第一次世界大戦で防御拠点に陣取った機関銃の威力をまざまざと見せ付けられた各国陸軍は、歩兵突撃の支援として敵の機関銃座を近接砲撃する歩兵支援用の火砲、いわゆる歩兵砲を装備することが多くなりました。
ドイツもその例に漏れず、二種類の歩兵砲を支援用火砲として装備します。
一つは7.5センチleIG18歩兵砲。
威力充分でありながら小型の砲であり、ドイツ歩兵の頼もしい味方として大戦全期間に渡り活躍しました。
もう一つが15センチ重歩兵砲sIG33。
口径が15センチもある大口径の歩兵砲で、弾丸重量も重いものは40キロもある榴弾を撃ちだせるため、一撃で少々の建物でしたら吹き飛ばせるほどの威力のある歩兵砲でした。
射程は少々物足りないものの、頑丈で信頼性が高く、威力の高さからも評判のよい火砲でしたが、どうしても大口径で頑丈であるために重量が重く、戦闘状態で1.7トンを超える重さがありました。
この重量のため、移動には牽引車や多くの馬匹が必要となり、一度布陣してしまうと容易には位置変更ができません。
歩兵とともに前進して、敵のトーチカや敵が立て篭もる頑丈な建物を一撃で粉砕することを求められる歩兵砲としては、重量が過大だったのです。
自由に動かせる重歩兵砲が欲しいと考えたドイツ軍は、当然のようにこの15センチ重歩兵砲sIG33の自走砲化をはかりました。
1930年代末に始まった開発は、1939年のポーランド戦には間に合いませんでしたが、次に控えている西方電撃戦(オランダ・ベルギー・フランス侵攻作戦)には間に合わせるべく、極力少ない改造での自走砲化を目指すことになります。
車台としては、訓練用としてまた実用戦車として量産されてきた一号戦車が選ばれました。
再軍備以後、ドイツ機甲師団の中核的存在だった一号戦車でしたが、すでに機関銃だけの武装では威力不足は明らかであり、第一線の戦車としては使い物にならなくなってきていたため、有効利用の一環として自走砲の車台としての利用がはかられたのです。
開発にあたったアルケット社は、自走砲化にあたり極力改造部分を少なくして、開発時間の短縮に務めました。
そのため、のちのドイツ軍の自走砲とは違い、15センチ重歩兵砲sIG33をなんとほぼ無改造のまま砲塔を取り外した一号戦車の車体に載せるという荒業を採用します。
つまり、砲身と砲の基部だけを載せるのではなく、車輪も脚部も防盾までもはずさずにドンと載せちゃったのです。
ただ、そのまま一号戦車の車体に載せるわけには行かなかったので、一号戦車の方には補強材を載せたそうですが、それにしても無理やり載せちゃったと言っても過言ではありません。
そして、操作する砲兵の防御のために前側と左右に装甲板を張りますが、重歩兵砲の車軸が出っ張っているために、左右の装甲板にもその部分だけポコンと出っ張りを作らざるを得ませんでした。
装甲板自体は厚さ10ミリのもので、小銃弾や砲弾の破片からの防御程度のものでした。
このようにある意味やっつけ仕事的な自走砲でしたが、完成した一号自走重歩兵砲は西方電撃戦において実戦に投入され、大いに活躍することになります。
重歩兵砲の威力と自走できる強みが遺憾なく発揮されたということでしょう。
一号自走重歩兵砲は、わずか一ヶ月間という期間で38両が完成し、西方電撃戦以後はバルカン作戦やバルバロッサ作戦にも投入されました。
そしてそこでも活躍をするのですが、早期にほとんどが失われてしまいました。
自走重歩兵砲という車両のため、比較的前線で運用されることが多く、戦闘で失われるものも多かったのですが、元となった一号戦車は約6トンという重さだったのに対し、一号自走重歩兵砲は砲の重さ分重量がかさみ、約8.5トンにも達しておりましたため、足回りに対する負担が大きく、機械的故障で失われたものも多かったと思われます。
ですが、自走重歩兵砲という車両の有効性は疑いようもなく、ドイツ軍はこれ以後終戦までいくつもの同種の自走重歩兵砲を開発していくことになりました。
まさにその第一号だったということですね。
それではまた。
- 2009/07/03(金) 21:13:29|
