三種類の試作車が完成したのは1939年8月でした。
翌9月にはクビンカで試験が始まります。
試作車で一番重かったのがT-100の重量58トンでした。
SMKはそれよりはやや軽い55トン。
KVは砲塔が一つしかないおかげで、車体の長さも短くすみ47トンでした。
クビンカでの試験では、やはりT-100とSMKの二つある砲塔が相互に連携して戦闘を行なうという難しさが指摘され、さらにはT-100にいたってはソ連国内を鉄道輸送するための貨車に重量オーバーで載せられないという問題まで出てきます。
機動性もやはり問題で、単一砲塔のKVがやはりすべての面で優れていることがわかってきたのです。
ちょうどその頃、ソ連ではフィンランドとの間に領土紛争が発生しました。
いわゆる「冬戦争」が始まったのです。
フィンランド軍ががっちりと防御を固める「マンネルハイム線」に対し、この三種類の試作車を投入して、実戦テストをしようというアイディアが持ち上がりました。
マンネルハイム線に対する実戦テストは実際に行なわれ、ここでもKVはほかの二車にたいして優位さを発揮します。
なんとSMKは、ここでフィンランド軍の歩兵突撃で撃破されてしまうほどでした。
やはり多砲塔戦車は実戦ではもはや生き残るのがきびしい存在だったのです。
こうして戦場での実績という誰もが目に見える形でKVの優秀さを知った軍は、T-100及びSMKの開発を中止し、KVを正式に採用します。
ソ連軍重戦車KVシリーズの誕生でした。
そしてマンネルハイム線での戦訓から、陣地突破用の大口径榴弾砲を装備したタイプと、一般的な76ミリ砲装備タイプの二種類が作られることになり、前者をKV-2、後者をKV-1と命名し量産に入りました。
KV-1は当時としては桁外れの重戦車でした。
当時各国の戦車では20ミリから30ミリの厚さが普通だった装甲は、KV-1では車体前面と側面が75ミリ、砲塔前面では90ミリにも達する厚さでした。
これはドイツ対戦車砲の主力である37ミリPAK36では、どこからどの距離で撃っても撃ち抜けないほどの厚さです。
また、三号戦車の42口径50ミリ砲や、四号戦車の24口径75ミリ砲でもよほど当たり所が悪くなければ撃ちぬけません。
まさに装甲の塊でした。
また、主砲も当時としては桁外れでした。
37ミリや45ミリの主砲を搭載した戦車が一般的な中で、KV-1は39口径76ミリ砲を備え、のちにはもっと長砲身の76ミリ砲を搭載します。
当時のドイツ戦車でこの76ミリ砲の直撃に耐える装甲を持つものはありませんでした。
こうして強力な火砲と厚い装甲に囲まれたKV-1はまさに無敵の重戦車でした。
しかし、この重戦車も大きな弱点を持っておりました。
それは脆弱な駆動系でした。
47トンという大重量は、確かにT-100やSMKに比べれば軽いものでした。
機動性という面でもこれら二車に比べれば良好だったのでしょう。
しかし、この重量はトランスミッションやクラッチなどの駆動系に多大な負荷をかけ、非常に多くの故障を発生させる原因となっておりました。
エンジンそのものは高出力のディーゼルエンジンで問題はなかったものの、その動力を伝えるクラッチやトランスミッションが重量に耐えられなかったのです。
結局クラッチやトランスミッションには故障が多発し、また、上手く作動したとしても、その切り替えなどには多大な労力を必要として、「ギアチェンジにはハンマーが必要であった」という話まででるほどの作動の難しさでした。
また、人員の配置や外部視察の問題などもあり、その戦闘力をカタログどおりに発揮するのは難しい戦車でした。
これはKV-1だけの問題ではなく、これの解消にはT-34/85あたりの登場まで待たなくてはなりません。
バルバロッサ作戦でソ連に侵攻したドイツ軍は、そこでT-34/76と並び、このKV-1に出会うことになりました。
この厚い装甲と強力な主砲を持つKV-1はまさにドイツ軍にとっては化け物以外の何者でもありませんでした。
しかし、故障の多さや戦闘のしづらさなどで、多くのKV-1が失われました。
戦闘での損失よりも故障での損失のほうが多かったとも言われます。
結局ソ連軍の主力は使い勝手のいいT-34/76とその発展型のT-34/85になりました。
ですが、故障なく戦場を暴れまわることさえできれば、ドイツ軍がKV-1を撃破することはきわめて困難でした。
ついには高射砲兵に頼んで、あの88ミリ高射砲を持ってくるしかなかったのです。
KV-1はその後さらなる装甲の増強などに努めたあと、SU-152自走砲のベースとなり、IS重戦車シリーズへとその系譜を引き継がれていきます。
おそらくソ連を代表する重戦車として、今後も長く語り継がれることでしょう。
それではまた。
- 2009/11/25(水) 21:35:46|
