵はセバストポリなどすぐに陥落するに違いないと思えるものでした。
しかし、トートレーベン中佐の指揮でできあがりつつあった要塞はこの砲撃を耐え抜きます。
逆に要塞に据え付けられたロシア軍の大砲百三十門が反撃に転じ、接近してきた連合軍将兵をなぎ倒しました。
のちに日露戦争で日本軍が体験することになる要塞攻撃の難しさを、連合軍は感じ取ることになります。

結局四時間ほどの砲撃戦で、連合軍は多くの損害を受けて攻撃中止に追い込まれました。
連合軍はセバストポリ攻略が容易ではないことに気付き始めます。
実際、要塞攻略戦はまだ始まったばかりなのでした。

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  1. 2009/04/17(金) 21:12:53|
  2. クリミア戦争
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4
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コメント

長い戦況の中でヒロインが登場するのですが、ロシア側から見ると、ナイチンゲールは魔女に見えたのかも知れませんね(笑)
  1. 2009/04/17(金) 23:11:11 |
  2. URL |
  3. 神代☆焔 #-
  4. [ 編集]

日清戦争とか日露でも病気が蔓延してかなりの死人がでてますからね。
この時代の看護婦はまともな仕事と見られていなかったらしいですね。
教養もあるナイチンゲールが看護婦になるといったときは父親に大反対されたと聞いたことがあります
補給も満足にいかない状況だったので
傷病兵たちには清潔な包帯やまともな食事もでなかったとか・・・・・
開拓者に苦労はつきものですが。
ナイチンゲールも相当な覚悟を決めて看護にあたったのでしょうね。


  1. 2009/04/17(金) 23:28:40 |
  2. URL |
  3. あぼぼ #-
  4. [ 編集]

返信……せざるを得ないのですわ

ナイチンゲールはクリミア戦争でしたかー
今回の歴史から後の、第二次世界大戦後でさえ
麻酔が手術途中で切れて患者は苦痛に耐えながら手術を行っていたそうですけれど
(現在の医療でも足にボルト打ったりする時は)
(吐き気を催すほどの絶叫が病室に木霊するらしいですわね)

ナイチンゲールの時代、野戦病院の様子は……
木材の角煮のスープを病人に食べさせるような劣悪環境で
死体はすぐ裏の海岸に投棄するのが当たり前
その当時の歩兵に学は無く、文字の読み書きができないことは日常茶飯事
わざわざ強姦されるか悪病を移されに行くようなもんですわね……
そんな過酷状況で先進的な改革を行えば、当然周囲からは睨まれ
当局を無視した非認可の医薬品を実費で持ち込んだことで、利益面での怨みも買い……
良く無事に生き残れたなぁ……などと思ってみたり

他人の命をただ優しさのみで救う正義のなんたる難しきことでしょうー

それより大昔は医学や科学が錬金術と同じくらい訝しい存在で
神秘主義者のパラケルススが医者兼錬金術師だったと記憶しておりますわ

個人的な思い出ですけれど……
赤十字の創設者は誰かのテストで、アンリ・デュナンと間違えて記憶していたのも遠い思い出
記憶してる箪笥の引き出しを開けてみたけれど、間違ってないかしらー
  1. 2009/04/18(土) 00:38:36 |
  2. URL |
  3. ジャック #-
  4. [ 編集]

>>神代☆焔様
どうでしょうかねー。
情報として伝わっていたかどうか。

>>あぼぼ様
当時の軍隊は病気にもろかったですからね。
軍隊は歩くだけでも戦力が低下すると言われたものでした。
戦場医療は、ナイチンゲールに限らず苦労の連続だったのでしょうねぇ。

>>ジャック様
確かに麻酔無しは悲惨ですー。
ナイチンゲールの場合は現場での無理解よりも、英本国での後押しのおかげで、のちにはかなり医療が改善されたようでしたね。
そのあたりも折を見て書いていければいいのですが・・・
ローマ帝国の発展させた医学が中世暗黒期に失われたのも大きかったのでしょうね。
錬金術はいろいろと面白そうな分野ですー。

赤十字の創設者は、アンリ・デュナンでよかったのでは?
  1. 2009/04/18(土) 20:00:36 |
  2. URL |
  3. 舞方雅人 #-
  4. [ 編集]

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