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先日、妹からマンガを貸してもらいました。
表紙にはなんだかよくわからない連中がいっぱい。
アップになっているやつは「世界征服とかにキョーミない?」とか言っちゃってるし。(笑)
タイトルは「天体戦士サンレッド」
月刊誌「少年ガンガン」で一世を風靡した「GOGOぷりん帝国」の作者くぼたまこと氏のマンガです。
今まで読んだことなかったのですが、「GOGOぷりん帝国」は面白かったし好きだったし、今回貸してくれるというので読んでみることにいたしました。
現在八巻まで出ているということで、全部借りて読んでしまったんですが、いいですねー。
「GOGOぷりん帝国」に通じるくぼたまこと氏の味がたっぷりと出てますね。
舞台は関東の一地方。
(どこかはもろバレなんですけどね)
世界征服をたくらむ悪の組織フロシャイムの一支部がそこにある。
あるのだが・・・
世界征服をたくらむわりには、まだ征服していないからと律儀に税金を納めたり、近所付き合いは大切だということで町内会の集会などには必ず顔を出したりと、悪の組織らしからぬところが大好きです。
正義のヒーローサンレッドも、普段からマスク顔なくせに短パンにTシャツというすごくラフな格好でいたり。
で、むちゃくちゃ強いわりに女性に養ってもらってたりと、アンバランスこの上ない。
とにかく、なんと言うかいい意味で脱力系の楽しいマンガです。
知らなくて損してたなぁ。
単行本の途中途中には、ヴァンプ将軍の一品料理のコーナーがあり、いつもお金がかからないわりには美味しそうな料理が紹介されてます。
ご飯のおかずにもお酒の肴にもなりそうなものが多いです。
現在も「ヤングガンガン」に連載中とのこと。
単行本、買おうかどうか悩むなぁ・・・
それではまた。
- 2009/07/02(木) 21:39:41|
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ココロの小さいころの夢は中枢になることでした。今は舞方雅人さんの使用になりたい……なんて冗談です
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2009/07/02(木) 07:49:14|
- ココロの日記
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今日から7月。
一年間も後半戦がスタートです。
個人的にも7月はこのブログの開設月なので、今年は丸四年到達と170万ヒット到達が相次いで来ちゃいそうなので、大変かもと思ってます。

今月のグランドパワーを手に入れてきました。
こちらが表紙です。
今月の特集は「太平洋戦争の日本戦車写真集」です。
太平洋戦争では、序盤はともかく中盤以降はM3中戦車やM4中戦車を相手にしなくてはならなかった日本戦車ですので、やはり破壊された写真が多いですね。
後継車両を戦力化できず、主力が97式や97式新砲塔ではどうしてもM4とまともには戦えませんでしたから、南の島々で撃破されてしまった戦車がなんと多いことか・・・
ですが、日本の戦車もいいですよね。
相手が悪すぎました。
面白そうな記事が、「フィンランドの三号突撃砲」という記事ですね。
第二次大戦中に三号突撃砲はいくつかの国に輸出されましたが、フィンランドも輸入して対ソ連戦に有効に使用したとのこと。
どのような活躍をしたのか後でじっくり読んでみます。
「日本軍の火砲」15回目は野戦重砲や榴弾砲。
このシリーズ記事は、日本軍の火砲を特集してくれるのでうれしいですね。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2009/07/01(水) 21:18:14|
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2月22日はこうして暮れました。
薩軍は植木において官軍の乃木隊に痛撃を与えましたが、熊本城は落とすことができませんでした。
本荘に集まった薩軍幹部たちは、ここで今後の対策を話し合います。