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第一次世界大戦で産声を上げた戦車は、一時期巨大な車体に多くの砲塔を載せた陸上戦艦とも言うべき多砲塔戦車へと発展して行きます。
その究極とも言うべきものが、ソ連で少数ながら量産されたT-35多砲塔戦車になるのですが、やはり巨大な車体に五つもの砲塔を載せたT-35は重量も重く、装甲を薄めに抑えないと動かすことができない代物になってしまいます。
T-35はそれでも当時の戦車にしては重装甲の部類だったのですが、1936年に始まったスペイン内戦において、ソ連が派遣したBT-5やT-26といった戦車が対戦車砲に簡単に撃破されてしまったことを知り、ソ連にとって戦車の装甲の増強が急務となってきます。
そこでソ連は、装甲を強化した重戦車の開発をボリシェビーク工場設計局のバルィコフと、キーロフスキー工場第二設計局のコーチンの二名の技師に命じました。
早速両工場では新型重戦車の設計に着手し、ボリシェビーク工場ではT-100という名称で、キーロフスキー工場では工場の名称の元となったセルゲイ・ミロノビッチ・キーロフの頭文字からSMKという名称で設計案を提出しました。
この二つの設計案は、ともにT-35多砲塔戦車の流れを汲むもので、いわば砲塔を一つ二つ少なくし、装甲をその分強化した多砲塔戦車でした。
これは軍の指示によるものではありましたが、そのために両設計技師は冷や汗をかくことになります。
1938年、T-100とSMKの実物大模型がソ連の最高権力者スターリンに披露されました。
いずれも三つの砲塔を前後にピラミッド状に配置した新型重戦車の模型は、スターリンに感銘を与えるはずでした。
しかし、スターリンは新型重戦車が三つも砲塔を持っていることに不満でした。
すでに多砲塔戦車の限界を見切っていたスターリンは、使い勝手の悪い多砲塔戦車をさらに作ろうとする意義を見出すことはできなかったのです。
新型重戦車の模型のお披露目が終わった後、スターリンはキーロフスキー工場のコーチン技師を呼びつけました。
スターリンはそこで、コーチン技師に、戦車に砲塔を三つも載せる必要があるのかと問いただします。
コーチン技師は武装強化のためと答えましたが、それに対しスターリンは首を傾げてこう言ったといわれます。
「どうして戦車を“ミュールとメリリズ”にするのかわからない・・・」
“ミュールとメリリズ”とは、帝政時代の古い百貨店で、スターリンの言葉は言外に百貨店のように何でもつければいいというものではないという意味と、古めかしいのではないかという意味があったのだといわれます。
さらにスターリンはこう言いました。
「(小さい)砲塔を一つはずすとどれぐらい軽くなるものかね?」
「・・・・・・三トンです」
コーチン技師は青ざめました。
最高権力者が多砲塔戦車など望んではいないことを知ったのです。
すぐにSMKとT-100からは砲塔が一つはずされ、前に45ミリ砲の砲塔、中央に76ミリ砲の砲塔を載せた二砲塔戦車として設計をやり直しました。
スターリンの前で冷や汗をかいたコーチン技師は、ここでさらに保険をかけました。
軍の要求とは異なりますが、砲塔を76ミリ砲の砲塔一つだけにした新型重戦車も設計したのです。
おそらく砲塔二つでもまだ“ミュールとメリリズ”だと言われることを避けようとしたのかもしれません。
コーチン技師は、この砲塔一つの新型重戦車に、自分の義理の父親でスターリンの大のお気に入りであるクリメンティ・ヴォロシーロフの名を使わせてもらい、その頭文字からKV(ロシア語ではKBなのですが、ここでは通常言われるKVで通します)と名付けました。
こうしてボリシェビーク工場からは二砲塔型のT-100が、キーロフスキー工場からは二砲塔型のSMKと単一砲塔型のKVの三種類の設計が届けられました。
軍は最初キーロフスキー工場が勝手に提出した軍の要求に沿わないKVに関心を払いませんでしたが、やはりこれに反応したのはスターリンでした。
スターリンは単一砲塔型のKVに興味を示し、結局三種類すべての試作車を造ることが決定したのです。
つづく
- 2009/11/24(火) 21:13:13|
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ココロ、見ちゃいました。舞方雅人さんのベッドの下に皆様が隠してあるのを……
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2009/11/24(火) 08:28:53|
- ココロの日記
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昨日床屋さんに行ってきました。
いつも行っている床屋さんでして、なんと私が小学生のときからお世話になっている床屋さんなんですが、途中地元を離れたときなども含め、今でもお世話になっている床屋さんなのです。
考えてみれば40年近く?
私が小学生の時にはそこの親父さんが頭を刈ってくれ、その後は娘婿さんが刈ってくれていたのですが、昨日はついに孫娘さんが私の頭を刈ってくれました。
親子孫三代に渡ってお世話になっているんだなぁ・・・
いまさらながらびっくりだ。
まあ、それだけ長く生きてきたんだなぁということを思い知った昨日でした。
今日はこんなもので。
それではまた。
- 2009/11/23(月) 20:26:56|
- 日常
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今日は札幌で北海道日本ハムファイターズのパ・リーグ優勝記念パレードが行なわれました。
何でも沿道に11万人も押し寄せたとのことで、すっかり北海道の“おらがチーム”に定着したんだなぁと思います。
もっとも、これもある程度の強さがあるからだと思うので、来期以降も日本ハムにはがんばって欲しいですね。
そういえばFA宣言をして、納会以後は関わらないとか言っていた藤井投手がしっかり出てましたのには、思わず笑ってしまいました。
お声がかかってないようですが、来期どこかで活躍できることを願っております。
日本ハムに残留という目はあるんだろうか。
そういえばオリックスが阪神の矢野選手に目をつけているとか。
城島選手の加入で出場機会が減少する矢野選手としては、活躍の場を求めてオリックスへというのもあるかもしれないですね。
今日は床屋の帰りに札幌歴史ゲーム友の会に顔出ししてきましたけど、やっぱり趣味の仲間と会うのはいいものですよね。
ゲームはしませんでしたが、ちょこっと話をして帰ってきました。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2009/11/22(日) 19:21:31|
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第二次世界大戦中、太平洋及び大西洋で活躍した対潜哨戒飛行艇カタリナ。
このカタリナのことは以前当ブログの
記事でも触れました。
(記事のところをクリックするとそのページに飛べます)
このカタリナ、無論名だたる名機ですが、原型機の初飛行が1935年と当時としてもすでに新型機ではありませんでした。
そこでアメリカは、早晩このカタリナも陳腐化するであろうと見越し、新型対潜哨戒飛行艇の開発を命じます。
開発に携わったのはマーチン社でした。
マーチン社はアメリカ軍の要求に対し、すぐさま原型機を作らずに、まずは単座の小型飛行艇を作ります。
この単座飛行艇は将来開発する予定の対潜哨戒飛行艇の約四分の一の大きさに作られており、いわば縮小モデルでした。
この縮小モデルによって不具合が無いか検討し、実際の原型機を作るのです。
この方法はうまく行き、縮小型でのテストに満足したアメリカ軍はゴーサインを出します。
こうして実際の原型機が1939年に初飛行を行ないました。
出来上がった機体はガルウィングと呼ばれる一度少し上側に伸びてからやや下に伸びる翼を持ち、尾翼も水平尾翼の先に垂直尾翼がハの字型につくというちょっと変わった形の機体でした。
何よりも特殊なのは、普通は胴体下部に設けるはずの爆弾倉を、双発のエンジンのカバーとも言うべきエンジンナセルの部分に設けたことで、爆弾倉が左右にあることになったのです。

量産が開始された新型対潜哨戒飛行艇は、マーチンPBMという形式が与えられ、「マリナー」という愛称で呼ばれることになりました。
アメリカ海軍ではこのマリナーを、対潜哨戒や海上救難用として配備し、英国など同盟国にも供与することにいたします。
しかし、マリナーにはあまりにも優秀な先達がおりました。
カタリナです。
決して突出した高性能機ではなかったカタリナですが、使いよさや万能さで対潜哨戒飛行艇のベストセラーになっていたのです。
マリナーはもちろんカタリナに勝るとも劣らない優秀な対潜哨戒飛行艇でした。
後期型では爆弾など3600キログラムも搭載できたのです。
カタリナより優れる部分も多々ありました。
ですが、カタリナの万能性に対するには役者不足でした。
カタリナを押しのけてマリナーに置き換えるにはカタリナは便利すぎたのです。
結局マリナーはカタリナの後継にはなれませんでした。
もちろんマリナーは優秀な対潜哨戒飛行艇でしたので、大西洋ではUボート狩りなどに活躍します。
数もカタリナほどではないにせよ、1400機ほどが作られました。
とはいえ、やはりカタリナに比べると陰が薄い存在でした。
英軍あたりに供与されたマリナーは、ほとんど前線に出ることはなかったといいます。
あまりにも優秀な先達のために日陰に追いやられてしまったマリナー。
性能は悪くなかったんですが、めぐり合わせが悪かったのかもしれませんね。
それではまた。
- 2009/11/21(土) 21:14:28|
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航空母艦を発着する艦上機ばかりでなく、陸上基地を発着する陸上攻撃機などを整備していた日本海軍は、その陸上基地の防空も考えなくてはなりませんでした。