このまま熊本城に対する強襲を続けるべきか、それとも放置して先へ進むか、会議は紛糾しました。
篠原国幹は断固強襲を主張します。
たとえここで兵力の半数が失われようと、城を落としたという政治的意義は大きい。
薩軍の勇猛さに勢いを得たほかの不平士族たちがあちこちで決起し、政府は結局屈することになるだろうというのがその理由でした。
一方野村忍助は強襲に反対し、包囲したままにとどめるべきだと主張しました。
熊本城を攻撃し続けることで薩軍の兵力は疲弊し、数も失われてしまうのを恐れたのです。
それよりも少数の兵力で包囲し続ければ、やがて熊本城は食料が尽き落城せざるを得ず、本隊はその間に長崎や小倉を押さえるべきだというのが野村の主張でした。
威勢のいい篠原の強襲案に一度は会議の流れが傾いたものの、野村の意見ももっともだとして、西郷小兵衛や池上四郎が賛成に回り、じょじょに包囲策に流れ始めます。
お互いの主張が対立しあい、会議はいつ果てることなく続くかと思えました。
桐野はここでまたしても西郷隆盛に下駄を預けます。
西郷は黙って会議の内容を聞いておりましたが、しばらく考えたのち、強襲中止の断を下しました。
熊本城は包囲するにとどめることになったのです。
すでに官軍の一部が向かってきている以上、熊本城強襲に時間をかけるのは得策ではないと判断したのかもしれません。
ところが、翌2月23日も薩軍は熊本城に攻撃を仕掛けます。
中止になったはずの強襲がなぜ続けられたのか、このことは謎の一つといわれますが、もう一押ししてみようという意識が働いたのかもしれません。
何とか落とせるものなら落としたかったのでしょう。
ですが、やはり鎮台兵による防御は容易に崩せるものではありませんでした。
23日も丸一日攻撃に費やした薩軍でしたが、やはり熊本城に取り付くことはできませんでした。
一方、千本桜から木葉に部隊を移した官軍の乃木希典少佐は、軍旗の行方を案じて一睡もできない夜を過ごしました。
早朝、乃木は部下たちに朝食を取らせ、周囲に偵察隊を派遣します。
その中の誰かが無事に軍旗を見つけてきてくれないだろうかと、おそらく乃木は思っていたことでしょうが、偵察隊のもたらしたのは、薩軍の接近でした。
薩軍は、植木に現れた乃木隊が、思ったよりも小数であることを知り、一気に撃滅するべく援軍を送ってきておりました。
新たに六個小隊ほどが応援に駆けつけ、植木の薩軍は約千八百ほどに増強されます。
薩軍は、このあたり一帯を押さえることで、官軍主力に対しても有利に戦えると判断し、木葉にいる乃木隊を攻撃するべく向かってきていたのでした。
三方向から木葉に向かってくる薩軍に対し、乃木隊には約七百ほどの兵力しかありませんでした。
吉松少佐の第三大隊を中核に、ようやく追いついてきた宇川大尉の部隊や津森大尉の部隊なども合流しましたが、それでも薩軍の半分にも足りません。
それでも乃木はここで薩軍を迎え撃つべく、兵を布陣させました。
そして薩軍の動きを探るため、再度偵察隊を出しますが、この偵察隊が薩軍と接触。
交戦しながら木葉の陣地に後退してくることになります。
偵察隊を追ってきた薩軍と、布陣した乃木隊が交戦を開始したのは午前8時30分ごろでした。
昨晩のような闇の中での戦いではなく、明るい中での射撃戦でしたが、逆に敵の姿が見え隠れするため、官軍の若い兵士は恐怖に駆られてむやみやたらに射撃する者が続出でした。
手持ちの弾薬はすぐに尽き、近くに用意された弾薬箱もみるみる空になって行きます。
乃木も吉松少佐も声をからして無駄弾を撃つなと命じますが、兵士たちには届きません。
薩軍の攻撃により乃木隊はじょじょに追い詰められて行きました。
午後には三方向からの薩軍が全て到着し、乃木隊は倍以上の兵力に晒されることになってしまいます。
第三大隊長の吉松少佐は必死の防戦に勤めますが、兵力差はいかんともしがたく、乃木に何度も兵力派遣を要請せざるを得ませんでした。
とはいえ乃木の手元に兵力があるわけではありません。
乃木は自ら吉松少佐の元へ行き、兵力の余裕がないことを伝えます。
吉松少佐は前線まで出てきた乃木に、多勢に無勢でこれ以上はと退却を進言しました。
信頼する部下である吉松少佐よりの進言に、乃木も退却もやむなしと決断。
高瀬まで退却することにいたします。
後退の指揮を取るため、乃木は吉松少佐と別れます。
二人にとっては最後の別れでした。
この後の後退戦で、吉松少佐はついに還らぬ人となったのです。
高瀬に向かって後退する乃木隊は、迂回してきた薩軍に側面を奇襲されます。
薩軍の射撃は乃木の乗馬を撃ちぬき、乃木は落馬してしまいます。
そこへ薩軍が殺到し、乃木の周囲で壮絶なる白兵戦が繰り広げられました。
乃木はいく人もの将兵にかばわれながら、命からがら脱出します。
しかし、吉松少佐以下多くの部下を死なせてしまったことで、またしても深い苦悩を背負うことになったのでした。
(13)へ
- 2009/06/30(火) 21:12:54|
- 西南戦争
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また一軒新たなリンク先が増えました。
双刃雛鳥様のブログ、「
雛鳥の妄想日々」様でございます。
(ブログ名をクリックすることでリンク先に飛ぶことができます)
「
雛鳥の妄想日々」様は、悪堕ちや洗脳奴隷化などを好まれる双刃雛鳥様がSSなどを発表されていらっしゃるブログでして、オリジナル仮面ライダー系のお話なども展開中です。
今回、双刃雛鳥様は、なんと相互リンク記念にうちのキャラでSSを書いて下さいました。
「悪の組織を作ろう」の瀧澤翔君が、またしてもなにやら動きを見せてくれます。
作品はこちら→「
無駄な抵抗」
(作品名をクリックすると作品に飛べます)
皆様もぜひ一度足をお運びいただければと思います。
双刃雛鳥様、記念SSありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
さて、今日はプロ野球オールスターゲームのファン投票の結果が発表されましたね。
皆様すでにご存知と思いますが、セ・リーグでは広島カープが五部門を制覇。
広島ファンの皆様にとってはうれしい朗報でしょう。
このところちょっと負けが込んでいるとは言うものの、ここまでの成績は悪くありません。
新球場効果が出ているのでしょうか。
パ・リーグでは北海道日本ハムが四部門で選ばれました。
指名打者の項目で二岡選手が選ばれたのは驚きです。
ぜひともセ・リーグ相手にがんばってほしいものです。
我が阪神はというと、ここまでの成績が示しているように、今年はついに一人も選ばれることがありませんでした。
抑えの藤川投手や外野の金本選手などの常連も今年は落選。
やはり成績ゆえでしょうね。
これから監督推薦がありますが、二人ぐらい選ばれるかなぁ。
このオールスター休みを利用してミニキャンプぐらいしたほうがいいのかも。
暗黒時代の再来だけは勘弁してー。
と、言うことで今日はこんなもので。
それではまた。
- 2009/06/29(月) 21:11:50|
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今日は「札幌歴史ゲーム友の会」にお邪魔させていただきました。
今日の札幌は結構暑く、汗かきの私は汗だくでのプレイでした。

まずはHIRO会長とエポックの「日露戦争」を対戦。
HIRO会長が日本軍を、私がロシア軍を担当しました。
このゲーム、すでにクラシックゲームの部類なのですが、実は私もHIRO会長もそれほどプレイ経験がなく、ところどころルールを間違えてのプレイとなってしまいました。
ロシア軍は早期に旅順艦隊を出撃させ、日本軍の輸送ポイントを減らしますが、5ターン目にはピンゾロで旅順艦隊が壊滅。
日本軍に大幅なフリーハンドを与えてしまいます。

日本軍は峠越えばかりでなく、営口からの上陸でロシア軍の背後に迫ります。
ロシア軍は一方的後退を余儀なくされ、遼陽が陥落し、奉天も風前の灯に・・・
善戦していた旅順も28センチ砲の集中射によって陥落。
12ターンで投了となりました。
その後は同じくHIRO会長とタクテクス誌付録のナポレオニックゲーム、「マレンゴ」を対戦します。
HIRO会長がフランス軍を、私がオーストリア軍を担当。

こちらもまた、オーストリア軍がフランス軍を攻めあぐねているうちにフランス軍の増援が続々登場。