通常状況が許すのであれば、本来は陸軍航空隊や空軍の防空戦闘機や迎撃機を共通機種として導入するのがいいのでしょうが、何につけ陸軍装備の導入に反対してきた海軍は、ここでも自前の防空戦闘機の開発に着手します。
この防空戦闘機のことを、陸上基地周辺の局限された地域しか守らないという建前から、海軍では局地戦闘機と呼びました。
昭和14年(1939年)、海軍はこの新型局地戦闘機の開発を零戦を開発した三菱に依頼します。
三菱では零戦の生みの親である堀越技師を中心にこの新型局地戦闘機の開発に取り掛かりました。
局地戦闘機は述べたとおり防空戦闘機です。
その任務は、味方航空基地を襲撃に来る敵爆撃機の迎撃です。
そのため、敵爆撃機の飛ぶ高度にすぐに到達する上昇力、敵爆撃機の速度に追いつける速度性能、敵爆撃機を短時間で撃墜できる大火力が重要でした。
このうち速度性能と上昇力を満たすには、小型軽量で大馬力のエンジンが必要でした。
しかし、当時の日本にはそのような小型で大馬力のエンジンはありませんでした。
そこで三菱は、自社の一式陸上攻撃機で使用している大型大馬力エンジン「火星」を使ってこの問題を解決しようと考えます。
ですが、火星エンジンは大馬力ではあるものの大型で、戦闘機の機首に据えつけるには太すぎました。
堀越技師らは、この問題をエンジン位置の変更で解決しようと試みます。
なんと、この火星エンジンを胴体中心近くに持っていき、その前後を細くする紡錘系で機体を作ることにしたのです。
胴体全長のうち、前から約40%ほども中心に寄った位置、そこが火星エンジンの置き場所でした。
当然機首先端でプロペラを回すためには、エンジンの回転を伝えるシャフトを伸ばさなくてはなりません。
また空気抵抗を考えて先端を絞ったため、先端から入ってくるエンジン冷却のために必要な空気も量が少なくなることが予想されたので、強制冷却ファンも取り付けることになりました。
こうして完成した試作機は、十四試局戦としてテストを受けましたが、残念ながら海軍の要求を満たすことはできませんでした。
三菱はエンジン出力のさらなる向上のために水エタノール噴射装置を導入するなどして改良に努めます。
太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年(1942年)10月には、改良された十四試局戦改が試験に望みます。
ここでようやく海軍の要求をほぼ満たすことができましたが、機体そのものに振動が起きるなどまだまだ改良が必要でした。
結局さまざまな問題が噴出し、それらが一応の解決を見たのは昭和18年になってからでした。
太平洋戦争も三年目に入っていたのです。
ようやく量産が開始された十四試局戦は、正式名称「雷電」と名付けられました。
雷電は初期型で20ミリ機銃2丁と7.7ミリ機銃2丁を装備しておりましたが、その後20ミリ機銃4丁へと武装を強化されます。
海軍はこの新型局地戦闘機に大いに期待しておりました。
零戦に変わる主力戦闘機として大量生産を行い、零戦は順次生産を終了する計画ですらありました。
しかし、前線に配備された雷電は、エンジン位置によるコクピットからの前下方視界の悪さなどから、パイロットには不評でした。
また、実用化までに多くの月日を使ってしまい、海軍は雷電に主力戦闘機を任せることはできなくなっておりました。
結局雷電は同じ局地戦闘機の「紫電改」の補助としての役割しか与えられず、約600機ほどの少数生産にとどまりました。
ですが、昭和20年(1945年)の本土防空戦においては、防空戦闘機として開発された能力を発揮し、B-29迎撃に大いに奮闘いたしました。
防空戦闘機としての能力は決して低くはなかったのです。
日本軍軍用機の宿命としてエンジンさえ恵まれればとはよく聞く話ですが、この雷電もまたエンジンに泣かされた戦闘機だったのかもしれません。
それではまた。
- 2009/11/20(金) 21:28:01|
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そういえば昨日11月18日は、68年前の1941年に北アフリカ戦線で英軍の攻勢作戦「クルセイダー」が発動された日だったんですね。
前年の1940年に始まった第二次世界大戦北アフリカでの戦いは、イタリア軍が準備不足のまま英軍と戦闘に入ってしまい、英軍に追い散らされるという体たらくになってしまったところを、イタリアの脱落を危惧したヒトラー総統がドイツ軍を派遣したことで攻守が逆転。
「砂漠の狐」ことロンメル将軍率いるドイツ軍北アフリカ派遣部隊(のちのドイツアフリカ軍団)によって、英軍は要衝トブルクを包囲されてしまうという状態に陥ります。
この包囲されたトブルクを何とか救出しようとして行なわれた作戦の一つが、「クルセイダー作戦」でした。