フランス軍の逆襲が始まり、オーストリア軍は次々と撃破されほぼ壊滅。
11ターンで投了となりました。
うーん・・・今日は二連敗。
残念でしたけど楽しかった。
HIRO会長、お相手ありがとうございました。
そのほかの対戦は以下の通り。

SPI「PARATROOP」の「RED DEVLIS」
英軍が完膚なきまでに叩きのめされたとか。

コマンドマガジン日本版「スモレンスク」
陣営を入れ替えて二度行なわれていたようです。
「札幌歴史ゲーム友の会」の皆様、本日もありがとうございました。
またお邪魔させていただきます。
- 2009/06/28(日) 20:39:04|
- ウォーゲーム
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向坂へ向かった乃木隊の偵察隊が薩軍と接触したのは、明治10年(1877年)2月22日の夜7時ごろのことでした。
官軍の姿を認めた薩軍村田隊は、すぐさまこれに発砲。
「植木の戦い」が始まります。
乃木隊の偵察隊は少数であり、闇の中からの銃撃を受けたことですぐさま後退します。
それに対して薩軍村田隊が追撃に入りました。
乃木は、前方から射撃の音と偵察隊が後退してきたのを見聞きし、配下の兵を道の左右に展開します。
このあたりは道の左右が少し盛り土されており、兵はその盛り土の上に伏せて薩軍を迎え撃ちました。
官軍の主力小銃は元込めのスナイドル銃でした。
いちいち銃の先から弾込めをする必要がないため、発射速度は速いものでした。
一方薩軍は、火薬庫襲撃でこの戦争を始めたとはいえ、主力小銃は先込めのエンフィールド銃でした。
そのためどうしても発射速度には劣ります。
薩軍村田隊は勢いに任せて乃木隊に攻めかかりましたが、乃木の命令のもと一斉射撃が繰り返され、行き足を止められてしまいます。
薩軍も銃撃で対抗しますが、所持弾薬が少なく、やがて弾薬不足をきたしてしまいました。
やむなく村田は後退を命じ、薩軍はいったん後退いたします。
乃木隊の将兵がホッとしたのもつかの間、薩軍村田隊に伊東隊が合流。
再び薩軍が攻撃を仕掛けてきます。
小銃の能力では乃木隊に利があるものの、約二百名の乃木隊に対して薩軍は約四百と倍する兵力になったため、数で押され始めます。
薩軍は射撃から抜刀突撃に移行し、乃木隊を圧迫しました。
左右から背後に回りこまれる恐れのでてきたことで、乃木は腹心の吉松少佐と相談し後退を決定。
千本桜を集結地と決め、順次兵を後退させることにいたしました。
乃木は軍旗旗手の河原林少尉を呼び、千本桜で再集結のことを伝えて軍旗を持って後退するよう命じます。
河原林少尉は軍旗を旗竿からはずして腰に巻き、旗竿を手にして数人の部下とともに闇の中を後退して行きました。
しかし、この河原林少尉も大切な軍旗も、千本桜にはついに到着しなかったのです。
薩軍の抜刀攻撃に、士族出身ではない兵士たちはわれ先にと後退してしまいました。
しかし、士族出身の下士官や将校は必死に踏みとどまり、わずかに残った勇敢な兵士たちとともに薩軍を食い止めます。
そして機を見て後退を始めた乃木隊の残余でしたが、薩軍も激しい戦闘に疲労していたのか、追撃を行なってはきませんでした。
無事に千本桜まで後退してきた乃木でしたが、先に後退したはずの河原林少尉が来ておりませんでした。
闇夜のことゆえ時間がかかっているのだろうと思ったものの、河原林少尉と護衛が戦闘に巻き込まれるのを見たという兵もおり、乃木はいても立ってもいられなくなります。
「もし軍旗を失ったとすれば、大元帥陛下にあわせる顔が無い。引き返して軍旗を取り戻そうとするものは我に続け!」
そう言って馬に飛び乗ろうとする乃木を、下士官数人が必死に止めました。
吉松少佐も今動くのは得策ではなく、兵を休養させたのち夜が明けてから捜索したほうがよいとの意見を具申したため、乃木も心を落ち着けたといいます。
しかし、軍旗はついに乃木の元へもどることはありませんでした。
河原林少尉は薩軍との戦闘に巻き込まれて戦死し、軍旗は薩軍村田隊の手に落ちておりました。