英軍の攻勢から始まるこの「クルセイダー作戦」は、その後の独軍の反撃とあわせていかにも砂漠戦らしい流動的な展開を見せるため、今までにいくつものシミュレーションウォーゲームが出ています。
その中の一つが、かつてエポック社から出版されておりました「砂漠の狐」でした。

これが箱絵。
ちなみにこのゲームが扱うクルセイダー作戦の頃には、四号戦車の長砲身型はアフリカにはなかったはずですねぇ。
見栄え的には仕方ないのでしょうけど・・・
このゲーム、今でこそエポッククラシックスと呼ばれる古いゲームになってしまいましたが、近々再販の予定もあるなど、まだまだ楽しめるゲームです。
ダミーユニットを使うため、マップ上に置かれたユニットからはどこに敵主力がいるのかわからず、まずは探りあいとなり、それから主力がぶつかり合うような展開になるようで、対人対戦では手に汗握ること請け合いです。
欠点としてはそのダミーシステムが一人プレイ(ソロプレイ)をしづらくさせており、対人でないとおもしろさがわからないために手が出しづらいゲームだったかもしれません。
私自身もソロプレイがしづらいことから、手に入れてから20年以上もプレイしたことがなく、ようやく昨年サッポロ辺境伯様と対戦にこぎつけたという次第。
やはりゲームは人と対戦してナンボなんですよねー。
日本はもう寒い時期ですが、木枯らしの吹きすさぶ外をよそにぬくぬくの家の中で、熱砂の北アフリカ戦もいいものかもしれません。
また久しぶりに対戦したいなぁ。
それではまた。
- 2009/11/19(木) 21:39:42|
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190万ヒット記念というわけではありませんが、以前途中まで書いて放置してあった短編に加筆したものを投下します。
だいぶ昔にMACXE'S様に投下したものと似たようなもので、シチュ切り出しのみの短編ですが、お楽しみいただければうれしいです。
ではではどうぞ。
「ママ! ママ! 目を覚まして!」
私はがっちりと固定された両手を何とかして振りほどこうとするけど、手首を金具で締め付けられて動かせない。
「無駄だ、フェアリーナは気を失っている。それにお前の声はあのカプセルには届かない」
磔にした私の横で、筋肉質の巨体で腕組みをしている大男がくぐもった声で笑う。
悔しい・・・
悔しいよぉ・・・
私が・・・
私が捕まったばっかりに・・・
「ママ・・・」
私の頬を涙が伝う。
私の目の前には、捕らわれてカプセルに入れられてしまったママの姿がある。
ピンクと白のレオタードに身を包み、ぐったりとうなだれて閉じ込められているのだ。
「ククク・・・もっと早く気付けばよかったな。まさかフェアリーナに娘がいたとは」
「ママをどうするつもり?」
私は男をにらみつける。
灰色の皮膚をした大男は真っ赤な口から牙をむき出し、金色の目で私を見た。
この大男こそ、ギガーズのガオラー将軍なのだ。
地球征服をたくらむギガーズ。
ママは正義の使徒フェアリーナとして、ギガーズの野望を打ち砕こうと戦っていたのだ。
でも・・・
私が油断したばかりに・・・
私が親友とは言え奈美恵(なみえ)ちゃんにママのことを言ったばかりに・・・
まさか奈美恵ちゃんがガオラーに利用されていたなんて・・・
「ククク・・・心配はいらん。これからフェアリーナには我がギガーズの考えを植えつけてやる」
「えっ? それはどういう?」
私は思わずママの方に目を向ける。
カプセルに閉じ込められたママの上から、何かお椀のようなものが下りて来るのが私には見えた。
「あれは何? ママに何をするの?」
「ククク・・・あれはお前の友達にも使用した洗脳装置だ。あれでお前のママにギガーズの思考を植え付けてやる」
ええっ?
洗脳?
ママを洗脳するの?
そんな・・・
「やめて! お願いだからやめて!」
私は必死に手足をばたつかせる。
でも、拘束された手足はまったく自由になってくれない。
「お願いだからやめてー」
カプセルの中でぐったりしているママの頭にお椀がかぶせられる。
そのちょっとした衝撃でママの目が開いた。
「ママ! ママ!」
私は必死にママを呼ぶ。
何とかして逃げてもらわなきゃ。
「ククク・・・では始めるとしよう」
ガオラーが含み笑いを漏らすと、手元のスイッチを入れる。
「ああ・・・ママァーーー」
私の目の前でママの躰が跳ねる。
カプセルに入れられたママの躰は、全身に激痛が走っているかのようにビクビクと跳ねている。
私にはどうすることもできない。
ただママが耐えてくれることを祈ることしかできない。
「ママ・・・」
「ククク・・・もうすぐだ。もうすぐお前のママはギガーズの思考に染まるのだ」
「お願い、やめて。何でもする。何でもするから・・・」
私はもうどうなってもよかった。
ママが苦しんでいるのを見ていられないよ・・・
お願い・・・
やめさせて・・・
やがてママの躰は跳ねるのをやめた。
カプセルの中で小刻みに震え、やがてそれすらも静まって行く。
「ククク・・・終わったようだな」
終わった?