この間のいきさつには二つの説があり、一つは伊東隊の岩切正九郎が河原林少尉を切り殺して軍旗を奪ったのち、軍夫に預けたのちそれが村田の手に渡ったというもので、もう一つが薩軍の案内役となった熊本の協同隊という部隊の高田露が植木の乃木隊本営になっていた家で見つけたのを村田に渡したというものですが、真偽のほどは不明といわれます。
どうあれ、河原林少尉が戦死し、軍旗を奪われたことは事実であり、乃木率いる小倉第十四連隊は日本陸軍初の軍旗喪失という不名誉を負うことになってしまいました。
このことは深く乃木の心に刻み付けられ、明治天皇の死に際して殉死を選ぶ大きな理由の一つになったといわれます。
のち、この奪われた軍旗は西南戦争の終結後に発見されたとのことですが、すでに小倉第十四連隊には新しい軍旗が授与されていたあとだったため、陸軍で保管されたといいます。
ただし、これまた真偽は定かではありません。
(12)へ
- 2009/06/27(土) 21:18:35|
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もう皆様ニュースでご存知と思われますが、アメリカのスーパースター、マイケル・ジャクソン氏が死去されました。
まだ五十歳ということで若すぎる突然の死に驚きです。
自宅で心肺停止状態で発見されたとのことで、死因も今のところ不明だそうですね。
いったい彼に何があったのでしょうか・・・
マイケル・ジャクソン氏といえば、やはり一世を風靡した「スリラー」でしょうか。
アンデッドというかゾンビを使ってあそこまで魅せたのはさすがというしかないでしょう。
私も何度か拝見することがありましたが、イメージとしてはやはりこのスリラーがマイケル・ジャクソン氏の代表かなと思います。
いろいろとスキャンダラスなこともあり、個人的に苦しんだこともあったでしょうが、それにしても若すぎる死は残念でした。
もう一人、ファラ・フォーセットさんも亡くなられたんですね。
こちらは昨日のことだそうですが、闘病中だったということで、残念です。
病床でのライアン・オニール氏とのラブロマンスも伝えられましたが、やはりファラ・フォーセットさんといえば「チャーリーズエンジェル」でしょうか。
私はあんまり見なかったのですが、私の中学高校ぐらいの時代は、夕方3時4時台に海外ドラマの放送をやっていることが多く、「600万ドルの男」や「バイオニックジェミー」、「宇宙大作戦」に「謎の円盤UFO」といった作品が繰り返し放送されておりました。
その中の一つに「チャーリーズエンジェル」もあり、時々は見ていたものでした。
日本でもファンの多かったお二人のご冥福をお祈りします。
それではまた。
- 2009/06/26(金) 21:17:23|
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当時九州の日本陸軍は第六軍管という管理下におかれ、熊本に鎮台を置き、兵力としては主力である歩兵を熊本に第十三連隊、そして小倉に第十四連隊の二つを置いておりました。
熊本の第十三連隊は、そのまま熊本城にての篭城戦に入りましたが、本来は小倉の第十四連隊もこの熊本城篭城戦に加わる予定でありました。
小倉歩兵第十四連隊の連隊長心得(れんたいちょうこころえ:正規の連隊長ではありません)は、乃木希典少佐でした。
のちの日露戦争では、日本陸軍第三軍の司令官として旅順要塞攻略の任につき、その損害の多さから後年きびしい評価を受けることになるのですが、当時はまだ28歳の若手将校で、陸軍のエリートでした。
当時の日本陸軍では、連隊長には中佐の階級の者を充てることになっており、まだ少佐だった乃木は連隊長心得と呼ばれることになったのです。
ですが、実質的には連隊長であることに違いはありませんでした。
乃木は長州出身者で、幕末の四境戦争(幕府側からは第二次長州征伐)に参加して負傷するも、その後明治になって長州藩の練兵教官などを勤めたのち明治4年に陸軍に入隊。
いきなり少佐に任命されての入隊でした。
いかに嘱望されていたかがわかります。
明治6年の政変後、世の中が不穏になってきた明治8年に、乃木は小倉歩兵第十四連隊連隊長心得に任命されました。