ママは?
ママはどうなったの?
ママの頭に被さっていたお椀がはずれ、ママを閉じ込めていたカプセルも持ち上がって行く。
カプセルから出たママは、うつむいていた顔をすっと上げると、今まで私が見たこともないような笑みを浮かべた。
「ママ・・・」
それはすごく冷たく、すごく妖艶な笑み。
私はその笑みにぞっとするものを感じた。
「ククク・・・さあ、フェアリーナよ、来るがいい」
ガオラーがママを呼ぶ。
来るはずがない。
ママがガオラーに呼ばれて来るはずがない。
そうだよね? ママ。
「はい、ガオラー様。うふふ・・・」
ああ・・・そんな・・・
ママはすごくいやらしい笑みを浮かべる。
そして、ガオラーに誘われるままに歩き出す。
「ママ・・・」
私は目をそらすしかできなかった。
「ククク・・・気分はどうかな? フェアリーナ」
「はい。とてもいい気分ですわ。今までギガーズに反抗していたのがバカみたい」
ママの甘ったれたようなうっとりした声が私の耳に聞こえてくる。
ママ・・・
ママはもう正義の使徒ではなくなっちゃったの?
ママ・・・
「ククク・・・いい女だ。たっぷりとかわいがってやるぞ」
「はあん・・・ガオラー様ぁ」
「だめぇっ!」
私は思わず叫んでいた。
「だめぇっ! ママだめぇっ!」
「まあ、うふふ・・・この娘ったら何を言い出すの?」
ガオラーの腕を腰に当てたまま、ママは私の方に顔を向ける。
「ガオラー様はギガーズにとって重要なお方。そのようなお方に可愛がってもらえるのは女としての喜びだわ」
ぺろりと舌なめずりをするママ。
それがすごくいやらしい仕草に感じて、思わず私は目をそらしてしまった。
「クククク・・・待っていろ。フェアリーナ、いや、今はダークフェアリーナとなったお前のママと楽しんだあと、おまえにも我がギガーズの思考を植え付けてやる」
ママの腰に手を回したまま、ガオラーはいやらしく笑っていた。
「ああ・・・ガオラー様、それが私の新しい名前なのですね。うれしいですわぁ。私はダークフェアリーナ。ギガーズの忠実なしもべですわぁ」
すごくうれしそうなママ。
本当にギガーズの思考に染まっちゃったんだ・・・
私はすごく悲しくなった。
******
かつかつと足音が響いてくる。
磔にされた私の前に姿を現したのはママだった。
でも、それは先ほどまでのママじゃなかった。
ピンクと白のレオタードのフェアリーナの衣装ではなく、黒光りするエナメルのボンデージがママの躰を覆っている。
両手には黒い長手袋を嵌め、足にはハイヒールのブーツを履いていた。
そして腰にはベルト代わりのチェーンを巻きつけ、髑髏の模様のサークレットまで嵌めている。
私は目をそらした。
もうママはママじゃなくなっちゃったんだ。
正義のヒロインフェアリーナはもういない。
今ここにいるのは、ギガーズのダークフェアリーナなんだ・・・
「クククク・・・どうだ、ママの姿は?」
ママの背後から現れるガオラー。
「素敵だろう。まさにギガーズの女戦士にふさわしい」
「とても気に入りましたわ。これこそ私にふさわしい衣装。あんな白とピンクの衣装なんてもう着たくありません」
「ママ・・・」
私は何もいえなかった。
唇を真っ赤に塗り、アイシャドウをつけたママはとてもいやらしい。
ガオラーに寄り添うママなんて見たくないよ。
「さて、お前にもギガーズの思考を植え付けてやろう」
「うふふふ・・・よかったわね鮎美(あゆみ)。あなたもギガーズの一員になれるのよ」
磔になった私の頭の上から、ママにかぶさったものと同じようなお椀が降りてくる。
「やだやだ助けてー!」
私は必死に首を振って、何とかお椀を避けようとした。
「おとなしくなさい! ギガーズの一員になれるのは名誉なことなのよ」
「クククク・・・心配はいらん。すぐにお前もギガーズの思考によって忠実なしもべになるのだ」
ガオラーもママも冷たい笑みを浮かべている。
あんな笑みを浮かべるママじゃなかったのに・・・
「いやーっ!」
何とか逃れようとした私だったけど、お椀のようなものは私の頭にすっぽりとかぶさってしまう。
それをただ黙って見ているママとガオラー。
ママのあまりの変わりように、私はすごく悲しくなった。
「キャーッ!」
躰に電気が走る。
まるで頭の中をかき混ぜられるみたい。
手足を固定されている私は、どうしようもなく激痛に翻弄されるだけ。
あまりの衝撃に何も考えることができない。
誰か助けて。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
頭の中で繰り返される言葉。
やめてー!