翌明治9年、乃木にとってはつらい出来事が起こります。
熊本で発生した不平士族の暴発「神風連の乱」に呼応して起こった「萩の乱」で、恩師と弟を失ったのでした。
このとき乃木は、乱の前に味方に付くよう説得にきた弟と語り合っています。
ついにはもの別れに終わってしまうのですが、このとき乃木が言った言葉にのちの事件の発端とも言うべき心情が語られておりました。
「私は大元帥陛下(天皇陛下)に仕える軍人である。ここにある軍旗は、国家を守護せよと大元帥陛下より賜ったものである。この軍旗は大元帥陛下の分身と言ってもいい。この軍旗に歯向かうものがあれば、たとえ親兄弟であっても賊として討たねばならない。それが私の天命だ」
だから反乱はしないでくれというものでしたが、ついにそれは叶いませんでした。
「萩の乱」も「神風連の乱」同様に鎮圧され、恩師は自害、弟は戦死したのです。
この出来事は乃木の心に傷となって残ったと思われます。
同じ日本人同士がなぜ戦わねばならないのか。
恩師や弟と直接乃木の第十四連隊が戦ったわけではありませんが、乃木は二人を見殺しにしてしまったような意識に捕らわれたのだといいます。
これが軍人の宿命。
そう思った乃木は、だからこそ、一心に天皇の御為に一命を捧げようと思ったのでしょう。
その天皇のお姿を、乃木は軍旗に見ていたのではないでしょうか。
熊本城で諸隊長会同があった2月14日、乃木の小倉歩兵第十四連隊にも熊本城への参集が命じられました。
熊本城に呼び出されていた乃木は、その旨を小倉の連隊に伝え、自らも連隊に合流しようとして熊本城を離れます。
福岡まで戻った時点で、乃木と第十四連隊は合流しました。
しかし、このとき福岡に到着していたのは兵士たちだけであり、弾薬の到着が遅れておりました。
やむなく乃木は、第一大隊の第三第四中隊のみを先発させ、この二個中隊はかろうじて熊本城の篭城に間に合います。
その後乃木は、本隊が弾薬の到着を待つ間に第三大隊を率いて熊本へ向かいます。
やむを得ないことだったかもしれませんが、ただでさえ少ない兵力の分離は、その後の乃木隊を苦戦に導くことになりました。
2月22日。
この日の早朝から熊本城では薩軍の攻撃が始まりました。
乃木率いる第三大隊は、この日の昼ごろに高瀬という場所までやってきておりましたが、ここで熊本城方面での戦闘が始まったことを知りました。
すでに薩軍が熊本城を包囲していることを知った乃木は、第十四連隊が篭城戦に間に合わなかったことを残念に思いましたが、頭を切り替えて、間もなくやってくるはずの官軍主力の先鋒になろうと考えました。
そうなれば、山間の隘路となる植木から田原坂にかけてを薩軍に押さえられては、今後の官軍の展開に支障をきたします。
乃木は一刻も早く植木を押さえるべきだと考えました。
すぐにでも第三大隊を出発させたかった乃木でしたが、ここまですでに強行軍でやってきていたため、兵士たちは疲労困憊しておりました。
やむなく乃木はここでも兵力を分離します。
比較的気力体力の残っている兵約六十名を連れ、植木に向かって自ら向かいました。
残った兵には足を休めさせ、酒まで出して体力と気力の回復に努めさせたといいます。
植木に向かう途中、別ルートで行軍してきた一個中隊と合流し、約二百名の兵力になった乃木の部隊は、無事に植木に到着しました。
ここで乃木はさらに部隊を進めます。
向坂まで進出し、薩軍の動向を探るつもりでした。
一方、この乃木の第三大隊の動きは薩軍に察知されておりました。
熊本城を攻撃中だった薩軍は、村田三介と伊東直二の小隊を、この乃木隊の押さえに回します。
両隊合わせて約四百の兵力が、同じく向坂へと向かったのでした。
先に向坂に到着したのは薩軍でした。
伊東と村田は、ここから先まで行けば官軍に待ち伏せされるかもしれないと思い、この向坂で待ち受けることに決定します。
乃木隊は、まさに彼らの待ち受ける中へと向かっていったのでした。
(11)へ
追記:6月27日文章一部修正
(伊藤直二→伊東直二)
- 2009/06/25(木) 21:48:51|
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