私は必死で首を振る。
ギガーズなんかいやだー!
ギガーズの一員になんかなりたくないよぉ。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
ギガーズこそがすべて。
ギガーズに歯向かう者には死を。
ギガーズに支配されることこそが幸せ。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
私はギガーズの一員。
栄光あるギガーズのしもべ。
ギガーズに忠誠を。
私はギガーズのしもべ。
ギガーズギガーズギガーズ・・・
頭の中で繰り返される言葉。
栄光ある組織の名称。
その名を称え、その名に従うことこそ私の喜び。
私はギガーズの忠実なるしもべ。
私の頭からお椀型の機械が取り除かれる。
ああ・・・とても気持ちがいいよ・・・
なんてすばらしいんだろう。
栄光あるギガーズの一員に選ばれたんだ。
うれしいよぉ・・・
両手と両脚の枷がはずされる。
私はすぐにガオラー様とダークフェアリーナ様にひざまずいた。
「私はギガーズの忠実なるしもべ。どうぞ何なりとご命令を」
私はそう言って顔を上げる。
お二人が満足そうに私を見下ろしているのがとてもうれしい。
「うふふふ・・・お前はこれより我がギガーズの工作員として行動するのです。お前や奈美恵のような少女には誰もが油断するはず。ギガーズに歯向かう者に死を」
ダークフェアリーナ様の命が下る。
「ハッ、かしこまりましたダークフェアリーナ様」
私は任務の重要性に身が引き締まった。
これからは奈美恵ちゃんといっしょにギガーズのために働くのだ。
私はギガーズの一員となった満足感に包まれていた。
END
- 2009/11/18(水) 21:38:25|
- 洗脳系SS
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ウマイタ要塞の陥落によってパラグアイ川の玄関は開きました。
三国同盟軍はここからパラグアイの首都アスンシオン目指して北上を開始します。
ソラーノ・ロペス大統領はやむを得ず、パラグアイ軍を首都の南35キロの地点にあるピキシリ川沿いに展開。
ここを最終防衛線として徹底抗戦をする構えを見せました。
相次ぐ戦いで、すでにパラグアイ軍はぼろぼろの状態でした。
成年男子はおろか、老人子供までもが前線に駆りだされておりました。
そうしてかき集めた1万3千の兵力で、何とか三国同盟軍を迎え撃つつもりだったのです。
一方三国同盟軍も、主力であるブラジル軍は別として、アルゼンチンとウルグアイの兵力は減少しておりました。
三国同盟軍はピキシリ川の防衛線に直接攻撃を仕掛けることは得策ではないと判断し、パラグアイ川の対岸であるアルゼンチン領のチャコ地方を進撃。
ピキシリ川のラインを迂回して背後に回ります。
その数約3万8千。
彼らはアスンシオンの手前のサンアントニオで再びパラグアイ川を渡河し、パラグアイ領に入ります。
もはやパラグアイ川の交通は三国同盟軍の自由でした。
サンアントニオを占領した三国同盟軍は、本隊をアスンシオンに向けるとともに、1万8千の支隊を南下させてピキシリ川の背後からパラグアイ軍を襲わせます。
パラグアイ軍は3500の兵力でこれを迎え撃ちますが、やはり多勢に無勢、パラグアイ軍は後退を余儀なくされました。
ソラーノ・ロペス大統領は増援を合わせて約4000の兵力で再び三国同盟軍に挑みます。
パラグアイ軍は決死の覚悟で挑み、自殺的な切り込み攻撃を行ないましたが、三国同盟軍の前に完敗。
パラグアイ軍約4000はほぼ全滅だったといわれます。
1868年12月末、アスンシオン南方のイタ・イパテでは七日間の激しい攻防戦が行なわれました。
約600人の女性までもが戦いに参加したというパラグアイ軍でしたが、この戦いでもまた三国同盟軍に敗退し、約8000もの死傷者を出したといわれます。
ほぼ全滅したパラグアイ軍にあって、ソラーノ・ロペス大統領は約60人ほどの部下とともに戦場を離脱。
三国同盟軍側も約4000もの死傷者を出したことから、これを追うことができず、翌年1月1日にパラグアイの首都アスンシオンに入るのが精いっぱいでした。
三国同盟軍はアスンシオンに臨時民主政府を樹立。
しかし、戦争はまだ終わりません。
アスンシオンの東にある山岳地帯に逃げ込んだソラーノ・ロペス大統領は、ピリベブイに首都を移しさらなる抵抗を続けます。
もはや老若男女かまわずに新軍を編成したパラグアイ軍は、ただの武装し飢えた民衆にほかなりませんでした。
騎兵は馬を持たず、歩兵は靴さえなく、武器も刀剣や斧という状態でした。
それでもソラーノ・ロペス大統領は戦いを続けました。
大統領夫人のエリサも軍服をまとって夫のそばで励ましたといいます。
三国同盟軍との小競り合いが続き、1869年8月には新たな首都ピリベブイすらも追われたパラグアイ軍でしたが、8月16日に最後の組織的抵抗といわれるアコスタ・ニューの戦いが起こります。
撤退するソラーノ・ロペス大統領の小部隊を守るため、パラグアイ軍約3500が追撃してきたブラジル軍約2万を迎え撃ったのです。
パラグアイ軍のほとんどは少年兵でした。
多くは九歳から十五歳。
中には六歳から八歳という子もいたといいます。
成人兵はわずか500人に過ぎなかったそうです。
彼らは勇敢に戦いました。
ソラーノ・ロペス大統領を無事に脱出させることに成功したのです。
代償は彼らの全滅でした。
戦闘終了後、戦場には我が子の遺体を抱く母親たちの泣き声で覆われたといいます。
これほどの悲劇を起こしながらもソラーノ・ロペス大統領は戦い続けました。
さらに半年の間戦い続け、1870年2月、ついに北部山岳地帯にまで追い詰められてしまいます。
付き従うものわずかに400名ほどとなっておりました。
ここでソラーノ・ロペス大統領は最後の叙勲式を行なったといいます。
生き残ったものたちに手作りの粗末な勲章を与え、士気を高めました。
1870年3月1日。
ブラジル軍の攻撃が始まります。
生き残った者たちが次々と倒れていくなか、ソラーノ・ロペス大統領も自ら戦い、ついにここで戦死します。
十五歳の息子も戦死し、妻エリサと幼い幼児だけが生き残りました。
ソラーノ・ロペス大統領が戦死したことで、ようやく「三国同盟戦争」は終わりを告げました。
実に五年にわたった戦争は、参加したどの国も悲惨な戦争でした。
勝者となったブラジルでしたが、5万人近い死傷者を出し、軍部の発言力が強まりました。
また戦費を英国に借りたため、いっそう英国に対する従属度が高まりました。
そうしたことが組み合わさり、ついにブラジルは1889年に帝政が崩壊することになります。
アルゼンチンは国内を統一できたものの、やはり英国に対する従属度が深まりました。
ソラーノ・ロペスとの密約がありながらも立ち上がらなかったウルキーサは、この戦争を通じて軍需物資を売り財を成しましたが、結局そのことで顰蹙を買い暗殺されました。
ウルグアイは緩衝国が必要と再認識したブラジルとアルゼンチンにより、以後の両国からの干渉は少なくなっていきますが、やはり何も得るものはありませんでした。
コロラド党とブランコ党の両党による政情不安も解消されず、二十世紀にまで続くことになります。
最大の被害はパラグアイでした。
国家の存続は認められたものの、領土の約四分の一をブラジルとアルゼンチンに割譲しなければなりませんでした。
土地もアルゼンチンの地主によって買い占められるなどし、英国からも借款を押し付けられるなど、経済的には英国とアルゼンチン、政治的にはブラジルの影響力が強まりました。
何よりも大きかったのは人口の減少でした。
パラグアイはこの戦争で本当に多くの国民を失いました。
ある統計によれば、戦前の人口が52万5千人に対し、戦後の人口は半数以下の21万1千に過ぎなかったといいます。
なかでも成人男性にいたっては2万6千ほどしか残らなかったという資料もあり、まさに全滅に近かったといえるでしょう。
以後パラグアイでは労働力の中心が女性となり、今でも女性が世帯主として登録される習慣が一部では残っているそうです。
このように政治、経済、国土、人口の全てが荒廃してしまったパラグアイは、その後一世紀以上を経た今日でも完全には傷が癒えていないといわれます。
まさに南米最大最悪の戦争だったといえるのではないでしょうか。
戦後、ソラーノ・ロペス大統領に対するパラグアイ国民の評価はきびしいものでした。
国を破滅させた責任者として非難されたのです。
しかし、評価は時とともに移り変わり、今ではソラーノ・ロペス大統領は、現職大統領が最後まで戦って戦死した史上でもおそらく唯一の例として愛国者としてたたえられているといいます。
今日、この四ヶ国が南米共同市場を発足させ、各分野での協力を推進させるなど友好関係を発展させていることなどもあわせると、「三国同盟戦争」ははるか過去の出来事になってしまったのだと思います。
三国同盟戦争 終
参考文献
「歴史群像 2000年春夏号 パラグアイ戦争」 学研
参考サイト
Wikipedia 三国同盟戦争 パラグアイ ウルグアイ ブラジル アルゼンチン
元老院議員施設資料展示館 パラグアイ戦争
など
日本ではなじみの無い戦争でしたがいかがでしたでしょう。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
- 2009/11/17(火) 21:46:29|
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